【完全解説】ホッブズ『リヴァイアサン』|人類最強の”怪物国家”はこうして生まれた【政治哲学の名著】

哲学

こんにちは。じじグラマーのカン太です。
週末プログラマーをしています。

今回も哲学書の解説シリーズです。今回は、ホッブズの名著『リヴァイアサンを取り上げます。この本は1651年に出版されて以来、370年以上にわたって世界中の思想家、政治家、そして私たち一般市民に影響を与え続けている、まさに不朽の名著です。

  1. はじめに
    1. 「リヴァイアサン」って何?巨大な怪物の正体
    2. なぜこの本が現代でも重要なのか
    3. ホッブズってどんな人?(1588-1679年の激動の時代背景)
  2. 第一部:人間論の核心を理解しよう
    1. ホッブズの人間観
      1. 人間は機械?感覚と想像力の仕組み
      2. 言語の力:人間だけが持つ特別な能力
      3. 理性とは何か:計算する心
    2. 人間の本性を解剖
      1. 欲望こそが人間の原動力
      2. 権力への意志:なぜ人は権力を求めるのか
      3. 宗教と迷信:恐怖から生まれる信念
  3. 第二部:恐怖の自然状態とは?
    1. 「万人の万人に対する闘争」
      1. 自然状態の3つの争いの原因(競争・不信・名誉)
      2. なぜ戦争状態が生まれるのか
      3. 「この状態では正義も不正義もない」の真意
    2. 自然権と自然法
      1. 自然権:生存のためなら何でもできる権利
      2. 19の自然法:平和への道筋
      3. 黄金律の哲学的解釈
  4. 契約の理論
      1. なぜ契約が必要なのか
      2. 契約の履行を保証するものは何か
      3. 社会契約論の革命的アイデア
  5. 第三部:国家(コモンウェルス)の誕生
    1. リヴァイアサンの正体
      1. 人工的な人間としての国家
      2. 主権者の誕生:授権による統治
      3. なぜ絶対主権が必要なのか
  6. 主権の権利と義務
      1. 主権者の持つ18の権利
      2. 臣民の自由の限界
      3. 抵抗権は存在するのか?
    1. 国家の3つの形態
      1. 民主政・貴族政・君主政の比較
      2. なぜホッブズは君主制を推奨するのか
      3. 代表制の理論
  7. 第四部:宗教と政治の関係
    1. キリスト教国家論
      1. 宗教的権威と世俗的権威の統合
      2. 教会と国家の理想的関係
      3. 預言と奇跡の政治的意味
    2. 「闇の王国」批判
      1. カトリック教会への痛烈な批判
      2. 迷信と無知がもたらす混乱
      3. 真の宗教とは何か
  8. 現代への影響と批判的検討
    1. リヴァイアサンの遺産
      1. 現代民主主義への影響
      2. 国際関係論での応用
      3. 社会契約論の発展
    2. 批判と反論
      1. ロックやルソーからの批判
      2. 現代哲学者からの評価
      3. ホッブズ像の変遷
    3. 現代社会との接点
      1. コロナ禍と緊急事態:ホッブズ的な状況?
      2. AI時代の主権論
      3. グローバル化時代の「自然状態」
  9. まとめ:リヴァイアサンから学ぶこと
    1. ホッブズの核心メッセージの再確認
    2. 現代人が『リヴァイアサン』から得られる教訓

はじめに

『リヴァイアサン』—この奇妙なタイトルを聞いて、皆さんは何を想像するでしょうか?怪獣映画に出てきそうな巨大な怪物?それとも何か神秘的な存在?実は、この「リヴァイアサン」こそが、私たちが毎日その中で生活している「国家」そのものを表しているのです。

「リヴァイアサン」って何?巨大な怪物の正体

「リヴァイアサン」という言葉は、もともと旧約聖書に登場する海の怪物の名前です。ヨブ記や詩篇に描かれるこの巨大な海竜は、神によって創造された最も強大で恐ろしい生き物とされていました。ホッブズは、なぜこの古代の怪物の名前を自分の政治哲学書のタイトルに選んだのでしょうか?

ホッブズにとって、リヴァイアサンとは「人工的な人間」、つまり国家のことでした。彼は国家を、無数の個人が結合してできた一つの巨大な身体として捉えたのです。想像してみてください—何千万、何億という人々の意志が一つに統合され、一つの巨大な人格として振る舞う存在。それが現代の私たちが「国家」と呼んでいるものの正体です。

この発想は当時としては革命的でした。それまで国家は、神から授けられた王の権威や、古くからの伝統によって正当化されることが多かったのです。しかしホッブズは全く違うアプローチを取りました。彼は言います:「国家とは人間が人工的に作り出した最大の芸術作品である」と。

ホッブズが描いた有名な『リヴァイアサン』の表紙絵を見ると、王冠を被った巨人が剣と司教杖を持って立っています。よく見ると、この巨人の体は無数の小さな人間たちで構成されているのがわかります。これこそが、ホッブズの国家観を視覚的に表現した傑作なのです。

なぜこの本が現代でも重要なのか

「なぜ17世紀の本が今でも重要なのか?」そう疑問に思われる方もいるでしょう。しかし、『リヴァイアサン』で扱われているテーマは、驚くほど現代的なのです。

まず、コロナパンデミックを思い出してください。各国政府は緊急事態宣言を発令し、私たちの移動や集会の自由を制限しました。多くの人が「政府にそんな権限があるのか?」「個人の自由よりも公共の安全が優先されるのか?」という疑問を抱いたはずです。これらの問題について、ホッブズは350年以上前に深く考察していたのです。

また、現代の国際関係を見てください。国家間には上位の権威が存在せず、各国は自国の利益を最優先に行動します。時には軍事力を背景とした威嚇や実際の武力行使も起こります。この状況を、ホッブズは「万人の万人に対する戦争状態」として分析しました。ウクライナ情勢、中東の紛争、貿易戦争—これらすべてがホッブズの理論で説明できる現象なのです。

さらに、AI技術の発展による雇用の変化、格差社会の拡大、フェイクニュースの蔓延など、現代社会の混乱の多くは、ホッブズが描いた「自然状態」の特徴と重なる部分があります。つまり、『リヴァイアサン』は単なる歴史的文献ではなく、現代を生きる私たちにとっての実用的な分析ツールなのです。

ホッブズってどんな人?(1588-1679年の激動の時代背景)

トーマス・ホッブズは1588年、エリザベス1世の治世下のイングランドに生まれました。興味深いことに、彼の母親は、スペインの無敵艦隊がイングランドに接近しているという知らせを聞いて、恐怖のあまり早産でホッブズを産んだと言われています。ホッブズ自身も後に「母は恐怖と一緒に双子を産んだ—私と恐怖を」と語っています。この逸話は、彼の人生と思想を象徴するものかもしれません。

ホッブズの生涯は、まさに激動の時代でした。彼が生きた91年間に、イングランドでは王政復古、清教徒革命、チャールズ1世の処刑、共和政治、そして再び王政復古と、政治体制が目まぐるしく変化しました。彼はこの政治的混乱を身をもって体験し、時には亡命を余儀なくされることもありました。

若い頃のホッブズは、貴族の家庭教師として働き、何度もヨーロッパ大陸を旅行しました。パリではルネ・デカルトと交流し、イタリアではガリレオ・ガリレイと面会しました。これらの体験により、彼は当時最先端の科学的思考法を身につけることができたのです。

特に重要なのは、1640年代のイングランド内戦の経験です。国王派と議会派に分かれた血みどろの戦いを目の当たりにしたホッブズは、政治的権威の分裂がいかに恐ろしい結果をもたらすかを痛感しました。彼にとって内戦は、人間社会が「万人の万人に対する戦争状態」に陥った実例だったのです。

この時期、ホッブズはパリに亡命し、そこで『リヴァイアサン』の執筆に取り組みました。フランスの宮廷で、後のチャールズ2世の数学教師を務めながら、彼は人間の本性と政治の根本原理について深く考察を重ねたのです。

ホッブズの思想は、単なる書斎での思索の産物ではありません。それは、戦争、革命、亡命という壮絶な人生経験から生まれた、血と涙の結晶なのです。だからこそ、『リヴァイアサン』には単なる理論を超えた、リアルな人間社会への洞察が込められているのです。

現代を生きる私たちも、パンデミック、経済危機、国際紛争など、様々な不安定要素に直面しています。そんな時代だからこそ、混乱の時代を生き抜いたホッブズの知恵に学ぶ意義があるのではないでしょうか。

それでは、この偉大な思想家が人生をかけて追求した「人間とは何か」「国家とは何か」という根本的な問いに、一緒に向き合っていきましょう。

第一部:人間論の核心を理解しよう

ホッブズの人間観

人間は機械?感覚と想像力の仕組み

ホッブズの『リヴァイアサン』は、衝撃的な一文から始まります。「自然とは、神の技術によって作られ、統治される人間の身体の技術である」—つまり、人間も自然も、すべては巧妙に設計された機械だというのです。

これは当時としては極めて革命的な発想でした。17世紀のヨーロッパでは、人間には神から与えられた特別な魂があり、それが動物や機械とは根本的に違う存在にしていると考えられていました。しかしホッブズは、ガリレオやデカルトの科学革命の影響を受けて、全く違うアプローチを取りました。

ホッブズによれば、人間の心の働きはすべて物理的な運動で説明できます。彼はこう説明します:外界の物体が私たちの感覚器官を押し、その圧力が神経を通って脳に伝わる。この物理的な運動こそが、私たちが「感覚」と呼んでいるものの正体なのです。

例えば、あなたが赤いリンゴを見ているとき、実際に起こっているのは次のような過程です。リンゴの表面で反射された光の波が、あなたの目の網膜を刺激する。この刺激が電気信号として視神経を通って脳に送られ、脳がこの信号を「赤い色」として解釈する。つまり、「赤さ」という性質はリンゴ自体に存在するのではなく、あなたの脳が作り出した主観的な経験なのです。

この考え方は現代の脳科学や認知科学の基礎となっています。ホッブズは350年以上前に、現代科学が証明したことを哲学的直観で見抜いていたのです。

さらにホッブズは、想像力についても機械論的に説明します。想像とは、感覚経験の「残響」のようなものです。鐘を鳴らした後もしばらく音が響くように、感覚経験も脳の中で「減衰する運動」として残り続けます。これが記憶であり、想像なのです。

ホッブズはこの理論を使って、夢や幻覚も説明しました。眠っているとき、外からの感覚刺激が弱くなるため、脳内に残っている過去の感覚の残響が相対的に強く感じられる。これが夢の正体だというのです。現代の睡眠科学が解明したレム睡眠中の脳活動のメカニズムを、ホッブズは機械論的思考だけで予見していたのです。

言語の力:人間だけが持つ特別な能力

しかし、ホッブズは人間を単なる機械として見ていたわけではありません。彼は人間と動物を区別する決定的な要素を見つけていました。それが言語です。

ホッブズによれば、言語は人間だけが持つ「最も崇高な発明」です。なぜなら言語によって、人間は単なる個別の感覚経験を超えて、抽象的で普遍的な概念を操ることができるようになったからです。

動物も感覚や記憶、さらには簡単な学習能力を持っています。犬は散歩の時間を覚えているし、鳥は危険を察知して仲間に警告することもできます。しかし、動物には「正義」「美」「真理」といった抽象概念を理解し、操作する能力がありません。

言語の最も重要な機能は「記号」としての働きです。「正義」という単語は、無数の具体的な正義に関する経験や判断を一つの記号に圧縮したものです。この記号を使うことで、人間は複雑な思考を効率的に行うことができます。

ホッブズは言語の持つ四つの機能を挙げています。

第一に、思考の記録機能です。言語があることで、人間は自分の考えを言葉として外部化し、記憶に留めることができます。これにより、個人の経験を超えた知識の蓄積が可能になります。

第二に、コミュニケーション機能です。言語によって、一人の人間が持つ知識や感情を他の人間と共有することができます。これが社会的協力の基盤となります。

第三に、意志の表明機能です。人間は言語を使って自分の欲求や意図を他者に伝えることができます。「私はこれが欲しい」「あなたにこうしてほしい」といった意思疎通が可能になるのです。

第四に、娯楽機能です。人間は言語を使って詩や物語を創造し、それを楽しむことができます。これは生存に直接関係ない、人間特有の活動です。

しかし、ホッブズは言語の負の側面も見逃していませんでした。言語があることで、人間は嘘をつくことができるようになりました。また、実在しないものについても語ることができるため、迷信や偏見も生まれやすくなったのです。

理性とは何か:計算する心

では、人間の理性とは何でしょうか?従来の哲学では、理性は神的な能力として神秘化されがちでした。しかしホッブズは、理性についても徹底的に機械論的な説明を与えます。

ホッブズにとって理性とは、「計算」に他なりません。ここで言う計算とは、単なる数学的計算だけではありません。より広く、「加算と減算」を意味します。つまり、概念を組み合わせたり(加算)、分解したり(減算)する心的操作のことです。

例えば、「人間は理性的動物である」という命題を考えてみましょう。これは「人間」という概念に「理性的」という性質を加算したものと見ることができます。逆に「この行為は不正義ではない」という判断は、ある行為から「不正義」の性質を減算したものです。

この計算的な理性観は、現代のコンピューター科学やAI研究の先駆けとも言えます。実際、ホッブズは「推論とは計算である」と明言し、将来的には機械による推論も可能になるだろうと予見していました。

ただし、ホッブズの理性観には重要な限界があります。理性は「手段」を見つけることはできますが、「目的」を決めることはできません。理性は「もしあなたがXを達成したいなら、Yをすべきだ」と教えてくれますが、「あなたはXを欲求すべきだ」とは教えてくれないのです。

これは現代の意思決定理論や行動経済学とも通じる洞察です。人間の行動の原動力は、最終的には理性ではなく情動—ホッブズの用語では「情念」—にあるというのです。

ホッブズは数学を理性の最も完璧な形として賞賛しました。なぜなら数学では、出発点となる定義や公理が明確で、そこから論理的に結論を導き出すことができるからです。彼は政治学や倫理学も、数学のような精密さを持つことができると考えていました。

しかし同時に、ホッブズは理性の限界も認識していました。人間の理性は完全ではなく、誤りを犯しやすいものです。特に、個人の利害や感情が絡むと、理性は簡単に歪められてしまいます。「人間は、自分の情念に反する結論を受け入れることはない」とホッブズは鋭く指摘しています。

この理性観は、後の政治理論に重要な影響を与えました。もし個々人の理性が不完全で偏見に満ちているなら、政治的決定はどのように行われるべきなのか?この問題が、ホッブズの国家論の出発点となるのです。

ホッブズが描く人間像は、一見すると冷たく機械的に見えるかもしれません。しかし実際には、これは人間の可能性と限界を同時に見据えた、極めてバランスの取れた人間観なのです。人間は言語と理性によって動物を超越した存在になったが、同時に新たな問題—嘘、迷信、偏見—も抱え込むことになった。この両面性こそが、ホッブズの政治哲学の出発点なのです。

人間の本性を解剖

欲望こそが人間の原動力

ホッブズは人間の心の機械論的分析を踏まえて、次に人間を動かす根本的な力について探究します。彼の結論は明快でした:人間のすべての行動は、最終的に「欲望」と「嫌悪」という二つの基本的な情念によって決定されるというのです。

ホッブズによれば、欲望(appetite)とは、対象に向かう運動を促進する内的な動きです。一方、嫌悪(aversion)は、対象から遠ざかる運動を促進します。これらは生理学的な現象であり、心臓の動きを助ける「生命運動」の一部なのです。

重要なのは、ホッブズが欲望を道徳的に中性なものとして捉えていることです。従来のキリスト教的世界観では、欲望は罪の源泉として否定的に見られがちでした。しかしホッブズは、欲望こそが人間の生命活動の核心であり、欲望なくして人間は存在できないと主張します。

「善」と「悪」についてのホッブズの定義は革命的です。彼は言います:「善とは、各人が欲望する対象のことであり、悪とは各人が嫌悪する対象のことである」。つまり、絶対的で普遍的な善悪は存在せず、すべての価値判断は個人の欲望と嫌悪に相対的なものなのです。

この相対主義的な価値観は、現代の我々にとっても衝撃的です。例えば、ある人にとって「自由」は最高の善かもしれませんが、別の人にとっては「秩序」の方が重要かもしれません。ホッブズは、このような価値観の多様性と対立こそが、政治的問題の根源にあると見抜いていたのです。

ホッブズは人間の欲望の特徴をさらに詳しく分析します。動物の欲望は主に生存と繁殖に関わる基本的なものですが、人間の欲望はもっと複雑です。人間は「想像力」を持つがゆえに、現在目の前にないものについても欲望を抱くことができます。未来への不安、過去への郷愁、あるいはまだ見ぬ理想への憧れ—これらすべてが人間特有の欲望なのです。

さらに、人間は「比較」によって欲望を抱きます。絶対的な豊かさよりも、他者との相対的な地位を気にする。これが後に説明する「競争」という争いの原因につながっていくのです。現代の消費社会における「見栄」や「ステータス消費」も、まさにホッブズが指摘した人間の性質そのものです。

ホッブズは欲望の「無限性」についても洞察しています。人間の欲望には最終的な満足点がありません。一つの欲望が満たされても、すぐに新しい欲望が生まれます。「人生とは、欲望から欲望への絶え間ない運動である」—この有名な言葉は、現代の消費主義社会の本質を見事に言い当てています。

権力への意志:なぜ人は権力を求めるのか

ホッブズの人間分析で最も鋭い洞察の一つが、「権力」に対する考察です。彼によれば、すべての人間は本質的に権力を求める存在です。しかしここで言う「権力」とは、単に他者を支配することではありません。

ホッブズは権力を「将来の何らかの善を獲得するための現在の手段」と定義します。つまり権力とは、自分の欲望を実現するための能力のことなのです。これには物理的な力だけでなく、富、知識、友人関係、評判なども含まれます。

なぜ人間は権力を求めるのでしょうか?ホッブズの答えは明快です:将来への不安があるからです。人間は想像力を持つがゆえに、まだ起こっていない危険や困難について心配することができます。そして、そうした未来の脅威に備えるために、より多くの権力—つまりより多くの手段—を確保しようとするのです。

この心理は現代人にも身近なものです。なぜ人々は貯金をするのでしょうか?将来の病気や失業に備えるためです。なぜ資格を取ったり、人脈を作ったりするのでしょうか?将来のキャリアに役立つかもしれないからです。すべては不確実な未来への備えなのです。

しかし、ここに根本的なジレンマがあります。すべての人が権力を求めるということは、必然的に競争が生じるということです。Aさんが求める権力と、Bさんが求める権力が同じものだった場合、両者は競争相手になります。しかも、権力には「相対的」な側面があります。他者より優位に立つことで初めて意味を持つ権力もあるのです。

ホッブズは権力を様々な種類に分類します。「自然的権力」には腕力、美貌、知的能力などが含まれます。「道具的権力」には富、評判、友人、運などがあります。これらの権力は相互に関連し合い、一つの権力が他の権力を生み出すこともあります。

特に興味深いのは、ホッブズが「評判」や「名誉」を重要な権力として位置づけていることです。現代のSNS社会で「いいね」の数や フォロワー数を気にする現象も、まさにホッブズが分析した「評判への欲求」そのものです。

ホッブズはまた、権力競争の「無限性」についても指摘します。十分な権力というものは存在しません。なぜなら、権力とは相対的なものであり、他者も権力を求めて競争しているからです。Aさんが権力を増やせば、相対的にBさんの権力は減少します。するとBさんも対抗して権力を増やそうとします。この競争には終わりがないのです。

現代の軍拡競争や、企業間の技術開発競争、さらには個人レベルでの学歴競争なども、すべてホッブズが描いた権力競争の構造と同じです。誰もが安全を求めて競争するのですが、その競争自体が新たな不安と競争を生み出すという悪循環に陥るのです。

宗教と迷信:恐怖から生まれる信念

ホッブズの人間分析は、宗教という人間特有の現象にも及びます。彼の宗教論は当時としては極めて大胆で、現代でも議論を呼ぶものです。

ホッブズによれば、宗教の起源は「恐怖」にあります。具体的には、未来に対する不安と、原因のわからない現象への困惑が宗教を生み出すのです。人間は想像力を持つため、動物にはない独特の不安を抱えています。「明日はどうなるのか?」「なぜこの災害が起こったのか?」「死んだ後はどうなるのか?」こうした疑問への答えを求めて、人間は神々や超自然的な力を想定するようになったというのです。

ホッブズは宗教を二つの種類に分けます。一つは「自然宗教」で、これは個人の理性と経験から生まれる神への信念です。もう一つは「預言的宗教」で、これは神からの直接的な啓示に基づくとされる宗教です。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などがこれに当たります。

興味深いことに、ホッブズは自然宗教については比較的肯定的です。宇宙の秩序や生命の神秘を見て、何らかの創造者の存在を推論するのは理性的な行為だと考えているのです。しかし問題は、人間がこの抽象的な神概念に具体的な性質を付け加えようとすることです。

「神は善である」「神は正義である」「神はこの儀式を好む」—こうした具体的な属性を神に付与することで、宗教は迷信へと堕落するとホッブズは警告します。なぜなら、無限で永遠の存在である神について、有限で時間的な人間が具体的なことを語ることは、論理的に不可能だからです。

ホッブズの宗教批判は、特に「奇跡」と「預言」に向けられます。彼は奇跡を「自然の法則に反する現象」と定義した上で、真の奇跡を見分けることの困難さを指摘します。ある現象が奇跡なのか、それとも単に私たちがまだ知らない自然法則の働きなのかを、どうやって判断できるのでしょうか?

預言についても、ホッブズは懐疑的です。ある人が「神から啓示を受けた」と主張したとき、それが真実かどうかを他の人間はどうやって確認できるのでしょうか?結局のところ、預言の真偽を判断するのは人間の理性と経験しかないのです。

しかし、ホッブズは宗教を単純に否定しているわけではありません。彼が批判するのは、宗教が政治的権力と結びついて人々を支配する手段として使われることです。宗教指導者が「神の意志」を名乗って世俗的権力に介入することを、彼は強く警戒しています。

ホッブズは迷信の社会的危険性についても詳しく分析します。迷信は人々の理性を曇らせ、根拠のない恐怖や憎悪を煽ります。魔女狩り、宗教戦争、排外主義—これらすべてが迷信の産物だとホッブズは考えていました。現代のフェイクニュースや陰謀論の拡散も、まさにホッブズが警告した迷信の現代版と言えるでしょう。

興味深いことに、ホッブズは迷信と学問の類似性についても指摘しています。どちらも「見えない力」の存在を前提としています。学問は自然法則という見えない力を、迷信は霊や魔力といった見えない力を想定します。違いは、学問の場合は経験と理性による検証が可能だが、迷信の場合はそれができないことです。

ホッブズの宗教論は、現代の政教分離の原則にも通じています。彼は宗教を完全に否定するのではなく、宗教と政治の適切な関係を模索していたのです。宗教は個人の内心の領域にとどまるべきであり、公的な政治判断に介入すべきではないという考えは、現代民主主義の基本原則となっています。

このように、ホッブズの人間分析は極めて包括的で現代的です。人間を欲望に駆られ、権力を求め、不安と恐怖に支配される存在として描きながらも、同時に言語と理性という素晴らしい能力を持つ存在として評価しています。この複雑で矛盾に満ちた人間像こそが、彼の政治理論の出発点となるのです。

第二部:恐怖の自然状態とは?

「万人の万人に対する闘争」

自然状態の3つの争いの原因(競争・不信・名誉)

ホッブズは人間の本性を分析した後、次に決定的な思考実験を提示します。もし政府や法律、社会制度が一切存在しない状態で人間が生活したら、どのようなことが起こるでしょうか?これが「自然状態」の思考実験です。

ホッブズの結論は暗澹たるものでした。そのような状態では、「万人の万人に対する戦争」(bellum omnium contra omnes)が生じるというのです。この有名なフレーズは、人類史上最も影響力のある政治哲学の概念の一つとなりました。

しかし、なぜこのような悲惨な状況が生まれるのでしょうか?ホッブズは人間の争いの原因を三つに絞り込みます:競争(competition)、不信(diffidence)、名誉(glory)です。

まず「競争」について見てみましょう。前章で説明したように、人間はすべて権力を求める存在です。しかし、多くの財や資源は希少性を持っています。美味しい食べ物、住みやすい土地、魅力的な配偶者—これらを二人の人間が同時に完全に所有することはできません。自然状態では、こうした希少な財をめぐって人々は必然的に競争することになります。

現代社会でも、この競争原理は至る所で見られます。就職活動、大学受験、不動産の取得、恋愛関係—すべて希少な「良いもの」をめぐる競争です。違いは、現代では法律やルールがこの競争を規制していることです。しかし自然状態では、そうした規制は存在しません。

ホッブズは人間の「平等性」についても重要な指摘をしています。一見すると、人間には能力の差があるように思えます。しかし、知力や体力の差を総合的に考慮すると、人間は驚くほど平等だというのです。最強の人間でも、最弱の人間に殺される可能性があります。眠っているときに襲われたり、複数人で協力されたり、毒を盛られたりすれば、どんなに強い人でも死んでしまいます。

この平等性こそが、競争を激化させる要因なのです。もし人間に圧倒的な能力差があれば、弱者は最初から諦めて強者に服従するかもしれません。しかし、「勝てる可能性がある」と思うからこそ、人々は競争に参加するのです。

第二の原因である「不信」は、さらに根深い問題です。自然状態では、他者の意図を確実に知る方法がありません。あなたの隣人が友好的に振る舞っていても、それが本心なのか、それとも油断させるための演技なのかを判断することは困難です。

ホッブズは「先制攻撃」の論理を説明します。Aさんが「Bさんは私を攻撃するかもしれない」と思ったとき、最も合理的な行動は何でしょうか?それは、Bさんに攻撃される前に、先にBさんを攻撃することです。なぜなら、相手の攻撃を受けてから反撃するよりも、先に攻撃した方が勝利の確率が高いからです。

しかし、この論理は恐ろしい結果を招きます。Bさんも同じことを考えているかもしれません。「Aさんが私を攻撃する前に、先にAさんを攻撃しよう」と。このように、実際には誰も攻撃する意図がなくても、相互不信が先制攻撃を合理化してしまうのです。

これは現代の国際関係でも見られる現象です。「安全保障のジレンマ」と呼ばれるこの状況では、各国が自国の安全のために軍備を増強するのですが、それが他国の不安を招き、軍拡競争が加速してしまいます。冷戦時代の米ソ関係や、現在の核拡散問題も、このメカニズムで説明できます。

第三の原因である「名誉」(glory)は、現代人にはやや理解しにくいかもしれません。しかしホッブズの時代、そして現代でも、人間は物質的な利益以上に「尊敬」や「評判」を重視することがあります。

名誉をめぐる争いの特徴は、それがゼロサムゲームだということです。つまり、Aさんの名誉が上がれば、相対的にBさんの名誉は下がってしまいます。食べ物なら分け合うことができますが、「最も勇敢な人」という称号は一人しか持てません。

ホッブズは、人間が些細なことで争う理由をここに見出します。現代でも、SNSでの「炎上」、スポーツファン同士の対立、学歴や職業をめぐるマウンティングなど、実質的な損得とは関係ない名誉や面子をめぐる争いは数多く存在します。

なぜ戦争状態が生まれるのか

ホッブズは「戦争」を独特の方法で定義します。戦争とは、実際に戦闘が行われている状態だけを指すのではありません。「戦う意志が十分に知られている限り、時間の継続するすべての期間」が戦争状態なのです。

この定義は現代的に言えば「冷戦」状態を含んでいます。実際の武力衝突がなくても、いつでも戦闘が始まりうる緊張状態が続いていれば、それは戦争なのです。現在の朝鮮半島や台湾海峡の状況も、ホッブズ的な意味での戦争状態と言えるでしょう。

自然状態で戦争状態が生まれる根本的な理由は、「共通の権力の不在」にあります。人々の間に争いが生じたとき、それを裁定し、強制力をもって解決する上位の権威が存在しないのです。

想像してみてください。あなたと隣人の間で土地の境界をめぐって争いが起こったとします。現代社会なら、裁判所に訴えて法的に解決することができます。しかし自然状態では、そのような第三者的権威は存在しません。結局、力の強い方が勝つことになります。

しかし、一度の勝利で問題が終わるわけではありません。敗者は復讐の機会を狙うでしょうし、勝者もいつ報復されるかわからないという不安を抱え続けます。このように、個々の争いが連鎖反応を起こし、全体的な戦争状態が形成されるのです。

ホッブズは自然状態を「すべての人がすべての人に対して敵である」状態として描写します。これは、人間が本質的に邪悪だからではありません。むしろ、各人が合理的に自己保存を追求した結果として、このような状況が生まれるのです。

現代の例で言えば、大規模災害後の無政府状態がこれに近いかもしれません。普段は法を遵守する善良な市民でも、警察や政府の権威が機能しなくなると、略奪や暴力が発生することがあります。これは人間の本性が突然悪になったからではなく、制度的な制約がなくなったからなのです。

「この状態では正義も不正義もない」の真意

ホッブズの最も衝撃的な主張の一つが、「自然状態においては、正義も不正義も存在しない」というものです。この主張はしばしば誤解されますが、ホッブズは決して道徳虚無主義者ではありません。

ホッブズの論理を理解するためには、彼の「正義」の定義を知る必要があります。ホッブズにとって正義とは、「契約を守ること」です。逆に不正義とは「契約を破ること」です。この定義から論理的に導かれるのは、契約が存在しない状態では、正義も不正義も存在しないということです。

自然状態では、確実に履行される契約を結ぶことができません。なぜなら、契約を強制する権力が存在しないからです。Aさんが「明日あなたに食料を渡す」とBさんに約束しても、実際に渡すかどうかはAさんの自由意志に委ねられています。もしAさんが約束を破っても、Bさんにはそれを強制する手段がありません。

このような状況では、契約を結ぶこと自体が不合理になります。相手が約束を守る保証がないのに、なぜ自分だけ約束を守る必要があるのでしょうか?結果として、自然状態では有効な契約が成立せず、したがって契約違反としての「不正義」も存在しなくなるのです。

ただし、これは「自然状態では何をしても許される」ということではありません。ホッブズは「自然法」という道徳的規則の存在を認めています。自然法は「平和を求めよ」「契約を守れ」「感謝せよ」といった理性的な行動規範です。問題は、これらの自然法を全員が守るという保証がない限り、一方的に守ることは自殺行為になってしまうことです。

ホッブズは「内心の法廷」(in foro interno)と「外的な法廷」(in foro externo)を区別します。自然法は内心では常に拘束力を持ちますが、外的な行為においては、「安全な状況でのみ」拘束力を持つのです。

現代の国際関係でも、似たような状況が見られます。各国は表向きには国際法や国際条約を尊重すると表明しますが、自国の生存が脅かされると判断したときには、それらを無視することがあります。国際社会には世界政府のような上位権力が存在しないため、各国は最終的には「自助」に頼らざるを得ないのです。

ホッブズの道徳論で重要なのは、彼が状況の倫理を採用していることです。同じ行為でも、状況によって道徳的評価が変わるのです。平和な社会で他人を殺すことは明らかに悪ですが、自然状態で自己防衛のために他人を殺すことは、道徳的に非難されません。

この相対主義的な道徳観は、現代の応用倫理学とも通じています。医療現場での延命治療、戦時における民間人の犠牲、テロ対策のための監視活動など、現代社会の複雑な倫理問題の多くは、状況に応じた判断を要求します。

ホッブズが描く自然状態は、決して人間の本性が邪悪だから生じるのではありません。むしろ、各人が合理的に行動した結果として、誰にとっても望ましくない状況が生まれてしまうのです。これは現代のゲーム理論で言う「囚人のジレンマ」の構造と同じです。

このような状況から脱出するためには、何らかの「協調メカニズム」が必要です。そのメカニズムこそが、ホッブズの政治理論の核心である「社会契約」なのです。自然状態の分析は、決して絶望的な人間観を示すものではなく、より良い政治制度の必要性を論証するための思考実験だったのです。

自然権と自然法

自然権:生存のためなら何でもできる権利

ホッブズの自然権(natural right)の概念は、政治哲学史上最も革命的なアイデアの一つです。彼は自然権を「各人が、自分の生命を保存するために、自分の判断と理性によって最も適切と思われる手段を用いる自由」と定義します。

この定義には三つの重要な要素があります。まず「自分の判断と理性による」という部分です。誰か他の人—王様でも、神父でも、親でも—が「これが君のためになる」と言ったとしても、最終的に何が自分の生存に必要かを判断するのは本人自身だということです。これは個人の自律性を認める、極めて近代的な考え方でした。

第二に「最も適切と思われる手段」という部分です。ここがホッブズの自然権の最も衝撃的な側面です。生存のためであれば、どのような手段を用いても構わないというのです。他人の財産を奪うことも、他人を殺すことも、嘘をつくことも、すべて許される—いえ、許されるというより、それは個人の「権利」なのです。

第三に、この権利は「自然的」だということです。つまり、誰かが与えてくれる権利ではなく、人間が生まれながらに持っている権利だということです。法律や契約によって与えられるものでもなければ、社会の承認を必要とするものでもありません。

従来の権利概念とホッブズの自然権の違いを理解するために、例を挙げてみましょう。現代社会で「私には財産権がある」と言うとき、それは法律によって保護された権利です。他の人たちもその権利を認め、侵害すれば法的制裁があります。しかしホッブズの自然権は全く違います。それは「私には生存のために必要なことをする権利がある」という主張であり、他人がそれを認めるかどうかとは無関係です。

この自然権の概念は、当時の宗教的世界観と真っ向から対立しました。キリスト教的な観点では、人間の行動は神の意志や道徳律によって制約されるべきでした。「汝殺すなかれ」「汝盗むなかれ」という十戒は、どのような状況でも破ってはならない絶対的な命令とされていました。

しかしホッブズは、生存の危機に直面したとき、このような道徳的制約は無意味になると主張しました。飢餓に瀕した人が食べ物を盗むとき、それを道徳的に非難することができるでしょうか?自分の命を狙う敵を殺すとき、それは罪になるでしょうか?ホッブズの答えは明確でした:生存こそが最高の価値であり、それを守るためのあらゆる行動は正当化されるのです。

ホッブズは自然権の範囲を極限まで拡張します。それは「すべてのものに対する権利」(right to all things)です。これは文字通りの意味で、他人の身体も含めて、この世のあらゆるものに対して権利を有するということです。もちろん、すべての人が同じ権利を持っているため、実際には激しい競争と争いが生じることになります。

現代の緊急事態を想像してみてください。大地震で食料供給が断たれ、政府機能が麻痺したとします。コンビニから食べ物を「略奪」する行為は、平時なら明らかに犯罪です。しかしホッブズの理論では、生存のために必要な行為として正当化される可能性があります。もちろん、これは法的に許可されるという意味ではなく、自然権として正当化されるという意味です。

ただし、ホッブズは自然権を無制限に行使することの愚かさも指摘しています。すべての人が「すべてのものに対する権利」を持っているなら、結果として誰も何も確実に所有することができません。これは誰にとっても利益にならない状況です。

19の自然法:平和への道筋

自然権の概念を提示した後、ホッブズは一見矛盾するような概念を導入します。それが「自然法」(natural law)です。自然権が「何をしても構わない」権利だとすれば、自然法は「何をすべきか」を示す法則です。

ホッブズは自然法を「理性によって発見される一般規則」と定義します。これは、平和で安全な社会を実現するために理性が命じる行動指針なのです。彼は全部で19の自然法を列挙していますが、その中でも特に重要なのは最初の数つです。

第一自然法:「平和を求め、それに従え」

これは最も根本的な自然法です。自然状態の戦争状態が誰にとっても破滅的であることを理性が教えるなら、理性的な人間は平和を求めるべきです。ただし、他の人々も平和を求める限りにおいて、という条件付きです。もし他の人々が戦争を継続する意図を示しているなら、一方的に平和を求めることは自殺行為になってしまいます。

第二自然法:「平和のために必要な限りにおいて、すべてのものに対する権利を放棄せよ」

これは自然権の制限を意味します。すべての人が「すべてのものに対する権利」を主張していては平和は実現できません。したがって、他の人々も同じことをする限りにおいて、自分の権利の一部を放棄すべきなのです。

ここでホッブズは重要な区別を行います。「権利の放棄」(laying down of right)には二つの形があります。一つは単純な「断念」(renouncing)で、これは権利を手放すだけで、特定の誰かに移すわけではありません。もう一つは「譲渡」(transferring)で、これは自分の権利を特定の人に移すことです。

現代の契約法でも見られる概念ですが、ホッブズはこれを政治哲学の基礎として位置づけました。例えば、私が「他人を攻撃しない」と約束するとき、私は他人を攻撃する権利を断念しています。一方、私が「あなたのために働く」と約束するとき、私は労働力を使用する権利をあなたに譲渡しているのです。

第三自然法:「契約を履行せよ」

これは正義の概念の基礎となる自然法です。前章で説明したように、ホッブズにとって正義とは契約の履行に他なりません。この自然法がなければ、社会的協力は不可能になってしまいます。

しかし、ここにも重要な条件があります。契約の履行は「相手も履行する場合に限って」義務となるのです。一方的に契約を守ることは、相手に裏切られるリスクを負うことになり、自己保存の原則に反してしまいます。

その他の重要な自然法

第四自然法は「恩恵を受けた者は感謝を示せ」です。これは社会的信頼関係を構築するために重要です。第五自然法は「社会的便宜に努めよ」で、各人が社会全体の利益に配慮することを求めます。

第六自然法は「悔い改めた者を許せ」です。これは復讐の連鎖を断ち切るために必要です。第七自然法は「復讐においては将来の善を目的とせよ」で、単純な報復ではなく、将来の平和に資する制裁であるべきだとします。

特に興味深いのは第九自然法「誰も他人より優れていると主張してはならない」と第十自然法「誰も自分だけの権利を要求してはならない」です。これらは人間の平等性を確立し、特権階級の存在を否定する民主的な原則です。

黄金律の哲学的解釈

ホッブズの自然法理論の集大成が、彼による「黄金律」の解釈です。キリスト教でよく知られる「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という教えを、ホッブズは哲学的に精密化します。

しかし、ホッブズは単純な黄金律では不十分だと考えていました。なぜなら、人々の欲求や価値観は異なるからです。例えば、非常に寛大な人が「私なら他人に大金をあげたい」と思って実際に他人に大金を渡したとしても、相手はそれを望んでいないかもしれません。逆に、非常にストイックな人が「私なら厳しく指導されたい」と思って他人を厳しく扱ったとしても、それは相手にとっては苦痛でしかないでしょう。

そこでホッブズは、黄金律を次のように修正します:「自分が他人の立場にいたら嫌だと思うことは、他人にしてはならない」。これは否定形の黄金律で、「してはいけないこと」に焦点を当てています。

この修正版の黄金律は、より普遍的な妥当性を持ちます。人々の好みは多様でも、「嫌なこと」についてはある程度の合意があります。殺されること、騙されること、財産を奪われること—これらは文化や個人の価値観を超えて、ほとんどの人が嫌だと感じることです。

ホッブズはさらに、この黄金律を理性的に正当化します。もし私が他人に害を与えるなら、その他人も私に害を与える理由を持つことになります。これは結果的に、私自身の安全と利益を脅かすことになります。したがって、純粋に利己的な計算に基づいても、他人を害することは不合理なのです。

現代のゲーム理論で言えば、これは「協調戦略」の合理性を示しています。「しっぺ返し戦略」(tit-for-tat)と呼ばれる戦略では、相手が協調的であれば自分も協調し、相手が非協調的であれば自分も非協調的になります。長期的には、この戦略が最も高い利益をもたらすことが数学的に証明されています。

ホッブズの自然法理論で重要なのは、それが単なる道徳的説教ではないということです。彼は宗教的権威や伝統的価値観に頼ることなく、純粋に理性と利己的動機から協調の必要性を導き出しました。これは啓蒙思想の先駆けとなる考え方でした。

また、ホッブズは自然法の「発見可能性」についても楽観的でした。理性を正しく用いさえすれば、すべての人が同じ自然法に到達できるというのです。これは現代の「理性的選択理論」や「公共選択理論」の基礎となる考え方です。

ただし、ホッブズは自然法の限界についても認識していました。理性が平和への道筋を示しても、それを実行に移すには強制力が必要です。なぜなら、他の人々が自然法を守るという保証がない限り、一方的に自然法に従うことは危険だからです。この問題を解決するのが、次に説明する「契約」の理論なのです。

自然権と自然法の理論は、一見すると矛盾しているように見えます。自然権は「何でもできる」権利を認め、自然法は「何をすべきか」を命じます。しかし実際には、これらは相補的な関係にあります。自然権は出発点を示し、自然法は目標を示しているのです。そして、この出発点から目標への移行を可能にするのが、社会契約という画期的なアイデアなのです。

契約の理論

なぜ契約が必要なのか

ホッブズの契約理論は、自然状態から文明社会への移行を説明する革命的なメカニズムです。前章で見たように、自然法は平和への道筋を示していますが、それだけでは不十分です。なぜなら、他の人々も同じ自然法に従うという保証がない限り、一方的に自然法に従うことは自己破壊的な行為になってしまうからです。

ホッブズは契約を「将来の何らかの行為または不行為についての権利の相互譲渡」と定義します。単純に言えば、「私がAをするから、あなたはBをしてください」という相互的な約束です。しかし、なぜこのような約束が必要なのでしょうか?

答えは「協調問題」にあります。多くの場合、すべての人が協力すれば、すべての人が利益を得ることができます。しかし、自分だけが協力して他の人が裏切れば、自分だけが損をしてしまいます。この「協調のジレンマ」を解決するために、契約という仕組みが必要になるのです。

具体例で考えてみましょう。自然状態で、AさんとBさんが隣り合って暮らしているとします。お互いに相手を攻撃しなければ、両者とも平穏に生活できます。しかし、Aさんが「Bさんは私を攻撃しないだろう」と信じて武器を捨てたとき、もしBさんが武器を持ったままだったら、AさんはBさんの言いなりになってしまいます。

このような状況で、契約は「同期化されたコミットメント」を可能にします。AさんとBさんが「同時に武器を捨てる」という契約を結ぶことで、どちらも一方的に不利になることを避けることができるのです。

ホッブズは契約の種類を詳細に分析します。まず「贈与」と「契約」の違いです。贈与は一方的な権利譲渡で、見返りを期待しません。一方、契約は相互的な権利譲渡で、必ず何らかの反対給付を期待します。

また、契約には「双務契約」と「一方的信託」があります。双務契約では、両当事者が同時に義務を履行します。例えば、現金と商品を同時に交換する売買契約がこれに当たります。一方的信託では、一方の当事者が先に義務を履行し、相手の履行を信頼して待ちます。

ホッブズは、自然状態では双務契約のみが可能で、一方的信託は不可能だと主張します。なぜなら、相手が約束を守るという保証がないからです。先に義務を履行した側は、相手に裏切られるリスクを負うことになります。これは理性的な行動ではありません。

現代社会でも、この原理は重要です。国際貿易では「信用状」という仕組みが使われますが、これは銀行が仲介することで、双務契約に近い構造を作り出しています。オンライン取引でも、決済サービスが売り手と買い手の間に入ることで、同様の効果を生み出しています。

契約の履行を保証するものは何か

契約が結ばれても、それが確実に履行されるという保証はありません。この問題は、契約理論の中核的な課題です。ホッブズは、契約の履行を保証する要因を三つに分けて分析します。

第一の要因:恐怖(Fear)

最も原始的で確実な履行保証は、破約に対する恐怖です。契約を破れば相手から報復されるという恐怖が、契約履行の動機となります。しかし、この恐怖が有効に働くためには、相手に十分な報復能力があることが必要です。

自然状態では、個人の報復能力は限定的です。強い人は弱い人を恐れる必要がありませんし、遠くにいる人を報復することも困難です。したがって、恐怖だけでは契約制度の基盤としては不十分なのです。

第二の要因:名誉(Honour)

ホッブズは意外にも、「名誉」を契約履行の重要な動機として認めています。約束を守ることで得られる評判、約束を破ることで失う信頼—これらは実利的な価値を持ちます。

しかし、名誉による履行保証にも限界があります。まず、名誉を重視しない人には効果がありません。また、匿名性の高い状況では、評判の影響力は低下します。さらに、短期的な利益が名誉による損失を上回る場合、合理的な人でも契約を破る可能性があります。

第三の要因:良心(Conscience)

宗教的・道徳的な信念による契約履行も、重要な要因の一つです。「神との契約を破れば来世で罰せられる」「道徳的に正しいことをするべきだ」という信念が、契約履行を促進します。

しかし、ホッブズは良心の限界についても指摘します。まず、宗教的信念は人によって異なります。また、良心は往々にして自己欺瞞によって合理化されます。「自分の利益になることが、実は道徳的にも正しいのだ」と自分自身を納得させることは、人間にとってそれほど困難ではありません。

これら三つの要因を総合しても、自然状態では契約の確実な履行を保証することができません。恐怖、名誉、良心のすべてが、個人の主観的判断に依存しているからです。客観的で確実な履行保証メカニズムが必要なのです。

ホッブズは「剣なくして契約は単なる言葉に過ぎず、人を拘束する力を持たない」という有名な言葉を残しています。「剣」とは物理的強制力の象徴です。契約が確実に履行されるためには、破約者に対して確実に制裁を加える力が存在しなければならないのです。

社会契約論の革命的アイデア

ここで、ホッブズは政治哲学史上最も革命的なアイデアを提示します。それが「社会契約」(social contract)です。この概念は、個人間の契約を政治的レベルに拡張したものですが、その含意は計り知れないほど大きなものでした。

社会契約の基本的なアイデアは次のようなものです。自然状態の人々が、共通の権力(コモンパワー)を創設することに合意し、この権力に対して、自分たちの権利の一部を譲渡する。この権力は、個人間の争いを裁定し、契約の履行を強制し、社会の平和を維持する。

ホッブズが描く社会契約は、従来の政治的権威の正当化とは根本的に異なります。王権神授説では、王の権力は神から直接与えられたものとされていました。封建制では、権力は血統や伝統によって正当化されていました。しかし社会契約論では、政治的権力は人民の合意によってのみ正当化されるのです。

社会契約の構造を詳しく見てみましょう。ホッブズによれば、これは「すべての人の、すべての人に対する契約」です。つまり、AさんがBさんに対して、BさんがCさんに対して、CさんがAさんに対して、それぞれ同じ内容の約束をするのです。その内容は「私は、この人(または人々の集団)に、私を統治する権利を与えます。ただし、あなたがたも同じことをすることを条件として」というものです。

この契約構造の巧妙さは、対称性にあります。誰も一方的に損をせず、誰も一方的に得をしません。すべての人が同じ権利を放棄し、すべての人が同じ保護を受けるのです。

しかし、社会契約には重要な特徴があります。それは、主権者(統治者となる人または集団)は、この契約の当事者ではないということです。人民が相互に結ぶ契約によって主権者が「授権」されるのであって、主権者自身が契約を結ぶわけではありません。

この点は、後のロックやルソーの社会契約論と大きく異なります。ロックでは政府も契約の当事者となり、したがって契約違反があれば人民は政府を解散させることができます。しかしホッブズの理論では、主権者は契約の当事者ではないため、人民に対して契約上の義務を負いません。

なぜホッブズはこのような構造にしたのでしょうか?それは、主権の「絶対性」を確保するためです。もし主権者も契約の当事者だとすれば、主権者の行為を誰が裁定するのかという問題が生じます。主権者を裁く上位の権力があるとすれば、その権力こそが真の主権者ということになってしまいます。

ホッブズの社会契約論は、現代の憲法理論にも大きな影響を与えています。「人民主権」「社会契約としての憲法」「政治的権力の人工性」といった概念は、すべてホッブズに起源を持ちます。

ただし、ホッブズの社会契約は歴史的事実ではありません。彼は実際に人々が集まって契約を結んだと主張しているわけではないのです。これは「仮説的契約」または「理念的契約」と呼ばれるもので、政治的権力の正当性を説明するための思考実験なのです。

現代の政治哲学者ジョン・ロールズが『正義論』で用いた「原初状態」という概念も、ホッブズの社会契約論の現代版と言えるでしょう。人々が自分の社会的地位を知らない状況で合意するであろう原則が、正義の原則となるというロールズの理論は、ホッブズの方法論を洗練させたものです。

社会契約論の革命的な意義は、政治的権力を「自然なもの」から「人工的なもの」に転換したことです。王権も貴族制も民主制も、すべて人間が作り出した制度であり、原理的には変更可能なものとなったのです。これは近代民主主義の理論的基礎となる考え方でした。

同時に、社会契約論は個人の権利と集団の利益を調和させる方法を提示しました。個人は自分の利益のために契約に参加するのですが、結果として社会全体の利益も実現される。この「見えざる手」的なメカニズムは、後の経済学や政治学に大きな影響を与えることになります。

ホッブズの契約理論は、単なる法学的概念を超えて、人間社会の根本原理を説明する壮大な理論体系となったのです。そして、この契約によって生み出される「人工的な人間」こそが、次章で詳しく説明する「リヴァイアサン」—すなわち国家—なのです。

第三部:国家(コモンウェルス)の誕生

リヴァイアサンの正体

人工的な人間としての国家

ホッブズがリヴァイアサンと呼ぶ国家は、これまでの政治思想史に例を見ない独創的な概念です。彼は国家を「人工的な人間」(artificial man)として捉えました。この比喩は単なる文学的表現ではありません。ホッブズにとって、国家は文字通り巨大な人間なのです。

この発想を理解するために、人間の身体構造と国家の構造を対比してみましょう。人間の身体には頭があり、そこに知性と意志が宿っています。国家においては、主権者がこの頭に相当します。人間には心臓があり、生命を維持する血液を循環させています。国家においては、富や報酬の流通がこれに相当します。

人間には筋肉があり、意志を実行に移すための力を提供します。国家においては、軍隊や警察がこの役割を果たします。人間には神経があり、感覚情報を脳に伝達します。国家においては、役人や密偵がこの機能を担います。

この比喩が示すのは、国家の「有機的統一性」です。バラバラの部品を寄せ集めただけでは機械にはなりますが、生物にはなりません。国家が真に機能するためには、単なる制度や組織の集合体ではなく、一つの統一された意志を持つ存在にならなければならないのです。

ホッブズの時代、国家はまだ抽象的な概念でした。人々の忠誠心は王個人に向けられ、「フランス」や「イングランド」といった抽象的実体への忠誠という概念は希薄でした。しかしホッブズは、国家を王を含めたより大きな存在として捉えました。王も国家という巨大な身体の一部であり、王の権力は国家の権力の現れに過ぎないのです。

この「人工性」という概念も重要です。自然の人間は神によって創造されましたが、人工的な人間である国家は、自然の人間たちによって創造されます。ホッブズは言います:「技術によって、我々はかの偉大なリヴァイアサンを創造する。それは『可死の神』と呼ばれるものである」。

「可死の神」という表現は興味深い逆説です。神は不死の存在ですが、人工的な神である国家は、創造者である人間と同様に死すべき存在です。革命や征服によって国家は滅亡しうるのです。しかし、存在している限りにおいては、国家は神のような絶対的な権力を持つということでもあります。

現代の法人概念は、このホッブズの発想に起源があります。会社も「人工的な人間」の一種です。会社は自然人ではありませんが、契約を結び、財産を所有し、訴訟を行うことができます。これは法律が会社に「人格」を付与しているからです。ホッブズの国家論は、このような法人格の概念の先駆けとなったのです。

主権者の誕生:授権による統治

ホッブズの主権理論で最も革新的な概念が「授権」(authorization)です。これまでの政治理論では、統治者の権力は神から直接与えられたもの(王権神授説)や、血統による継承、あるいは征服による獲得とされていました。しかしホッブズは全く異なるメカニズムを提示します。

授権とは、ある人(授権者)が別の人(被授権者)に対して、「あなたの行為を私の行為とみなす」権利を与えることです。これは現代の代理権に近い概念ですが、より包括的なものです。

具体例で説明してみましょう。あなたが弁護士に裁判での弁護を依頼するとき、あなたは弁護士を「授権」しています。弁護士があなたの代理として行う発言や行為は、法的には「あなたの行為」とみなされます。弁護士が法廷で「私の依頼人は無罪を主張します」と言うとき、それは依頼人自身が主張していることになるのです。

社会契約においては、人民が主権者を授権します。人民は主権者に対して「あなたの行為を我々の行為とみなす」権利を与えるのです。これにより、主権者の意志は人民の意志となり、主権者の決定は人民の決定となります。

この授権のメカニズムが解決するのは、民主的正統性の問題です。なぜ一人の人間(君主)や少数の人々(貴族)が大多数の人民を統治する権利を持つのでしょうか?従来の理論では、この問いに説得力のある答えを提供することが困難でした。

しかし授権理論では、主権者の権力は人民から「借りている」ものです。主権者が君主であっても、その権力の究極的な源泉は人民の合意にあります。これは現代の議会制民主主義の理論的基礎となる考え方でした。

ホッブズは授権と「単純な服従」を明確に区別します。単純な服従では、人民は嫌々ながら権力者に従います。しかし授権では、人民は積極的に主権者の行為を「自分たちの行為」として承認するのです。

この区別は重要な帰結を持ちます。単純な服従の場合、統治者の失政や暴政について、人民は「私たちは反対だった」と言うことができます。しかし授権の場合、主権者の行為はすべて人民自身の行為とみなされるため、人民はその結果について責任を負わなければなりません。

現代の民主主義においても、この原理は重要です。選挙で選ばれた政治家が失政を犯したとき、有権者もその責任の一端を負うという考え方は、授権理論に基づいています。

ホッブズはまた、授権の「取り消し不可能性」についても論じます。いったん授権が行われると、授権者(人民)は一方的に授権を取り消すことはできません。なぜなら、授権は人民相互の契約の結果だからです。個人が勝手に契約を破ることはできないのと同様に、人民の一部が勝手に授権を取り消すことはできないのです。

なぜ絶対主権が必要なのか

ホッブズの政治理論で最も議論を呼ぶのが「絶対主権」の概念です。彼は主権者の権力に法的な制限を設けることに反対しました。これは一見すると専制政治を擁護しているように見えますが、ホッブズの論理はもっと複雑なものです。

まず、「絶対」という言葉の意味を明確にする必要があります。ホッブズは主権者が「何でもできる」と言っているわけではありません。主権者も自然法の拘束を受けますし、論理的に不可能なこと(例えば矛盾する法律を同時に制定すること)はできません。「絶対」とは、主権者の上に立って主権者を裁く世俗的権威が存在しないという意味です。

なぜこのような絶対主権が必要なのでしょうか?ホッブズの第一の論拠は「権威の分裂の危険性」です。もし主権者の権力に制限があり、その制限を監督する別の機関があるとすれば、実質的には二つの主権者が存在することになります。そして二つの権威が対立したとき、社会は再び「万人の万人に対する戦争状態」に戻ってしまうのです。

イングランド内戦の経験が、ホッブズのこの確信を強めました。国王と議会が対立し、どちらが最高権力かをめぐって争った結果、国家は分裂し、血みどろの内戦に突入しました。ホッブズにとって、これは権威の分裂がもたらす災禍の実例だったのです。

第二の論拠は「無限後退の問題」です。もし主権者Aを監督する機関Bがあるとすれば、今度はBを監督する機関Cが必要になります。そしてCを監督するDが必要になり、これは無限に続いてしまいます。どこかで「最終的な権威」を設定しなければ、政治制度は機能しないのです。

第三の論拠は「効率性」の問題です。権力が分散していると、迅速な意思決定ができません。緊急事態において、各機関が権限について議論している間に、国家は滅亡してしまう可能性があります。

ただし、ホッブズは絶対主権を擁護しながらも、主権者の「義務」についても言及しています。主権者は人民の安全と福祉を実現する義務があります。しかし、この義務は法的なものではなく、道徳的・宗教的なものです。主権者が義務を怠っても、人民がそれを強制する法的手段はないのです。

現代の視点から見ると、ホッブズの絶対主権論は受け入れ難いかもしれません。しかし、彼の懸念の多くは現代でも妥当性を持っています。三権分立制度においても、最終的な権威をどこに設定するかは重要な問題です。憲法裁判所、最高裁判所、議会—どれが最終的な決定権を持つのかは、各国の制度設計における重要な選択なのです。

また、緊急事態における権力の集中も、現代的な問題です。パンデミックや戦争において、政府は通常の法的制約を一時的に停止し、迅速な対応を取ることがあります。これはホッブズが予見した「主権の絶対性」の現代版とも言えるでしょう。

ホッブズの絶対主権論は、自由主義的な価値観と緊張関係にあります。しかし、それは決して自由を軽視した結果ではありません。むしろ、真の自由を実現するためには強力な権力による秩序の維持が不可欠だと考えたのです。「自由は力によってこそ保護される」—これがホッブズの基本的な信念でした。

興味深いことに、現代の法哲学や政治学において、ホッブズの絶対主権論を再評価する動きもあります。グローバル化が進む世界において、国家主権の相対化が進んでいますが、同時に「誰が最終的な責任を負うのか」という問題の重要性も増しています。金融危機、環境問題、感染症対策—これらの課題に対処するためには、効果的な意思決定メカニズムが必要であり、そのためには「主権」概念の再検討が不可欠なのです。

ホッブズのリヴァイアサンは、確かに巨大で強力な存在です。しかし、それは人々を支配するための怪物ではなく、人々を保護するための人工的な神なのです。この逆説的な性格こそが、ホッブズの国家論の最も深い洞察かもしれません。

主権の権利と義務

主権者の持つ18の権利

ホッブズは主権者の権力を体系的に分析し、18の基本的権利として整理しました。これらは単なる権力の列挙ではなく、国家が機能するために論理的に必要な権限の体系的導出なのです。

第一の権利:臣民は主権者を変更できない

社会契約によって一度主権者が確立されると、臣民は勝手に主権者を変更することはできません。これは契約の性質から論理的に導かれます。人民相互の契約によって主権者が授権されている以上、一部の人民が勝手に契約を破ることはできないのです。

この権利は現代の憲法秩序とも関連します。民主主義国家でも、選挙以外の方法で政府を転覆させることは違法です。クーデターや武装蜂起が禁止されるのは、まさにこの原理に基づいています。

第二の権利:主権者は契約違反で告発されない

主権者は社会契約の当事者ではなく、受益者です。したがって、主権者が人民との間で契約違反を犯すということは、論理的にありえません。これは現代の「主権免責」の概念の起源となっています。

第三の権利:反対者を処罰する権利

主権者の設立に反対した少数者も、多数決の結果として主権者の権威に服従しなければなりません。これを拒否する者は、社会契約を破る者として処罰されます。現代の民主主義でも、選挙結果に不服な者が暴力的抵抗を行えば処罰されるのと同じです。

第四の権利:何が正義で何が不正義かを決定する権利

これは最も重要な権利の一つです。法を制定し、解釈し、適用する権利がこれに含まれます。ホッブズによれば、主権者の法が正義の基準となるのであって、抽象的な正義の基準が主権者の行為を裁くのではありません。

第五の権利:何が善で何が悪かを決定する権利

公的な価値観や道徳基準を設定する権利です。これには検閲権や教育内容の決定権も含まれます。現代では人権思想の発達により制限されがちですが、国家が公教育を通じて価値観を伝達するという機能は現在でも重要です。

第六の権利:臣民の行為を規制する権利

どのような行為が許され、どのような行為が禁止されるかを決定する権利です。これは刑法、民法、行政法の制定権として現れます。

第七の権利:所有権を設定・移転する権利

私有財産制度を確立し、財産の配分を決定する権利です。ホッブズによれば、自然状態では確実な所有権は存在せず、国家の設立によって初めて私有財産が可能になります。

第八の権利:司法権

争訟を裁定し、法の解釈・適用を行う権利です。現代の三権分立制度では司法府が担いますが、ホッブズは最終的な司法権は主権者に属すると考えていました。

第九の権利:戦争と平和を決定する権利

対外関係における最高決定権です。宣戦布告、講和条約の締結、軍事行動の指令などが含まれます。これは現代でも、多くの国で大統領や首相が持つ重要な権限です。

第十の権利:顧問を選択する権利

政策決定に必要な助言者や官僚を任免する権利です。現代の人事権に相当します。ホッブズは、主権者が愚かな顧問に騙されることの危険性も認識していましたが、顧問の選択権そのものは主権者の不可侵の権利だと考えていました。

その他の重要な権利(第十一〜十八)

報酬と処罰を決定する権利、名誉の序列を設定する権利、軍事的統率権、課税権、官職の任命権、法令の制定・廃止権、検閲権、そして臣民に模範を示す権利などが含まれます。

これら18の権利は相互に関連し合っており、どれか一つでも欠けると主権者の機能は損なわれます。ホッブズは「主権は分割不可能である」と強調しました。例えば、立法権は持っているが司法権は持っていない、あるいは軍事権はあるが課税権はない、といった「部分的主権者」は存在しえないのです。

臣民の自由の限界

ホッブズの絶対主権論は、臣民の自由を完全に否定するものではありません。むしろ、彼は「真の自由」とは何かを深く考察し、自由と権力の関係について独創的な理論を展開しました。

ホッブズは自由を「行動の障害の不在」と定義します。これは物理学的な自由概念で、外的な制約がなければ自由だということです。鎖につながれた人は不自由ですが、鎖がなければ自由です。この定義は一見単純ですが、重要な含意があります。

まず、自由は「権利」とは別の概念だということです。権利は他者との関係で定められる社会的概念ですが、自由は個人の物理的状況を表します。例えば、あなたには隣人の家に入る「権利」はありませんが、物理的にドアが開いていれば入る「自由」はあります(ただし、違法行為として処罰される可能性がありますが)。

第二に、法律は自由を制限しますが、同時に自由を保護もします。法律がなければ、より強い者が弱い者の自由を奪ってしまうからです。ホッブズの有名な比喩によれば、法律は「人工的な鎖」ですが、これは「自然的な鎖」(他者による支配)を防ぐためのものなのです。

臣民の自由の範囲について、ホッブズは具体的な指針を示します。「法律が沈黙している事柄については、臣民は行為する自由を持つ」。つまり、法律で禁止されていないことは、すべて許可されているということです。これは現代の「法律による行政の原理」の先駆けとなる考え方でした。

しかし、この自由にも重要な制限があります。それは「主権者の意図」との整合性です。法の条文に明記されていなくても、明らかに主権者の意図に反する行為は制限される可能性があります。これは現代の法解釈における「立法趣旨」の尊重と似ています。

ホッブズは臣民の「経済的自由」についても詳しく論じます。売買、契約、居住地の選択、職業の選択など、日常的な経済活動の自由は、法律の範囲内で保障されるべきだとしています。これらの自由は、社会の繁栄にとって不可欠だからです。

興味深いのは、ホッブズが「思想・信条の自由」について微妙な立場を取っていることです。内心の自由は物理的に制限不可能なので、完全に自由だとします。しかし、思想の「表明」については、公共の平和を乱す可能性があれば制限されうるとしています。

現代の表現の自由をめぐる議論でも、同様の問題があります。「明白かつ現在の危険」がある場合には表現の自由も制限されうるという原則は、ホッブズの考え方と通じています。

抵抗権は存在するのか?

ホッブズの政治理論で最も議論を呼ぶ問題の一つが、臣民の「抵抗権」です。絶対主権論の論理からすれば、臣民には主権者に対する抵抗権は存在しないはずです。しかし、ホッブズの実際の議論はもっと複雑で微妙なものでした。

まず、ホッブズは「自己保存の権利」は譲渡不可能だと明言しています。社会契約においても、人は生存の権利を放棄することはできません。なぜなら、生存こそが契約締結の目的だからです。生存を放棄してしまえば、契約そのものが無意味になってしまいます。

この原理から、いくつかの重要な帰結が導かれます。まず、主権者が臣民を殺そうとした場合、その臣民は自己防衛の権利を持ちます。これは契約違反ではありません。なぜなら、殺される危険から逃れることを約束していたからこそ、その臣民は社会契約に参加したのですから。

第二に、主権者が臣民に自殺を命じた場合、臣民はそれを拒否する権利があります。また、主権者が臣民に他人を殺すことを命じた場合も、臣民はそれを拒否できます(ただし、戦争における敵の殺害は別です)。

第三に、主権者が臣民に自分の犯罪を自白するよう強要した場合、臣民はそれを拒否できます。自白によって自分が処罰される可能性があるからです。

しかし、これらの「抵抗権」には重要な限界があります。それは「個人的」なものに限定されるということです。臣民は自分の生命を守るために抵抗できますが、他人のために、あるいは抽象的な正義のために抵抗する権利はありません。

また、抵抗が許されるのは「直接的で現在の脅威」に対してのみです。将来の危険や間接的な害悪を理由とした抵抗は正当化されません。これは現代の緊急避難の法理と似ています。

集団的な抵抗権について、ホッブズの立場は厳格です。人民が集団として主権者に抵抗することは、社会契約の破棄を意味し、社会を自然状態に戻してしまいます。これは誰の利益にもならないため、原則として正当化されません。

ただし、ホッブズは一つだけ例外を認めています。それは主権者が「人民の保護」という基本的義務を完全に放棄した場合です。主権者が外敵から人民を守ることができなくなったり、意図的に人民を危険にさらしたりした場合、社会契約の目的が失われるため、人民は新しい保護者を求める権利があるというのです。

この例外規定は、後の革命権理論の先駆けとなりました。ロックの抵抗権理論やアメリカ独立宣言の革命権は、この ホッブズの議論を発展させたものと見ることができます。

現代の憲法理論においても、類似の問題があります。「抵抗権」は多くの国の憲法に明記されていませんが、極端な専制政治に対する最後の手段として理論的に議論されています。ドイツ基本法第20条第4項の「抵抗権」条項や、民主的秩序を覆そうとする試みに対する市民の抵抗権などがその例です。

ホッブズの抵抗権論は、絶対主権論との微妙なバランスを取っています。一方では政治的権威の安定性を重視し、他方では個人の生存権を保護する。この緊張関係こそが、近代政治思想の根本的な課題—秩序と自由、権威と権利の調和—を表しているのです。

興味深いことに、ホッブズ自身も生涯を通じて、この抵抗権を実際に行使しました。イングランド内戦が激化したとき、彼はフランスに亡命し、既存の政治権威への服従を拒否したのです。これは、理論と実践の統一という観点から見ても、彼の思想の一貫性を示すものと言えるでしょう。

国家の3つの形態

民主政・貴族政・君主政の比較

ホッブズは主権の本質を分析した後、その主権がどのような形で組織されうるかを体系的に検討します。彼の分類は、古典古代から続く伝統的な三分法—民主政、貴族政、君主政—に基づいていますが、その分析には独創的な洞察が含まれています。

民主政(Democracy)の特徴と問題点

民主政では、主権は人民集会に属します。すべての市民が政治的決定に直接参加し、多数決によって国家の意志が決定されます。ホッブズはアテナイの直接民主制を念頭に置いてこの形態を分析しました。

民主政の最大の利点は「代表の正統性」です。人民自身が直接決定を行うため、「誰がどのような権限で決定したのか」という疑問は生じません。また、多様な意見が討論を通じて洗練される可能性もあります。

しかし、ホッブズは民主政の深刻な欠陥も指摘します。まず「意思決定の非効率性」です。多数の人々が集まって議論し、合意に達するには膨大な時間が必要です。緊急事態においては、この非効率性が致命的になる可能性があります。

第二に「衆愚政治の危険性」です。大衆は感情に流されやすく、扇動政治家に操られる危険があります。複雑な政策問題について、すべての市民が十分な知識と判断力を持っているとは限りません。

第三に「秘密保持の困難さ」です。外交や軍事に関する機密事項を、大勢の市民が参加する集会で討議することは不可能です。これは国家安全保障上の重大な問題となります。

現代の直接民主制の試み—住民投票、国民投票、参加型予算編成など—でも、同様の問題が指摘されています。Brexit国民投票における混乱や、複雑な政策課題についての住民投票の困難さなどは、ホッブズの懸念が現代でも妥当性を持つことを示しています。

貴族政(Aristocracy)の特徴と問題点

貴族政では、主権は少数の選ばれた人々に属します。この「少数者」は、血統、財産、能力、徳などの基準によって選ばれます。ホッブズの時代には、血統による世襲貴族制が一般的でしたが、彼の分析はより広い範囲の「寡頭制」を含んでいます。

貴族政の利点として、ホッブズは「専門性」と「効率性」を挙げます。政治に専念できる少数の人々が統治を行うため、専門知識の蓄積と迅速な意思決定が可能です。また、民主政に比べて秘密保持も容易です。

さらに、「品質の高い決定」も期待できます。教育を受け、経験豊富な人々が慎重に検討して決定を下すため、大衆的な感情に左右されない合理的な政策が実現される可能性があります。

しかし、貴族政にも重大な問題があります。まず「正統性の問題」です。なぜその少数の人々が統治する権利を持つのか?血統による正統化は、社会契約論の論理と矛盾します。能力や徳による選抜も、誰がその判定を行うのかという問題があります。

第二に「腐敗の危険性」です。権力が少数者に集中すると、その権力を私的利益のために濫用する誘惑が生まれます。特に世襲制の場合、統治能力のない人物が権力を継承する可能性もあります。

第三に「派閥抗争の問題」です。貴族集団内部での権力争いが激化すると、国家全体が分裂の危機に陥ります。ローマ共和国末期の内乱や、中世の貴族間の争いは、この危険性を示しています。

現代でも、「テクノクラシー」(専門家統治)や「エピストクラシー」(知識による統治)といった形で、貴族政的なアイデアが議論されています。EU の欧州委員会や各国の中央銀行など、専門性を重視した非選出的機関の役割拡大は、現代版の貴族政とも言えるでしょう。

君主政(Monarchy)の特徴と利点

君主政では、主権は一人の人物に属します。これは必ずしも世襲制を意味するものではなく、選出制の君主(選帝侯による神聖ローマ皇帝など)も含まれます。

ホッブズが君主政の利点として挙げるのは、まず「意思決定の統一性と迅速性」です。一人の意志で決定が下されるため、矛盾や遅延が生じにくく、緊急事態への対応も迅速です。

第二に「責任の明確さ」です。政策の成功も失敗も、すべて君主の責任となります。これにより、政治的アカウンタビリティが明確になります。

第三に「秘密保持の容易さ」です。外交や軍事の機密を一人で管理することは、大勢での管理よりもはるかに安全です。

第四に「私益と公益の一致」という興味深い論点があります。君主にとって国家の繁栄は自分の力と富の増大を意味するため、君主の私的利益と国家の公的利益が一致しやすいというのです。

なぜホッブズは君主制を推奨するのか

ホッブズが三つの政治形態を比較検討した結果、君主制を最も優れた制度として推奨したのは、単なる保守的偏見によるものではありません。彼の判断には、深い理論的根拠がありました。

統一性の原理

ホッブズの最も重要な論拠は「主権の統一性」です。国家が「人工的な人間」として機能するためには、一つの統一された意志が必要です。自然の人間に複数の頭があり得ないように、人工的な人間である国家にも、複数の最高意志があってはならないのです。

民主政や貴族政では、最終的な決定は多数決や合議によって行われます。これは主権の「分割」を意味し、国家の統一性を損なう危険があります。特に重要な問題について意見が分かれた場合、国家は麻痺状態に陥る可能性があります。

君主制では、このような問題は原理的に生じません。君主の意志がそのまま国家の意志となるため、一貫性と統一性が保たれるのです。

効率性の重視

ホッブズは政治の「効率性」を重視しました。彼にとって政治の目的は、哲学的な理想を実現することではなく、現実的な問題—安全の確保、秩序の維持、繁栄の促進—を解決することでした。

この観点から見ると、君主制は最も効率的な制度です。迅速な意思決定、明確な責任関係、統一された指揮系統—これらすべてが、実効性のある統治を可能にします。

人間心理の現実的理解

ホッブズの君主制支持には、人間心理に対する現実的な理解も反映されています。彼は人間が本質的に「権力を求める存在」だと分析していました。

民主政や貴族政では、この権力欲が複数の人物の間で競争を引き起こします。政治的ライバルを打ち負かすために、公共の利益よりも私的な野心が優先される危険があります。現代の政党政治における「政争」も、この問題の現れと見ることができます。

君主制では、権力競争の問題は原理的に解決されます。君主以外の誰も最高権力を求めることはできないため、政治的エネルギーが建設的な方向に向けられやすいのです。

歴史的経験の重視

ホッブズは同時代の政治的混乱—特にイングランド内戦—を身をもって体験していました。この内戦は、王権と議会権力の対立、つまり主権の分割が引き起こしたものでした。

内戦の悲惨な結果を目の当たりにしたホッブズにとって、権威の分裂は避けるべき最大の悪でした。君主制は、このような分裂を原理的に防ぐ唯一の制度だと考えられたのです。

ただし、ホッブズの君主制論の限界

ただし、ホッブズは君主制を無批判に礼賛していたわけではありません。彼は君主制の欠陥も認識していました。

君主が無能であったり、悪意を持っていたりする場合、その害悪は甚大になります。また、君主の継承問題も深刻な課題です。さらに、君主一人の判断力には限界があり、重要な情報が見落とされる危険もあります。

しかし、ホッブズはこれらの問題よりも、主権分割がもたらす混乱の方がはるかに深刻だと考えていました。「悪い君主の統治も、内戦よりはましである」—これがホッブズの基本的な判断でした。

代表制の理論

ホッブズの政治理論で見落とされがちですが、実は非常に重要なのが「代表制」(representation)の理論です。これは現代民主主義の基礎概念となっているにもかかわらず、その理論的基盤を最初に提供したのはホッブズでした。

代表の概念

ホッブズは代表を「人格の統一」の問題として分析します。自然人は一つの人格を持ちますが、集団は複数の人格の集合です。この複数の人格を「一つの人格」として統一するメカニズムが代表なのです。

代表者(representative)は、被代表者(represented)の人格を「体現」します。代表者の言葉は被代表者の言葉となり、代表者の行為は被代表者の行為となります。これは単なる「委任」や「代理」を超えた、より根本的な人格の統一なのです。

授権としての代表

前章で説明した「授権」の概念は、この代表制理論と密接に関連しています。代表とは、被代表者が代表者を「授権」することによって成立します。

この授権により、代表者は被代表者に「代わって」行動するのではなく、被代表者「として」行動することになります。これは重要な違いです。前者では代表者と被代表者は別々の主体ですが、後者では両者は統一された一つの主体となるのです。

代表制の民主的含意

ホッブズの代表制理論は、君主制を支持するために開発されましたが、その論理は民主的な含意も持っています。もし君主が人民の代表者だとすれば、君主の権力は究極的には人民に由来することになります。

この論理を押し進めれば、代表者は被代表者の利益のために行動すべきだということになります。また、代表関係が適切に機能していない場合、被代表者は代表者を変更する権利を持つことにもなります。

実際、後の民主主義理論—特にロックやルソーの理論—は、このホッブズの代表制理論を発展させたものと見ることができます。

現代政治への影響

ホッブズの代表制理論は、現代の議会制民主主義の理論的基盤となっています。選挙で選ばれた議員が有権者を「代表」するという概念、政党が特定の階層や利益を「代表」するという概念、さらには利益団体による「代表」という概念—これらすべてがホッブズの理論に起源を持ちます。

しかし、現代の代表制は、ホッブズが想定したよりもはるかに複雑になっています。複数政党制、連邦制、国際機関での代表など、多層的で重複する代表関係が存在します。これらの複雑な代表関係をどのように整合的に理解するかは、現代政治学の重要な課題となっています。

代表制の限界と課題

ホッブズは代表制の可能性に着目しましたが、同時にその限界も認識していました。代表者が被代表者の真の意志を正確に体現することは困難です。また、被代表者の意志そのものが曖昧で矛盾している場合、代表者はどのように行動すべきかが不明確になります。

現代でも、「代表の失敗」は重要な問題となっています。政治家と有権者の意識のギャップ、特殊利益による政治の歪曲、メディアによる世論操作など、代表制民主主義は多くの課題に直面しています。

しかし、これらの問題があるからといって代表制を放棄することは現実的ではありません。大規模で複雑な現代社会において、何らかの代表メカニズムなしに政治を運営することは不可能だからです。

ホッブズの代表制理論は、このような現代的課題に対する理論的基盤を提供しています。彼の「授権による統一」という考え方は、多様で複雑な現代社会においても、政治的統合を実現するための重要な手がかりとなるのです。

代表制と主権の関係

ホッブズの理論で特に重要なのは、代表制と主権の関係です。彼によれば、主権者は常に人民の「代表者」ですが、同時に人民を超越した存在でもあります。この逆説的な関係は、現代民主主義の根本的な緊張を表しています。

選挙で選ばれた政治家は、有権者の意志を代表するべきですが、同時に国家全体の利益も考慮しなければなりません。特定の選挙区の利益と国家全体の利益が対立した場合、代表者はどちらを優先すべきでしょうか?

ホッブズの答えは明確です。代表者は個別の被代表者の個別利益ではなく、全体としての人民の根本的利益—すなわち平和と安全—を代表すべきだというのです。これは現代の「trustee model」(受託者モデル)の代表制理論の先駆けとなる考え方でした。

集団的代表と個人的代表

ホッブズは代表を「集団的代表」と「個人的代表」に区別します。集団的代表では、一人の代表者が集団全体を代表します。君主や大統領がこれに当たります。個人的代表では、複数の代表者がそれぞれ特定の個人や小集団を代表します。議員や評議員がこの例です。

この区別は現代の政治制度設計において重要な含意を持ちます。集団的代表は統一性と効率性に優れますが、多様性の反映に劣ります。個人的代表は多様な意見の反映に優れますが、統一的な意志形成が困難になります。

現代の政治制度は、これらの長所と短所を組み合わせて設計されています。大統領制は集団的代表の要素を、議会制は個人的代表の要素を取り入れています。連邦制では、連邦政府が全体を、州政府が部分を代表するという重層的な代表構造が採用されています。

バーチャル代表の可能性

ホッブズの代表制理論には、現代のデジタル技術と結びつく興味深い可能性があります。彼の「授権」概念は、物理的な接触や直接的なコミュニケーションを必要としません。重要なのは「意志の統一」であって、その実現手段は二次的な問題なのです。

現代では、インターネットを通じた直接民主主義の実験や、AIを活用した政策決定支援システムなどが注目されています。これらの技術は、ホッブズが構想した「人工的な人間」としての国家を、より文字通りの意味で実現する可能性を秘めているのです。

ただし、技術的可能性と政治的現実は別問題です。デジタル技術が民主主義を改善する可能性がある一方で、新たな操作や分裂の危険も生み出しています。ホッブズが重視した「統一性」と「安定性」をどのように確保するかは、現代政治の重要な課題となっています。

このように、ホッブズの国家形態論と代表制理論は、単なる歴史的な関心事ではなく、現代政治を理解し改善するための重要な理論的資源なのです。民主主義の理想と現実のギャップ、効率性と正統性のトレードオフ、統一性と多様性の調和—これらの現代的課題は、すべてホッブズが『リヴァイアサン』で取り組んだ根本的な問題の延長線上にあるのです。

第四部:宗教と政治の関係

キリスト教国家論

宗教的権威と世俗的権威の統合

ホッブズが『リヴァイアサン』で提示する最も革命的なアイデアの一つが、宗教的権威と世俗的権威を一つの主権者の下に統合するという構想です。

17世紀のイングランドでは、国王の世俗的権力とカトリック教会やプロテスタント諸派の宗教的権威が激しく対立していました。宗教戦争が各地で勃発し、「神の名の下に」無数の人々が殺戮される時代だったのです。ホッブズはこの状況を目の当たりにして、根本的な解決策を模索しました。

彼の答えはシンプルでした。主権者が世俗的権力だけでなく、宗教的権威も同時に握るべきだというのです。これは決して宗教を否定するものではありません。むしろ、真の平和を実現するためには、宗教と政治の権威を分離するのではなく、一つの最高権力の下に統合する必要があるというのがホッブズの洞察でした。

具体的には、主権者が聖書の解釈権を持ち、宗教的教義の最終的な判断者となるべきだと論じます。これにより、異なる宗教解釈をめぐる争いは原理的に解消されるのです。主権者の判断に従うことで、宗教的対立による内戦を防ぐことができるというわけです。

ただし、ホッブズは無神論者ではありませんでした。彼は神の存在を認めつつ、地上における神の代理人として主権者を位置づけたのです。これは中世の「神権政治」とは異なります。主権者の権威は神から直接与えられるのではなく、人民の契約によって成立し、その契約の履行のために宗教的権威も必要だという論理構造になっています。

教会と国家の理想的関係

ホッブズが描く理想的なキリスト教国家では、教会は国家の一部として機能します。しかし、これは教会の完全な従属を意味するわけではありません。

彼は「見えるキリスト教会」と「見えないキリスト教会」を区別します。見えないキリスト教会とは、神に選ばれた信者たちの霊的共同体であり、これは人間の政治的権力の及ばない領域です。一方、見える教会は地上における具体的な宗教組織であり、これは主権者の権威の下に置かれるべきだとします。

この区別によって、ホッブズは信仰の自由と政治的統一を両立させようとしました。内心の信仰は自由ですが、外面的な宗教的行為や教義の解釈は主権者の管轄下に置かれるのです。

具体的には、主権者が聖職者の任命権を持ち、教会の財産管理権を握り、宗教的儀式の形式を決定する権限を有します。また、聖書の公的解釈権も主権者に帰属します。これにより、宗教的権威を盾にした政治的反抗を防ぐことができるのです。

しかし、ホッブズは主権者に無制限の宗教的専制を認めているわけではありません。主権者といえども真理に反する命令はできず、また臣民に対して内心の信仰を強制することはできないとしています。あくまで外面的な宗教的秩序の維持が目的なのです。

この構想は、現代の政教分離原則とは正反対に見えるかもしれません。しかし、ホッブズの時代においては、これが宗教対立による内戦を防ぐ現実的な解決策だったのです。

預言と奇跡の政治的意味

ホッブズは宗教現象を政治哲学の観点から徹底的に分析します。特に預言と奇跡については、その政治的機能に注目した画期的な議論を展開しています。

まず預言について。ホッブズは預言を「神からの特別な啓示」として認めつつも、その真偽を判定する権限は主権者にあるとします。なぜなら、誰もが「神の声を聞いた」と主張できるからです。実際、宗教戦争の多くは、異なる預言者たちが互いに「真の神の意志」を主張することから始まっていました。

ホッブズの解決策は明快です。主権者が真の預言と偽の預言を区別する最終的な権威を持つべきだというのです。これは預言の内容の真理性を判断するのではなく、社会的混乱を防ぐための実践的措置なのです。

彼は旧約聖書の事例を詳細に分析し、真の預言者は必ず既存の宗教的権威と調和するものだったことを示します。モーセやサムエルのような真の預言者は、決して既存の秩序を破壊するのではなく、神の意志に従った統治を確立していたのです。

奇跡についても同様の論理が展開されます。ホッブズは奇跡の存在を否定しませんが、その認定権は主権者に帰属するとします。奇跡を装った詐欺や迷信が政治的混乱を引き起こすことを防ぐためです。

興味深いことに、ホッブズは聖書の奇跡を詳細に分析し、それらが単なる超自然現象ではなく、神の政治的意図を示すものだったと解釈します。エジプトからの脱出における数々の奇跡は、神がイスラエルの政治的指導者としてモーセを任命したことを民に示すためのものだったのです。

つまり、奇跡は政治的権威の正当化装置として機能していたというのです。そうであるならば、現代においても奇跡の認定は政治的判断を含まざるを得ず、最終的には主権者の権限に委ねられるべきだというのがホッブズの結論です。

このような議論を通して、ホッブズは宗教現象を政治学の枠組みで分析する新しい方法論を確立しました。宗教を単なる迷信として退けるのでもなく、無批判に受け入れるのでもなく、その政治的機能を冷静に分析することで、宗教と政治の理想的関係を模索したのです。

これらの議論は当時としては極めて危険な思想でした。宗教的権威の相対化は、既存の教会勢力からの激しい反発を招きました。しかし、ホッブズの目的は宗教の破壊ではなく、真の平和の実現だったのです。宗教的対立による内戦を防ぎ、すべての人が安全に暮らせる社会を築くために、彼はあえて困難な道を選んだのです。

「闇の王国」批判

カトリック教会への痛烈な批判

ホッブズは『リヴァイアサン』第四部で、カトリック教会を「闇の王国」(Kingdom of Darkness)と呼んで徹底的に批判します。この批判は単なる宗教的偏見ではなく、彼の政治哲学の論理的帰結として展開される、極めて体系的な議論なのです。

まず、ホッブズがカトリック教会を批判する根本的理由を理解する必要があります。それは、教皇が「キリストの代理人」として、世俗の主権者を超える権威を主張していることです。これは彼の主権理論と真っ向から対立します。なぜなら、一つの国家に二つの最高権威が存在すれば、必然的に権力闘争が生じ、平和が破壊されるからです。

ホッブズは歴史的事例を豊富に引用して、教皇権がヨーロッパ各国にもたらした混乱を詳細に分析します。特に神聖ローマ皇帝との叙任権闘争、フランス王との対立、イングランドにおけるカンタベリー大司教トマス・ベケット事件などを取り上げて、宗教的権威と世俗的権威の二元化がいかに破滅的結果をもたらすかを論証するのです。

彼の批判で特に鋭いのは、教皇制度の「人工性」を暴露している点です。キリスト自身は地上の政治的王国を否定し、「わが国はこの世のものではない」と明言していたにも関わらず、教皇はローマ皇帝に代わって世俗的権力を握ろうとしていると指摘します。これは明らかにキリストの教えに反するものだというのです。

さらにホッブズは、カトリック教会の階層制度そのものを問題視します。司教、大司教、枢機卿といった階級制は、初期キリスト教には存在しなかったものであり、ローマ帝国の官僚制度を模倣して作り上げられた人工的なシステムだと論じます。この階層制によって、本来は平等であるべき信者の間に支配関係が持ち込まれ、キリスト教の本質が歪められているというのです。

ホッブズは特に「破門」(excommunication)の権力を厳しく批判します。破門とは、信者を教会共同体から排除し、永遠の地獄に落とすと脅す制度です。これによって教皇は、世俗の君主でさえも屈服させることができました。しかし、ホッブズによれば、このような権力は聖書のどこにも根拠がありません。むしろ、恐怖による支配という点で、悪魔的な権力だというのです。

また、聖職者の独身制についても鋭い批判を展開します。これは使徒パウロの個人的推奨を教会法として強制したものであり、聖書の明確な命令ではないと指摘します。独身制によって聖職者を一般信者から分離し、特別な階級として位置づけることで、教会の権威を高めようとする政治的戦略だというのがホッブズの見解です。

迷信と無知がもたらす混乱

ホッブズの「闇の王国」批判は、カトリック教会だけでなく、より広範な迷信と無知の問題にも及びます。彼は人間の心理を深く分析し、なぜ人々が迷信に陥りやすいのかを解明します。

恐怖こそが迷信の根源だとホッブズは論じます。人間は未来に対する不安、死への恐怖、災害や病気への恐れを抱いています。この恐怖が理性を曇らせ、非合理な信念を生み出すのです。特に、自分では制御できない出来事に直面したとき、人々は超自然的な力に頼ろうとします。ここに迷信が入り込む隙間があるのです。

悪意ある指導者たちは、この人間の弱さを巧妙に利用します。彼らは民衆の恐怖を煽り、自分たちだけが救済の手段を知っていると主張して、権力と富を獲得するのです。ホッブズはこれを「恐怖の商人」と呼んで厳しく糾弾します。

具体的な迷信の例として、ホッブズは煉獄の概念を取り上げます。煉獄とは、天国でも地獄でもない中間的な場所で、死後の魂が罪を清められるとされる場所です。しかし、この概念は聖書には明確に記されていません。それにも関わらず、教会は煉獄での苦しみを軽減するための「免罪符」を販売し、莫大な利益を得ていたのです。

ホッブズの分析によれば、煉獄の教えは純粋に政治的・経済的動機から作り出されたものです。人々の死への恐怖を利用して、生者から金銭を搾取するシステムなのです。これは宗教を装った詐欺であり、真のキリスト教とは何の関係もないと彼は断じます。

聖人崇拝についても同様の批判を展開します。キリスト教は本来、唯一神への信仰を説くものでした。しかし、カトリック教会は数多くの聖人を作り出し、それぞれに特別な力があると教えています。これは実質的に多神教への逆行であり、古代の偶像崇拝と何ら変わらないとホッブズは指摘します。

さらに深刻なのは、これらの迷信が政治的混乱を引き起こすことです。異なる宗教的権威が異なる「真理」を主張すれば、民衆は何を信じてよいかわからなくなります。この混乱状態で、野心家たちが宗教的権威を装って政治的反乱を起こすのです。ホッブズが生きた時代の宗教戦争は、まさにこのメカニズムによって引き起こされたものでした。

真の宗教とは何か

では、ホッブズが考える「真の宗教」とはどのようなものでしょうか。彼は決して宗教そのものを否定しているわけではありません。むしろ、迷信と区別された純粋な信仰のあり方を模索しているのです。

まず、ホッブズは宗教の本質を「神への敬意」として定義します。これは恐怖に基づく迷信的な崇拝ではなく、理性に基づく敬意です。人間は自然を観察し、その精巧な仕組みに気づくとき、必然的にその創造者である神の存在を推論します。これが真の宗教の出発点なのです。

真の宗教は、まず神の存在を理性的に認識することから始まります。ホッブズは、宇宙の第一原因として神が存在することは理性的に証明可能だと考えていました。しかし、神の本質や属性について詳細に語ることは人間の能力を超えているとも述べています。したがって、真の宗教的態度とは、神に対する畏敬の念を持ちつつ、同時に人間の認識の限界を謙虚に受け入れることなのです。

キリスト教に関しては、ホッブズは「イエスはキリストである」という単純な信仰告白こそが本質だと主張します。複雑な神学的教義や哲学的議論は、本来のキリスト教には不要なものです。むしろ、そうした複雑化が宗教的対立を生み出す原因になっているのです。

聖書の読み方についても、ホッブズは明確な方針を示します。聖書は字義通りに理解すべきであり、寓意的解釈や神秘的解釈は避けるべきです。なぜなら、そうした解釈は個人の主観に依存するため、無限の解釈の相違を生み出すからです。聖書の明確な記述に従い、不明な部分については判断を保留するのが賢明な態度だというのです。

また、真の宗教は必ず道徳的実践を伴うとホッブズは強調します。神への信仰が本物であるなら、それは隣人愛として現れるはずです。逆に言えば、宗教的熱狂を口にしながら他者を迫害するような行為は、真の信仰とは正反対のものなのです。

ホッブズが最も重視するのは、宗教が平和に貢献することです。真の宗教は人々を結束させ、相互の愛と尊敬を促進します。対立と憎悪を生み出すような教えは、それがいかに権威ある機関から出されたものであっても、真の宗教ではありえません。

この観点から、ホッブズは宗教的寛容の重要性を説きます。内心の信仰は各人の自由に委ねられるべきであり、外面的な宗教的統一のみが政治的に必要なのです。これは近世ヨーロッパとしては極めて先進的な考え方でした。

最終的に、ホッブズの「真の宗教」観は、理性と信仰の調和、個人的敬虔と社会的平和の両立を目指すものでした。これは単なる政治的妥協ではなく、宗教の本質についての深い洞察に基づいた提案だったのです。彼の宗教論は、現代の多元主義社会においても重要な示唆を与え続けています。

現代への影響と批判的検討

リヴァイアサンの遺産

現代民主主義への影響

ホッブズの『リヴァイアサン』が現代民主主義に与えた影響は、一見すると矛盾して見えるかもしれません。なぜなら、ホッブズ自身は絶対君主制を支持していたからです。しかし、彼の政治思想の根本的な論理構造こそが、後の民主主義理論の基盤となったのです。

最も重要な貢献は、政治権力の「人工性」と「契約性」を明確にしたことです。ホッブズ以前の政治思想では、王権は神から直接与えられるか、自然的な階層秩序の反映と考えられていました。しかし、ホッブズは政治権力を人間が作り出した「人工物」として位置づけました。国家は自然に存在するものではなく、個人の合理的選択によって構築される契約的関係だというのです。

この発想の転換は革命的でした。政治権力が人工的構築物であるなら、その形態や運営方法も人間の意志によって決定できることになります。君主制が唯一の選択肢ではなく、民主制や貴族制も等しく正当な政府形態として考えられるようになったのです。

さらに、ホッブズが導入した「授権」(authorization)の概念は、現代の代議制民主主義の理論的基礎となりました。彼によれば、主権者は人民から権力を「授権」されて統治するのです。この授権関係によって、統治者の行為は被統治者自身の行為として正当化されます。これは現代民主主義における「代表」(representation)の概念と本質的に同じ構造なのです。

現代の憲法理論にも、ホッブズの影響は色濃く現れています。特に、国家の正統性が人民の同意に基づくという「人民主権」の原理は、直接的にホッブズの社会契約論から派生したものです。アメリカ独立宣言の「政府の正当な権力は被統治者の同意から生まれる」という文言は、まさにホッブズ的な発想を体現しています。

ただし、ホッブズと現代民主主義の間には重要な相違点もあります。現代民主主義は権力分立と抑制均衡を重視しますが、ホッブズは権力分割を否定していました。また、現代民主主義が個人の権利を強調するのに対し、ホッブズは集団的安全を優先していました。

しかし、これらの相違点があるにせよ、ホッブズが確立した「契約による正統化」という基本枠組みなしには、現代民主主義理論は成立し得なかったでしょう。特に20世紀後半のジョン・ロールズの『正義論』は、明確にホッブズの契約論的伝統を継承しており、「無知のヴェール」という仮想的状況での合意を通じて正義原理を導出する方法論は、ホッブズの自然状態論の現代版と言えるのです。

国際関係論での応用

ホッブズの政治思想が最も直接的に応用されているのが、国際関係論の領域です。国際社会には統一的な主権者が存在せず、各国が自国の利益を追求する状態は、まさにホッブズが描いた「自然状態」に酷似しているからです。

国際関係論における「リアリズム」学派は、明確にホッブズ的な世界観に基づいています。この学派の創始者の一人であるハンス・モーゲンソーは、国際政治を「権力をめぐる闘争」として分析し、各国が安全保障のために軍備増強や同盟形成に励む現実を、ホッブズの理論によって説明しました。

特に重要なのは「安全保障のジレンマ」という概念です。ある国が自国の安全のために軍備を増強すると、他国はそれを脅威と感じてさらに軍備を増強する。結果として、すべての国の軍事支出が増大するにも関わらず、誰の安全も向上しないという状況が生まれます。これはホッブズが自然状態で描いた「予防戦争」の論理そのものなのです。

冷戦時代の核軍備競争は、このホッブズ的ジレンマの典型例でした。米ソ両国は相互確証破壊(MAD)という恐怖の均衡によって平和を維持しましたが、これもまた、ホッブズが論じた「恐怖による平和」の現代版と言えるでしょう。

現代の国際関係論では、ホッブズの理論はより洗練された形で応用されています。ケネス・ウォルツの「構造的リアリズム」は、国際システムの「無政府状態」(アナーキー)が各国の行動を規定すると論じます。これは明らかにホッブズの自然状態論の影響を受けています。

また、国際機関や国際法の限界についても、ホッブズ的な分析が有効です。国際連合が大国の拒否権によって機能不全に陥ることや、国際法が強制力を欠くため実効性が限定的であることは、統一的権威の不在という根本問題に由来するのです。

近年の国際関係論では、「ヘゲモニー安定論」という理論が注目されています。これは、国際システムの安定には覇権国(ヘゲモン)の存在が不可欠だという考え方で、アメリカの世界秩序における役割を分析する際によく用いられます。これもまた、ホッブズの「絶対主権による平和」というアイデアの国際版と言えるでしょう。

ただし、国際関係論におけるホッブズの応用には批判も存在します。「リベラル制度主義」学派は、国際機関や経済的相互依存によって協力が可能であることを強調し、ホッブズ的な悲観論に対抗しています。また、「コンストラクティヴィズム」学派は、国家の利益や脅威認識は客観的に決まるものではなく、社会的に構築されるものだと主張して、ホッブズの本質主義的な人間観を批判しています。

社会契約論の発展

ホッブズが確立した社会契約論は、その後の政治哲学の発展に決定的な影響を与えました。ロック、ルソー、カントといった後続の哲学者たちは皆、ホッブズの問題設定を受け継ぎながら、独自の契約論を展開したのです。

ジョン・ロックの『統治二論』(1689年)は、ホッブズへの直接的な応答として書かれました。ロックはホッブズの自然状態を過度に悲観的だと批判し、自然状態でも自然法によって一定の秩序が保たれると論じました。また、政府の目的を生命・自由・財産の保護に限定し、絶対主権を否定して抵抗権を擁護しました。これにより、立憲主義と自由主義の理論的基礎が築かれたのです。

ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』(1762年)は、より根本的にホッブズの理論を再構築しました。ルソーはホッブズの「万人の万人に対する闘争」を認めつつも、それは自然状態ではなく文明化の過程で生じた堕落状態だと診断しました。そして、「一般意志」という概念を導入して、真の民主主義による自由の回復を説いたのです。

イマヌエル・カントの政治哲学も、ホッブズの問題意識を継承しています。カントは『永遠平和のために』(1795年)で、国際関係における自然状態を克服するための「世界共和国」構想を提示しました。これは、ホッブズの社会契約論を国際レベルに拡張した試みと言えるでしょう。

20世紀に入ると、社会契約論は一時的に衰退しました。功利主義や社会学的実証主義が政治理論の主流となったからです。しかし、1970年代にジョン・ロールズが『正義論』を発表すると、契約論は華々しく復活しました。

ロールズの「原初状態」は、ホッブズの自然状態の現代版です。ただし、ロールズは暴力的対立ではなく、合理的熟慮に基づく合意を重視しました。「無知のヴェール」という設定により、個人は自分の社会的地位を知らない状況で正義原理を選択することになります。この方法論は、ホッブズが導入した仮想的契約状況という発想を、より洗練された形で発展させたものなのです。

ロールズ以降、社会契約論は多様な展開を見せています。ロバート・ノージックは自由至上主義的な契約論を、ブルース・アッカーマンはリベラルな対話論を、デイヴィッド・ゴティエは合理的選択理論に基づく契約論を展開しました。これらの理論は皆、ホッブズが確立した「個人の合理的選択から政治的正統性を導出する」という基本的アプローチを共有しています。

現代の契約論の特徴は、ホッブズの一元的な解答に対して、多元的で開かれた議論空間を提供していることです。ホッブズは秩序と平和を至上価値としていましたが、現代の契約論者たちは自由、平等、多様性といった価値も同等に重視しています。

また、フェミニズム政治理論からの批判も重要な発展をもたらしました。キャロル・ペイトマンは『性的契約』で、伝統的社会契約論が男性中心的であることを指摘し、ジェンダーの視点から契約論を再構築しました。これにより、ホッブズ以来の契約論的伝統の限界と可能性が新たな角度から検討されるようになったのです。

このように、ホッブズの社会契約論は370年以上を経た今日でも、政治哲学の中核的な方法論として生き続けています。それは、個人の自由と社会的協力をいかに両立させるかという根本問題が、人間存在の条件として普遍的だからに他なりません。

批判と反論

ロックやルソーからの批判

ホッブズの『リヴァイアサン』は出版直後から激しい論争を巻き起こし、後の思想家たちによる体系的な批判の対象となりました。中でも、ジョン・ロックとジャン=ジャック・ルソーによる批判は、ホッブズ理論の根本的な前提を揺さぶるものでした。

ジョン・ロックの批判は、まず人間の自然状態に対する理解から始まります。ロックは『統治二論』において、ホッブズが描く「万人の万人に対する闘争」状態を根本的に否定しました。ロックによれば、自然状態は戦争状態ではなく、「理性的で自由で平等な存在」としての人間が、自然法に従って平和に共存している状態なのです。

この違いは決定的でした。ホッブズが自然状態を脱出すべき恐怖の状況として描いたのに対し、ロックは自然状態を基本的には望ましい状態として肯定したのです。確かに自然状態には不便さがあります。自然法の解釈をめぐる争いや、その執行における困難などです。しかし、これらは絶対君主による解決を必要とするほど深刻な問題ではなく、限定的な政府によって十分に対処可能だというのがロックの見解でした。

さらにロックは、ホッブズの絶対主権論を「専制政治への道」として厳しく批判しました。ホッブズは人民が主権者に無条件に服従することで平和が実現されると論じましたが、ロックはこれを本末転倒だと指摘します。もし主権者が暴政を行った場合、人民にはそれに対抗する手段が一切ないことになります。これでは「オオカミから身を守るためにライオンに身を委ねる」ようなものだというのです。

ロックの対案は「信託理論」でした。政府は人民から統治権を「信託」されているに過ぎず、その信託の条件に違反した場合、人民は政府を解散させる権利を持つというのです。この「抵抗権」の思想は、後の市民革命の理論的根拠となりました。

財産権についても、両者の見解は大きく異なります。ホッブズは財産権を主権者が付与するものと考えましたが、ロックは労働に基づく自然権的財産権を主張しました。人間が自分の労働を自然物に混合することによって、その自然物は彼の財産となるのです。これにより、政府の権力は財産権によって制約されることになります。

ジャン=ジャック・ルソーの批判は、さらに根本的なものでした。ルソーは『人間不平等起源論』と『社会契約論』において、ホッブズの人間観そのものを問題視したのです。

ルソーによれば、ホッブズが「自然状態」として描いた闘争状態は、実は自然状態ではありません。それは文明化の過程で人間が堕落した結果生じた状態なのです。真の自然状態において、人間は「善良な野蛮人」でした。彼らは私有財産も階級制度も知らず、同情(憐れみ)と自己愛という自然な感情に導かれて平和に暮らしていたのです。

ルソーの分析では、不平等と対立の根源は私有財産制度にあります。「これは俺のものだ」と最初に言い、それを信じる人々を見つけた者が、市民社会の真の創設者だったのです。私有財産制度が確立されると、持てる者と持たざる者の対立が生まれ、これがホッブズの描いたような闘争状態を引き起こしたというのです。

したがって、ルソーにとって社会契約の目的は、ホッブズのような秩序の創出ではなく、失われた自由の回復なのです。『社会契約論』の有名な冒頭「人間は自由なものとして生まれたが、いたるところで鎖につながれている」は、この問題意識を端的に表現しています。

ルソーの解決策は「一般意志」による統治でした。真の社会契約によって成立した政治共同体では、各人は全体に自分を完全に譲渡しつつ、同時に一般意志の形成に参加することで、真の自由を獲得できるというのです。これは、ホッブズの代表制とは正反対の直接民主主義の理想でした。

宗教論においても、ルソーはホッブズと対照的な立場を取りました。ホッブズが宗教的権威を世俗的主権者に従属させようとしたのに対し、ルソーは「市民宗教」の必要性を説きました。政治共同体には、市民を結束させる共通の信念が必要であり、それは伝統的宗教とも無神論とも異なる、理性的で寛容な信仰でなければならないというのです。

現代哲学者からの評価

20世紀から21世紀にかけて、ホッブズの政治哲学は多様な角度から再評価されています。現代の哲学者たちは、単純にホッブズを「専制主義者」として退けるのではなく、その理論の複雑さと現代的意義を認識するようになりました。

分析哲学の立場から、デイヴィッド・ゴティエは『利己主義者の論理』(1986年)において、ホッブズの合理的選択理論としての側面を高く評価しました。ゴティエによれば、ホッブズの社会契約論は、利己的な個人が合理的熟慮によって協力の必要性を認識する過程を見事に描写しています。これは現代のゲーム理論における「囚人のジレンマ」と本質的に同じ構造を持っているのです。

ただし、ゴティエはホッブズの解決策には批判的です。絶対主権による強制的協力よりも、個人の合理性の発展による自発的協力の方が望ましいと論じています。これにより、ホッブズの問題設定を受け入れつつ、より自由主義的な解決策を模索する道が開かれました。

政治学者のマイケル・オークショットは、別の角度からホッブズを評価しました。オークショットは『ホッブズの政治哲学』において、ホッブズを近代個人主義の創始者として位置づけました。ホッブズは伝統的な共同体の絆を解体し、原子化された個人から出発する政治理論を初めて体系化した思想家だというのです。

この見方によれば、ホッブズの「絶対主権」は専制政治ではなく、むしろ個人の自由を保障するための装置なのです。なぜなら、主権者の役割は特定の価値観や生き方を強制することではなく、各人が自分の価値観に従って生きられる平和な環境を提供することだからです。

フェミニスト政治理論からは、キャロル・ペイトマンが『性的契約』(1988年)でホッブズへの鋭い批判を展開しました。ペイトマンによれば、伝統的社会契約論は表向きは普遍的な理論を装いながら、実際には男性間の契約に過ぎませんでした。女性は自然状態から除外されており、社会契約の当事者としても扱われていないのです。

しかし、ペイトマンの批判は単純な否定ではありません。彼女はホッブズの方法論的個人主義や平等主義的前提には価値を認めており、それを真に普遍的な理論に発展させる可能性を探っています。

近年、特に注目されているのは、ホッブズの国際関係論としての側面です。政治学者のマイケル・ドイルは『自由主義的平和論』で、ホッブズの自然状態論を国際関係に適用し、民主主義国家間の平和の可能性を論じました。また、アレクサンダー・ウェントは『国際政治の社会理論』で、ホッブズ的な「敵対文化」から、ロック的な「競争文化」、そしてカント的な「友好文化」への発展可能性を分析しています。

哲学者のハンプトンとカヴカは『ホッブズとリヴァイアサンの理論』(1986年)で、ホッブズの議論を現代的な合理的選択理論の枠組みで再構成しました。彼らは、ホッブズの社会契約が数学的にも証明可能な合理的選択であることを示しつつ、同時にその限界も指摘しています。

政治哲学者のフィリップ・ペティットは、ホッブズを「消極的自由」の理論家として批判的に評価しています。ペティットの「共和主義」理論によれば、ホッブズは他者からの干渉の不在としての自由しか考慮しておらず、支配からの免除という「積極的自由」を無視しているのです。

ホッブズ像の変遷

ホッブズに対する評価は、時代とともに大きく変化してきました。この変遷を辿ることで、政治思想史における彼の位置づけがいかに複雑であるかが理解できます。

17世紀後半から18世紀にかけて、ホッブズは主に「無神論者」「専制主義者」として批判されました。当時のイングランドでは、彼の宗教論が最も問題視され、「ホッブズ主義」は危険思想の代名詞となっていました。この時期のホッブズ像は、伝統的権威を破壊する危険な革命家というものでした。

19世紀に入ると、評価が変化し始めます。功利主義者のジェレミー・ベンサムは、ホッブズを近代的合理主義の先駆者として評価しました。また、歴史学派の研究により、ホッブズの思想が当時の政治的文脈において果たした役割が客観的に分析されるようになりました。

20世紀前半には、二つの対照的なホッブズ像が形成されました。一つは、カール・シュミットによる「決断主義者ホッブズ」です。シュミットは『リヴァイアサン』を、例外状況における主権者の決断の重要性を説いた書物として解釈しました。この読解は、後にファシズムとの関連で問題視されることになります。

もう一つは、レオ・シュトラウスによる「自然権思想家ホッブズ」です。シュトラウスは『自然権と歴史』で、ホッブズを近代自然権思想の創始者として位置づけ、その革新性と問題性の両面を詳細に分析しました。

戦後の政治学・哲学界では、より複層的なホッブズ理解が進みました。C.B.マクファーソンは『所有的個人主義の政治理論』(1962年)で、ホッブズを資本主義的市場社会の理論家として読み直しました。ホッブズの「自然状態」は、実は17世紀の初期資本主義社会の現実を反映しているというのです。

1980年代以降、分析哲学の手法を用いたホッブズ研究が盛んになりました。ジャン・ハンプトン、グレゴリー・カヴカ、デイヴィッド・ゴティエらは、ホッブズの議論を現代の合理的選択理論やゲーム理論の枠組みで精密に分析し、その論理的構造を明らかにしました。

近年では、「ケンブリッジ学派」の思想史研究により、ホッブズの歴史的文脈がより正確に理解されるようになりました。クェンティン・スキナーは、ホッブズを17世紀の共和主義論争の文脈に位置づけ、彼の自由論が当時の政治的議論においてどのような意味を持っていたかを解明しました。

現在のホッブズ研究では、複数の側面が同時に注目されています。政治哲学者としてのホッブズ、科学哲学者としてのホッブズ、宗教哲学者としてのホッブズ、そして修辞学者としてのホッブズなど、多面的なアプローチが取られています。

特に興味深いのは、「フェミニスト・ホッブズ」という新しい読解の可能性です。一部の研究者は、ホッブズの自然状態における平等主義が、実は家父長制的権威に対する批判的含意を持っていた可能性を指摘しています。

また、環境哲学の観点からホッブズを再読する試みも始まっています。気候変動や環境破壊という地球規模の問題に直面した現代において、ホッブズの集合行為問題に関する洞察が新たな意味を持つようになっているのです。

このように、ホッブズ像は時代の問題関心とともに変化し続き、豊かになってきました。

21世紀の今日では、単一の「正しいホッブズ像」を求めるのではなく、多様な解釈の可能性を認めつつ、それぞれの文脈における意義を検討するという、より成熟したアプローチが取られています。

興味深いことに、近年のグローバル化や技術革新は、ホッブズの議論に新たな現実味をもたらしています。国際テロリズム、サイバー戦争、パンデミック、気候変動といった問題は、従来の国民国家の枠組みを超えた新しい形の「自然状態」を生み出しており、ホッブズ的な分析枠組みの有効性が再認識されているのです。

また、人工知能や遺伝子工学の発展は、ホッブズが前提としていた「人間の平等」という条件を根本から問い直すことを迫っています。もし技術によって人間の能力に決定的な格差が生まれたとすれば、ホッブズの政治理論はどのような修正を必要とするのか。こうした問題は、現代のホッブズ研究の最前線で議論されている課題なのです。

さらに、実験経済学や進化心理学の知見は、ホッブズの人間観に対する新たな検証の機会を提供しています。人間は本当にホッブズが描いたような利己的で競争的な存在なのか、それとも生来的に協力的な側面を持っているのか。こうした実証的研究の成果は、ホッブズ理論の妥当性を評価する上で重要な材料となっています。

現代におけるホッブズの評価で特に注目すべきは、その「リアリズム」です。理想主義的な政治理論が現実の複雑さに対処できない場面で、ホッブズの冷徹な分析は依然として有効な洞察を提供するのです。これは、ホッブズが単なる「古典」ではなく、現在も生きている思想家であることを示しています。

ただし、現代の評価においても注意が必要です。ホッブズの理論を無批判に現代に適用することは危険であり、常に批判的検討が必要です。特に、権威主義的政府がホッブズの議論を自らの正当化に利用することがあるため、学問的な議論と政治的な宣伝を区別することが重要となっています。

結論として、ホッブズ像の変遷は、各時代の政治的・知的課題を反映した鏡のような存在と言えるでしょう。そして現代においても、ホッブズは私たちに根本的な問いを投げかけ続けています。人間とは何か、政治とは何か、そして良い社会とはどのようなものか。これらの問いに対する答えを求める限り、ホッブズとの対話は続いていくのです。

現代社会との接点

コロナ禍と緊急事態:ホッブズ的な状況?

2020年から始まった新型コロナウイルスのパンデミックは、現代社会にホッブズ的な状況を現出させました。突如として、私たちは生命の安全が脅かされる状況に直面し、政府による強力な統制措置を受け入れることになったのです。この経験は、ホッブズの政治理論の現代的意義を鮮明に浮き彫りにしました。

まず、パンデミックという状況そのものが、ホッブズの描いた恐怖に支配された世界と類似していました。見えないウイルスという敵に対して、誰もが潜在的な脅威となり得る状況が生まれたのです。他者との接触が感染リスクを意味するため、社会的距離を取ることが生存戦略となりました。これは「万人の万人に対する闘争」の現代版とも言えるでしょう。

各国政府の対応は、まさにホッブズが論じた主権者の機能を体現していました。緊急事態宣言、外出制限、営業停止命令、国境封鎖など、平常時では考えられないような強権的措置が、「生命を守る」という名目で正当化されたのです。人々は自由を制限されることを受け入れ、それどころか政府のより強力な対応を求める声さえ上がりました。

興味深いのは、この危機において民主主義国家と権威主義国家の対応に違いが見られたことです。中国のような権威主義体制は迅速で徹底した封じ込め措置を実行できた一方で、西欧の民主主義国家は個人の自由と集団の安全のバランスを取ろうとして、初期対応が遅れる場合がありました。これは、ホッブズが予見していた「分裂した主権の危険性」を現代的文脈で示している事例と言えるでしょう。

しかし、パンデミック対応には、ホッブズ理論では説明できない側面も多く見られました。多くの人々が自発的にマスクを着用し、ソーシャル・ディスタンシングを実践したのは、単なる恐怖からではなく、他者への思いやりや社会的責任感からでもありました。これは、ホッブズの利己的人間観だけでは捉えきれない人間の協力的側面を示しています。

また、科学的専門知識の重要性が際立ったことも注目すべき点です。政治指導者の権威だけでなく、疫学者や公衆衛生専門家の知見が政策決定の重要な根拠となりました。これは、ホッブズが想定していた単純な権威関係を複雑化させる要因となっています。

ワクチン開発と配布における国際協力と対立も、ホッブズ的な分析の妥当性を示しました。各国は自国民へのワクチン確保を優先し、「ワクチン・ナショナリズム」とも呼ばれる現象が生じました。これは、国際関係におけるホッブズ的な自然状態の現れと解釈できます。一方で、WHO主導のCOVAXファシリティのような国際協力の試みも存在し、ホッブズ的現実主義と理想主義的協力の間の緊張が見られました。

パンデミックが長期化するにつれて、緊急事態措置の「常態化」への懸念も生まれました。一時的な権力の集中が恒常的なものになる危険性は、ホッブズが論じた絶対主権の問題点を想起させます。実際、一部の国では政府がパンデミックを口実にして権威主義的統制を強化する事例も見られました。

経済的格差の拡大も重要な論点でした。ロックダウン措置により、在宅勤務が可能な知識労働者と、現場に出なければならないエッセンシャル・ワーカーの間で格差が拡大しました。また、デジタル技術へのアクセスの有無が、教育や就労の機会に大きな影響を与えました。これらは、ホッブズが十分に考慮していなかった社会経済的不平等の問題を浮き彫りにしています。

AI時代の主権論

人工知能技術の急速な発展は、ホッブズの主権論に根本的な挑戦を突きつけています。AIが人間の知的能力を凌駕し、社会のあらゆる領域に浸透する時代において、伝統的な主権概念はどのような変容を遂げるのでしょうか。

まず考慮すべきは、AIが意思決定過程に与える影響です。現代の政府は既に、経済予測、犯罪防止、医療政策など様々な分野でAIシステムを活用しています。これらのシステムが高度化すれば、人間の政治指導者よりもAIの方が優れた判断を下せるようになる可能性があります。そうなった時、「人間による統治」という前提は維持できるのでしょうか。

ホッブズは主権者の正統性を人民の同意に求めましたが、もしAIによる統治が明らかに人間による統治よりも優れた結果をもたらすなら、人々はAI主権者を受け入れるかもしれません。これは「アルゴリズム・リヴァイアサン」とも呼ぶべき新しい統治形態の可能性を示唆しています。

実際、中国では「社会信用システム」として、AI技術を用いた包括的な社会統制システムが実験されています。このシステムでは、個人の行動がすべてデータとして収集・分析され、信用スコアに基づいて社会サービスへのアクセスが決定されます。これは、ホッブズが構想した絶対主権を、現代のテクノロジーによって実現したものと言えるかもしれません。

しかし、AI統治には深刻な問題もあります。最も重要なのは、AIシステムの「ブラックボックス」問題です。深層学習などの高度なAI技術は、その判断過程を人間が理解することが困難です。もしAI主権者が重要な政治的決定を下した場合、その理由を説明できないという事態が生じる可能性があります。これは、政治的正統性の根幹を揺るがす問題です。

また、AIシステムには開発者や運用者の価値観が組み込まれています。表面的には「客観的」で「中立的」に見えるAI判断も、実際には特定の価値観を反映している可能性があります。これは、誰がAIを制御するのかという新しい形の権力問題を生み出します。

プライバシーと監視の問題も深刻です。AI技術は個人の行動を詳細に追跡・分析することを可能にし、これまで不可能だったレベルの社会統制を実現できます。ホッブズは主権者による平和の維持を重視しましたが、AI監視社会は「平和」と引き換えに個人の自律性を完全に剥奪する可能性があります。

国際関係においても、AI技術は新しい課題を提起しています。AI兵器システムの開発競争は、新しい形の軍拡競争を生み出しており、これは国際的な「AI自然状態」とも呼ぶべき状況を作り出しています。各国がAI技術の優位性を求めて競争する中で、従来の国際法や軍備管理体制の有効性が問われています。

経済領域では、AIによる労働代替が大規模な失業を引き起こす可能性が指摘されています。これは社会的不安定の要因となり得るため、新しい形の社会契約が必要になるかもしれません。ユニバーサル・ベーシック・インカムのような政策提案は、AI時代におけるホッブズ的な社会統合の試みとも解釈できます。

データ主権という新しい概念も注目されています。個人データや国家データの管理権限を誰が持つべきかという問題は、伝統的な領土主権を補完する新しい主権概念の必要性を示唆しています。EUのGDPR(一般データ保護規則)のような取り組みは、デジタル時代における主権の新しい形態を模索する試みと言えるでしょう。

グローバル化時代の「自然状態」

21世紀のグローバル化は、ホッブズの「自然状態」概念に新たな現実味をもたらしています。国民国家の枠組みを超えたグローバルな相互依存が深まる一方で、これを統御する統一的な世界政府は存在しません。この状況は、まさにホッブズが描いた自然状態の現代版と言えるのです。

経済のグローバル化は、国家間の競争を新しい次元に押し上げました。貿易戦争、通貨戦争、技術覇権競争など、軍事的対立に至らない形での国家間闘争が常態化しています。これらは、ホッブズが論じた「栄光のための競争」の現代的形態と解釈できます。各国は相対的優位を求めて競争し、一国の利益が他国の損失となるゼロサム的状況が生まれやすくなっています。

金融市場のグローバル化は、特に興味深いケースです。国際金融市場には統一的な規制当局が存在せず、各国の金融政策が相互に影響を与え合う複雑なシステムが形成されています。2008年のリーマン・ショックのような金融危機は、この「金融自然状態」の危険性を如実に示しました。各国は自国の金融システムを守るために協調しつつも、最終的には自国の利益を優先せざるを得ませんでした。

気候変動問題は、グローバルな集合行為問題の典型例です。温室効果ガスの排出削減は全人類の共通利益ですが、削減のコストは各国が個別に負担しなければなりません。この構造は、ホッブズの自然状態における「合理的な非協力」と同じメカニズムを持っています。パリ協定のような国際枠組みは、この問題を解決しようとする試みですが、強制力の欠如により実効性に限界があります。

サイバー空間の登場は、全く新しい形の「自然状態」を作り出しました。インターネットは本来、国境を超えた自由な情報交換の場として構想されましたが、現実には国家間のサイバー攻撃、民間企業による個人データの収集・利用、犯罪組織による不正行為などが横行する無秩序な空間となっています。サイバー空間には物理的な境界がなく、従来の主権概念が通用しないため、新しい形の統治原理が求められています。

移民・難民問題も、グローバル化時代の「自然状態」を象徴する現象です。戦争、貧困、環境変化などにより故郷を離れることを余儀なくされた人々は、国境を超えて安全と生存を求めて移動します。しかし、受け入れ国の政府と既存住民は、自国の安全と利益を優先して移民を制限しようとします。この対立は、ホッブズが論じた生存をめぐる根本的な闘争の現代版と言えるでしょう。

多国籍企業の活動も、国家主権に新たな挑戦を与えています。グローバル企業は複数の国家にまたがって活動し、時には一国の政府よりも大きな経済力を持っています。税金逃れ、労働基準の回避、環境規制の迂回など、企業が国家間の制度の違いを利用して利益を最大化する行動は、「規制の自然状態」とも呼ぶべき状況を作り出しています。

国際テロリズムは、従来の国家間関係の枠組みを超えた新しい脅威です。テロ組織は特定の領土を持たず、国際的なネットワークを通じて活動するため、伝統的な主権国家システムでは対処が困難です。これに対する「テロとの戦争」は、ホッブズ的な予防戦争の論理を国際レベルで適用した例と見ることができます。

パンデミック対応における国際協力の困難も、グローバルな自然状態の特徴を示しています。ウイルスは国境を越えて拡散するため、本来は国際協力が不可欠ですが、実際には各国が自国民の安全を優先して行動しました。ワクチンの開発・配布においても、国際的な公平性よりも自国の利益が優先される場面が多く見られました。

しかし、完全に悲観的な見方だけが正しいわけではありません。国際機関、NGO、多国間協定など、グローバルな協力のメカニズムも発展してきました。EUのような地域統合の試みは、ホッブズ的な自然状態を克服する現代的な実験と言えるでしょう。

まとめ:リヴァイアサンから学ぶこと

ホッブズの核心メッセージの再確認

370年以上前に書かれた『リヴァイアサン』を現代の私たちが読む理由は何でしょうか。それは、ホッブズが人間と政治について発見した根本的な洞察が、今なお私たちの生きる世界を理解するための鍵を提供してくれるからです。

ホッブズの核心メッセージを一言で表現するなら、「平和は自然に与えられるものではなく、人間が意識的に創り出さなければならないものである」ということです。彼の時代、ヨーロッパは宗教戦争で荒廃し、人々は日常的に死の恐怖と隣り合わせの生活を送っていました。ホッブズはこの現実を直視し、「なぜ人間は争うのか」「どうすれば平和を実現できるのか」という根本的な問いに答えようとしたのです。

彼の答えは、人間の本性を冷徹に分析することから始まりました。人間は本質的に平等であり、限りある資源をめぐって競争する存在です。さらに、未来への不安と他者への不信が、予防的な攻撃を合理化します。この分析は、現代の国際関係論における「安全保障のジレンマ」や、経済学における「囚人のジレンマ」と本質的に同じ構造を持っています。

しかし、ホッブズは人間を絶望的な存在として描いたわけではありません。むしろ、人間には理性があり、長期的な利益を計算する能力があることを強調しました。自然状態の悲惨さを理性的に認識した人間は、相互の安全を保障する契約を結ぶことができるのです。これが社会契約の核心的なアイデアです。

ホッブズの政治理論で最も革新的だったのは、政治権力を「人工的な創造物」として位置づけたことです。王権神授説が支配的だった時代に、国家を人間が作り出した「機械」として描いたのです。リヴァイアサンという人工的な巨人は、個人の身体が細胞のように結合して作られた集合体でした。これは、政治権力が神秘的なものではなく、人間の合理的設計によるものであることを示しています。

主権概念も、ホッブズの重要な貢献です。彼は主権を「最高で絶対的な権力」として定義しましたが、これは専制政治を支持するためではありませんでした。むしろ、権力分立による政治的混乱を防ぎ、真の平和を実現するための論理的帰結だったのです。現代の私たちから見れば極端に思える絶対主権論も、当時の政治的混乱を考えれば、平和への切実な願いから生まれたものだったのです。

ホッブズの宗教論も見過ごせません。宗教的対立が政治的混乱の原因となっていた時代に、彼は宗教と政治の関係を根本的に再考しました。宗教を否定するのではなく、それを政治的秩序の中に適切に位置づけることで、信仰と平和の両立を図ろうとしたのです。これは現代の多元主義社会における宗教問題を考える上でも示唆に富んでいます。

何より重要なのは、ホッブズが提示した方法論です。伝統や権威に頼るのではなく、人間の本性から出発して政治秩序の必要性を論証するという手法は、近代政治学の出発点となりました。この方法論は、民主主義理論、自由主義理論、さらには現代の政治哲学にまで連綿と受け継がれています。

現代人が『リヴァイアサン』から得られる教訓

では、21世紀を生きる私たちは、『リヴァイアサン』からどのような教訓を得ることができるのでしょうか。

第一に、平和の脆弱性について深く理解することです。私たち現代人は、特に先進国に住む者は、平和を当然のものと考えがちです。しかし、ホッブズは平和が決して自明なものではないことを教えてくれます。平和は常に維持・創造されなければならないものであり、それを怠れば容易に混乱に陥る可能性があるのです。

現代でも、シリア内戦、ウクライナ戦争、ミャンマーの軍事クーデターなど、政治的権威が崩壊した地域では「万人の万人に対する闘争」に近い状況が現実に生じています。また、先進国においても、政治的分極化や社会的対立の激化により、民主主義の基盤が揺らぐ事例が増えています。ホッブズの分析は、こうした現象を理解するための重要な視点を提供してくれます。

第二に、集合行為問題の普遍性です。気候変動対策、パンデミック対応、経済格差の是正など、現代社会が直面する多くの問題は、個人の合理的行動が集団にとって非合理的結果をもたらすという構造を持っています。これはまさに、ホッブズが自然状態で描いた問題と同じです。

例えば、温室効果ガスの削減は全人類の利益になりますが、削減のコストは個別の国家や企業が負担しなければなりません。このため、「他国が削減すれば十分」という「ただ乗り」の誘因が働きます。これを解決するには、ある種の「権威」による調整が必要ですが、国際社会には統一的な権威が存在しないため、問題が深刻化するのです。

第三に、制度設計の重要性です。ホッブズは政治制度を「人工物」として捉え、それがどのように設計されるかによって社会の運命が決まることを示しました。現代においても、憲法、選挙制度、司法システム、官僚制度など、様々な制度の設計が社会の安定と繁栄に決定的な影響を与えています。

特に重要なのは、制度設計における「インセンティブ設計」の考え方です。ホッブズは人間の利己的な動機を否定するのではなく、それを平和に資するように誘導する仕組みを考案しました。現代の経済学や政治学における「メカニズム・デザイン」の考え方は、この発想を継承・発展させたものです。

第四に、権力と自由の複雑な関係についての洞察です。一般的に、権力と自由は対立するものと考えられがちですが、ホッブズは両者が相互依存的な関係にあることを示しました。適切な権力の行使なしには、真の自由は実現できないのです。

これは現代のリベラル・デモクラシーを理解する上でも重要な視点です。自由を保障するためには、それを侵害する力を抑制する権力が必要です。また、市場経済が機能するためには、契約の履行を保障し、詐欺や暴力を防止する国家権力が不可欠です。完全に「小さな政府」では、かえって自由が脅かされる可能性があるのです。

第五に、理性的対話の重要性です。ホッブズは宗教戦争の時代に生きながら、異なる信念を持つ人々が共存する方法を模索しました。彼の解決策は完璧ではありませんが、感情的対立を理性的議論に転換しようとする姿勢は学ぶべきものがあります。

現代社会でも、政治的イデオロギー、宗教、文化の違いをめぐる対立が深刻化しています。SNSの普及により、同じ考えを持つ人々だけの「エコーチェンバー」に閉じこもりやすくなり、異なる意見への寛容性が低下しています。こうした状況で、ホッブズが示した「理性による合意」の可能性を再考することは有意義でしょう。

第六に、グローバル・ガバナンスの必要性です。ホッブズの時代、政治的問題は主に一国内の問題でした。しかし現代では、気候変動、パンデミック、サイバー攻撃、国際テロリズムなど、国境を越えた問題が増加しています。これらの問題に対処するには、国家を超えた権威が必要ですが、世界政府の実現は現実的ではありません。

ホッブズの理論は、この困難な状況を分析するための枠組みを提供してくれます。国際関係における「自然状態」をいかに克服するか、段階的で現実的なガバナンス・システムをいかに構築するかという問題は、21世紀政治学の最重要課題の一つなのです。

最後に、技術と政治の関係についてです。ホッブズは『リヴァイアサン』で、国家を「人工的人間」として描きました。この発想は、AI、ロボティクス、バイオテクノロジーが急速に発展する現代において、新たな意味を持つようになっています。

人工知能が人間の知的能力を超える時代において、政治的意思決定のあり方はどう変わるべきなのか。遺伝子編集技術が人間の「平等」という前提を覆す可能性がある中で、社会契約論はどう修正されるべきなのか。これらの問題を考える際、ホッブズの「人工性」への着目は重要な出発点となります。

コメント