今回も哲学書の解説シリーズです。今回は、ジョン・スチュアート・ミルの『女性の解放』を取り上げます。この本は、19世紀の保守的な社会に激震を与えました。しかし同時に、世界中の女性参政権運動に理論的基盤を与え、フェミニズム思想の礎となっていったのです。
はじめに
1869年。ヴィクトリア朝のイギリスで、一冊の本が静かに、しかし確実に社会を揺るがし始めました。
その本のタイトルは『女性の解放(The Subjection of Women)』。
著者は、ジョン・スチュアート・ミル。『自由論』や『功利主義』で知られる、19世紀を代表する哲学者です。
この本が出版された時代、女性は選挙権を持っていませんでした。いえ、それどころではありません。大学への入学は閉ざされ、医師や弁護士といった専門職への道は完全に遮断されていました。結婚すれば、妻の財産は全て夫のものとなり、子供の親権も夫だけに属しました。妻は法的に「無能力者」として扱われ、まるで夫の所有物のような扱いを受けていたのです。
離婚は実質的に不可能でした。夫が妻に暴力を振るっても、それは「家庭内の問題」として、法は介入しませんでした。女性は生まれた瞬間から、父親の支配下に置かれ、結婚すれば夫の支配下に移る。それが「自然の秩序」であり、「神の定めた役割」だと、社会全体が信じて疑わなかった時代です。
そんな時代に、ミルは明確に、そして大胆に主張しました。
「女性を男性に従属させる現在の制度は、根本的に誤っている。それは正義に反するだけでなく、人類全体の進歩を妨げる、最大の障害の一つである」
この本は、19世紀の保守的な社会に激震を与えました。しかし同時に、世界中の女性参政権運動に理論的基盤を与え、フェミニズム思想の礎となっていったのです。
『女性の解放』の革命的な意義は、その主張の過激さだけにあるのではありません。それは、感情論や道徳的説教ではなく、厳密な哲学的論証によって、男女平等の必要性を体系的に論じた、史上初の試みだったという点にあります。
ミルは、論理学の大家として知られていました。彼の『論理学体系』は、科学的推論の方法論を確立した記念碑的著作です。その論理的な頭脳を持つ哲学者が、あらゆる反論を想定し、一つ一つ丁寧に論破しながら、男女平等という結論へと読者を導いていく。それが『女性の解放』という書物なのです。
ミルは功利主義者でした。「最大多数の最大幸福」を道徳の基準とする思想です。では、なぜ功利主義者が、これほどまでに女性の権利を擁護したのでしょうか?
答えは明快です。人口の半分を占める女性を抑圧し、その才能と能力を無駄にすることは、社会全体の幸福を著しく損なうからです。女性の解放は、女性だけの問題ではない。それは、人類全体の繁栄と幸福に直結する、最も重要な社会改革の一つだとミルは考えました。
しかし、この思想の背景には、もう一つの重要な要素がありました。
ハリエット・テイラーという女性の存在です。
ミルは1830年、24歳の時にハリエットと出会いました。彼女は既婚者でしたが、二人は深い知的交流を始めます。ハリエットは驚くべき知性と洞察力を持つ女性でしたが、当時の社会では、その才能を発揮する場はほとんどありませんでした。
二人は21年間、プラトニックな関係を保ちながら、思想を磨き合いました。ハリエットの夫が亡くなった後、二人は結婚しましたが、その結婚生活はわずか7年で終わります。1858年、ハリエットは南フランスのアヴィニョンで亡くなりました。
ミルは深く悲しみました。そして、妻を失った悲しみの中で、彼は一つの決意をします。
ハリエットとの知的共同作業の集大成として、そして彼女の遺志を継ぐものとして、女性の権利についての本を書こう、と。
実際、ミルは『女性の解放』の序文で、この本のアイデアの多くは妻ハリエットに由来すると明言しています。彼女との対話なくして、この本は生まれなかったでしょう。
ミルは、単なる理論家ではありませんでした。1865年から1868年まで、彼は下院議員として実際の政治活動に参加しました。そして1867年、彼は大胆な提案を議会に持ち込みます。選挙法改正案の審議において、「男性(man)」という言葉を「人間(person)」に置き換え、女性にも選挙権を認めるべきだという修正案を提出したのです。
この提案は、わずか73票の賛成しか得られず、否決されました。しかし、イギリス議会の歴史上、初めて女性参政権が真剣に議論されたという点で、画期的な出来事でした。
そして1869年、ミルは『女性の解放』を出版します。
この本は、激しい論争を巻き起こしました。保守派からは「自然の秩序を破壊する危険思想」として激しく非難されました。しかし同時に、世界中の女性参政権運動家たちに理論的武器を与え、20世紀の女性解放運動の思想的基盤となっていったのです。
150年前に書かれたこの本が、なぜ今なお読まれ続けるのか。
それは、ミルが提起した問題の多くが、実はまだ解決されていないからです。法的な平等は多くの国で達成されました。しかし、実質的な平等は、本当に実現しているでしょうか?
ジェンダー賃金格差、家事・育児の不平等な分担、政治・経済における女性の過少代表、性暴力とハラスメントの問題。これらは、形を変えながら、今も私たちの社会に存在しています。
『女性の解放』は、過去の遺物ではありません。それは、未来への地図であり、今もなお未完の旅の道標なのです。
それでは、この偉大な古典の世界へと、ご一緒に踏み込んでいきましょう。
導入——ミルと『女性の解放』の背景
1. なぜミルは女性の権利を擁護したのか?
ジョン・スチュアート・ミルが女性の権利を擁護するようになった背景には、一人の女性との出会いがありました。
1830年、24歳のミルは、ある晩餐会でハリエット・テイラーという女性に出会います。
彼女は当時21歳。既に結婚しており、二人の子供の母親でした。しかし、ミルは彼女の知性に、文字通り魅了されました。
ミルは後に、自伝でこう記しています。
「彼女ほど完全に、思考の明晰さと感情の深さを兼ね備えた人間を、私は知らない」
ハリエットもまた、ミルの知性に惹かれました。二人は激しい知的対話を始めます。哲学、政治、社会改革、道徳——あらゆるテーマについて、二人は議論を交わしました。
当時の社会道徳からすれば、既婚女性との親密な交際は重大なスキャンダルでした。実際、ミルはこの関係のために、社交界から冷遇されることになります。しかし彼は、社会の偏見に屈しませんでした。
ハリエットの夫、ジョン・テイラーは寛容な人物でした。彼は妻とミルの関係を認め、二人の交流を妨げませんでした。奇妙な三角関係が、21年間続きます。
この間、二人はプラトニックな関係を保ちながら、共同で思索を深めていきました。ミルの主要著作の多くは、この時期に構想されたものです。『論理学体系』『経済学原理』『自由論』——これらすべてに、ハリエットの影響が色濃く反映されています。
ミルは後に、こう断言しています。
「私の著作で価値あるものは何であれ、彼女のものである」
これは謙遜ではありませんでした。ハリエットは実際に、ミルの原稿に詳細なコメントを加え、論理を洗練させ、表現を改善していました。真の意味での知的パートナーシップだったのです。
この経験が、ミルに決定的な洞察を与えました。
女性が「知的に劣る」というのは、完全な神話である。もし女性に男性と同じ教育と機会が与えられたなら、彼女たちは男性と全く同等に、あるいはある分野では男性以上に、優れた業績を残すだろう。
ハリエットは、その生きた証明でした。
1849年、ジョン・テイラーが亡くなります。二人は1851年に結婚しました。ミルは45歳、ハリエットは43歳でした。
しかし、その幸福な結婚生活は長くは続きませんでした。1858年、二人で南フランスを旅行中に、ハリエットは肺の病で急逝します。アヴィニョンのホテルで、ミルの腕の中で息を引き取りました。
ミルの悲しみは深く、生涯癒えることはありませんでした。彼はアヴィニョンに家を購入し、ハリエットの墓の近くで余生の多くを過ごすことになります。
そして、妻を失った悲しみの中で、ミルは一つの決意をします。
ハリエットとの25年間の知的共同作業の集大成として、女性の権利についての本を書こう。それは彼女の遺志を継ぐものであり、彼女への最大の追悼となるはずだ、と。
実際、二人は生前から、女性の権利についての論文を共同で構想していました。ハリエットの死後、ミルはそのアイデアを体系化し、『女性の解放』として結実させたのです。
1869年、ミルが63歳の時、この本は出版されました。
2. 19世紀の女性の法的地位
では、ミルが生きた19世紀のイギリスで、女性はどのような法的地位に置かれていたのでしょうか。
現代の私たちからすれば、信じがたいほどの不平等が、法律によって制度化されていました。
結婚による財産権の喪失
まず、結婚した瞬間、女性は財産権を完全に失いました。
独身時代に自分で稼いだお金も、親から相続した財産も、結婚すれば全て夫のものになる。これは「夫婦一体の原則」と呼ばれる法原則に基づくものでした。
夫婦は法的に「一つの人格」とみなされる。そしてその「一つの人格」とは、夫のことだったのです。妻は法人格を失い、夫に吸収される。
つまり、妻は結婚後に働いて稼いだお金さえ、夫のものになりました。妻には、自分の収入を管理する権利がなかったのです。
子供の親権
子供の親権も、完全に父親だけに属していました。
母親には、法的に何の権利もありません。夫が望めば、妻から子供を取り上げ、どこか遠くに送ることもできました。妻には、それを拒否する法的手段がありませんでした。
離婚した場合(それ自体が極めて困難でしたが)、子供は自動的に父親のものとなります。たとえ夫が暴力的で、酒浸りで、まったく父親としての適性がなくても、です。
離婚の不可能性
離婚は、実質的に不可能でした。
法的には離婚制度は存在しましたが、それは極めて限定的でした。離婚を申し立てるには、議会の特別法が必要でした。これは莫大な費用がかかり、事実上、貴族階級にしか利用できませんでした。
1857年に離婚法が改正され、裁判所での離婚が可能になりましたが、その基準は男女で大きく異なりました。
夫が離婚を申し立てる場合、妻の姦通だけで十分でした。
しかし妻が離婚を申し立てる場合、夫の姦通だけでは不十分でした。姦通に加えて、近親相姦、獣姦、極度の虐待、遺棄のいずれかが必要だったのです。
つまり、夫がどれほど妻を虐待しても、他の女性と関係を持っても、それだけでは妻は離婚できませんでした。
選挙権と教育の排除
女性には選挙権がありませんでした。これは明白です。
しかし、それだけではありません。地方自治体の選挙にも参加できず、陪審員にもなれず、公職に就くこともできませんでした。
教育の機会も極めて限定的でした。
オックスフォード大学とケンブリッジ大学は、女性の入学を認めていませんでした。医学部も法学部も、女性を受け入れませんでした。
中流階級の女性に期待されていた教育とは、読み書きの基礎、簡単な算数、音楽や絵画といった「教養」、そして何よりも「良き妻・良き母になるための技能」でした。
職業からの排除
ほとんどの職業が、女性に閉ざされていました。
医師、弁護士、建築家、技術者——これらの専門職は、全て男性のものでした。
女性が働ける職業は、ごく限られていました。家庭教師、裁縫師、商店の店員、工場労働者。そして、その賃金は、同じ仕事をする男性の半分以下でした。
中流階級の女性にとって、「働く」こと自体が恥とされていました。女性は経済的に夫に依存すべきであり、それが「女性らしさ」の証だとされたのです。
法的・社会的現実
これらすべてが意味していたことは、明白です。
女性は、法的にも社会的にも、男性の所有物として扱われていた。
イギリスの法律家ウィリアム・ブラックストンは、18世紀の著名な法学書でこう述べています。
「結婚によって、夫と妻は法的に一人の人間となる。すなわち、女性の存在は統合され、あるいは少なくとも夫の存在に組み込まれる」
これが、ミルが生きた時代の法的現実だったのです。
3. この本の革命性
このような社会状況の中で、ミルの『女性の解放』は出版されました。
この本の革命性は、三つの点にあります。
第一に、論理的・哲学的な論証
これは、単なる感情的な訴えではありませんでした。
ミルは、論理学の大家です。彼の『論理学体系』は、科学的推論の方法論を確立した記念碑的著作でした。
その論理的訓練を積んだ哲学者が、女性の従属状態を分析したのです。
ミルは、想定されるあらゆる反論を列挙し、一つ一つ丁寧に検討し、論破していきます。
「女性の従属は自然の秩序である」という主張に対して、ミルは問います。私たちは、女性の「自然な姿」を本当に知っているのか?生まれた瞬間から従属を強いられてきた女性の、本来の能力をどうやって測定できるのか?
「女性は従属に同意している」という主張に対して、ミルは反論します。教育と社会化によって作られた「奴隷の心性」を、自由な同意と呼べるのか?
「女性に参政権を与えれば社会が混乱する」という主張に対して、ミルは指摘します。かつて労働者に参政権を与える時も、同じ議論がなされた。しかし実際に権利が拡大されれば、社会はより安定し、繁栄した。
これは、感情ではなく理性による議論でした。宗教的教義ではなく、世俗的な倫理学に基づく論証でした。道徳的直観ではなく、経験的証拠と論理的推論に基づく主張でした。
第二に、功利主義の観点からの擁護
ミルの議論は、功利主義に基づいていました。
功利主義は、「最大多数の最大幸福」を道徳の基準とします。ある行為や制度が道徳的に正しいかどうかは、それが社会全体の幸福を増大させるかどうかで判断される。
ミルは、女性の従属状態が、社会全体の幸福を著しく損なっていることを示します。
人口の半分の才能と能力を無駄にすることは、経済的に非効率である。
女性を抑圧することで、男性も道徳的に堕落する。対等なパートナーシップの喜びを知らず、支配と服従の関係しか経験できない。
不平等な家庭で育った子供たちは、民主主義社会に必要な市民性を身につけられない。
つまり、女性の解放は、道徳的に正しいだけでなく、社会全体の繁栄にとって不可欠なのです。
これは、宗教的・感情的な議論を超えた、世俗的・合理的な論証でした。功利主義者は、神の意志を持ち出す必要がありません。社会全体の幸福という、測定可能な基準に基づいて議論できるのです。
第三に、社会的反応
この本は、激しい論争を巻き起こしました。
保守派からの批判は、苛烈でした。
『サタデー・レビュー』誌は、この本を「自然の秩序を破壊し、家庭を崩壊させる危険思想」と非難しました。
『エディンバラ・レビュー』誌は、「ミル氏は、明らかに理性を失っている。女性に男性と同等の権利を与えるなど、犬や猫に投票権を与えるのと同じくらい馬鹿げている」と書きました。
ある批評家は、「ミル氏は、妻の死によって精神的打撃を受け、正常な判断力を失った」とまで述べました。
教会からの批判も激しいものでした。「聖書は明確に、妻は夫に従うべきだと教えている。ミルは神の定めた秩序に反抗している」と。
しかし同時に、進歩派からは熱烈な歓迎を受けました。
アメリカの女性参政権運動の指導者、スーザン・B・アンソニーは、この本を「女性解放運動の聖書」と呼びました。
イギリスの女性参政権運動家ミリセント・フォーセットは、「ミルの著作は、私たちに理論的武器を与えてくれた」と述べています。
この本は、英語圏だけでなく、すぐにフランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ロシア語に翻訳されました。世界中の女性運動に、理論的基盤を提供したのです。
ミル自身は、1873年にアヴィニョンで亡くなりました。しかし彼の思想は、その後の女性参政権運動に決定的な影響を与え続けました。
イギリスで女性が完全な参政権を得たのは1928年。ミルの死から55年後のことです。
しかし、その運動を支えた思想的基盤の多くは、『女性の解放』に由来していました。
この本は、19世紀の一書物ではなく、現代に至る女性解放運動の、理論的出発点だったのです。
第1章「女性の従属は正当化できない」
1. 「自然の秩序」という詭弁への反論
ミルが『女性の解放』の第1章で最初に取り組むのは、最も一般的な反論です。
「男女の役割分担は、自然が決めたものである」
この主張は、19世紀において圧倒的な支持を得ていました。宗教家も、哲学者も、科学者さえもが、この見解を支持していました。
「女性は生物学的に、家庭で子供を育てるように設計されている」 「男性は力が強く、理性的である。女性は身体が弱く、感情的である」 「これは神が定めた秩序であり、自然の法則である」
ミルは、この議論の根本的な欠陥を指摘します。
私たちは、女性の「自然な姿」を知らない。
これがミルの核心的な主張です。
なぜか?
女性は、生まれた瞬間から、徹底的に社会化されているからです。
女の子が生まれると、すぐに特定の役割が期待されます。「おとなしく」「従順に」「優しく」あるべきだと教えられます。活発な女の子は「お転婆」として叱られ、知的な野心を示せば「女らしくない」として非難されます。
教育内容も、男女で完全に異なっていました。男の子には論理学、数学、古典語、科学が教えられる。女の子には、裁縫、音楽、簡単な読み書き、そして「良き妻・良き母になるための心得」が教えられる。
思春期になれば、さらに厳格な制約が課されます。女性は身体を締め付けるコルセットを着用し、自由な運動を制限されます。知的活動は「女性の繊細な神経を損なう」として discouraged されます。
結婚すれば、法的に夫に従属する。財産権も、法人格も失う。
この状態で、どうやって女性の「自然な能力」を測定できるというのか?
ミルは、印象的な比喩を用いています。
「これは、温室で育てられた植物の本性について論じるようなものだ」
温室の植物は、特定の温度、湿度、光の条件下でのみ育てられています。その植物が野外でどう成長するかを、私たちは知りません。しかし、誰も「この植物は本質的に温室でしか育たない」とは言わないでしょう。
女性もまた、「温室」で育てられているのです。その「温室」とは、法律、教育、社会的期待、文化的規範という名の、見えない壁です。
ミルは言います。
「女性の現在の性格について、どれだけが本来的なもので、どれだけが人為的なものかを見極めることは、不可能である」
さらに、ミルは鋭い観察を加えます。
もし女性の従属が本当に「自然」なら、なぜこれほど多くの法律や社会的圧力が必要なのか?
自然なことは、強制する必要がありません。人間は呼吸するように自然に呼吸します。法律で「呼吸しなければならない」と定める必要はありません。
しかし、女性の従属を維持するためには、膨大な法律、教育制度、社会的制裁が必要とされています。これ自体が、それが「自然」ではなく「強制」であることの証拠なのです。
2. 力の原理vs正義の原理
ミルは次に、歴史的視点を導入します。
女性の従属状態は、どのように始まったのか?
答えは明白です。力によって。
歴史の始まりにおいて、力の強い者が弱い者を支配した。男性は身体的に強かったため、女性を支配した。それだけのことです。
これは、道徳的正当性とは何の関係もありません。単なる力の行使です。
そしてミルは指摘します。歴史上のあらゆる支配形態が、同じように始まった、と。
奴隷制もそうでした。
力の強い部族が弱い部族を征服し、人々を奴隷にした。そしてその後、奴隷制は「自然の秩序」として正当化されました。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、「ある人々は生まれつき奴隷である」と主張しました。18世紀のアメリカの奴隷所有者たちは、「黒人は知的に劣っており、白人に支配されるのが自然である」と主張しました。
しかし今、私たちは知っています。それは嘘だった、と。
封建制もそうでした。
武力を持つ貴族が土地を支配し、農民を従属させた。そして何世紀もの間、これは「神が定めた秩序」とされました。
「王は神の代理人である」「貴族と平民の区別は、神が創造の時から定めたものである」——こう教えられました。
しかし今、私たちは知っています。それも嘘だった、と。
ミルは、人類史の大きな流れを描き出します。
文明の進歩とは、力の原理から正義の原理への移行である、と。
最初、あらゆる関係は力によって支配されていました。強い者が弱い者を支配する。それだけでした。
しかし徐々に、人類は「正義」という概念を発展させてきました。支配が正当化されるためには、単なる力ではなく、何らかの道徳的根拠が必要だという認識です。
奴隷制は廃止されました。封建制は崩壊しました。絶対王政は立憲君主制や民主制に置き換えられました。
これらの変化すべてにおいて、同じパターンが繰り返されました。
まず、改革者たちが「この支配は不正義である」と主張する。
保守派は反論する。「この制度は何世紀も続いてきた。自然の秩序だ。神が定めたものだ」
しかし最終的に、正義の原理が勝利する。
そして今、女性の従属だけが、最後の砦として残っているのです。
ミルは言います。
「男性による女性の支配は、力の原理が生き残っている唯一の例である」
奴隷制は廃止された。封建制は消滅した。しかし、家庭の中では、力の原理がそのまま維持されている。
これは単なる矛盾ではありません。それは、文明の進歩が未完成であることの証拠なのです。
ミルはさらに、辛辣な観察を加えます。
「興味深いことに、他のすべての支配形態が廃止された後も、女性の従属だけは『自然』だと主張され続けている」
かつて奴隷制を擁護した人々も、それが「自然」だと主張しました。しかし今、誰もそうは言いません。
かつて封建制を擁護した人々も、それが「自然」だと主張しました。しかし今、誰もそうは言いません。
しかし、女性の従属については、今もなお「自然」だと主張する人々がいる。
なぜか?
ミルの答えは明快です。それが最後に残った特権だからです。男性たちは、他の特権を失いましたが、家庭における専制君主の地位だけは手放したくないのです。
3. 「女性は従属に同意している」という欺瞞
ミルが直面したもう一つの反論は、こうでした。
「女性自身が、現状に満足している。彼女たちは従属状態を受け入れている。だから問題はない」
この議論は、一見もっともらしく聞こえます。
実際、多くの女性が、自分たちの地位に不満を表明していませんでした。多くの女性が、「良き妻・良き母」という役割に満足しているように見えました。
しかしミルは、この議論の根本的な欺瞞を暴きます。
「奴隷の心性」という概念
ミルは問います。抑圧されている人々が、その抑圧を内面化してしまったらどうなるか?
歴史上、多くの奴隷が、自分の地位を受け入れていました。多くの農奴が、貴族の支配を「当然のこと」と考えていました。
なぜか?
彼らは、生まれた時からそのような教育を受けていたからです。「あなたの立場はこういうものだ」「これが神の定めた秩序だ」「反抗することは罪である」と、繰り返し教え込まれていたからです。
これを、ミルは「奴隷の心性」と呼びます。
支配者が最も効果的に支配を維持する方法は、被支配者に「これは正しいことだ」と信じ込ませることです。
女性は、幼少期から、徹底的にこの心性を植え付けられています。
女の子は、「従順であることが美徳である」と教えられます。「自己主張することは女らしくない」と叱られます。「夫に従うことが妻の義務である」と教え込まれます。
教会は説教します。「妻よ、夫に従いなさい。それが神の御心である」
文学作品は描きます。従順で献身的な妻を理想像として。
社会全体が、同じメッセージを繰り返します。
この状況下で、女性が「私は従属状態に満足している」と言ったとして、それを「自由な同意」と呼べるでしょうか?
ミルは、さらに重要な点を指摘します。
反抗の代償
もし女性が、この制度に不満を表明したらどうなるか?
社会から完全に排除されるのです。
結婚していない女性が、「私は結婚したくない。自立して生きたい」と言えば、「オールドミス」として嘲笑されます。経済的に自立する手段もほとんどないため、貧困に陥ります。
結婚している女性が、夫の支配に反抗すれば、家庭内で孤立します。離婚することもできません。社会的にも、「悪妻」として非難されます。
つまり、反抗することは、人生を破壊することを意味したのです。
この状況下で、「女性は従属に同意している」と言うことに、何の意味があるでしょうか?
ミルは、鋭い比較を行います。
「銃を突きつけられて財布を渡した人間が、『これは自由意志による贈与だった』と主張するようなものだ」
強制は、常に物理的な暴力という形をとるわけではありません。社会的・経済的・心理的な強制もあります。
女性が「従属に同意している」というのは、まさにこの種の強制下での「同意」なのです。
ミルはさらに付け加えます。
実際には、多くの女性が不満を表明している、と。
もちろん、公然と体制を批判できる女性は少数です。しかし、私的な場では、多くの女性が苦しみを訴えています。
そして重要なことに、機会さえあれば、女性は自分の能力を証明してきました。
文学の世界では、男性の名前を使って出版した女性作家たちが、傑作を生み出しました。科学の世界では、あらゆる障害にもかかわらず、女性研究者たちが重要な発見をしました。
これは何を意味するか?
女性は、従属を「受け入れている」のではない。機会がないから、諦めているだけなのです。
4. 人類の半分の才能を無駄にする愚かさ
ミルは、ここで功利主義的論証を展開します。
女性の従属は、道徳的に間違っているだけではありません。それは、社会全体にとって莫大な損失なのです。
人口の半分を占める女性の、知性、創造性、能力——これらすべてが、組織的に抑圧されています。
ミルは、鮮烈な比喩を用います。
「人類は、片方の肺だけで呼吸しているようなものだ」
想像してみてください。もし社会が、茶色の髪の人々の才能を無駄にすることを決めたとしたら。茶色の髪の人は、教育を受けられず、専門職に就けず、その能力を発揮する機会を与えられない。
誰もが、これは愚かだと思うでしょう。髪の色と能力には何の関係もありません。これは純粋な人材の浪費です。
しかし、性別に基づいて同じことをすることは、なぜ許容されるのでしょうか?
ミルは、具体的な損失を列挙します。
科学的損失
もし女性が科学教育を受け、研究に参加できたなら、どれだけの発見があったでしょうか?
数学、物理学、化学、生物学、医学——これらすべての分野で、潜在的な女性科学者たちが、その才能を発揮する機会を奪われています。
芸術的損失
もし女性が自由に創作活動に従事できたなら、どれだけの傑作が生まれたでしょうか?
音楽、絵画、文学、演劇——これらすべての分野で、潜在的な女性芸術家たちが、社会的制約によって沈黙を強いられています。
経済的損失
もし女性が労働市場に完全に参加できたなら、経済はどれだけ成長するでしょうか?
有能な女性が、性別という理由だけで、その能力を発揮できない。これは純粋な経済的非効率です。
政治的損失
もし女性が政治に参加できたなら、どれだけ政策が改善されるでしょうか?
人口の半分の視点と経験が、政治的意思決定から排除されています。これで、社会全体の利益を代表する政治が可能でしょうか?
ミルは、功利主義者として計算します。
女性解放がもたらす利益:
- 女性自身の幸福の増大
- 人材の有効活用による社会の繁栄
- 男性の道徳的向上(専制君主から対等なパートナーへ)
- 子供たちのより良い教育と人格形成
- 民主主義社会の完成
これらすべてを合計すれば、女性解放は最大多数の最大幸福をもたらす、最も重要な社会改革の一つなのです。
ミルは、締めくくります。
「男女平等は、道徳的に正しいだけでなく、社会の繁栄にとって不可欠である」
これは感傷的な主張ではありません。冷徹な功利主義的計算の結果なのです。
女性を抑圧することは、正義に反するだけでなく、愚かなのです。それは、社会が自らの手足を縛り、目隠しをして、競争しようとするようなものです。
人類が真に繁栄するためには、すべての人間の才能と能力を最大限に活用しなければならない。性別による排除は、この目標と根本的に矛盾するのです。
第2章「結婚における従属」
1. 結婚法の不正義
ミルは『女性の解放』の第2章で、結婚制度そのものに焦点を当てます。
19世紀イギリスの結婚法は、驚くべき不平等を法制化していました。
妻は夫の法的財産
これは比喩ではありません。文字通りの法的現実でした。
結婚した瞬間、女性は法人格を失いました。「夫婦一体の原則(coverture)」と呼ばれる法原則によって、妻は法的に夫に「吸収」されたのです。
イギリスの法学者ウィリアム・ブラックストンは、その著名な『イングランド法釈義』でこう述べています。
「結婚によって、夫と妻は法的に一人の人間となる。すなわち、妻の法的存在は、結婚期間中、停止される。あるいは少なくとも、夫の存在に統合され、組み込まれる」
つまり、妻には独立した法的存在がないのです。
財産権の完全喪失
この原則の最も直接的な帰結が、財産権の喪失でした。
結婚前に女性が所有していた財産——相続した土地、貯蓄、宝石、家具——これらすべてが、結婚と同時に夫のものになりました。
妻が結婚後に稼いだお金も、夫のものでした。
たとえば、妻が裁縫師として働いて得た収入も、法的には夫のものです。夫には、妻の収入を管理し、自由に使う権利がありました。妻には、自分の稼ぎに対する法的権利がなかったのです。
妻が親から相続した財産も、自動的に夫の管理下に入りました。夫は、その財産を売却することも、借金の担保にすることもできました。妻の同意は必要ありませんでした。
ミルは指摘します。
「妻は、この世で最も完全な意味での無一物である」
身体の所有権の喪失
さらに衝撃的なことに、妻は自分の身体に対する権利さえ失いました。
当時の法律では、「夫婦間レイプ」という概念が存在しませんでした。
なぜか?
妻は結婚によって、夫への「永続的な性的同意」を与えたとみなされたからです。つまり、夫が妻の意志に反して性交渉を強要しても、それは法的にレイプではなかったのです。
これは法理論だけの話ではありません。実際の裁判でも、この原則が適用されていました。
夫が妻を監禁し、性交渉を強要した事件でも、裁判所は「夫の権利の行使」として合法と判断したのです。
離婚の実質的不可能性
そして、この状況から逃れる手段は、ほぼ存在しませんでした。
1857年の離婚法改正以前は、離婚には議会の特別法が必要でした。これは莫大な費用がかかり、事実上、一握りの富裕層にしか利用できませんでした。
1857年の改正後も、状況はわずかしか改善されませんでした。
夫が離婚を申し立てる場合、妻の姦通を証明すれば十分でした。
しかし妻が離婚を申し立てる場合、夫の姦通だけでは不十分でした。姦通に加えて、近親相姦、重婚、残虐行為、または遺棄のいずれかを証明しなければなりませんでした。
つまり、夫がどれほど不誠実でも、暴力的でも、それだけでは妻は離婚できなかったのです。
ミルは憤りを込めて書いています。
「法律は、妻を夫の終身囚としている」
2. 「奴隷以下の地位」
ミルは、ここで最も過激な主張を行います。
「妻の法的地位は、奴隷よりも悪い」
この主張は、当時の読者に大きな衝撃を与えました。「ミルは明らかに誇張している」「理性を失っている」という批判が相次ぎました。
しかしミルは、冷静に比較を行います。
労働時間の違い
奴隷は、主人のために働かなければなりません。しかし、労働時間が終われば、一定の自由があります。夜間や休日には、自分の時間を持つことができます。
しかし妻は、24時間、365日、夫に従属しています。
家事、育児、夫の世話——これらに休日はありません。妻には「労働時間外」という概念がないのです。
移動の自由
奴隷は売られれば、主人が変わります。これは望ましいことではありませんが、少なくとも残虐な主人から逃れる可能性はあります。
しかし妻は、離婚がほぼ不可能である以上、夫を変えることができません。どれほど暴力的で、酒浸りで、不誠実な夫でも、妻は一生その夫と共に生きなければなりません。
ミルは言います。
「奴隷は、最悪の場合でも、主人を失うことができる。妻には、その選択肢さえない」
感情の支配
最も重要な違いは、これです。
奴隷の主人は、奴隷の労働を要求できます。服従を要求できます。しかし、奴隷に愛情を要求することはできません。
しかし夫は、妻に愛情を要求します。
妻は単に服従するだけでは不十分です。彼女は夫を愛し、尊敬し、献身することが期待されます。夫の機嫌を取り、夫を喜ばせ、夫の要望を先回りして理解することが求められます。
つまり、妻は内面まで支配されているのです。
ミルは書いています。
「主人は奴隷の行動を支配するだけだが、夫は妻の魂まで支配しようとする」
抵抗の手段
奴隷には、少なくとも抵抗の可能性があります。歴史上、多くの奴隷反乱がありました。社会は、奴隷制の不正義を議論することができました。
しかし妻の反抗は、単なる「家庭の不和」として片付けられます。それは公的な問題ではなく、私的な問題とされます。法は、「家庭内のことには介入しない」という原則を貫きます。
つまり、妻は社会的に孤立した状態で、夫の支配に耐えなければならないのです。
ミルの結論は明確です。
「いかなる奴隷も、妻ほど完全に、主人の気まぐれに依存してはいない」
3. 結婚の理想形態
しかしミルは、結婚制度そのものに反対しているわけではありません。
彼が求めているのは、結婚の再定義です。
平等なパートナーシップとしての結婚
ミルの提案は革命的でした。
結婚は、「支配と服従」の関係ではなく、「平等なパートナーシップ」であるべきだ、と。
具体的には、こういうことです。
結婚は、二人の自由で対等な個人が、相互の愛情と尊敬に基づいて結ぶ契約である。
この契約において、どちらかが他方を支配するということはない。両者は対等な立場で、共同生活を営む。
財産権の保持
まず、妻は結婚後も自分の財産権を保持すべきです。
結婚前に所有していた財産は、妻のものであり続けます。結婚後に稼いだ収入も、妻自身のものです。
夫婦が共有財産を持つことは可能ですが、それは相互の合意に基づくべきです。一方的に妻の財産が夫のものになる、というようなことがあってはなりません。
人格の独立性
妻は、独立した人格を持つ個人として尊重されるべきです。
夫は妻の意見、感情、願望を尊重しなければなりません。妻が夫と異なる意見を持つことは、反抗ではなく、当然の権利です。
重要な決定は、共同で行われるべきです。子供の教育、住居の選択、財政の管理——これらすべてにおいて、夫婦は対等なパートナーとして協議すべきです。
相互尊重
結婚の基盤は、相互の尊重でなければなりません。
夫は妻を、知的・道徳的に対等な存在として扱うべきです。妻の考え、感情、願望を、自分のものと同じように重視すべきです。
妻もまた、夫を尊重します。しかしそれは、支配者への服従ではなく、対等なパートナーへの敬意です。
「最高の友情」としての結婚
ミルは、理想的な結婚を「最高の友情」と表現します。
最良の友人関係では、互いを対等な存在として尊重します。相手の意見に耳を傾け、相手の幸福を自分のことのように願います。
結婚も、同じであるべきです。いや、それ以上であるべきです。
人生を共にするパートナーとして、互いに支え合い、高め合う。知的にも、感情的にも、精神的にも、共に成長していく。
これこそが、結婚の本来の姿だとミルは考えます。
ミルは、自分とハリエットの関係を、この理想の実例として示唆しています。二人の25年間の知的パートナーシップは、まさにこのような「最高の友情」でした。
4. 家庭内暴力の問題
ミルは、結婚における最も暗い側面に光を当てます。家庭内暴力です。
法的に保護された暴力
19世紀イギリスでは、夫による妻への暴力が、事実上、法的に保護されていました。
「懲戒権」という概念がありました。夫には、妻を「適度に」懲らしめる権利があるとされたのです。
もちろん、「過度の」暴力は違法でした。しかし、「過度」の基準は極めて高いものでした。
骨を折る、生命に危険を及ぼす——このレベルに達して初めて、法が介入しました。それ以下の暴力は、「家庭内の問題」として放置されたのです。
現実の残虐性
ミルは、当時の新聞記事を引用しながら、家庭内暴力の実態を告発します。
酒に酔った夫が妻を殴打する。子供たちの目の前で、妻が血を流して倒れる。
夫が妻を監禁し、食事を与えない。
夫が妻の稼ぎを奪い、飲酒に使う。妻と子供たちは飢えに苦しむ。
これらの事例において、法はほとんど介入しませんでした。
警察に訴えても、「夫婦喧嘩に口出しはできない」と追い返されます。裁判所も、よほど極端な場合でない限り、動きませんでした。
ミルの告発
ミルは、激しい言葉で非難します。
「これは文明社会の恥部である」
奴隷制は廃止されました。拷問は違法化されました。しかし、家庭の中では、何世紀も前と変わらない暴力が続いている。
いや、それどころか、夫による妻への暴力は、法によって事実上容認されているのです。
ミルは問います。
「私たちは、公共の場での暴力を犯罪として処罰する。なぜ、家庭内の暴力だけが見過ごされるのか?」
「被害者が妻だからである。妻は、夫の所有物とみなされているからである」
これは、法の下の平等という原則に真っ向から反します。
法改正の必要性
ミルは、具体的な法改正を求めます。
第一に、家庭内暴力を明確に犯罪として定義すべきです。公共の場での暴力と同じように、処罰されるべきです。
第二に、被害者である妻を保護する制度が必要です。暴力的な夫から逃れる手段、避難できる場所、経済的支援。
第三に、離婚法を改正すべきです。暴力を受けている妻が、離婚を申し立てられるようにすべきです。
ミルは書いています。
「法律が妻を保護しない限り、結婚制度は、最も強い者が最も弱い者を抑圧する、合法的な暴政の手段となる」
5. 子供への悪影響
ミルは、不平等な結婚が子供に与える影響を分析します。
専制君主の心性
男の子は、家庭で何を学ぶでしょうか?
父親が母親を支配する姿を見て育ちます。父親の言葉が常に優先され、母親は従う。父親が怒鳴れば、母親は黙る。
男の子はこう学習します。
「男性は女性を支配する権利がある」 「女性の意見は重要ではない」 「力を持つ者が、正しい」
これは、専制君主の心性です。
そして社会に出たとき、この男の子は何をするでしょうか?
他者を対等な存在として尊重することができません。権力を持てば、それを濫用します。民主主義社会の市民に必要な資質——平等の精神、相互尊重、対話の能力——これらを身につけていないのです。
奴隷の心性
女の子は、家庭で何を学ぶでしょうか?
母親が父親に従属する姿を見て育ちます。母親の意見は聞かれず、母親の願望は無視される。母親は常に父親の機嫌を取り、父親に尽くす。
女の子はこう学習します。
「女性は男性に従うべきである」 「自分の意見を主張することは、女らしくない」 「私の幸福は、男性を喜ばせることにある」
これは、奴隷の心性です。
そして大人になったとき、この女の子は何をするでしょうか?
自分の権利を主張できません。不当な扱いを受けても、それが不当だと認識できません。独立した個人として生きる能力を、身につけていないのです。
民主主義の基盤
ミルの洞察は、ここで政治哲学と結びつきます。
民主主義社会には、特定の種類の市民が必要です。
自律的で、批判的思考ができ、他者を対等な存在として尊重し、対話と妥協によって問題を解決できる市民。
しかし、このような市民は、どこで育つのでしょうか?
家庭においてです。
もし家庭が専制的なら——父親が専制君主で、母親が奴隷なら——そこで育つ子供たちは、民主主義の市民にはなれません。
ミルは明言します。
「民主主義社会の市民を育てるには、民主的な家庭が必要である」
家庭は社会の縮図
ミルの議論には、深い洞察があります。
家庭は、単なる私的空間ではない。それは、社会の縮図であり、社会の基盤である、と。
子供たちが人間関係について最初に学ぶのは、家庭においてです。権力、正義、平等、尊重——これらすべての概念を、子供たちは家庭での経験を通じて学びます。
もし家庭が不平等なら、社会も不平等になります。
もし家庭で暴力が容認されるなら、社会でも暴力が蔓延します。
もし家庭で対話が行われないなら、社会でも対話は機能しません。
逆に、もし家庭が平等なら——夫婦が対等なパートナーとして共に生きるなら——そこで育つ子供たちは、真の民主主義の市民になれるのです。
ミルの結論は明確です。
女性の解放は、女性だけの問題ではない。それは、次世代を担う子供たちの問題であり、民主主義社会全体の問題なのです。
不平等な結婚を続ける限り、私たちは専制君主と奴隷を再生産し続けます。
真に自由で平等な社会を実現するには、まず家庭を変えなければならない。
これが、ミルの核心的なメッセージです。
第3章「女性の能力に関する偏見」
1. 「女性は知的に劣る」という偏見
ミルは『女性の解放』の第3章で、最も根強い偏見に挑みます。
「女性は知的に劣っている」
この主張は、19世紀において、単なる俗説ではありませんでした。科学者、哲学者、教育者——知識人たちの多くが、これを「科学的事実」として主張していたのです。
反対論の内容
当時の反対論者たちは、こう主張しました。
「女性には、抽象的思考能力が欠けている」 「女性は感情的で、論理的推論ができない」 「女性の脳は男性より小さく、したがって知的能力も劣る」 「歴史を見れば明らかだ。偉大な哲学者、科学者、芸術家の大半は男性である」 「これは、女性の生物学的限界を示している」
医学者たちも、この見解を支持しました。「女性の生殖器官は、多くのエネルギーを消費する。したがって、女性が高度な知的活動に従事すれば、健康を損なう」と。
一部の教育者は、「女性に高等教育を施すことは、不妊や神経衰弱を引き起こす」とまで主張しました。
ミルの根本的反論
ミルは、この議論全体の前提を問います。
そのような証拠は、どこにあるのか?
男性と女性の知的能力を公正に比較した研究は、存在しません。
なぜか?
女性には、男性と同じ教育が与えられたことがないからです。
この点を理解することが、決定的に重要です。
教育の機会の不平等
19世紀の女性は、体系的に教育から排除されていました。
オックスフォード大学もケンブリッジ大学も、女性を受け入れませんでした。医学部、法学部、工学部——これらすべてが女性に閉ざされていました。
中流階級の女性に提供された教育は、極めて限定的でした。読み書きの基礎、簡単な算数、フランス語の初歩、ピアノや刺繍といった「女性的技芸」。
論理学、数学、古典語、自然科学——これらは、「女性には不要」とされました。
労働者階級の女性は、さらに悲惨でした。多くは読み書きすら習えませんでした。
比較の不可能性
ミルは、鋭い論理的指摘を行います。
教育の機会を与えられなかった人々の能力を、どうやって判断できるのか?
これは、次のような状況に似ています。
ある植物を、暗い地下室で育てたとします。その植物は、ひょろひょろと弱々しく育ちます。
その結果を見て、「この植物は本質的に弱い」と結論できるでしょうか?
できません。なぜなら、その植物を日光の下で育てる実験をしていないからです。
女性の知的能力についても、同じことが言えます。
女性に男性と同等の教育を与える実験は、行われていません。その実験なしに、女性の能力について結論することは、非科学的です。
歴史上の女性の業績
さらにミルは、反対論者の主張を逆手に取ります。
「歴史上の偉大な業績は男性によるものだ」という主張は、実は女性の能力の証明なのです。
なぜか?
あらゆる障害にもかかわらず、女性は傑出した業績を残してきたからです。
文学の分野
サッフォー——古代ギリシャの偉大な抒情詩人。プラトンは彼女を「十番目のミューズ」と呼びました。
中世の神秘家ヒルデガルト・フォン・ビンゲン——神学、医学、音楽に貢献しました。
イギリスの小説家たち——ジェイン・オースティン、シャーロット・ブロンテ、ジョージ・エリオット(メアリー・アン・エヴァンズ)。彼女たちは、男性作家と同等、あるいはそれ以上の傑作を生み出しました。
注目すべきは、ジョージ・エリオットが男性の筆名を使わざるを得なかったことです。女性の名前では、作品が真剣に受け取られなかったのです。
統治者として
エリザベス1世——イギリスを黄金時代に導きました。
キャサリン2世——ロシアを近代化し、領土を拡大しました。
マリア・テレジア——オーストリアを改革し、強国に育てました。
これらの女性統治者は、同時代の男性君主と比較して、決して劣っていませんでした。
科学の分野
マリア・ガエターナ・アニェージ——18世紀イタリアの数学者。微積分学に貢献しました。
カロリン・ハーシェル——天文学者。彗星を発見し、王立天文学会から金メダルを授与されました。
メアリー・サマヴィル——数学者・天文学者。『天体力学』を著し、王立天文学会の名誉会員に選ばれました。
これらの女性は、ほとんど独学で学ばなければなりませんでした。大学も、研究機関も、彼女たちに門戸を開きませんでした。
それでも、彼女たちは傑出した業績を残したのです。
ミルの結論
ミルは問います。
もし女性が、これほどの障害にもかかわらず、これだけの業績を残したのなら、障害を取り除けば何ができるでしょうか?
「女性が知的に劣る」という主張には、何の根拠もありません。
むしろ、あらゆる証拠は、逆のことを示唆しています。女性には、男性と同等の知的能力がある。ただ、その能力を発揮する機会を組織的に奪われてきただけなのです。
2. 実験すらされていない
ミルは、ここで科学的方法論の問題を提起します。
実験の欠如
科学的探究の基本原則は何でしょうか?
仮説を立て、実験し、証拠を集め、結論を導く。
しかし、女性の知的能力については、この手順が全く踏まれていません。
女性に平等な教育を与え、平等な機会を提供し、その結果を観察する——この実験が、一度も行われていないのです。
先入観による排除
それどころか、逆のことが起きています。
まず結論が決められます。「女性は知的に劣る」
そして、この結論に基づいて、女性は教育から排除されます。
教育を受けられなかった女性が、高度な知的業績を残せないのは当然です。
それを見て、人々は言います。「ほら、やはり女性は知的に劣っている」
これは、完全な循環論法です。
ミルは、この論理的誤謬を鋭く指摘します。
想像上の実験
ミルは、思考実験を提案します。
もし社会が、茶色の髪の人々を教育から排除したとしましょう。
「茶色の髪の人々は知的に劣る。したがって、彼らに高等教育は不要である」
何世代か後、人々は言うでしょう。「歴史を見れば明らかだ。偉大な学者は皆、茶色以外の髪だ。これは茶色の髪の人々の本質的限界を示している」
この論理の欠陥は、明白です。
しかし、女性について同じ論理が使われているのです。
科学的態度の欠如
ミルは、反対論者たちの非科学的態度を批判します。
真の科学者なら、こう言うはずです。
「女性の知的能力について、私たちはまだ十分なデータを持っていない。女性に平等な教育と機会を与え、その結果を観察すべきである」
しかし実際には、証拠なしに結論が下されています。そして、その結論が真実であることを証明する実験を行う機会すら、女性に与えられていません。
これは、科学的態度の正反対です。
ミルの提案
ミルの提案は、明快です。
まず平等な機会を与えよ。その後で判断せよ。
女性に、男性と同じ教育を提供しましょう。
女性に、すべての職業への道を開きましょう。
女性に、政治参加の機会を与えましょう。
そして、一世代、二世代と時間をかけて、結果を観察しましょう。
その時初めて、女性の能力について、科学的に語ることができるのです。
ミルは言います。
「女性ができないことを、試す前から決めつけるのは、愚かであるだけでなく、不正義である」
予測と現実
ミルは、歴史的な先例を示します。
労働者階級に教育を与えることに、かつて多くの人が反対しました。「労働者は知的活動には向いていない」「教育を与えても無駄である」と。
しかし実際に教育が普及すると、労働者階級から多くの優れた学者、芸術家、発明家が輩出されました。
女性についても、同じことが起こるでしょう。
いや、すでに起こり始めています。わずかに教育の機会を得た女性たちが、驚くべき業績を残しているのです。
3. 「違い」と「劣等」の混同
ミルは、ここで重要な概念的区別を行います。
違いの認識
ミルは、男女の違いを否定しません。
生物学的に、男性と女性は異なっています。これは明白な事実です。
そして、その生物学的違いが、ある種の心理的・行動的違いをもたらす可能性も、ミルは認めます。
しかし——これが決定的に重要な点ですが——違いは優劣ではありません。
混同の問題
反対論者たちは、この区別を理解していません。
彼らは言います。「男性と女性は違う。したがって、男性が優れている」
この論理は、明らかに飛躍しています。
例を考えてみましょう。
リンゴとオレンジは違います。しかし、どちらが優れているでしょうか?
この質問は無意味です。リンゴにはリンゴの良さがあり、オレンジにはオレンジの良さがあります。
同様に、もし男性と女性に心理的違いがあるとしても、それは優劣を意味しません。
異なる強みの可能性
ミルは、仮説的に論じます。
もしかすると、男性は抽象的・体系的思考に向いているかもしれません。
もしかすると、女性は直観的・総合的思考に優れているかもしれません。
もしかすると、男性は分析に秀で、女性は統合に秀でているかもしれません。
しかし——そしてこれが重要です——これらすべてが正しいとしても、それは優劣を意味しません。
科学には、分析も統合も必要です。
芸術には、技術も感受性も必要です。
社会には、多様な能力が必要なのです。
多様性の価値
ミルは、さらに一歩進めます。
違いは、問題ではなく、利点です。
なぜか?
多様性こそが、社会を豊かにするからです。
すべての人が同じように考えたら、どうなるでしょうか?
新しいアイデアは生まれません。異なる視点からの批判もありません。社会は停滞します。
しかし、異なる視点、異なる能力、異なるアプローチを持つ人々が協力すれば、創造性は飛躍的に高まります。
ミルは言います。
「画一性より多様性の方が、進歩を生む」
現在の損失
現在の制度は、この多様性を抑圧しています。
女性に、特定の役割だけを押し付けることで、女性の多様な才能が無駄にされています。
そして、男性にも特定の役割が期待されることで、男性の可能性も制限されています。
たとえば、感受性豊かな男性が芸術家になりたいと思っても、「男らしくない」として非難されます。
論理的思考に優れた女性が科学者になりたいと思っても、「女らしくない」として阻まれます。
これは、個人の損失であるだけでなく、社会全体の損失なのです。
ミルの理想
ミルの理想は、明確です。
性別に関係なく、各個人が自分の能力と関心に応じて、人生の道を選べる社会。
ある女性は科学者になるでしょう。別の女性は母親として生きることを選ぶでしょう。そしてまた別の女性は、その両方を選ぶでしょう。
ある男性は政治家になるでしょう。別の男性は芸術家になるでしょう。そしてまた別の男性は、家庭で子育てに専念することを選ぶでしょう。
これらすべての選択が、等しく尊重される社会。
これこそが、真に自由な社会なのです。
4. 創造性の抑圧
ミルは、女性の能力の抑圧がもたらす、計り知れない損失を論じます。
芸術における損失
文学の分野で、女性は比較的成功してきました。
なぜか?
文学には、特別な設備も、公的な地位も必要ないからです。紙とペンがあれば、誰でも書けます。
それでも、多くの女性作家が、男性の筆名を使わざるを得ませんでした。ジョージ・エリオット、ジョージ・サンド、カラー・ベルたち(ブロンテ姉妹)。
なぜか?
女性の名前では、作品が真剣に受け取られなかったからです。批評家たちは、女性作家を初めから軽視しました。
音楽の分野では、状況はさらに悪いものでした。
作曲家になるには、音楽理論の高度な訓練が必要です。しかし、女性はこの訓練を受けられませんでした。
演奏家としても、女性は制限されました。公開演奏会に出演することは、「はしたない」とされました。
絵画の分野でも同様です。
美術学校は女性を受け入れませんでした。特に人体デッサンの授業は、「女性には不適切」として閉ざされていました。
つまり、画家になるための基礎訓練を、女性は受けられなかったのです。
科学における損失
科学の分野での損失は、さらに深刻です。
19世紀は、科学が飛躍的に発展した時代でした。物理学、化学、生物学、医学——これらすべての分野で、革命的な発見がなされました。
しかし、女性はこの科学革命から組織的に排除されていました。
大学の科学科は、女性を受け入れませんでした。
研究機関は、女性を雇用しませんでした。
科学学会は、女性の会員資格を認めませんでした。
わずかに科学研究に携わった女性たちは、驚くべき困難と闘わなければなりませんでした。
メアリー・アニング——化石収集家・古生物学者。彼女の発見は科学の進歩に大きく貢献しましたが、科学界から正式に認められることはありませんでした。女性であるというだけの理由で。
マリア・ミッチェル——天文学者。彗星を発見しましたが、当初、その功績は男性に帰されそうになりました。
失われた天才たち
ミルは、痛切な問いを発します。
もし女性が自由だったなら、どれだけの発見があったでしょうか?
どれだけの女性ニュートンが、その才能を発揮する機会を得られなかったのでしょうか?
どれだけの女性シェイクスピアが、沈黙を強いられたのでしょうか?
どれだけの女性ベートーヴェンが、その音楽を世に問う機会を奪われたのでしょうか?
私たちは決して知ることができません。
なぜなら、彼女たちは歴史に名を残すことすらできなかったからです。
人類の損失
これは、女性だけの損失ではありません。
人類全体が、計り知れない損失を被っているのです。
治療できたはずの病気が、治療されませんでした。
解決できたはずの科学的問題が、未解決のままです。
創造されたはずの芸術作品が、存在しません。
発明されたはずの技術が、失われました。
ミルは言います。
「私たちは、人類の知的・創造的可能性の半分を、組織的に抑圧してきた。その損失を計算することは、不可能である」
未来への希望
しかしミルは、悲観的ではありません。
もし今、女性を解放すれば、何が起こるでしょうか?
科学、芸術、文学、哲学——あらゆる分野で、新しい才能が開花するでしょう。
新しい視点、新しいアプローチ、新しいアイデア。これらすべてが、人類の知的財産に加わります。
人類は、ようやく両方の肺で呼吸できるようになるのです。
ミルの結論は、明快です。
女性の能力を抑圧することは、道徳的に間違っているだけでなく、人類全体に対する犯罪です。
それは、私たち自身の可能性を、自分の手で破壊する行為なのです。
第4章「女性解放の社会的利益」
1. 経済的利益
ミルは『女性の解放』の最終章で、女性解放が社会全体にもたらす利益を体系的に論じます。まず経済的側面から始めましょう。
生産性の倍増
ミルの計算は単純明快です。
現在、人口の約半分である女性が、労働市場から組織的に排除されています。
もし女性が完全に労働市場に参加できるようになれば、何が起こるでしょうか?
利用可能な人的資源が、ほぼ倍増します。
これは、社会の生産能力が飛躍的に増大することを意味します。
もちろん、ミルは単純な算術を語っているのではありません。彼が指摘しているのは、より深い問題です。
能力と地位の不一致
現在の制度の最大の非効率は、能力と職業の配分が、性別という無関係な基準で決定されていることです。
ミルは例を挙げます。
ある女性が、優れた数学的才能を持っているとします。しかし彼女は、その才能を発揮する機会を得られません。代わりに、家庭で裁縫をしています。
一方、数学的才能に乏しい男性が、性別というだけの理由で、技術者や会計士として雇用されています。
これは、純粋な資源の浪費です。
経済学の基本原則は、資源を最も効率的に配分することです。しかし性別による排除は、この原則に真っ向から反します。
人的資源の最大活用
ミルは、経済成長の源泉について論じます。
国家の富は、何によって生み出されるでしょうか?
天然資源だけではありません。最も重要なのは、人的資源——人々の知識、技能、創造性です。
19世紀のイギリスが世界をリードできたのは、石炭や鉄があったからだけではありません。それらを活用する、教育された労働力と、革新的な企業家がいたからです。
しかし、人口の半分を教育から排除し、その才能を活用しないことは、経済的自殺行為です。
ミルは指摘します。
「もしイギリスが、茶色の目を持つ人々を労働市場から排除したら、誰もがその愚かさを理解するだろう。しかし、女性を排除することは、それと全く同じことなのだ」
階級による違い
ミルは、重要な観察を加えます。
実際には、貧困家庭の女性はすでに働いています。
工場労働者、家内労働者、家政婦、洗濯女——労働者階級の女性たちは、常に経済活動に参加してきました。
しかし彼女たちは、最も低賃金で、最も過酷な条件で働かされています。
なぜか?
教育を受けられず、技能を身につけられず、より良い仕事への道が閉ざされているからです。
一方、中流階級以上の女性は、働くこと自体が「はしたない」とされています。
彼女たちの多くは、知的能力も教養も持っています。しかし、その能力を経済的に活用する手段がありません。
ミルの提案は明確です。
すべての女性に、能力に応じた職業選択の自由を与えよ。
労働者階級の女性には、教育と訓練の機会を提供し、より良い仕事に就けるようにせよ。
中流階級の女性には、専門職への道を開き、その知的能力を社会のために活用できるようにせよ。
経済的自立の重要性
ミルは、さらに深い点を指摘します。
女性の経済的依存は、女性の従属の根本原因です。
経済的に自立できない女性は、結婚せざるを得ません。そして結婚すれば、夫に完全に依存することになります。
もし女性が自分で生計を立てられるなら、結婚は真に自由な選択になります。暴力的な夫、不誠実な夫から離れることも可能になります。
つまり、経済的自立は、女性の自由の基盤なのです。
ミルの結論:
女性の労働市場への完全な参加は、経済成長を促進するだけでなく、女性の自由の前提条件でもある。これは、経済的にも倫理的にも、不可欠な改革なのです。
2. 道徳的・精神的利益
ミルは次に、女性解放がもたらす道徳的・精神的利益を論じます。
男性の道徳的向上
現在の制度は、男性を堕落させている——これがミルの大胆な主張です。
どういうことでしょうか?
家庭において、男性は専制君主として君臨します。妻は従い、子供たちは服従します。男性の言葉が法であり、男性の意志が絶対です。
この環境で育ち、生きる男性は、何を学ぶでしょうか?
傲慢、独善、他者の意見への無関心。
対話する必要がありません。相手の視点を理解する必要もありません。力があれば、それで十分なのです。
ミルは言います。
「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」
この原則は、国家だけでなく、家庭にも当てはまります。
家庭内で絶対的権力を持つ男性は、道徳的に腐敗します。
対等なパートナーシップの価値
しかし、もし結婚が対等なパートナーシップになったら、何が変わるでしょうか?
男性は、妻を対等な人間として尊重しなければなりません。
意見の相違があれば、対話し、妥協点を見つけなければなりません。
一方的に命令することはできません。相手を説得する必要があります。
これは、男性に何を教えるでしょうか?
謙虚さ、共感、対話の技術。他者の視点を理解する能力。自分の意見が常に正しいわけではないという認識。
つまり、対等な結婚は、男性を道徳的に向上させるのです。
ミルは美しい言葉で表現します。
「真の対等性に基づく結婚においてのみ、男性は完全な人間性を発達させることができる」
女性の精神的成長
女性にとっての利益は、さらに明白です。
現在、女性は従属者として生きています。自分の意見を持つことも、自分の人生を決定することも許されていません。
これは、女性の精神を萎縮させます。
しかし、もし女性が自律的個人として生きられるようになったら?
自分で考え、自分で決定し、自分の能力を発揮する。これは、人間としての完全な発達を意味します。
ミルは指摘します。
「従属状態にある者は、決して完全に人間性を発達させることができない」
奴隷は、主人が期待する行動様式を学びます。しかし、自律的な判断力は育ちません。
女性もまた、従属状態にある限り、真の意味で成長できないのです。
相互的な向上
重要なことに、これは一方的な利益ではありません。
女性の解放は、女性だけでなく男性も高めます。
対等なパートナーとして共に生きることで、両者が精神的に成長します。
妻が知的に成長すれば、夫との対話はより豊かになります。
妻が独立した判断力を持てば、夫はより良い助言を得られます。
妻が自己実現すれば、より幸福になり、それは家庭全体を明るくします。
ミルは、自分とハリエットの関係を、この理想の実例として示しています。
彼らの25年間の知的パートナーシップは、両者を高め合うものでした。ハリエットの洞察がミルの思想を深め、ミルの論理がハリエットの直観を明確化しました。
これこそが、真の結婚の姿だとミルは考えます。
「最高の友情」として、互いに高め合う関係。
3. 民主主義の深化
ミルは、女性解放と民主主義の関係を論じます。これは、政治哲学的に最も深い洞察の一つです。
民主主義の前提
民主主義は、何を前提としているでしょうか?
「自由で平等な市民」の存在です。
民主主義社会では、すべての市民が対等な存在として、政治に参加します。誰も他者を支配せず、誰も他者に支配されません。
しかし、この理想は実現されているでしょうか?
家庭内の専制
ミルは、鋭い矛盾を指摘します。
公的領域では、私たちは平等を唱えています。選挙権の拡大、階級特権の廃止、法の下の平等。
しかし私的領域、すなわち家庭では、何世紀も前と変わらない専制が続いています。
男性は家庭において、絶対的権力を持ちます。妻は従属し、子供たちは服従します。
これは、民主主義の原則と根本的に矛盾します。
ミルは問います。
「どうして、公的には平等を説きながら、私的には専制を受け入れることができるのか?」
矛盾の影響
この矛盾は、民主主義そのものを空洞化させます。
家庭で専制君主として育った男の子は、学校で「すべての人は平等である」と教えられます。
彼は何を学ぶでしょうか?
「平等」という言葉は、建前に過ぎない。現実には、力を持つ者が支配する。
つまり、不平等な家庭は、民主主義の教育を無効化するのです。
逆に、家庭で対等性を経験した子供は、民主主義の真の意味を理解します。
対話、妥協、相互尊重——これらは、家庭で学ばれるべき価値です。
女性の解放は民主主義の完成
ミルの主張は明確です。
女性の解放なくして、民主主義は完成しない。
なぜか?
第一に、人口の半分を政治から排除する社会を、民主主義とは呼べません。
第二に、家庭内に専制が残る限り、真の民主的精神は育ちません。
つまり、女性の解放は、民主主義の論理的帰結なのです。
「私的」と「公的」の虚構
ミルは、さらに深い問題を指摘します。
反対論者は言います。「家庭は私的領域である。政治は介入すべきでない」
しかしミルは反論します。
法律が、妻を夫の所有物と定めている以上、それはすでに「公的」問題です。
国家が、結婚制度を規定し、離婚を制限し、財産権を定めている以上、家庭は純粋な「私的領域」ではありません。
つまり、「家庭は私的だから不可侵」という議論は、欺瞞なのです。
実際には、法と政治が家庭に深く介入しています。ただし、それは男性の利益を守る方向にだけ介入しているのです。
ミルの主張:
「私的領域」の民主化なくして、「公的領域」の民主化はあり得ない。
家庭を民主化することは、民主主義を完成させることです。
女性に政治参加の権利を与えることは、民主主義の原則を一貫して適用することです。
これは、急進的な提案ではありません。それは、民主主義の論理的完成なのです。
4. 人類全体の幸福の増大
ミルは最終的に、功利主義的結論に到達します。
功利主義的計算
功利主義の原則を思い出しましょう。「最大多数の最大幸福」。
ある政策や制度が道徳的に正しいかどうかは、それが社会全体の幸福を増大させるかどうかで判断されます。
では、女性解放は、この基準を満たすでしょうか?
ミルは、体系的に計算していきます。
直接的利益:女性の幸福
まず、女性自身の幸福が増大します。これは明白です。
抑圧から解放され、能力を発揮する機会を得て、対等な人間として尊重される。
人口の半分が、より幸福になる。これだけでも、莫大な利益です。
しかし、利益はこれだけではありません。
間接的利益:男性の幸福
男性も、実は女性解放によって利益を得ます。
どのように?
第一に、道徳的向上による満足感。専制君主として生きるより、対等なパートナーとして生きる方が、道徳的に充実した人生です。
第二に、より深い人間関係。対等な伴侶との関係は、支配-服従の関係よりも、はるかに豊かです。
第三に、家庭の雰囲気の改善。幸福な妻は、家庭を明るくします。
つまり、女性解放は「ゼロサム」ではありません。女性が得をすれば男性が損をする、という関係ではないのです。
むしろ、両者が共に利益を得る「ウィン-ウィン」なのです。
社会全体の活力
社会全体のレベルでも、大きな利益があります。
経済的には、人的資源の完全な活用により、生産性が向上します。
文化的には、芸術、科学、文学における女性の貢献により、創造性が開花します。
政治的には、より広い視点と経験が政策に反映されることで、統治の質が向上します。
社会全体が、より活力に満ち、より創造的になるのです。
次世代への影響
そして最も重要なのは、次世代への影響です。
対等な結婚、民主的な家庭で育った子供たちは、何を学ぶでしょうか?
平等、尊重、対話、協力——これらの価値を、生活の中で体験します。
男の子は、女性を対等な存在として尊重することを学びます。
女の子は、自分が価値ある個人であることを学びます。
この世代が大人になったとき、社会はどう変わるでしょうか?
性別による差別は、過去のものとなるでしょう。
家庭内暴力は、許容されないものとなるでしょう。
すべての人が、性別に関係なく、その能力を発揮できる社会になるでしょう。
功利主義的結論
ミルの計算結果は、明確です。
女性解放は、最大多数の最大幸福をもたらします。
女性の幸福が増大する。 男性の道徳的・精神的幸福が向上する。 子供たちがより良い環境で育つ。 社会全体の活力と創造性が高まる。 次世代に良い影響を及ぼす。
これらすべてを合計すれば、女性解放は、功利主義の観点から見て、最も重要な社会改革の一つです。
最終的な訴え
ミルは、『女性の解放』を力強い訴えで締めくくります。
女性の従属は、単に女性の問題ではありません。
それは、人類全体の問題です。
私たちの半数を抑圧することは、私たち全員を貧しくすることです。
逆に、すべての人を解放することは、すべての人を豊かにすることです。
ミルは言います。
「人類が真に進歩するためには、半数の人々を従属状態に置いておくことはできない。すべての人が自由で平等でなければ、誰も真に自由ではない」
これが、『女性の解放』の最終的メッセージです。
女性解放は、道徳的に正しいだけでなく、すべての人にとって利益をもたらす。
それは、正義であると同時に、知恵なのです。
ミルのフェミニズムの特徴と限界
1. ミルの先進性
まず、ミルの業績の歴史的意義を正当に評価することから始めましょう。
時代を超えた先見性
1869年という時代を、もう一度思い起こしてください。
女性に選挙権はありませんでした。大学は女性を受け入れませんでした。既婚女性には財産権がありませんでした。妻は法的に夫の所有物でした。
この時代に、ミルは「女性と男性は完全に平等であるべきだ」と主張したのです。
これは、単に「先進的」というレベルを超えています。それは、革命的でした。
多くの進歩的知識人でさえ、女性の完全な平等には懐疑的でした。彼らは女性の教育改善には賛成しましたが、女性参政権となると躊躇しました。
ミルは違いました。彼は論理を徹底させました。もし人間の平等が正しいなら、それは性別に関係なく適用されるべきだ、と。
体系的・哲学的論証
ミルの最大の貢献は、感情論や政治的スローガンではなく、厳密な哲学的論証を提供したことです。
『女性の解放』は、次のことを行いました。
第一に、女性の従属が「自然」だという主張を、認識論的に論破しました。私たちは女性の「本性」を知らない。なぜなら、女性は生まれた瞬間から社会化されているから。
第二に、歴史的分析を通じて、女性の従属が力の原理に由来することを示しました。それは正義ではなく、単なる力の行使の結果です。
第三に、功利主義的論証を通じて、女性解放が社会全体の利益になることを証明しました。
第四に、民主主義の論理を徹底させ、その帰結として女性の平等が必然であることを示しました。
これは、女性の権利についての最初の体系的哲学書でした。
運動への影響
ミルの著作は、理論的貢献にとどまりませんでした。
『女性の解放』は、世界中の女性参政権運動に理論的基盤を提供しました。
イギリスでは、ミリセント・フォーセットらの運動家たちが、ミルの議論を武器として使いました。
アメリカでは、スーザン・B・アンソニーやエリザベス・キャディ・スタントンが、この本を「聖書」と呼びました。
フランス、ドイツ、イタリア、北欧諸国——各国の女性運動が、ミルの思想に影響を受けました。
この本は、単なる哲学書ではなく、社会運動のマニフェストとなったのです。
政治的行動
そしてミルは、単なる理論家ではありませんでした。
1865年から1868年まで、彼は下院議員として活動しました。
1867年5月20日、ミルは歴史的な行動に出ます。
選挙法改正案の審議において、彼は修正案を提出しました。法案の「男性(man)」という言葉を「人間(person)」に置き換え、女性にも選挙権を認めるべきだ、という提案です。
議場は騒然となりました。多くの議員が嘲笑しました。しかし、ミルは冷静に、論理的に、女性参政権の必要性を説きました。
採決の結果、賛成73票、反対196票。圧倒的な差で否決されました。
しかし、これは画期的な出来事でした。イギリス議会の歴史上、初めて女性参政権が真剣に議論されたのです。
この行動は、女性参政権運動に大きな弾みを与えました。「もはや、これは狂信者たちの妄想ではない。イギリスを代表する哲学者が、議会で提案した正当な主張だ」と認識されるようになったのです。
歴史的影響
ミルの影響は、彼の死後も続きました。
イギリスで女性が限定的な参政権を得たのは1918年。完全な参政権は1928年。ミルの死から55年後のことです。
しかし、その間の運動を支えた思想的基盤の多くは、ミルに由来していました。
20世紀のフェミニズム運動——第一波、第二波——これらすべてが、何らかの形でミルの遺産を引き継いでいます。
2. ミルの限界と批判
しかし、ミルの思想は完璧ではありませんでした。現代の視点から見ると、いくつかの重要な限界があります。
階級的視点の欠如
ミルの分析は、主に中産階級の女性に焦点を当てています。
彼が論じる「女性の抑圧」は、主に法的・政治的抑圧です。財産権の喪失、選挙権の欠如、高等教育からの排除。
これらは確かに重要な問題です。しかし、これらは主に中産階級以上の女性が直面する問題でした。
労働者階級の女性はどうでしょうか?
彼女たちはすでに働いていました。工場で、畑で、他人の家で。長時間、低賃金、危険な条件下で。
彼女たちにとって、「働く権利」は問題ではありませんでした。問題は、搾取的な労働条件、貧困、栄養不良、過労でした。
ミルは、これらの問題に十分に注意を払っていません。
彼は労働者階級の女性についても言及していますが、彼の主な関心は、中産階級女性の教育と職業選択の自由にあります。
労働の分析の不足
ミルは、女性が労働市場に参加すべきだと主張します。しかし、労働そのものの性質については、深く分析していません。
資本主義的労働が持つ搾取的性格、労働者が直面する疎外——これらの問題は、ミルの視野には入っていません。
後のマルクス主義フェミニストたちは、この点を批判します。
女性が「働く権利」を得ても、その労働が搾取的であれば、真の解放にはならない、と。
女性が家庭での無償労働から、工場での搾取的労働に移行するだけなら、それは解放ではない、と。
「公私の分離」の残存
ミルは、家庭内の不平等を鋭く批判しました。これは、当時としては画期的でした。
しかし、彼は「公私の分離」という枠組み自体は、完全には疑っていません。
ミルの理想的な結婚では、夫婦は対等なパートナーシップを結びます。そして、相互の合意に基づいて、役割を分担します。
ミルは示唆しています。多くの場合、妻が家事と育児の主要な責任を負い、夫が外で働くという分担が、効率的かもしれない、と。
もちろん、ミルはこれを「自由な選択」として想定しています。しかし、ここには問題があります。
第一に、この「選択」は本当に自由でしょうか?社会的圧力、経済的制約、ジェンダー規範——これらすべてが、女性の「選択」を制約しているのではないでしょうか?
第二に、家事労働を女性の主要な役割とする限り、真の平等は達成されません。なぜなら、家事労働は無償であり、社会的に低く評価されているからです。
ジェンダーの本質化
ミルは、男女の「違い」を認めています。
彼は、その違いの多くが社会的に構築されたものだと主張します。これは正しい洞察です。
しかし同時に、ミルは何らかの「本質的な」違いが存在する可能性も認めています。
「男性は抽象的思考に向いているかもしれない」「女性は直観的思考に優れているかもしれない」——このような推測を、ミルは行っています。
現代のジェンダー理論から見ると、これは問題です。
なぜなら、「男性らしさ」「女性らしさ」という概念自体が、社会的に構築されたものだからです。
ミルは、女性を従属させる社会的メカニズムを鋭く分析しました。しかし、ジェンダーそのものを根本的に問い直すところまでは、到達していません。
異性愛の前提
ミルが論じるのは、異性愛的な結婚関係です。
同性間の関係、結婚以外のパートナーシップ——これらは、ミルの視野には入っていません。
これは、19世紀の限界として理解できます。しかし、それは限界であることに変わりありません。
個人主義的アプローチ
ミルのアプローチは、基本的に個人主義的です。
彼は、個人の権利、個人の自由、個人の能力に焦点を当てます。
これは、リベラリズムの伝統に忠実です。しかし、この視点には限界があります。
女性の抑圧は、単に個々の女性の権利が侵害されているという問題ではありません。それは、構造的・システム的な問題です。
家父長制は、単に悪い法律の集まりではありません。それは、社会構造全体に埋め込まれたシステムです。
経済構造、文化的規範、言語、知識生産のメカニズム——これらすべてが、女性の従属を再生産しています。
ミルは、法律や政治制度の改革を提案します。これは重要です。しかし、それだけで十分でしょうか?
3. 現代フェミニズムから見たミル
現代のフェミニズム理論は、ミルをどう評価しているでしょうか?
リベラル・フェミニズムの源流
ミルは、リベラル・フェミニズムの創始者と見なされています。
リベラル・フェミニズムの核心的主張は:
女性と男性は、平等な権利を持つべきである。 法的・政治的障壁を取り除けば、女性は男性と同等に能力を発揮できる。 教育と機会の平等が、解決の鍵である。
これは、まさにミルのアプローチです。
20世紀のリベラル・フェミニスト——ベティ・フリーダン、グロリア・スタイネムら——は、ミルの遺産を引き継いでいます。
「平等な権利」アプローチ
ミルのアプローチは、「平等な権利」に焦点を当てています。
女性に、男性と同じ権利を与えよ。選挙権、教育を受ける権利、職業選択の自由、財産権。
この戦略は、大きな成果を上げました。
20世紀を通じて、多くの国で女性は法的平等を達成しました。これは、ミル的アプローチの勝利です。
しかし、法的平等だけで十分でしょうか?
構造的問題への限界
マルクス主義フェミニストたちは、ミルの限界を指摘します。
彼らの主張:
女性の抑圧は、資本主義システムと深く結びついている。 女性の無償労働(家事・育児)は、資本主義経済を支えている。 法的平等を達成しても、経済的搾取が続く限り、真の解放はない。
たとえば、マーガレット・ベンストンは1969年の論文で、家事労働の経済的性質を分析しました。
女性は、家庭で労働力の再生産を無償で行っている。これは、資本主義経済に莫大な利益をもたらしている。しかし、この労働は「労働」として認識されず、賃金も支払われない。
この構造的問題を解決しなければ、法的平等だけでは不十分だ、と彼女たちは主張します。
ラディカル・フェミニズムの批判
ラディカル・フェミニストたちは、さらに根本的な批判を行います。
彼らの主張:
女性の抑圧の根源は、家父長制そのものにある。 家父長制は、資本主義より古く、より深い。 女性の抑圧は、単に権利の欠如ではなく、身体の支配、セクシュアリティの支配である。
キャサリン・マッキノンは、性的暴力とポルノグラフィーの問題を分析しました。
女性の抑圧の中核は、女性の身体とセクシュアリティの支配にある。選挙権や教育の権利を得ても、この支配が続く限り、真の解放はない。
ミルは、結婚における性的支配の問題に触れています。これは当時としては画期的でした。しかし、ラディカル・フェミニストから見れば、彼の分析は表面的です。
インターセクショナリティの視点
現代のフェミニズムは、インターセクショナリティを重視します。
女性は、性別だけでなく、人種、階級、性的指向、障害の有無など、複数の軸で抑圧を経験する。
これらの抑圧は、単純に「足し算」されるのではなく、複雑に交差する。
たとえば、黒人女性の経験は、「女性の経験」と「黒人の経験」を単純に足したものではありません。それは、質的に異なる経験です。
ミルの分析には、この視点が欠けています。
彼が論じる「女性」は、暗黙のうちに、白人の中産階級女性です。
評価のバランス
では、これらの批判を踏まえて、ミルをどう評価すべきでしょうか?
ミルの限界を認識することは重要です。彼の分析は、19世紀の文脈に制約されています。
しかし同時に、ミルの業績の歴史的重要性を過小評価すべきではありません。
彼は、女性の権利についての体系的な哲学的論証を、初めて提供しました。
彼の議論——特に、「自然」という概念の批判、力の原理と正義の原理の区別、功利主義的論証——これらは、今でも有効です。
現代のフェミニズムは、ミルを乗り越えましたが、ミルの肩の上に立っているのです。
ミルは、出発点でした。そして、すべての偉大な旅は、最初の一歩から始まるのです。
現代的意義
1. 今なお未完の課題
ミルが『女性の解放』を出版してから、150年以上が経ちました。
多くのことが変わりました。1918年、イギリスで女性が部分的に参政権を獲得しました。1928年、完全な参政権が実現しました。
20世紀を通じて、先進国では女性の法的地位が劇的に改善されました。
大学への入学が認められ、専門職への道が開かれ、財産権が保障され、離婚法が改正されました。
法的平等の達成
現代の民主主義国家のほとんどで、法律上の男女平等は達成されています。
憲法は男女平等を保障しています。 雇用差別は違法です。 教育の機会は平等です。 選挙権も被選挙権も、性別に関係なく保障されています。
表面的には、ミルの夢は実現したように見えます。
しかし実質的平等は?
しかし、法的平等と実質的平等は、別のものです。
法律が平等を保障していても、現実の社会では、依然として大きな不平等が存在しています。
ジェンダー賃金格差
OECD諸国の平均で、女性の賃金は男性の約85%です。
日本では、この格差はさらに大きく、女性の賃金は男性の約75%です。
なぜこの格差が存在するのでしょうか?
一部は、職業選択の違いで説明できます。女性は、比較的低賃金の職業に集中する傾向があります。
しかし、同じ職業、同じ職位でも、格差は存在します。
研究によれば、同一労働に対する賃金格差は、依然として10-15%程度あります。
これは、ミルが批判した問題が、形を変えて続いていることを示しています。
家事・育児の不平等な分担
女性の労働市場参加率は、劇的に上昇しました。
しかし、家事と育児の負担は、依然として女性に偏っています。
OECD諸国の調査によれば、女性は男性の約2倍の時間を、無償の家事・育児に費やしています。
つまり、多くの女性が「ダブルシフト」を強いられているのです。日中は職場で働き、夜と週末は家事と育児に追われる。
この状況は、ミルが予見したものです。彼は、法的平等だけでは不十分であり、社会的・文化的な変化が必要だと指摘していました。
政治・経済における女性の過少代表
女性は人口の半分を占めています。しかし、政治的・経済的な意思決定の場では、依然として少数派です。
各国議会における女性議員の割合は、世界平均で約26%です。(2023年時点)
先進国でも、閣僚の女性比率は30%前後です。
企業のトップレベルでは、状況はさらに深刻です。フォーチュン500企業のCEOのうち、女性はわずか10%程度です。
日本では、上場企業の女性役員比率は約9%です。
これは何を意味するでしょうか?
意思決定の場から、女性の視点と経験が組織的に排除されている、ということです。
ミルが指摘したように、これは民主主義の原則に反するだけでなく、社会全体の損失でもあります。
性暴力とハラスメント
2017年の#MeToo運動は、性暴力とハラスメントの蔓延を明らかにしました。
職場、学校、公共空間——あらゆる場所で、女性は性的な嫌がらせや暴力のリスクにさらされています。
WHO(世界保健機関)の調査によれば、世界中で3人に1人の女性が、生涯のうちに身体的または性的暴力を経験します。
家庭内暴力も、依然として深刻な問題です。
ミルが150年前に告発した問題が、今も続いているのです。
法律は改善されました。多くの国で、夫婦間レイプが犯罪として認められるようになりました。DVに対する法的保護も強化されました。
しかし、実際の被害は減っていません。
これは、法改正だけでは不十分であることを示しています。より深い文化的・社会的変化が必要なのです。
ミルの夢は未完
つまり、ミルが目指した真の男女平等は、まだ実現していません。
法的な枠組みは整いました。しかし、実質的な平等は、まだ遠い目標です。
ミルの『女性の解放』は、過去の文献ではありません。それは、現在進行形の課題を論じた書物なのです。
2. ミルの論証の現代的適用
ミルの論証は、150年を経た今も、驚くほど現代的です。
「自然」という言葉の欺瞞性
ミルは、「女性の従属は自然である」という主張を批判しました。
この議論は、今も形を変えて続いています。
現代では、「生物学」や「進化心理学」の名の下に、同じ主張がなされます。
「男性は狩猟者として進化したので、競争的である」 「女性は養育者として進化したので、共感的である」 「これは脳の構造の違いによる」
ミルの反論は、今も有効です。
第一に、私たちは「社会化されていない」人間を観察したことがありません。生まれた瞬間から、人間は社会的・文化的影響を受けています。
第二に、集団内の差異は、集団間の差異よりも大きい。つまり、「男性らしい」女性も、「女性らしい」男性も、無数に存在します。
第三に、たとえ統計的な傾向があったとしても、それは個人の能力や権利を制限する根拠にはなりません。
現代の用語で言えば、ミルは「ジェンダー本質主義」を批判していたのです。
性別によって本質的な特性が決まるという考え方。これは、科学的に支持されていないだけでなく、個人の自由を制限する有害な思想です。
「同意」の問題
ミルは、「女性は従属に同意している」という主張を批判しました。
この洞察も、現代的に重要です。
現代では、「選択」という言葉が使われます。
「女性が家庭に入ることを選択したのだから、問題ない」 「女性が美容整形を選択したのだから、自由だ」 「女性が性産業で働くことを選択したのだから、尊重すべきだ」
しかしミルは問います。その「選択」は、本当に自由なのか?
構造的強制の認識
現代の社会学・フェミニズム理論は、ミルの洞察を発展させています。
「構造的強制」という概念です。
表面的には「選択」に見えても、実際には限られた選択肢の中での選択かもしれません。
例えば、女性が仕事を辞めて育児に専念することを「選択」したとします。
しかしその背景には、以下のような構造的要因があるかもしれません。
- 保育施設の不足
- 男性の育児休暇取得への社会的圧力
- 女性の賃金が男性より低いため、経済的に「合理的」な選択
- 「良い母親」についての文化的期待
これらの構造的要因を無視して、単に「個人の選択」として片付けることは、ミルが批判した欺瞞と同じです。
真の自由とは、構造的制約のない状態での選択です。
機会の平等の重要性
ミルは、機会の平等を強調しました。
「女性ができないと決めつける前に、まず平等な機会を与えよ」
この原則は、今も重要です。
現代では、多くの国で法的な機会の平等は達成されています。しかし、実質的な機会の平等は?
研究によれば、同じ履歴書でも、女性の名前がついていると、採用率が低くなります。
音楽オーケストラが「ブラインド・オーディション」(演奏者が見えない状態での試験)を導入したところ、女性の合格率が大幅に上昇しました。
これは何を意味するでしょうか?
無意識のバイアスが、機会の平等を妨げているということです。
ミルの主張は、今も有効です。真の機会の平等を実現するには、意識的な努力が必要なのです。
多様性が社会を豊かにする
ミルは、多様性の価値を強調しました。
「画一性より多様性の方が、進歩を生む」
この洞察は、現代の組織論・経営学によって実証されています。
多様なチームは、同質的なチームよりも創造的です。
多様な視点は、より良い意思決定につながります。
企業研究によれば、取締役会のジェンダー多様性が高い企業は、業績が良い傾向があります。
科学研究においても、多様なチームの方が、革新的な発見をする可能性が高いことが示されています。
ミルの功利主義的論証は、現代の経験的研究によって裏付けられているのです。
3. グローバルな視点
ミルの思想は、先進国だけでなく、世界中で重要性を持っています。
世界の女性の状況
先進国では、多くの進歩がありました。しかし、世界の多くの地域では、女性は今もミルが批判したのと同じような状況に置かれています。
国連の報告によれば:
- 世界中で約7億5000万人の女性が、18歳未満で結婚しています。
- 多くの国で、女性は夫の許可なしに働けません。
- 一部の国では、女性は単独で旅行できません。
- 女性への暴力が、法的に不十分にしか保護されていない国が多数あります。
教育の機会も、依然として不平等です。
- 世界中で約1億3000万人の女子が学校に通えていません。
- 一部の地域では、女子の初等教育就学率が50%未満です。
ミルの論証の普遍的有効性
ミルの論証は、これらの状況に直接適用できます。
「女性の従属は文化的伝統である」という主張に対して、ミルは反論しました。
かつて奴隷制も封建制も「伝統」でした。しかし、伝統であることは、それが正義であることを意味しません。
「女性は教育を必要としない」という主張に対して、ミルは反論しました。
教育を与えられなかった人々の能力を、どうやって判断できるのか?実験すらしていないではないか。
「女性の解放は西洋の価値観である」という主張に対して、ミルは反論するでしょう。
自由と平等は、文化を超えた人間の普遍的価値です。すべての人間は、性別に関係なく、尊厳と権利を持っています。
経済発展との関連
重要なことに、ミルの功利主義的論証は、現代の経済研究によって実証されています。
世界銀行、IMF、国連の研究すべてが、同じ結論に達しています。
女性の教育・健康・権利への投資は、経済発展を促進する。
具体的なデータを見てみましょう。
女性の識字率が10%上昇すると、GDPは平均0.3%増加します。
女性の労働参加率が男性と同等になれば、世界のGDPは約26%増加すると推定されています。
女性の健康への投資は、次世代の健康と教育水準を向上させます。
これは、ミルが150年前に主張したことの、実証的確認です。
人口の半分の才能を無駄にすることは、経済的に非効率である。
女性の能力を完全に活用することは、社会全体の繁栄をもたらす。
グローバルな女性運動
ミルの『女性の解放』は、19世紀の女性参政権運動に影響を与えました。
そして今、その思想は、グローバルな女性の権利運動を支えています。
マララ・ユスフザイは、女子教育の権利を訴えて、ノーベル平和賞を受賞しました。彼女の主張は、ミルの論証と響き合っています。
「一人の子ども、一人の教師、一冊の本、そして一本のペンが、世界を変えられる」
世界中で、女性たちが権利のために闘っています。
サウジアラビアで、女性が運転する権利を勝ち取りました。
インドで、女性が夜間外出禁止令に抗議しています。
イランで、女性がヒジャブ着用の強制に抵抗しています。
これらすべての運動の背後には、ミルが表明した基本的な原則があります。
すべての人間は、性別に関係なく、自由と平等の権利を持っている。
未来への希望
ミルが『女性の解放』を書いてから150年。
多くの進歩がありました。しかし、道のりは長い。
先進国でも、実質的平等は実現していません。
世界の多くの地域では、基本的な権利さえ保障されていません。
しかし、方向性は明確です。
歴史の流れは、平等に向かっています。
ミルは、この流れを予見していました。彼は、人類の進歩を信じていました。
文明の進歩とは、力の原理から正義の原理への移行である、と。
奴隷制は廃止されました。
封建制は崩壊しました。
そして今、性別による不平等も、徐々に解消されつつあります。
道のりは長く、困難です。しかし、ミルの言葉は、今も私たちを導いています。
「真理を持つ者が一人でもいる限り、それは最終的に勝利する」
『女性の解放』は、過去の書物ではありません。
それは、現在の闘いの指針であり、未来への希望なのです。


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