ミル『功利主義』完全解説 〜「最大多数の最大幸福」の真実と誤解

哲学

今回も哲学書の解説シリーズです。今回は、ジョン・スチュアート・ミル功利主義 』を取り上げます。

「最大多数の最大幸福」——この言葉、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。多数決の原理、あるいは「みんなが幸せならそれでいい」という考え方の代名詞として語られることが多いこのフレーズ。

実はこれ、ジョン・スチュアート・ミルが『功利主義』の中で批判的に扱った標語なんです。

この言葉を最初に唱えたのは、ミルの師であるジェレミー・ベンサムでした。ベンサムは「幸福は単純に数えられる」「より多くの人が、より多くの快楽を得られればいい」と考えました。

しかしミルは違いました。彼は「それでは人間も豚も変わらないではないか」という批判に真正面から向き合い、功利主義をより洗練された、人間の尊厳を重視する理論へと発展させたのです。

今日はこの『功利主義』という古典的名著を、最初から最後まで丁寧に読み解いていきます。ミルが本当に何を主張したのか、なぜ150年以上経った今でもこの本が読まれ続けているのか、そしてAI時代を迎えた私たちにとってどんな意味があるのか——その全てを一緒に探っていきましょう。

それでは、19世紀イギリスの天才哲学者、ジョン・スチュアート・ミルの思想の旅へ、出発です。

【第1章:導入】ミルと功利主義の背景

1. ジョン・スチュアート・ミルってどんな人?

ジョン・スチュアート・ミルは1806年、ロンドンに生まれました。哲学者、経済学者、そして政治家として活躍した19世紀イギリスを代表する知識人です。

彼の人生を語る上で欠かせないのが、父ジェームズ・ミルによる驚異的な教育です。ジェームズは哲学者ベンサムの弟子であり、息子を「理想的な功利主義者」に育てようと決意しました。

その教育は常軌を逸していました。ミルは3歳でギリシャ語を学び始め、8歳でラテン語、プラトン、ヘロドトスを読破。12歳では論理学と経済学を修め、14歳で父の友人たちと対等に哲学論争を繰り広げていたと言われています。友達と遊ぶ時間はなく、同年代の子供との交流もほとんどありませんでした。

しかし、この英才教育には代償がありました。20歳のとき、ミルは深刻な精神的危機に陥ります。ある日突然、「もし私の人生の目標が全て達成されたとしたら、私は幸福だろうか?」と自問したとき、心の中で明確な「ノー」という答えが返ってきたのです。

感情を軽視した冷たい合理主義教育によって、彼の心は空っぽになっていました。数ヶ月間、深い抑鬱状態が続きます。

彼を救ったのは、意外にも詩でした。ワーズワースの詩を読むことで、失われていた感情が徐々に戻ってきたのです。この経験を通じて、ミルは人間には理性だけでなく感情や想像力も不可欠だと悟りました。この洞察こそが、後に彼の功利主義を師ベンサムのものから大きく区別することになります。

2. なぜ『功利主義』を書いたのか?

1861年、ミルは『功利主義』を雑誌『フレイザーズ・マガジン』に3回に分けて連載しました。単行本として出版されたのは1863年です。

では、なぜこの本を書く必要があったのでしょうか。

当時、ベンサムが確立した功利主義は、激しい誤解と批判にさらされていました。最も痛烈だったのが「豚の哲学」という揶揄です。

批判者たちはこう主張しました。「功利主義は快楽を追求する思想だという。ならば、美味しいものを食べて寝転がっている豚も、哲学を考える人間も、同じく快楽を得ているなら同等ということになるではないか。こんな下品な思想が道徳の基礎になりうるはずがない」

この批判は功利主義の本質を捉えていない、とミルは考えました。確かにベンサムは「快楽の量」だけに注目し、「押しピンゲームと詩は、同じ量の快楽を与えるなら等価値だ」とまで言いました。しかしミルには、この単純化は人間の尊厳を損なうものに思えたのです。

同時に、功利主義は「結果さえよければ手段は問わない」という極端な結果主義として誤解されてもいました。「多数の幸福のためなら少数を犠牲にしてもいいのか」という問いは、今日まで続く批判です。

ミルはこれらの誤解を解き、功利主義をより洗練された形で提示する必要性を感じました。師ベンサムへの敬意を保ちながらも、その理論の欠陥を補い、人間の尊厳や権利、そして精神的な価値を重視する新しい功利主義を打ち立てること——それが『功利主義』執筆の目的だったのです。

【第2章】第1章「総論」の解説

1. 道徳の基準とは何か?

ミルは本書の冒頭で、道徳哲学における根本的な問いを提示します。「何が正しい行為で、何が間違った行為なのか。その判断基準は一体どこにあるのか」

この問いは、ソクラテス以来2000年以上にわたって哲学者たちを悩ませてきました。そして19世紀のイギリスでも、大きく二つの陣営が対立していたのです。

一つは直観主義です。これは「正しさは直観的に分かる」という立場。例えば「嘘をついてはいけない」「人を殺してはいけない」といった道徳律は、理性によって直接把握できる自明の真理だとする考え方です。カント哲学の影響を受けた思想家たちが、この立場を支持していました。

もう一つが帰結主義、つまり功利主義の立場です。行為の正しさは、その行為がもたらす結果によって判断されるべきだという考え方です。

ミルは明確に後者の立場に立ちます。しかし彼は興味深い観察をしています。直観主義者たちも、実は無意識のうちに帰結を考慮しているのではないか、と。

例えば「嘘をついてはいけない」という道徳律も、よく考えれば「嘘が社会に害をもたらすから」という功利的な理由に基づいているのではないでしょうか。直観主義者は「これは自明だ」と主張しますが、なぜ自明なのかを突き詰めれば、結局は幸福や害という帰結に行き着く——ミルはそう論じるのです。

つまり、功利性の原理こそが道徳の究極的な基礎であるというのがミルの主張です。他の全ての道徳原理は、この原理から導き出されるか、少なくともこの原理によって正当化される必要がある、と。

2. 功利主義の定義

では、功利主義とは具体的にどのような理論なのでしょうか。ミルは明快な定義を与えています。

「行為は、幸福を促進する傾向に比例して正しく、幸福の反対を生み出す傾向に比例して間違っている」

ここで重要なのは「傾向」という言葉です。個別の行為が偶然もたらした結果ではなく、その種類の行為が一般的にもたらす結果を見るということです。

そして、幸福とは何か。ミルはこう定義します。

幸福とは快楽と、苦痛の不在である 不幸とは苦痛と、快楽の欠如である

一見すると、これはベンサムの定義と同じに見えます。しかし次の章で明らかになるように、ミルの「快楽」概念はベンサムのものとは根本的に異なっているのです。

ここでミルが強調するのは、功利主義が求めるのは行為者自身の幸福だけではないということです。「最大多数の最大幸福」という標語には問題があるとミルは考えていましたが、功利主義が関心を持つのは確かに「関係する全ての人々の幸福」なのです。

ミルは言います。「功利主義の道徳基準は、幸福を目的とする。ただしそれは行為者自身の幸福ではなく、関係する全ての人の幸福である。功利主義者は、自分自身の幸福と他者の幸福の間で、厳格に公平な観察者として判断することを求められる」

つまり、あなたの幸福も私の幸福も、見知らぬ誰かの幸福も、等しく1としてカウントされるべきだということです。これは非常にラディカルで民主的な主張でした。

この定義を踏まえて、ミルは功利主義への様々な批判に答えていくことになります。

【第3章】第2章「功利主義とは何か」の深掘り

1. 「豚の哲学」批判への反論

第2章でミルが最初に取り組むのが、功利主義に対する最も痛烈な批判——「豚の哲学」という揶揄です。

批判者たちはこう攻撃しました。「功利主義は快楽を最高善とする。ならば、泥の中で転がって気持ちよさそうにしている豚と、苦悩しながら哲学する人間は、同じ量の快楽を得ているなら道徳的に等価ということになる。これは人間の尊厳を踏みにじる下劣な教義だ」

ミルの回答は、功利主義思想史における革命的な転換点となりました。

「快楽には量だけでなく、質の違いがある」

師ベンサムは「快楽は快楽である。量さえ等しければ、押しピンゲームも詩も同じ価値だ」と主張しました。しかしミルは、人間の経験の豊かさを理解していた自分の師が、この点では間違っていたと考えたのです。

そしてミルは、功利主義史上最も有名な一文を記します。

「満足した豚であるよりは、不満足な人間である方がよい。満足した愚か者であるよりは、不満足なソクラテスである方がよい」

この言葉の真意を理解することが重要です。ミルは苦しみを美化しているわけではありません。彼が言いたいのは、高い能力を持つ存在は、より高次の幸福を経験できるが、同時により深い不幸も経験しうるということです。

知的能力、道徳的感受性、審美的感覚——これらを発達させた人間は、単純な肉体的快楽だけで満足する豚よりも、不完全な満足しか得られないかもしれません。しかし、それでも人間の方が豚より望ましい存在なのは、経験の質が根本的に異なるからだ、とミルは主張するのです。

2. 快楽の質的区別の理論

では、快楽の質とは具体的にどういうことでしょうか。

ミルは快楽を大きく二種類に分けます。高級な快楽低級な快楽です。

高級な快楽とは、知的活動、芸術鑑賞、道徳的行為、他者との深い交流など、主に精神的な能力を使う活動から得られる快楽です。一方、低級な快楽とは、食事、睡眠、性的満足など、主に肉体的感覚に基づく快楽を指します。

ここで批判が生まれます。「誰がその質を決めるのか? それはエリート主義ではないのか?」

ミルの答えは明快です。両方の快楽を十分に経験した人々の判断に従うべきだ、と。

哲学書も読み、美味しい食事も楽しみ、芸術も娯楽も両方知っている人——そうした経験者の大多数が「知的快楽の方が価値が高い」と判断するなら、それが客観的な質の違いの証拠になる、というのです。

ミルはこう書いています。「両方の快楽を知る人で、片方を明らかに好む人がいれば、その人々の判断に従うべきだ。そして経験が示すところでは、高次の能力を使う快楽を経験した者で、低次の快楽の方を選ぶ人はほとんどいない」

しかし、ここで新たな疑問が生まれます。「実際には、詩よりもポップコーンを食べながらテレビを見る方を選ぶ人が多いのでは?」

ミルはこの反論も予想していました。彼の答えは巧妙です。

確かに、高次の快楽を経験できる能力を持つ人でも、しばしば低次の快楽に屈することがあります。しかしそれは、高次の快楽が実現困難だからなのです。

知的探究には集中力が必要で、芸術鑑賞には教養が要り、道徳的行為にはしばしば自己犠牲が伴います。一方、テレビを見たり美味しいものを食べたりするのは簡単です。

人々は怠惰、誘惑、短期的利益への屈服によって、本当はより価値があると知っている快楽を諦めてしまう——それがミルの診断です。

重要なのは、そうした人々でさえ「本当はもっと高尚な生き方をすべきだ」と感じているという点です。つまり、行動と判断が分離しているのであって、質の違いそのものは否定されていない、とミルは論じます。

3. 幸福は達成可能か?

次にミルが取り組むのは、より現実的な批判です。「そもそも人生で幸福など達成可能なのか?」

ミルは楽観主義者ではありません。彼自身が20歳で深刻な精神的危機を経験しており、人生の厳しさを知っています。

彼は率直に認めます。「完全な幸福など、誰も期待してはいけない。人生には必然的に苦痛、喪失、失望が伴う」

しかし、ミルはこう続けます。完璧でなくとも、「多くの快楽と少しの苦痛で構成される、中程度の幸福」なら、多くの人が手に入れられるのだ、と。

そして重要なのは、現在人々を不幸にしているものの多くは除去可能な外的障害だということです。

ミルは三つの主要な障害を挙げます。

貧困——基本的な生活の安全を脅かし、人々から精神的快楽を享受する余裕を奪います。 病気——身体的苦痛は幸福を直接的に妨げます。 悪法や悪い社会制度——不正義、抑圧、不平等が人々の可能性を押しつぶします。

ミルは言います。「教育の改善と社会制度の改革によって、これらの障害は大幅に減らせる。功利主義の目標は、単に個人の選択を導くだけでなく、社会全体をより幸福にすることなのだ」

ここにミルの社会改革者としての側面が表れています。彼にとって功利主義は、単なる倫理理論ではなく、社会変革のための実践的な指針でもあったのです。

4. 幸福の計算は可能か?

さて、功利主義に対するもう一つの実践的批判があります。「行為のたびに、全ての人の幸福を計算するなんて不可能ではないか」

例えば、あなたが友人に嘘をつくべきか悩んでいるとします。功利主義によれば、その嘘が全ての関係者にもたらす幸福と不幸を計算し、総計で幸福が増えるなら正しいことになります。しかし実際には、そんな計算をする時間も能力もありません。

ミルの回答は、この批判が功利主義を誤解していることを示します。

功利主義は、行為のたびに計算し直せとは言っていないのです。

ミルは巧みな比喩を使います。「航海士が航海するたびに天文学の計算を一から行うわけではない。過去の航海者たちが蓄積した海図や航海術を使うのだ」

同様に、道徳的判断についても、人類の長い経験が「経験則」として蓄積されているのです。

「嘘をつくな」「約束を守れ」「他人を傷つけるな」——これらの道徳原理は、長い歴史を通じて、一般的に幸福を増進することが確認されてきたルールです。

功利主義者は、日常的な状況ではこうした確立されたルールに従えばよい、とミルは言います。いちいち計算する必要はないのです。

ただし、ルール同士が衝突する場合や、前例のない新しい状況では、功利性の原理に立ち戻って判断する必要があります。つまり、功利性の原理は「第一原理」であり、中間レベルの道徳原理はそこから正当化される、という階層構造なのです。

5. 利己主義との戦い

最後に、ミルは功利主義に対する最も根本的な批判に取り組みます。「なぜ自分の幸福だけでなく、他人の幸福まで考えなければならないのか」

この問いは、功利主義の核心を突いています。確かに、各人が自分の幸福を望むのは自然です。しかし、なぜ私は見知らぬ他人の幸福まで配慮しなければならないのでしょうか?

ミルはこの問題を二つの側面から論じます。

第一に、教育の役割です。人間は生まれつき利己的ですが、適切な教育によって共感能力を育て、他者の幸福を自分の幸福の一部として感じられるようになる、とミルは主張します。

第二に、社会制度の改革です。現状では、個人の利益と公共の利益が対立することが多くあります。しかし、法律や制度を改善することで、この対立を減らすことができる、とミルは考えました。

例えば、公正な法制度があれば、人々は他人を欺かなくても成功できます。社会保障があれば、人々は他人を踏み台にしなくても生活できます。

ミルは楽観的に語ります。「文明が進歩するにつれて、人々はますます自分の幸福と他者の幸福が切り離せないことを理解するようになる。正しく設計された社会では、利己心と公共心は矛盾しないのだ」

そしてミルは改めて強調します。功利主義は「最大多数の最大幸福」を目指すのだ、と。あなた一人の幸福ではなく、社会全体の幸福——それこそが功利主義の究極的な目標なのです。

【第4章】第3章「功利主義の究極的制裁」

1. なぜ功利主義に従うべきなのか?

第3章でミルが取り組むのは、より深い問いです。「功利主義が正しい理論だとして、なぜ私たちはそれに従わなければならないのか? 従う動機はどこにあるのか?」

ミルはここで「制裁(sanction)」という概念を導入します。制裁とは、人を特定の行動に駆り立てる動機づけのことです。罰や報酬といった外的な力だけでなく、内面的な義務感も含まれます。

ミルは制裁を二種類に分類します。

まず外的制裁です。これには三つの源があります。

一つ目は他者からの賞罰です。良い行いをすれば人々から好意を得られ、悪い行いをすれば非難されます。人間は社会的動物ですから、他者からの承認は強力な動機になります。

二つ目は法律です。社会は望ましい行動には報酬を与え、望ましくない行動には罰を科します。犯罪には刑罰が、善行には時に公的な表彰が与えられます。

三つ目は宗教的制裁です。神の意志に従えば天国へ、背けば地獄へ——信仰を持つ人々にとって、これは極めて強力な動機づけです。

しかしミルは、外的制裁だけでは不十分だと考えました。なぜなら、誰も見ていない時、法の目をかいくぐれる時、あなたはどうするのか? という問いが残るからです。

ここで登場するのが内的制裁——良心です。

内的制裁とは、義務に背いた時に感じる良心の呵責、自己への不満、罪悪感です。一方、義務を果たした時に感じる自尊心や内的な満足感も、内的制裁の一種です。

ミルにとって、この内的制裁こそが道徳の究極的な制裁なのです。なぜなら、それは外部からの強制ではなく、自分自身の内側から湧き上がる力だからです。

2. 良心はどこから生まれるのか?

では、この良心という感情はどこから来るのでしょうか?

ミルの時代、多くの哲学者は道徳感情が生まれつき備わっていると主張していました。カント哲学の影響下にあった直観主義者たちは、良心は理性によって直接把握される普遍的な道徳法則への応答だと考えました。

しかしミルは、この見解を否定します。良心は後天的に獲得されるものだ、と。

ミルの証拠は経験的です。人々の道徳感情は文化や時代によって大きく異なります。ある社会で美徳とされることが、別の社会では悪徳とされることもあります。もし良心が生まれつきのものなら、このような多様性は説明できません。

したがって良心は、教育、文化、社会化のプロセスを通じて形成されるものなのです。

しかし、だからといって良心が「単なる社会の押しつけ」だというわけではありません。ミルは重要な区別をします。

良心の内容は文化によって異なりますが、良心を持つ能力は人間の本性に根ざしている、と。

人間は社会的存在です。誰も完全に孤立しては生きられません。そして社会的存在である以上、他者への配慮、仲間との調和、集団への所属——これらへの自然な傾向を持っています。

ミルはこう書いています。「人間の社会的本性から、社会全体の利益を自分の実践的な行動目標の一つと見なす強い自然な感情が生じる」

特に重要なのが共感能力です。他者の苦しみを見て自分も苦しく感じ、他者の喜びを見て自分も嬉しくなる——この能力こそが、功利主義の心理的基盤なのです。

子供は最初、自分の快楽だけを求めます。しかし成長するにつれて、愛する人々の幸福を自分の幸福の一部として感じるようになります。さらに教育が進めば、より広い範囲の人々、さらには人類全体の幸福に共感できるようになる——これがミルの人間発達のビジョンです。

3. 文明の発展と道徳感情

ミルの議論はここで、個人の心理から社会の進歩へと視野を広げます。

ミルは、文明の進歩とともに、道徳感情も発展すると考えました。これは19世紀の進歩主義的な世界観を反映していますが、ミルなりの根拠もあります。

原始的な社会では、人々の利益は対立します。限られた資源をめぐって争い、他者を犠牲にすることでしか生存できません。こうした状況では、利己主義が支配的になります。

しかし社会が発展し、法の支配が確立され、経済が成長すると、状況は変わります。人々は協力することで、争うよりも大きな利益を得られることを学びます。貿易、分業、相互扶助——これらによって、自己の利益と他者の利益が一致する場面が増えていくのです。

ミルはこう語ります。「文明の進歩の全ての強化要因は、各個人が自分の幸福を社会全体の幸福と一体のものとして感じる傾向を強めていく」

そして、この進歩を加速させるのが教育です。

ミルにとって、教育は単に知識を与えるだけのものではありません。共感能力を育て、視野を広げ、自分と他者の運命がつながっていることを理解させる——これが真の教育なのです。

子供に「他人の幸福があなたの幸福でもある」と教え、実際にそう感じられるような経験を与えること。文学や歴史を通じて多様な人生に共感すること。不正義を見て憤る感情を育てること。

こうした教育によって、功利主義的な道徳感情は強化され、最終的には「人々に危害を加えることは自分自身を傷つけることと同じ」と感じられるほどの強さになる、とミルは楽観的に考えました。

結論として、ミルはこう述べます。功利主義は、人間の本性に反する不自然な教義ではない。むしろ、人間の社会的本性が最も完全に発展した姿なのだ、と。

良心という内的制裁は、文明の進歩とともに強化され、やがて功利主義の原理に従うことが、最も自然で、最も満足のいく生き方になる——それがミルのビジョンでした。

【第5章】第4章「どんな証明が可能か」

1. 功利主義は証明できるのか?

第4章は、『功利主義』の中で最も議論を呼んできた章です。ここでミルは、功利主義の原理を「証明」しようと試みます。

ミルは冒頭で率直に認めます。「究極目的について、通常の意味での証明は不可能である」

どういうことでしょうか?

数学では、公理から定理を論理的に導き出すことで証明が行われます。科学では、仮説から予測を導き、実験によって検証します。しかし、最も根本的な目的や価値については、それ以上遡れる前提がないのです。

「なぜ幸福が善なのか?」という問いに、「それは◯◯だから」と答えたとしても、「ではなぜ◯◯が善なのか?」と問われます。この連鎖はどこかで止まらなければなりません。

ミルはこう言います。証明できないからといって、何も言えないわけではない。間接的な考察は可能だ、と。

つまり、論理的な演繹によって証明することはできないが、人々の実際の欲求や判断を観察することで、幸福が善であることの妥当性を示すことはできる——これがミルの戦略です。

2. 幸福の望ましさの「証明」

ミルはまず、幸福が望ましいことを示そうとします。そして彼は、哲学史上最も悪名高い論証の一つを展開します。

「見えるということの唯一の証拠は、実際に見られているということである。聞こえるということの唯一の証拠は、実際に聞かれているということである。同様に、何かが望ましいということの唯一の証拠は、人々が実際にそれを望んでいるということである」

つまり、visible(見える)なものはseen(見られる)ものであり、audible(聞こえる)ものはheard(聞かれる)ものである。同様に、desirable(望ましい)ものはdesired(望まれる)ものである、というわけです。

そして、事実として、各人は自分の幸福を望んでいる——これは経験的に明らかです。誰も自分が不幸になることを目的として行動しません。

ミルはここから大胆な結論を導きます。各人が自分の幸福を善と見なしているなら、全ての人の幸福を総計したもの、つまり全体の幸福は、全体にとっての善である、と。

一見すると説得的に見えるこの議論、実は深刻な問題を抱えています。

3. この論証の問題点(後世の批判)

ミルの論証は、発表直後から激しい批判にさらされました。現代でも、倫理学の授業で「悪い論証の例」として紹介されることがあります。主な問題点は二つあります。

第一の問題は、自然主義的誤謬です。

「見える」と「見られる」は同じ意味です。「聞こえる」と「聞かれる」も同じです。しかし、「望ましい」と「望まれる」は意味が違うのです。

「望まれる(desired)」は事実を述べています——「人々が実際に望んでいる」という記述です。一方「望ましい(desirable)」は価値判断です——「望むべきである」という規範を含んでいます。

哲学者デイヴィッド・ヒュームが指摘したように、「である(is)」から「べきである(ought)」は論理的に導けないのです。

例えば、「人々は復讐を望む」という事実から、「復讐は望ましい」とは言えません。「人々は不健康な食べ物を望む」という事実から、「不健康な食べ物は望ましい」とは言えません。

ミルは、事実と規範の区別を曖昧にしてしまった——これが第一の批判です。

第二の問題は、合成の誤謬です。

ミルは「各人が自分の幸福を望む。ゆえに全体の幸福は全体にとっての善である」と論じました。しかしこれは論理的に成り立つでしょうか?

各人が「自分の」幸福を望んでいるという事実から、なぜ「他人を含めた全体の」幸福が善だと言えるのでしょうか?

これは、「各人が自分のお金を望む。ゆえに全体のお金は全体にとっての善である」と言うようなものです。しかし実際には、各人は他人のお金ではなく、自分のお金だけを望んでいます。

同様に、各人は自分の幸福を望んでいるかもしれませんが、それは他人の幸福を望んでいることの証拠にはなりません。

後の哲学者ヘンリー・シジウィックは、ここに功利主義の根本的な難問を見出しました。なぜ私は、私自身の幸福と同じくらい、見知らぬ他人の幸福を重視しなければならないのか? ミルの論証は、この問いに答えていないのです。

公平に言えば、ミルはこの論証だけで功利主義を基礎づけようとしたわけではありません。第3章で論じた社会的本性や共感能力の議論も含めて、全体として功利主義を支える——それがミルの意図でした。しかし第4章の論証自体は、論理的に不十分であることは否定できません。

4. 幸福だけが望まれるのか?

さて、幸福が望ましいことを示した後、ミルは次の問いに取り組みます。「幸福だけが望ましいのか? 他のものは望まれないのか?」

これは重要な問いです。なぜなら、功利主義は幸福を唯一の究極目的とするからです。もし他にも独立した価値があるなら、功利主義の基盤が揺らぎます。

批判者はこう指摘します。「人々は幸福以外のものも望んでいる。お金、名誉、権力、知識——これらは幸福の手段としてだけでなく、それ自体として望まれているのではないか?」

確かに、その通りに見えます。守銭奴は、お金で何を買えるかではなく、お金そのものを愛しています。名誉を求める人は、名誉が幸福をもたらすかどうかに関係なく、名誉を追求します。

ミルの回答は巧妙です。彼は、これらが幸福の手段としてのみ望まれているとは主張しません。むしろ、手段が目的の一部になるという現象を指摘するのです。

お金は最初、幸福を得るための手段でした。食べ物を買い、家を買い、安全を確保するための道具です。しかし時間が経つと、お金を持つこと自体が快楽の源泉になります。お金を数える喜び、財産を増やす満足感——これらは幸福の一部なのです。

名誉についても同様です。最初は他者からの承認が心地よいから名誉を求めました。しかし次第に、名誉を持つこと自体が、自尊心や誇りという形で幸福の構成要素になります。

ミルはこう述べます。「最初は無関心だったものに対して、習慣によって、あるいは連想によって、欲求が生まれることがある。そしてその欲求の満足は、それ自体が快楽となる」

ミルはさらに重要な例を挙げます。徳(virtue)です。

道徳的に優れていること、正しく生きること——徳は功利主義では本来、幸福を生み出すための手段のはずです。しかし明らかに、多くの人々は徳を、それ自体として価値あるものと見なしています。

ミルは認めます。徳は確かにそれ自体として望まれる、と。しかし、だからといって功利主義が間違っているわけではない、と彼は主張します。

なぜなら、徳を愛すること、徳を持つ喜び——これ自体が幸福の一部だからです。

ミルはこう書いています。「徳は、最初は手段として望まれたかもしれない。しかし徳を愛する人にとって、徳は幸福の一部となり、幸福の最も重要な構成要素の一つとなる」

つまり、幸福とは単一の感覚ではなく、様々な快楽、満足、充実感の複合体なのです。お金を持つ喜び、名誉を得る誇り、徳を実践する充実感——これらすべてが幸福に含まれます。

ミルの主張は、こうまとめられます。人々が究極的に望むものは、常に快楽か苦痛の不在のどちらかである。お金や名誉や徳が望まれるのは、それらが快楽をもたらすか、快楽の一部となっているからだ。したがって、幸福だけが究極目的であるという功利主義の主張は正しい、と。

しかしここでも批判の余地はあります。徳を持つことの満足感を「幸福の一部」と呼ぶなら、幸福の概念はあまりに広くなりすぎて、ほとんど何でも含んでしまうのではないか? そうなると、「幸福が唯一の善である」という主張は、ただのトートロジー(同語反復)になってしまうのではないか——こうした批判は今日まで続いています。

それでもミルの議論には重要な洞察があります。私たちが価値あると思うものの多くは、結局のところ、何らかの形で私たちの経験の質、つまり幸福と結びついている——この指摘は、完全に否定することが難しいのです。

以下の部分のナレーションを詳述してください。 できるだけ詳しくかつ簡潔にお願いします。 長い動画になりますので、各章間でも重複を避けた記述にしてください。 章の初めに、章内容の説明は不要です。

『 【第5章】第4章「どんな証明が可能か」  5-1. 功利主義は証明できるのか?   ミルの有名な主張:「究極目的は証明不可能」   しかし間接的な考察は可能  5-2. 幸福の望ましさの「証明」   見えるもの=見られるもの、望ましいもの=望まれるもの   各人が自分の幸福を望んでいる事実   よって全体の幸福は全体にとっての善  5-3. この論証の問題点(後世の批判)   「is(である)」から「ought(べき)」は導けない(自然主義的誤謬)   個々の幸福の総和=全体の幸福なのか?(合成の誤謬)  5-4. 幸福だけが望まれるのか?   反論:「お金や名誉も望まれるのでは?」   ミルの回答:それらは手段が目的の一部になった例   徳(virtue)も同様:最初は手段だが、最終的に幸福の一部に

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【第5章】第4章「どんな証明が可能か」ナレーション

5-1. 功利主義は証明できるのか?

第4章は、『功利主義』の中で最も議論を呼んできた章です。ここでミルは、功利主義の原理を「証明」しようと試みます。

ミルは冒頭で率直に認めます。「究極目的について、通常の意味での証明は不可能である」

どういうことでしょうか?

数学では、公理から定理を論理的に導き出すことで証明が行われます。科学では、仮説から予測を導き、実験によって検証します。しかし、最も根本的な目的や価値については、それ以上遡れる前提がないのです。

「なぜ幸福が善なのか?」という問いに、「それは◯◯だから」と答えたとしても、「ではなぜ◯◯が善なのか?」と問われます。この連鎖はどこかで止まらなければなりません。

ミルはこう言います。証明できないからといって、何も言えないわけではない。間接的な考察は可能だ、と。

つまり、論理的な演繹によって証明することはできないが、人々の実際の欲求や判断を観察することで、幸福が善であることの妥当性を示すことはできる——これがミルの戦略です。

5-2. 幸福の望ましさの「証明」

ミルはまず、幸福が望ましいことを示そうとします。そして彼は、哲学史上最も悪名高い論証の一つを展開します。

「見えるということの唯一の証拠は、実際に見られているということである。聞こえるということの唯一の証拠は、実際に聞かれているということである。同様に、何かが望ましいということの唯一の証拠は、人々が実際にそれを望んでいるということである」

つまり、visible(見える)なものはseen(見られる)ものであり、audible(聞こえる)ものはheard(聞かれる)ものである。同様に、desirable(望ましい)ものはdesired(望まれる)ものである、というわけです。

そして、事実として、各人は自分の幸福を望んでいる——これは経験的に明らかです。誰も自分が不幸になることを目的として行動しません。

ミルはここから大胆な結論を導きます。各人が自分の幸福を善と見なしているなら、全ての人の幸福を総計したもの、つまり全体の幸福は、全体にとっての善である、と。

一見すると説得的に見えるこの議論、実は深刻な問題を抱えています。

5-3. この論証の問題点(後世の批判)

ミルの論証は、発表直後から激しい批判にさらされました。現代でも、倫理学の授業で「悪い論証の例」として紹介されることがあります。主な問題点は二つあります。

第一の問題は、自然主義的誤謬です。

「見える」と「見られる」は同じ意味です。「聞こえる」と「聞かれる」も同じです。しかし、「望ましい」と「望まれる」は意味が違うのです。

「望まれる(desired)」は事実を述べています——「人々が実際に望んでいる」という記述です。一方「望ましい(desirable)」は価値判断です——「望むべきである」という規範を含んでいます。

哲学者デイヴィッド・ヒュームが指摘したように、「である(is)」から「べきである(ought)」は論理的に導けないのです。

例えば、「人々は復讐を望む」という事実から、「復讐は望ましい」とは言えません。「人々は不健康な食べ物を望む」という事実から、「不健康な食べ物は望ましい」とは言えません。

ミルは、事実と規範の区別を曖昧にしてしまった——これが第一の批判です。

第二の問題は、合成の誤謬です。

ミルは「各人が自分の幸福を望む。ゆえに全体の幸福は全体にとっての善である」と論じました。しかしこれは論理的に成り立つでしょうか?

各人が「自分の」幸福を望んでいるという事実から、なぜ「他人を含めた全体の」幸福が善だと言えるのでしょうか?

これは、「各人が自分のお金を望む。ゆえに全体のお金は全体にとっての善である」と言うようなものです。しかし実際には、各人は他人のお金ではなく、自分のお金だけを望んでいます。

同様に、各人は自分の幸福を望んでいるかもしれませんが、それは他人の幸福を望んでいることの証拠にはなりません。

後の哲学者ヘンリー・シジウィックは、ここに功利主義の根本的な難問を見出しました。なぜ私は、私自身の幸福と同じくらい、見知らぬ他人の幸福を重視しなければならないのか? ミルの論証は、この問いに答えていないのです。

公平に言えば、ミルはこの論証だけで功利主義を基礎づけようとしたわけではありません。第3章で論じた社会的本性や共感能力の議論も含めて、全体として功利主義を支える——それがミルの意図でした。しかし第4章の論証自体は、論理的に不十分であることは否定できません。

5-4. 幸福だけが望まれるのか?

さて、幸福が望ましいことを示した後、ミルは次の問いに取り組みます。「幸福だけが望ましいのか? 他のものは望まれないのか?」

これは重要な問いです。なぜなら、功利主義は幸福を唯一の究極目的とするからです。もし他にも独立した価値があるなら、功利主義の基盤が揺らぎます。

批判者はこう指摘します。「人々は幸福以外のものも望んでいる。お金、名誉、権力、知識——これらは幸福の手段としてだけでなく、それ自体として望まれているのではないか?」

確かに、その通りに見えます。守銭奴は、お金で何を買えるかではなく、お金そのものを愛しています。名誉を求める人は、名誉が幸福をもたらすかどうかに関係なく、名誉を追求します。

ミルの回答は巧妙です。彼は、これらが幸福の手段としてのみ望まれているとは主張しません。むしろ、手段が目的の一部になるという現象を指摘するのです。

お金は最初、幸福を得るための手段でした。食べ物を買い、家を買い、安全を確保するための道具です。しかし時間が経つと、お金を持つこと自体が快楽の源泉になります。お金を数える喜び、財産を増やす満足感——これらは幸福の一部なのです。

名誉についても同様です。最初は他者からの承認が心地よいから名誉を求めました。しかし次第に、名誉を持つこと自体が、自尊心や誇りという形で幸福の構成要素になります。

ミルはこう述べます。「最初は無関心だったものに対して、習慣によって、あるいは連想によって、欲求が生まれることがある。そしてその欲求の満足は、それ自体が快楽となる」

5-4. 幸福だけが望まれるのか?(続き)

ミルはさらに重要な例を挙げます。**徳(virtue)**です。

道徳的に優れていること、正しく生きること——徳は功利主義では本来、幸福を生み出すための手段のはずです。しかし明らかに、多くの人々は徳を、それ自体として価値あるものと見なしています。

ミルは認めます。徳は確かにそれ自体として望まれる、と。しかし、だからといって功利主義が間違っているわけではない、と彼は主張します。

なぜなら、徳を愛すること、徳を持つ喜び——これ自体が幸福の一部だからです。

ミルはこう書いています。「徳は、最初は手段として望まれたかもしれない。しかし徳を愛する人にとって、徳は幸福の一部となり、幸福の最も重要な構成要素の一つとなる」

つまり、幸福とは単一の感覚ではなく、様々な快楽、満足、充実感の複合体なのです。お金を持つ喜び、名誉を得る誇り、徳を実践する充実感——これらすべてが幸福に含まれます。

ミルの主張は、こうまとめられます。人々が究極的に望むものは、常に快楽か苦痛の不在のどちらかである。お金や名誉や徳が望まれるのは、それらが快楽をもたらすか、快楽の一部となっているからだ。したがって、幸福だけが究極目的であるという功利主義の主張は正しい、と。

しかしここでも批判の余地はあります。徳を持つことの満足感を「幸福の一部」と呼ぶなら、幸福の概念はあまりに広くなりすぎて、ほとんど何でも含んでしまうのではないか? そうなると、「幸福が唯一の善である」という主張は、ただのトートロジー(同語反復)になってしまうのではないか——こうした批判は今日まで続いています。

それでもミルの議論には重要な洞察があります。私たちが価値あると思うものの多くは、結局のところ、何らかの形で私たちの経験の質、つまり幸福と結びついている——この指摘は、完全に否定することが難しいのです。コピー

以下の部分のナレーションを詳述してください。 できるだけ詳しくかつ簡潔にお願いします。 長い動画になりますので、各章間でも重複を避けた記述にしてください。 章の初めに、章内容の説明は不要です。

『 【第6章】第5章「正義と功利性の結びつき」  6-1. 最大の難関:正義との関係   「功利主義は不正を正当化するのでは?」という批判   「多数の幸福のために少数を犠牲にする」トロッコ問題  6-2. 正義とは何か?     ・正義の観念の分析:    法的権利の侵害    道徳的権利の侵害    各人が受けるべきものを得ること    信義を守ること    公平性   ・これらに共通するのは「権利の侵害」  6-3. 権利と功利主義   権利=社会によって保護されるべき利益   なぜ保護されるべきか?→それが社会全体の幸福に不可欠だから   安全(security)こそが最も重要な利益   正義は功利主義の最も重要な部分  6-4. 正義の感情の由来   危害への報復本能+共感能力   自己防衛本能が拡張されて社会的正義感に

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【第6章】第5章「正義と功利性の結びつき」

1. 最大の難関:正義との関係

第5章は『功利主義』の中で最も長く、最も重要な章です。ミルがここで取り組むのは、功利主義に対する最も深刻な批判——正義との関係です。

批判はこうです。「功利主義は結果の総計だけを見る。ならば、多数の幸福のためなら、少数の人々を不当に扱ってもいいということになるのではないか?」

これは単なる思考実験ではありません。歴史を見れば、「全体の利益」の名の下に個人の権利が踏みにじられた例は無数にあります。

現代でも、この問題は様々な形で現れます。いわゆる「トロッコ問題」を考えてみましょう。暴走するトロッコの先には5人がいて、あなたがレバーを引けば1人だけが犠牲になる別の線路に切り替わる——功利主義なら5人を救うために1人を犠牲にすべきだと言うのでしょうか?

あるいはこんな例を考えてください。ある村で凶悪犯罪が起き、犯人が見つからないとします。無実の人を犯人として処刑すれば民衆の怒りは収まり、暴動や復讐の連鎖を防げる——功利主義者はこれを正当化するのでしょうか?

多くの人は直観的に「いや、それは間違っている」と感じます。なぜなら、それは不正義だからです。たとえ全体の幸福が増えたとしても、無実の人を犠牲にすることは許されない——これが正義の要求です。

ミルはこの批判を真剣に受け止めます。そして彼は、功利主義と正義は対立するのではなく、実は正義は功利主義から導き出されるのだと論じるのです。

2. 正義とは何か?

ミルはまず、「正義」という概念の分析から始めます。人々は様々な場面で「正義」という言葉を使いますが、その共通点は何でしょうか?

ミルは正義が適用される五つの典型的な場面を挙げます。

第一に、法的権利の侵害です。人から財産を奪うこと、契約を破ること——これらは法律で保護された権利を侵害するため不正義です。

第二に、道徳的権利の侵害です。たとえ法律では罰せられなくても、人を裏切ること、恩を仇で返すことは不正義と感じられます。ここには法律を超えた道徳的権利の観念があります。

第三に、各人が受けるべきものを得ることです。「デザート(desert)」という概念——努力した人が報われ、悪行をした人が罰を受ける、これが正義だと考えられます。

第四に、信義を守ることです。約束を破る、期待を裏切る——これらは不正義の典型例です。

第五に、公平性(impartiality)です。えこひいきをせず、全ての人を平等に扱うこと。同じ状況にある人々を異なって扱うのは不正義です。

これらは一見バラバラに見えますが、ミルは鋭い洞察を示します。これらすべてに共通するのは、権利の侵害という要素だ、と。

人々が「不正義だ」と感じるのは、単に誰かが害を受けたからではありません。その人が侵害されるべきでない何かを侵害されたと感じるからです。その「侵害されるべきでない何か」——それが権利なのです。

3. 権利と功利主義

では、権利とは何でしょうか? そしてなぜ権利は特別な保護を受けるべきなのでしょうか?

ミルの答えは明快です。権利とは、社会によって保護されるべき利益である、と。

すべての人に様々な利益や欲求があります。しかしその中でも特に重要で、社会全体が保護する義務を負うと考えられるもの——それが権利として認識されるのです。

では、なぜある利益は権利として保護され、別の利益はそうでないのでしょうか?

ミルは功利主義者として答えます。それが社会全体の幸福にとって不可欠だからだ、と。

考えてみてください。もし人々の生命、身体、財産が保護されなかったら、社会はどうなるでしょうか? 誰もが常に襲われる危険にさらされ、働いて得たものを奪われ、信頼関係は崩壊します。そんな社会では、誰も幸福になれません。

ミルはここで、人間にとって最も重要な利益を指摘します。それは安全(security)です。

「安全ほど人間の幸福に直接貢献するものはない。私たちの全ての財産、私たちの全ての努力は、安全というこの基礎の上に成り立っている。安全がなければ、次の瞬間にも全てを失うかもしれないという恐怖の中で生きなければならない」

したがって、生命、身体、財産といった基本的な利益を権利として保護することは、功利主義的に完全に正当化されるのです。いや、それどころか、これらの保護は功利主義にとって最も重要な要求なのです。

ミルは大胆に主張します。「正義は、道徳全体の中で比較にならないほど神聖で、絶対的に義務的な部分である。なぜならそれは人間の幸福にとって本質的に、他の全てを合わせたよりも重要だからである」

ここでミルの戦略が明らかになります。彼は正義を功利主義の外部にあるものとして擁護しているのではありません。正義は功利主義の内部にある、それも最も中心的な部分だと論じているのです。

では、冒頭の批判——「多数のために少数を犠牲にしてもいいのか」という問いに、ミルはどう答えるのでしょうか?

ミルの答えは「ノー」です。なぜなら、無実の人を犠牲にすることは、その人の権利を侵害するからです。そして権利の侵害は、一時的に全体の幸福を増やすように見えても、長期的には社会全体の幸福を大きく損なうのです。

なぜでしょうか?

もし無実の人が「全体のため」に犠牲にされることが許されるなら、誰も安全を感じられなくなります。「明日は自分が犠牲にされるかもしれない」という恐怖が社会を覆います。信頼は崩壊し、協力は不可能になります。

つまり、権利を保護することは、個別の事例における幸福の計算ではなく、社会制度全体のレベルでの功利性によって正当化されるのです。

ミルはさらに踏み込みます。正義の要求は、単なる便宜的なルールではなく、例外を許さない厳格なルールとして扱われるべきだ、と。

なぜなら、「状況によっては権利を侵害してもいい」という前例を作ってしまえば、権利の保護という制度自体が崩壊するからです。安全という最も重要な利益が脅かされれば、社会全体の幸福は壊滅的な打撃を受けます。

こうしてミルは、功利主義が正義と矛盾するどころか、正義の最も強固な基礎を提供すると主張するのです。

4. 正義の感情の由来

最後に、ミルは心理学的な考察を加えます。なぜ私たちは不正義に対して、他の道徳違反とは異なる強烈な感情を持つのでしょうか?

嘘をつかれれば不快ですが、権利を侵害されれば激怒します。この違いはどこから来るのでしょうか?

ミルは、正義の感情が二つの要素から成ると分析します。

第一の要素は、危害への報復本能です。これは動物にも見られる原始的な感情です。攻撃されたら反撃する、傷つけられたら仕返しする——この本能は自己保存のために不可欠です。

第二の要素は、共感能力です。人間は、自分が傷つけられていなくても、他者が傷つけられるのを見て怒りを感じることができます。

この二つが結合すると、正義の感情が生まれます。

最初、子供は自分が傷つけられた時だけ怒ります。しかし成長するにつれて、家族が傷つけられても怒るようになります。さらに成長すれば、友人、コミュニティ、さらには見知らぬ他人が不当に扱われても憤りを感じるようになります。

ミルはこう述べます。「この感情が社会全体の利益と結びつけられた時、それは正義の感情となる。私たち一人一人の安全を脅かすものは、全ての人の安全を脅かす。だから私たちは、見知らぬ人の権利侵害にも、まるで自分が攻撃されたかのように憤るのだ」

つまり、正義の感情の強烈さは、それが自己保存の本能に根ざしているからなのです。権利の侵害に激しく反応するのは、それが究極的には自分自身の安全への脅威だと感じるからです。

こうしてミルは、正義の感情的な側面も、功利主義の枠組みの中で説明できることを示しました。

結論として、ミルは宣言します。正義は功利主義と対立しない。それどころか、正義とは、功利性の中でも最も重要で、最も厳格で、最も絶対的な部分の名前である、と。

功利主義は「結果さえよければ何をしてもいい」という理論ではありません。むしろ、人間の権利、尊厳、公正さを最も強力に擁護する理論なのだ——これがミルの最終的なメッセージです。

【第7章】ミル功利主義の現代的意義

1. ベンサムとの違いまとめ

ここまで『功利主義』の全5章を読んできました。最後に、ミルの功利主義がベンサムのものからどう発展したのか、そして現代に何を残したのかを考えてみましょう。

ベンサムとミル——師と弟子の功利主義は、一見似ていますが、本質的に異なります。

ベンサムの量的功利主義は明快です。快楽は快楽であり、その種類に違いはない。重要なのは量だけ——強度、持続時間、確実性、近さといった要素で測られる量だけです。「押しピンゲームも詩も、同じ量の快楽を与えるなら等しい価値がある」というベンサムの有名な言葉が、この立場を象徴しています。

この理論の強みは、その単純さと民主性です。誰の快楽も平等にカウントされ、エリートの趣味も大衆の娯楽も差別されません。

しかし弱点もあります。これでは本当に「豚の哲学」になってしまうのではないか——ミルはこの批判を深刻に受け止めました。

ミルの質的功利主義は、快楽に質の違いがあることを認めます。知的快楽、審美的快楽、道徳的満足感——これらは単なる肉体的快楽よりも高い価値を持つ。そして両方を経験した人々の判断によって、この質の違いは客観的に確認できる、とミルは主張しました。

これによって功利主義は、より人間的で、より洗練された理論になりました。人間の尊厳、教養、精神的成長——これらが功利主義の枠内で正当化されるようになったのです。

また、ミルは権利と正義を功利主義の中核に位置づけることで、「多数のために少数を犠牲にする」という批判にも応えました。正義は功利性の例外ではなく、最も重要な部分である——この洞察は、功利主義を倫理理論として大きく強化しました。

ベンサムの理論が骨格だとすれば、ミルはそこに肉と血を与えた、と言えるでしょう。

2. ミル功利主義への批判

しかし、ミルの理論も完璧ではありません。150年以上にわたって、様々な批判が提起されてきました。主要なものを三つ見てみましょう。

第一に、快楽の質の区別は本当に客観的なのか?

ミルは「両方を経験した人の判断」に訴えますが、この基準は本当に機能するでしょうか?

例えば、クラシック音楽もポップ音楽も十分に経験した人が、「ポップ音楽の方が好きだ」と言ったらどうなるのでしょう? ミルは「それは高次の快楽の実現が困難だから、便宜的に低次の快楽を選んでいるだけだ」と答えるかもしれません。

しかし、これは検証不可能な主張です。結局のところ、「正しい判断をする人は私の意見に同意する人だ」という循環論法に陥る危険があります。

さらに、誰が「両方を十分に経験した」と判断するのでしょうか? 教養あるエリートだけが正しい判断者だとすれば、これは明らかにエリート主義です。

ベンサムの理論は、その単純さゆえに民主的でした。誰の快楽も平等です。しかしミルの理論は、快楽に序列をつけることで、知らず知らずのうちに人間にも序列をつけてしまうのではないか——この批判は軽視できません。

第二に、帰結主義の根本的な問題があります。

功利主義は帰結主義——つまり行為の正しさを結果だけで判断する理論です。しかし、多くの人は動機や意図も道徳的に重要だと感じます。

例えば、二人の人が同じ慈善行為をしたとします。一人は純粋に他者を助けたいという動機から、もう一人は評判を上げるための計算から。功利主義では、結果が同じなら両者は道徳的に等しいことになります。

しかし、私たちの直観は違います。動機の純粋さには独立した価値がある、と感じるのです。

カント倫理学は、まさにこの点を強調します。正しい行為とは、正しい動機から行われたものでなければならない——これがカントの主張です。功利主義は結果ばかりに注目して、人間の内面、意志の純粋さを軽視している、という批判です。

第三に、功利主義は計算可能性を前提としていますが、実際には計算不可能な場合が多くあります。

ある政策が100年後の人々にどんな影響を与えるか、どうやって計算するのでしょうか? あるいは、異なる種類の幸福——芸術の幸福と健康の幸福——をどうやって比較するのでしょうか?

ミルは「人類の経験則」に訴えますが、前例のない新しい状況——例えば遺伝子編集やAI開発——では、経験則は役に立ちません。

これらの批判は、功利主義を完全に否定するものではありません。しかし、功利主義だけでは倫理の全てをカバーできないことを示唆しています。

3. 現代への影響

批判があるにもかかわらず、ミルの功利主義は現代社会に深い影響を与え続けています。特に四つの領域で顕著です。

第一に、医療倫理です。

病院の救急室でのトリアージ——限られた医療資源をどう配分するか。これは典型的な功利主義的問題です。より多くの命を救い、より多くの健康を生み出すために、誰を優先すべきか。

臓器移植の優先順位決定も同様です。ドナーが一人、レシピエントが複数いる時、誰に臓器を与えるべきか? 若い患者を優先すべきか、重症患者を優先すべきか? これらの判断には、功利主義的な計算が不可欠です。

パンデミック時の政策決定も同じです。ロックダウンは経済的損失をもたらしますが、多くの命を救います。このトレードオフをどう判断するか——功利主義的な枠組みなしには答えられません。

第二に、環境倫理です。

気候変動対策を考えてみましょう。現在の世代が負担を負うことで、将来世代の幸福が守られます。これをどう正当化するか?

ミルの功利主義は、「最大多数」の範囲を時間的にも拡張します。将来の人々の幸福も、現在の私たちの幸福と同じように重要です。したがって、今コストを払ってでも環境を守るべきだ——この論理は功利主義的です。

生物多様性の保護も同様です。他の種を絶滅から守るのは、それが長期的に人類の幸福に貢献するからだ、と功利主義者は論じることができます。

第三に、公共政策の立案です。

政府が新しい政策を導入する際、「費用便益分析(cost-benefit analysis)」を行います。この政策がもたらす利益と、それに必要なコストを比較して、利益が上回るなら実施する——これはまさに功利主義的な手法です。

道路建設、教育投資、福祉政策——あらゆる公共投資は、暗黙的に功利主義的な計算に基づいています。「最大多数の最大幸福」という原理は、民主主義社会における政策決定の基本原則となっているのです。

第四に、そして最も現代的なのが、AI倫理です。

自動運転車の倫理的プログラミングを考えてみてください。事故が避けられない状況で、AIはどう判断すべきか? 5人の歩行者を救うために1人の乗客を犠牲にすべきか? これは現代版トロッコ問題です。

AIの開発者は、アルゴリズムに倫理的判断を組み込まなければなりません。その際、功利主義は最も明確で実装可能な枠組みを提供します。なぜなら、功利主義は「最大の善」という計算可能な基準を与えるからです。

また、AIによる雇用の自動化も功利主義的な問題です。自動化は全体の効率を上げ、多くの人に安価な製品を提供しますが、一部の労働者の職を奪います。このトレードオフをどう評価するか——功利主義的な分析が不可欠です。

ミルが19世紀に書いた『功利主義』が、21世紀の私たちに教えてくれることは何でしょうか?

それは、幸福を真剣に考えることの重要性です。

私たちはしばしば、伝統、権威、感情に基づいて判断します。しかしミルは問いかけます。「それは本当に人々を幸せにするのか?」と。

この問いは、時に不快です。大切にしてきた信念や習慣が、実は人々を不幸にしているかもしれない——そう気づかされるからです。

しかし同時に、この問いは解放的でもあります。古い慣習に縛られる必要はない。より多くの人をより幸福にする新しい方法があるなら、それを試すべきだ——功利主義はこの進歩的な姿勢を支えます。

ミルの『功利主義』は完璧な理論ではありません。しかし、それは今なお私たちに重要な問いを投げかけ続けています。

あなたの行為は、世界をより良い場所にしているか? あなたの選択は、より多くの人をより幸せにしているか? そして、あなた自身は、質の高い幸福を追求しているか?

これらの問いに向き合うこと——それこそが、ミルの遺産を受け継ぐことなのです。

まとめ

さて、ジョン・スチュアート・ミルの『功利主義』、最初から最後まで一緒に読み解いてきました。

冒頭で触れた「最大多数の最大幸福」という言葉を覚えているでしょうか。多くの人がこのフレーズから連想するのは、「多数派のためなら何をしてもいい」「結果さえよければ手段は問わない」という冷たい計算主義です。

しかし、ミルの『功利主義』を実際に読んでみると、まったく違う姿が見えてきます。

ミルが擁護した功利主義は、単なる「結果オーライ」の理論ではありませんでした。それは、人間の尊厳を重視し、精神的な成長を称賛し、権利を神聖なものとして扱い、正義を道徳の中核に置く——そんな豊かで人間的な思想だったのです。

「満足した豚よりも不満足なソクラテス」という言葉が象徴するように、ミルは人間の生の質を深く考えました。単に快楽の量を増やせばいいのではない。私たちには、より高次の能力があり、より深い満足があり、より意味のある幸福がある——そう信じていたのです。

そして、個人の権利を踏みにじることは、たとえ一時的に全体の利益になるように見えても、長期的には社会全体の幸福を破壊する——だからこそ正義は絶対的に守られなければならない。この主張は、功利主義に対する最も深刻な批判に、正面から答えるものでした。

もちろん、『功利主義』は完璧な書物ではありません。快楽の質をどう判断するのか、なぜ他人の幸福を配慮しなければならないのか、幸福をどうやって計算するのか——こうした問題は、今日まで議論され続けています。

しかし、だからこそこの本は150年以上経った今でも読まれ続けているのです。簡単な答えを与えるのではなく、深く考えさせる。そして、より良い社会、より幸福な人生を真剣に追求する姿勢を示している——それがこの本の価値なのです。

医療の現場で、環境政策で、AIの開発で、そして私たち一人一人の日々の選択で——ミルが提起した問いは、今も生き続けています。

「この選択は、世界をより良い場所にするだろうか?」 「私は、質の高い幸福を追求しているだろうか?」 「私の行為は、他者の権利を尊重しているだろうか?」

これらの問いに向き合い続けること——それこそが、ミルの『功利主義』を読む意味なのかもしれません。

今回の記事はここまでです。最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。難解な哲学書でも、こうして一緒に読み解いていけば、きっと理解できる——そう感じていただけたなら嬉しいです。

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