今回も哲学書の解説シリーズです。今回は、カール・マルクスの『資本論』を取り上げます。この本は、19世紀に書かれた経済学の古典でありながら、現代社会を理解する上で驚くほど有効な分析ツールです。
はじめに
なぜ今『資本論』を読むべきなのか
なぜ150年以上前に書かれた本を、今読む必要があるのでしょうか。それは、マルクスが分析した資本主義の本質的な仕組みが、形を変えながらも現代に生き続けているからです。
世界的に拡大する経済格差。上位1%が世界の富の半分近くを所有する現実。働いても働いても生活が楽にならないワーキングプア。これらは19世紀イギリスとどこか重なります。
現代社会との関連性
サブスクリプション経済を考えてみましょう。音楽、動画、ソフトウェア――私たちは「所有」ではなく「利用権」を買っています。マルクスが指摘した「使用価値と交換価値の分離」は、デジタル時代により複雑な形で現れています。
ギグワーカーやフリーランスの増加も重要です。配達員、デザイナー、ライター――彼らの多くは「雇用」されず、「業務委託」という形で働きます。マルクスが分析した「労働力の商品化」は、プラットフォーム経済において新たな段階に入っています。
AI技術の発展による雇用不安も、『資本論』が論じた「機械と労働者の関係」という古くて新しい問題です。技術進歩が労働者を豊かにするのか、それとも不要にするのか。この問いは今も答えが出ていません。
マルクスの生涯と『資本論』執筆の背景
カール・マルクスは1818年、プロイセン王国(現ドイツ)のトリーアで生まれました。ユダヤ系の裕福な家庭に育ち、ボン大学、ベルリン大学で法学と哲学を学びます。しかし急進的な思想のため、ドイツでの大学職を断念。ジャーナリストとして活動後、各国を転々とし、1849年にロンドンへ亡命します。
ロンドンでの生活は貧困との戦いでした。7人の子どものうち4人を幼くして亡くし、家賃が払えず何度も引っ越しを繰り返します。彼を経済的に支えたのが、生涯の友人フリードリヒ・エンゲルスでした。
大英博物館での執筆生活
マルクスは1850年代から、ほぼ毎日大英博物館の閲覧室に通い詰めました。そこで膨大な経済学文献、イギリス議会の工場監督官報告書、統計資料を読み漁ります。当時のイギリスは「世界の工場」として産業革命の最先端にあり、資本主義の実態を観察する最良の場所でした。
彼は朝10時に図書館に到着し、夜7時の閉館まで研究に没頭します。時には体調を崩しながらも、資本主義の「解剖学」を完成させることに執念を燃やしました。
18年かけて完成した第1部
1849年にロンドンに到着してから、第1部の出版まで18年。この間、マルクスは何度も構想を練り直し、草稿を書き直しました。1867年9月14日、ついに『資本論』第1部がドイツで出版されます。マルクスは49歳でした。
興味深いことに、当初の反応は控えめでした。学術界からは無視され、売れ行きも芳しくありません。しかし徐々に労働運動の中で読まれ始め、やがて世界中で翻訳されていきます。日本では1920年代に初めて翻訳が出版されました。
エンゲルスの支援
エンゲルスなくして『資本論』はありませんでした。彼は裕福な工場主の息子でありながら、マルクスの研究を物心両面で支えます。経済的援助だけでなく、草稿の整理、校正、出版社との交渉まで引き受けました。
マルクスの死後、エンゲルスは残された膨大な草稿から第2部(1885年)と第3部(1894年)を編集・出版します。特に第3部は断片的なメモの集積で、編集作業は困難を極めました。エンゲルスがいなければ、『資本論』は未完の断片として埋もれていたかもしれません。
『資本論』全3部の構成と第1部の位置づけ
『資本論』は全3部から構成されています。
第1部「資本の生産過程」――これが今回扱う部分です。商品、貨幣、資本の基本概念から始まり、剰余価値がどのように生産されるかを解明します。労働日の長さをめぐる闘争、機械の導入、賃金の本質、資本の蓄積過程まで。資本主義の「心臓部」である生産現場に焦点を当てます。
第2部「資本の流通過程」――生産された商品がどのように流通し、資本がどう循環・回転するかを分析します。社会的総資本の再生産という、マクロ経済的視点が展開されます。
第3部「資本主義的生産の総過程」――利潤、利子、地代といった具体的な経済現象が、第1部で解明された剰余価値からどう派生するかを示します。競争、信用制度、株式会社など、資本主義のより複雑な側面を扱います。
第1部は基礎であり、最も重要な部分です。ここで提示される概念と論理を理解しなければ、第2部・第3部の議論は理解できません。
今回(第1回)で扱う範囲の紹介
今回は第1部の第1篇から第3篇まで、つまり資本主義分析の土台となる部分を扱います。
まず第1章で、マルクスが生きた19世紀イギリスの実態を見ます。彼が何を問題にしようとしたのか、歴史的背景を押さえることが重要です。
第2章では「商品」の分析に入ります。なぜマルクスは商品から始めるのか。使用価値と価値、具体的労働と抽象的労働、労働価値説、そして商品フェティシズムという不思議な現象。一見単純な「商品」の中に、資本主義の秘密が詰まっています。
第3章は「貨幣」です。物々交換から貨幣が生まれる論理的プロセス、価値形態の発展、貨幣の機能。お金とは何か、という根本的な問いに答えます。
第4章では、ついに「資本」が登場します。貨幣がどのように資本に変身するのか。G-W-G’という公式の意味。そして「労働力」という特殊な商品の発見。ここに剰余価値の秘密があります。
これらは抽象的に聞こえるかもしれませんが、具体例を多用して、できるだけ身近な問題として理解できるよう解説します。では、19世紀イギリスの世界へ、旅立ちましょう。
第1章:『資本論』を読み解く前提知識
1. マルクスが見た19世紀の世界
産業革命後のイギリス:「世界の工場」の光と影
1850年代のイギリスは、人類史上かつてない繁栄を謳歌していました。蒸気機関、紡績機、鉄道――技術革新が次々と実現し、生産力は飛躍的に向上します。ロンドンは世界最大の都市となり、大英帝国の植民地は地球の4分の1を覆いました。
1851年のロンドン万国博覧会。ハイドパークに建てられた巨大なガラスと鉄の宮殿「水晶宮」には、世界中から600万人が訪れます。そこには最新の機械、豪華な工芸品、植民地からの珍しい産物が展示されました。ヴィクトリア女王は誇らしげに宣言します――「大英帝国の栄光」と。
しかしマルクスが見たのは、その華やかな表面の裏側でした。富の集中と貧困の拡大。技術進歩と人間の荒廃。これが同時進行する矛盾に満ちた社会です。
イギリスの綿織物生産は世界の半分以上を占めていましたが、その富を生み出したのは誰か。工場の煙突から立ち上る黒煙の下で、何が起きていたのか。
工場労働者の実態:1日14-16時間労働
マルクスは『資本論』の中で、イギリス議会が発行した工場監督官の報告書を詳細に引用します。そこには信じがたい労働実態が記録されていました。
紡績工場の標準的な労働時間は、朝5時半から夜8時まで。途中の食事休憩を除いても、14時間労働です。繁忙期には16時間、18時間と延びていきます。週6日働いて、日曜日だけが休み。年間の休日はほとんどありません。
工場内は高温多湿で、綿埃が舞い、機械の轟音が鳴り響きます。換気は悪く、労働者は結核や呼吸器疾患に苦しみました。作業中に機械に巻き込まれる事故も頻発します。指を失う、腕を切断する――労働災害の補償制度はありません。
賃金は週払いで、成人男性でも家族を養うには不十分でした。そのため妻も、子どもも働きに出なければなりません。労働者の住居は狭く不衛生で、一部屋に家族全員が寝起きする「一部屋住まい」が普通でした。
工場主は労働時間を1分でも延ばそうとします。なぜなら機械は24時間稼働できるのに、法律で労働時間が制限されれば、その分利潤が減るからです。1833年の工場法、1847年の10時間労働法――これらの法律をめぐって、資本家と労働者の激しい闘争が展開されました。
児童労働の衝撃的事実:5歳から働く子どもたち
最も衝撃的なのは児童労働の実態です。5歳、6歳の子どもが工場で働いていました。なぜか。子どもの賃金は大人の半分以下だからです。そして小さな体は、機械の下に潜り込んで糸くずを取る作業に「適して」いました。
マッチ工場では、少女たちが有毒な黄リンを扱い、「リン顎」という恐ろしい病気にかかります。顎の骨が腐り、顔が変形していく病です。陶器工場では、鉛を含む釉薬を扱う子どもたちが鉛中毒になりました。
レース編み工場の報告書には、こう記されています。「メアリー・アン・ウォークリー、20歳、5歳から工場で働き始めた。繁忙期には休みなく26時間半連続で働かされ、疲労と睡眠不足のため死亡」。
煙突掃除の少年たちは、さらに悲惨でした。狭い煙突に登るため、体の小さな子どもが「採用」されます。5歳、6歳の少年が、真っ暗な煙突の中を、すすにまみれ、膝や肘を擦りむきながら登っていく。窒息死、転落死が相次ぎました。皮膚は慢性的な炎症を起こし、多くが陰嚢癌という職業病で若くして亡くなります。
1840年の議会調査委員会の報告によれば、炭鉱では6歳の子どもが坑道で働いていました。1日12時間、真っ暗な地下で、石炭を運ぶ台車を引きずる仕事です。少女たちも例外ではありません。半裸で這いつくばり、腰に鎖をつけて石炭を運ぶ姿が、調査報告書の挿絵に残されています。
これらは「虐待」ではなく、「正常な雇用」でした。法律で禁止されるまで、これが資本主義の標準的な姿だったのです。
スラムの形成と都市問題
産業革命は人口の大移動を引き起こしました。農村から都市へ、何百万人もの人々が仕事を求めて流入します。しかし都市のインフラは追いつきません。
マンチェスター、リヴァプール、ロンドンのイーストエンド――工場地帯の周辺にスラムが形成されます。建物は粗末で、上下水道は未整備。一つの井戸を何十世帯が共用し、その水は工場排水で汚染されています。トイレは共同で、糞尿が路地に溢れました。
エンゲルスは1844年の著作『イギリスにおける労働者階級の状態』で、マンチェスターのスラムを詳細に描写しています。「セント・ジャイルズ地区では、地下室に家族が住んでいる。湿気が滲み、天井は低く、光はほとんど入らない。ドブネズミが走り回り、悪臭が立ち込める」。
コレラ、チフス、天然痘――伝染病が周期的に大流行します。1848年から1849年のコレラ流行では、ロンドンだけで1万4千人以上が死亡しました。労働者階級の平均寿命は、富裕層の半分にも満たなかったのです。
売春、アルコール依存、犯罪――貧困は社会問題を次々と生み出します。チャールズ・ディケンズの小説『オリバー・ツイスト』や『クリスマス・キャロル』は、この時代のロンドンを舞台にしています。
具体例:マンチェスターの綿工場の描写
マンチェスターは産業革命の象徴的な都市でした。「コットンポリス(綿の都)」と呼ばれ、世界の綿織物の中心地です。1850年代、この街には108の綿工場があり、25万人以上が繊維産業で働いていました。
エンゲルスが訪れたある綿工場の光景です。巨大な蒸気機関が工場全体を動かし、何百台もの紡績機が唸りを上げています。室温は30度を超え、湿度は80%以上。綿の繊維を湿らせるために、意図的に湿度を上げているのです。
工場の床には綿埃が堆積し、それが空気中に舞います。労働者たちは1日中この埃を吸い込みながら働きます。「綿肺症」と呼ばれる肺疾患が職業病でした。換気のために窓を開けることは禁止されています――湿度が下がり、糸が切れやすくなるからです。
機械の間を、女性や子どもたちが動き回ります。彼らの仕事は糸の監視です。糸が切れたら即座に結び直す。機械の下に潜り込んで糸くずを取り除く。機械は停止しないので、稼働中に作業しなければなりません。
1851年の報告書には、こんな記述があります。「サラ・ゴールダー、8歳、紡績機に右手を巻き込まれ、指3本を失う。治療費は自己負担。仕事に復帰できず、家族は困窮」。
工場主にとって、労働者は機械の付属品でした。壊れれば交換すればいい。農村には仕事を求める「予備軍」がいくらでもいるのですから。
監督は鞭を持って工場内を見回ります。居眠りをした子ども、作業が遅い女性には容赦なく鞭が振るわれました。工場法で体罰が禁止されるまで、これも「正常な管理」だったのです。
賃金は出来高制でした。生産量が基準に達しないと、賃金は減額されます。しかし基準は常に引き上げられていきます。労働者はより速く、より長時間働かざるを得ません。
夜8時、ようやく機械が停止します。労働者たちは疲れ果て、家路につきます。しかし家は工場から徒歩30分の、湿った地下室です。明日も、明後日も、同じ一日が繰り返されます。
マルクスはこの光景を見て問います――これが「進歩」なのか。技術が発展し、生産力が向上しているのに、なぜ労働者の生活は悲惨なままなのか。いや、むしろ悪化しているのではないか。
この問いに答えることが、『資本論』の出発点でした。
2. マルクスの根本的な問い
なぜ生産力が向上しても労働者は貧しいのか
マルクスが直面した最大の謎は、この逆説でした。18世紀半ばから19世紀にかけて、人類の生産力は爆発的に増大します。蒸気機関の導入で、一人の労働者が生み出す生産物の量は、数十倍、数百倍になりました。
例えば紡績業を見てみましょう。手作業の糸車では、熟練工が1日かけて糸を紡いでも、わずかな量しか作れません。しかし1779年に発明されたミュール紡績機は、一度に数百本の糸を同時に紡ぎます。1830年代の自動紡績機になると、一人の労働者が何千本もの糸を管理できるようになりました。
理論的には、これは人々を豊かにするはずです。同じ労働時間で何倍もの生産物が得られるなら、労働時間を短縮できるか、あるいは賃金を上げられるはずです。しかし現実は逆でした。
機械が導入されると、多くの手工業職人が失業します。織物職人の暴動「ラッダイト運動」(1811-1816年)では、労働者たちが工場を襲撃し、機械を破壊しました。彼らは機械を「敵」と見なしたのです。
工場に雇われた労働者の賃金は、生存ギリギリの水準に抑えられます。しかも労働時間は短縮されるどころか、むしろ延長されていきました。なぜか。機械は24時間稼働できるからです。資本家は投資した機械を最大限に活用しようとします。
統計を見ると、この矛盾は明白です。1820年から1850年にかけて、イギリスの国民総生産は倍増しました。しかし実質賃金の上昇率はわずか数パーセント。富は増えたが、その大部分は資本家階級に集中したのです。
マルクスはこう問います――生産力の向上が、なぜ労働者の解放ではなく、より激しい搾取をもたらすのか。技術進歩の果実は、なぜ社会全体に分配されないのか。
なぜ豊かさの中に貧困が共存するのか
1850年代のロンドンには、信じがたい対比がありました。ウェストエンドの豪華な邸宅、舞踏会、高級レストラン。その数キロ先のイーストエンドには、飢えた子どもたち、売春婦、泥棒が溢れるスラムがあります。
ある工場主の邸宅を訪れてみましょう。広大な庭園、大理石の階段、シャンデリアが輝く広間。使用人が何十人も働いています。食卓には毎日、肉、魚、果物が並び、フランス産のワインが注がれます。
一方、その工場で働く労働者の家は、川沿いの湿った一部屋です。家族6人が一つの部屋に寝起きし、食事は黒パンとジャガイモだけ。肉を食べられるのは年に数回です。子どもたちは裸足で、冬でも薄い服しか着られません。
これは個別の事例ではなく、構造的な現象でした。社会全体が豊かになればなるほど、格差は拡大していったのです。
1840年代のアイルランド大飢饉は、この矛盾を象徴的に示します。ジャガイモの疫病で100万人以上が餓死しましたが、同じ時期、アイルランドからイギリスへは小麦や家畜が大量に輸出されていました。食料は十分にあったのに、人々は飢えて死んだのです。なぜなら彼らには「買う金」がなかったから。
古典派経済学は、この矛盾を説明できませんでした。いや、説明しようとしませんでした。彼らにとって、これは「自然な」「避けられない」現象だったのです。
古典派経済学(アダム・スミス、リカード)の限界
マルクスは古典派経済学を真剣に学びました。アダム・スミスの『国富論』(1776年)、デヴィッド・リカードの『経済学および課税の原理』(1817年)――これらは当時の経済学の最高峰でした。
スミスは「見えざる手」の理論を唱えます。各個人が自己の利益を追求すれば、市場メカニズムを通じて、社会全体の利益が実現される。政府の介入は最小限にすべきだ。この思想は、産業資本家階級を大いに勇気づけました。
リカードは労働価値説を体系化します。商品の価値は、それを生産するのに必要な労働時間によって決まる。彼は地代理論、比較優位論など、重要な理論的貢献をしました。
マルクスは彼らの業績を高く評価しつつも、決定的な限界を指摘します。
第一に、彼らは資本主義を「自然な」「永遠の」経済システムとみなしました。まるで人類が誕生した時から資本主義が存在していたかのように。しかし資本主義は歴史的な産物であり、いずれは別の社会システムに取って代わられるのではないか。
第二に、彼らは階級対立を軽視しました。スミスは資本家と労働者の利益が「調和」すると考えます。しかし現実には、利潤と賃金は対立します。労働時間をめぐる闘争、賃金をめぐる闘争――これは調和ではなく、ゼロサムゲームです。
第三に、最も重要なことですが、彼らは剰余価値の源泉を説明できませんでした。リカードは価値が労働によって生まれると言います。ならば、資本家の利潤はどこから来るのか。等価交換の原則が貫徹されるなら、なぜ資本家は利益を得られるのか。
リカードはこの問題に突き当たり、答えを見つけられませんでした。彼の後継者たちは、労働価値説を放棄し始めます。そして「効用価値説」「限界革命」へと向かっていきます。
しかしマルクスは、労働価値説を放棄するのではなく、それを徹底することで答えを見つけようとしました。剰余価値の謎を解く鍵は、「労働」と「労働力」を区別することにあったのです。
マルクスの野心:資本主義の「運動法則」を解明する
マルクスの目標は壮大でした。資本主義社会の「解剖学」を完成させること。その内的な運動法則を、自然科学と同じ厳密さで解明すること。
『資本論』の初版序文で、マルクスはこう書いています――「近代社会の経済的運動法則を明らかにすることが、この著作の究極の目的である」。
彼は資本主義を、単なる混沌とした現象の集まりとは見ませんでした。そこには法則性がある。表面的には偶然や個人の意志に見えるものも、深層では必然的な運動に従っている。
ニュートンが万有引力の法則を発見したように、ダーウィンが進化の法則を発見したように、マルクスは資本主義の運動法則を発見しようとしました。
では、その「法則」とは何か。マルクスはこう考えます。
資本主義の本質は、価値の自己増殖運動である。資本は、自らを増やすために、絶え間なく運動する。この運動には論理がある。資本家個人の善意や悪意とは無関係に、システムとしての資本主義には固有の法則がある。
例えば「剰余価値率を高めようとする傾向」。資本は、労働者からより多くの剰余価値を搾り取ろうとします。これは個々の資本家の「強欲」ではありません。競争に敗れないためには、そうせざるを得ないのです。
「利潤率の傾向的低下の法則」。技術進歩により機械への投資が増えると、長期的には利潤率が低下する傾向がある。これも個人の選択ではなく、システム全体の法則です。
「産業予備軍の形成」。失業者の「予備軍」が常に存在することで、賃金は低く抑えられます。これも偶然ではなく、資本蓄積の必然的結果です。
マルクスは、これらの法則を一つ一つ論証していきます。そのために必要なのが、まず商品、貨幣、資本という基礎概念の徹底的な分析でした。
彼は『資本論』の中でこうも書いています――「資本主義的生産様式が支配的である社会の富は、『商品の巨大な集まり』として現れる」。
すべては、この「商品」の分析から始まるのです。
3. 『資本論』第1部の構成
全8篇24章の概要マップ
『資本論』第1部は、精密に設計された建築物のような構造を持っています。全体は8つの篇に分かれ、合計24章で構成されます。それぞれの篇が論理的に連結し、資本主義の全体像を描き出していきます。
第1篇「商品と貨幣」(第1章~第3章)は、最も抽象的で基礎的な部分です。商品とは何か、価値とは何か、貨幣はどのように生まれるのか。ここで提示される概念が、すべての土台となります。
第2篇「貨幣の資本への転化」(第4章)は、短いですが極めて重要です。単なる貨幣が、どのようにして自己増殖する資本に変身するのか。その秘密を解く鍵――「労働力」という特殊な商品が登場します。
第3篇「絶対的剰余価値の生産」(第5章~第7章)では、資本主義的生産過程の核心に迫ります。労働過程と価値増殖過程、不変資本と可変資本、剰余価値率。そして労働日をめぐる資本家と労働者の死闘が描かれます。
第4篇「相対的剰余価値の生産」(第10章~第13章)は、技術革新と剰余価値の関係を扱います。協業、マニュファクチュア、機械と大工業――生産力の発展が、労働者にもたらすものは何か。機械は人間を解放するのか、それとも新たな隷属をもたらすのか。
第5篇「絶対的および相対的剰余価値の生産」(第14章~第17章)は、前2篇の総括です。生産的労働と不生産的労働の区別、剰余価値率と利潤率の違い、そして賃金の本質が明らかにされます。
第6篇「賃金」(第17章~第20章)では、労働力の価格である賃金が、様々な形態で現れることを示します。時間賃金、出来高賃金、国民的差異。賃金形態の分析を通じて、搾取関係がどのように隠蔽されるかが明らかになります。
第7篇「資本の蓄積過程」(第21章~第25章)は、資本主義の動態を扱います。単純再生産と拡大再生産、剰余価値の資本への転化、資本蓄積の一般的法則。そして「産業予備軍」の形成と、資本主義的蓄積の歴史的傾向が論じられます。
第8篇「いわゆる本源的蓄積」(第26章~第33章)は、歴史的考察です。資本主義はどのように生まれたのか。農民の土地からの暴力的な分離、植民地での略奪、奴隷貿易――資本の原初的蓄積の血塗られた歴史が暴露されます。
この構造全体が、論理と歴史を統一した「弁証法的叙述」になっています。最も単純な概念(商品)から出発し、徐々に複雑な現実(資本主義システム全体)へと上昇していく。そして最後に歴史的起源に立ち戻る。この方法は、ヘーゲル哲学から学んだものでした。
第1回で扱う第1篇~第3篇の位置づけ
今回扱う第1篇から第3篇までは、『資本論』全体の理論的基礎です。ここを理解しなければ、後の議論はすべて宙に浮いてしまいます。
第1篇は「概念の準備」です。商品、価値、貨幣――これらは日常的に目にするものですが、その本質は何でしょうか。マルクスは、誰もが知っている「当たり前」のものを、徹底的に分析し直します。ここで労働価値説の基礎が確立されます。
第2篇は「問題提起」です。資本とは何か。なぜ資本は増殖するのか。その謎を解く鍵が「労働力の商品化」にあることが示されます。しかしまだ答えは与えられません。謎が提示されるだけです。
第3篇で、ようやく「謎解き」が始まります。剰余価値はどのように生産されるのか。労働過程の具体的分析を通じて、搾取のメカニズムが暴かれます。ここが『資本論』の心臓部と言えるでしょう。
この3つの篇は、抽象から具体へ、論理的に進んでいきます。
第1篇では、生産も流通も、資本家も労働者も、まだ登場しません。ただ「商品」と「貨幣」という、最も抽象的なレベルで分析が行われます。これは、あえてそうしているのです。複雑な現実をいきなり扱うのではなく、まず単純化されたモデルから始める。これが科学的方法です。
第2篇で、資本家と労働者が登場します。しかしまだ「市場」という舞台です。生産現場には入っていません。ここでは等価交換が前提とされます。にもかかわらず、資本は増殖する。なぜか。
第3篇で、ついに「生産現場」に入ります。工場の門をくぐり、そこで何が起きているかを見る。ここで初めて、剰余価値の秘密が明らかになります。
この3つの篇を理解すれば、資本主義の基本構造が見えてきます。後の篇は、この基礎の上に、より複雑な現実の諸相を展開していくのです。
論理の流れ:商品→貨幣→資本→剰余価値
『資本論』の論理展開は、驚くほど緊密です。一つの概念から次の概念が必然的に導き出されていきます。
商品の分析から始まる理由は何でしょうか。それは、資本主義社会では、あらゆる富が商品という形態をとるからです。私たちが日々買う食料、服、スマートフォン――すべて商品です。労働力さえも商品として売買されます。
商品を分析すると、使用価値と価値という二重性が見えてきます。そして価値の実体が「抽象的人間労働」であることが明らかになります。ここから労働価値説が導かれます。
しかし商品が商品として存在するためには、交換されなければなりません。リンゴがリンゴのままでは、ただの果物です。それが小麦と交換されて初めて、商品になります。
交換の分析は、必然的に貨幣の分析へと進みます。物々交換には限界があります。リンゴを持つ人が小麦を欲しがり、小麦を持つ人がリンゴを欲しがる――この「欲望の二重の一致」が必要です。これでは交換は非効率的です。
そこで、すべての商品が一つの商品(金など)で価値を表現するようになります。これが貨幣の誕生です。貨幣は、商品交換を円滑にするために、商品世界から「自然発生的に」生まれてきます。
貨幣の分析は、資本の分析へと移行します。貨幣には二つの使い方があります。一つは単純商品流通:W-G-W(商品→貨幣→商品)。リンゴを売って→お金を得て→服を買う。これは使用価値の獲得が目的です。
もう一つが資本の流通:G-W-G’(貨幣→商品→より多い貨幣)。お金で商品を買って→より多いお金を得る。これは価値の増殖が目的です。ここで貨幣が資本に転化します。
しかし疑問が生じます。等価交換が原則なら、なぜG’はGより大きくなるのか。100万円で買った商品を120万円で売る――この20万円はどこから来るのか。
剰余価値の謎を解くために、マルクスは特殊な商品を発見します。それが「労働力」です。労働力の価値(労働者の生活費)と、労働力が生み出す価値は等しくありません。
例えば、労働者の1日の生活費が4時間分の労働価値だとします。しかし資本家は労働者を8時間働かせることができます。前半4時間で労働者は自分の賃金分を生産し、後半4時間で剰余価値を生産します。
ここに搾取の秘密があります。等価交換の原則は守られています。資本家は労働力を、その価値通りに買います。しかし労働力の「使用」が、その「価値」以上のものを生み出すのです。
この論理の流れ――商品→貨幣→資本→剰余価値――は、一直線に進みます。各段階で、前の段階の矛盾や限界が明らかになり、それが次の段階への移行を促します。
これは単なる説明の順序ではありません。概念の論理的展開であり、同時に歴史的発展の反映でもあります。実際、人類の歴史も、物々交換→貨幣経済→資本主義という順序で進んできました。
この論理の連鎖を追うことで、私たちは資本主義という複雑なシステムの根本を理解できるのです。
では、いよいよ商品の分析に入りましょう。
第2章:商品という謎
1. すべては「商品」の分析から始まる
資本主義社会の富は「商品の巨大な集まり」
『資本論』の有名な冒頭の一文です。「資本主義的生産様式が支配的である社会の富は、『商品の巨大な集まり』として現れ、個々の商品はその富の要素形態として現れる」。
この一文には、マルクスの方法論が凝縮されています。資本主義社会を理解するには、まず「商品」を理解しなければならない。なぜなら、この社会ではあらゆるものが商品化されているからです。
食料品、衣服、住宅、自動車、書籍、音楽、映画――私たちの周りを見渡せば、すべてが商品です。しかも現代では、情報、データ、さらには人間関係までもが商品化されています。SNSの「いいね」、YouTubeの再生回数、マッチングアプリでの出会い――すべてが交換の対象になっています。
19世紀のイギリスでも同様でした。封建時代には、農民は自分が消費するものの多くを自分で生産していました。自給自足経済です。しかし産業革命後は、ほとんどすべてを市場で買わなければなりません。労働者は賃金を得て、その賃金で商品を買います。
そして最も重要なことは、労働力それ自体が商品になったことです。労働者は自分の労働能力を、市場で資本家に売ります。これが資本主義の本質的特徴です。
商品とは何か:売買されるもの
では商品とは何でしょうか。一見簡単そうですが、実は深い問題です。
最も単純な定義は、「売買される物」です。しかしこれだけでは不十分です。
自分で作ったパンを自分で食べる――これは商品ではありません。使用価値はありますが、交換されないからです。母親が子どもに手作りの服を着せる――これも商品ではありません。愛情労働は市場を経由しません。
しかし同じパンでも、パン屋が焼いて売るなら商品です。同じ服でも、ファストファッション店で売られるなら商品です。何が違うのか。それは「他者のために生産され、交換される」という点です。
商品は、二つの条件を満たさなければなりません。第一に、使用価値を持つこと。誰にとっても無用なものは売れません。第二に、交換価値を持つこと。市場で他の商品と交換できなければなりません。
使用価値と交換価値の二重性
商品の最も基本的な特徴は、この二重性です。
使用価値とは、その物の有用性、人間の欲望を満たす性質です。パンは空腹を満たし、服は寒さから守り、住宅は雨風を防ぎます。これは物の自然的性質から来ます。
使用価値は質的に異なります。パンと服は全く違う欲望を満たします。比較できません。「パンの方が服より有用だ」とは言えません。用途が違うからです。
交換価値とは、他の商品とある一定の割合で交換できる性質です。パン2斤=バター1個=シャツ0.5枚、というような交換比率です。
交換価値は量的に表現されます。「パン2斤はバター1個に等しい」。ここでは異なる使用価値が、数量的に等置されます。これは不思議なことです。
具体例:スマートフォンで考える
現代の商品、スマートフォンで考えてみましょう。
使用価値の側面:スマートフォンは多様な機能を持ちます。通話、メール、ウェブ閲覧、写真撮影、音楽再生、決済、地図ナビゲーション――一台で何十もの欲望を満たします。
この使用価値は、技術の進歩によって拡大してきました。20年前の携帯電話は通話とメールだけでした。しかし今では、カメラ、コンピュータ、財布、時計の機能を統合しています。
あなたがスマートフォンを買うのは、これらの機能が必要だからです。使用価値を求めているのです。もし全く使えない壊れたスマートフォンなら、誰も買いません。
交換価値の側面:同じスマートフォンが、市場では「10万円」という価格で売られています。これは何を意味するか。
10万円という価格は、このスマートフォンが、10万円分の他の商品と交換できることを示します。5万円のノートパソコン2台分、1万円の本10冊分、500円のコーヒー200杯分――あらゆる商品との交換比率が、価格という形で表現されています。
あなたがスマートフォンを買う時、10万円という「貨幣」を支払います。その貨幣は、あなたが他の何か(例えば労働)と交換して得たものです。つまりスマートフォンの購入は、間接的には、あなたの労働と製造業者の労働の交換なのです。
この二重性――使用価値と交換価値――が、商品の本質です。そしてマルクスは、この二つが矛盾する関係にあることを指摘します。
2. 交換の不思議
なぜ全く異なるものが交換できるのか
ここで根本的な疑問が生じます。なぜ全く異なる物が交換できるのでしょうか。
リンゴは果物、小麦は穀物、シャツは衣服――これらは物理的に全く異なります。形も、色も、味も、用途も違う。にもかかわらず、市場では「リンゴ20個=小麦1kg=シャツ1枚」というような等式が成立します。
日常生活では、これを当たり前と感じます。しかしよく考えると、これは非常に不思議なことです。なぜ20個のリンゴと1枚のシャツが「等しい」と言えるのでしょうか。
使用価値の観点からは、等しくありません。リンゴは食べられますが、シャツは食べられません。シャツは着られますが、リンゴは着られません。質的に全く異なるものを、どうして「等しい」と言えるのか。
リンゴ20個=小麦1kg=シャツ1枚
マルクスはこう考えます。異なる商品が交換可能ということは、それらの間に何か「共通のもの」があるはずです。その共通のものが、交換を可能にしているのです。
リンゴと小麦とシャツの間に、共通の「第三のもの」がある。それらは、その「第三のもの」のある一定量として等置されている。
では、その「共通のもの」とは何でしょうか。
物理的性質ではありません。リンゴ、小麦、シャツの分子構造は全く違います。化学的には共通点がありません。
有用性(使用価値)でもありません。それぞれ異なる欲望を満たすのですから。
残るのは一つだけです――これらすべてが「人間労働の生産物」だということです。
共通の「何か」が存在するはず
リンゴは農民が種を蒔き、育て、収穫したものです。小麦も同様に、農民の労働の産物です。シャツは、綿を栽培し、紡績し、織り、裁縫した結果です。
すべての商品は、人間が労働して作ったものです。自然界には商品はありません。野生のリンゴの木になった果実は商品ではありません。それを人間が採取し、市場に持っていって初めて商品になります。
つまり、商品に共通するのは、そこに「人間労働が対象化されている」ことです。労働が物に凝固し、結晶化している。この労働の結晶こそが、価値の実体です。
その「何か」とは:人間労働の凝固
マルクスの答えは明快です。「商品の価値の実体は、人間労働の凝固である」。
商品を交換する時、私たちは実は、労働と労働を交換しているのです。リンゴ農家の1時間の労働と、シャツ製造工の1時間の労働を、間接的に交換しています。
リンゴ20個を作るのに、仮に2時間かかったとします。シャツ1枚を作るのにも2時間かかったとします。ならば、この二つは「等しい」労働量を含んでおり、だから交換できるのです。
ここで重要なのは、「労働」といっても、具体的な作業内容ではないということです。農作業と裁縫作業は全く違います。しかし両方とも、人間の脳、筋肉、神経を使う「労働一般」です。
この「労働一般」――具体的な内容を捨象した、純粋な労働の支出――が、価値の実体なのです。
3. 労働価値説の核心
価値の実体は抽象的人間労働
ここでマルクスは重要な概念を導入します。抽象的人間労働です。
農民が麦を刈る労働、大工が家を建てる労働、プログラマーがコードを書く労働――これらは具体的には全く異なります。しかしすべては、人間のエネルギーの支出です。脳の活動、筋肉の収縮、神経の伝達。
この、具体的内容を捨象した「労働一般」が、抽象的人間労働です。そしてこれこそが、価値の実体なのです。
商品の価値は、その商品を生産するのに投入された抽象的人間労働の量によって決まります。より多くの労働が投入されれば、価値は大きい。少ない労働なら、価値は小さい。
これが労働価値説の核心です。
「社会的に必要な労働時間」で価値が決まる
しかしここで疑問が生じます。同じシャツでも、生産者によって必要な時間は違うのではないか。ベテラン職人なら3時間で作れるが、初心者は10時間かかるかもしれません。それでも価値は同じなのでしょうか。
マルクスの答えは「同じ」です。なぜなら、価値を決めるのは個人の労働時間ではなく、社会的に必要な労働時間だからです。
社会的に必要な労働時間とは、「現存の社会的に正常な生産条件と、社会的平均的な熟練度および労働強度をもって、何らかの使用価値を生産するために必要な労働時間」です。
つまり、その社会の平均的な技術水準、平均的な労働者の能力を前提にした時に、標準的に必要とされる時間です。
具体例:手作り靴と工場生産靴
19世紀の靴産業で考えてみましょう。
伝統的な靴職人は、一足の靴を手作業で10時間かけて作ります。革を裁断し、縫い合わせ、底を付け、磨き上げる。職人技が光る美しい靴です。
一方、新しい靴工場では、機械と分業システムにより、2時間で一足の靴を生産できます。品質は職人のものに劣るかもしれませんが、使用価値としては十分です。
さて、市場で売られる時、手作り靴の価値は10時間分でしょうか。違います。
もし社会の大部分の靴が工場で2時間で作られているなら、「社会的に必要な労働時間」は2時間です。したがって靴の価値は、2時間分の労働として決まります。
手作り職人は8時間分損をする
手作り職人は10時間働きましたが、その靴は市場では2時間分の価値としてしか認められません。結果として、彼は8時間分の労働を「損」します。
この職人は「私は10時間かけて作った。だから10時間分の価格で売りたい」と言うでしょう。しかし市場は容赦ありません。買い手は「工場製なら2時間分の価格で買える。なぜあなたの靴に5倍の価格を払わなければならないのか」と言います。
もちろん、手作り靴に特別な価値を見出す顧客もいます。「職人の技」「オーダーメイド」という付加価値です。しかしそれは例外的です。大量生産品が市場を支配すれば、手工業者は没落します。
これが実際に19世紀に起きたことです。機械制大工業の発展により、無数の手工業者が失業しました。彼らの労働時間は、もはや社会的に認められなくなったのです。
価値は社会平均で決まる
このように、商品の価値は個人の労働時間ではなく、社会平均の労働時間で決まります。これは競争の圧力によって強制されます。
もし社会平均より速く生産できる資本家がいれば、彼は超過利潤を得ます。例えば、社会平均が2時間のところを、新技術で1時間で生産できたとします。しかし市場価格は2時間分で形成されているので、彼は1時間の労働で2時間分の価値を実現できます。
この超過利潤を求めて、すべての資本家が技術革新を競います。しかし全員が新技術を導入すれば、社会平均が1時間に下がり、超過利潤は消えます。
この絶え間ない競争が、技術進歩を推進し、同時に労働者を絶えず駆り立てるのです。
4. 労働の二重性
具体的有用労働:使用価値を生む
マルクスは、労働にも二重性があることを発見しました。これが彼の経済学の最も重要な貢献の一つです。
具体的有用労働とは、特定の目的を持った、特定の形態の労働です。裁縫労働、大工労働、農業労働、プログラミング労働――それぞれ異なる技能、異なる道具、異なる対象を持ちます。
裁縫労働は布を衣服に変えます。大工労働は木材を家具に変えます。農業労働は種子を穀物に変えます。これらはそれぞれ、特定の使用価値を生み出します。
具体的有用労働は、質的に異なります。裁縫と大工仕事を比較して「どちらが多い」とは言えません。種類が違うからです。
抽象的人間労働:価値を生む
一方、抽象的人間労働とは、具体的内容を捨象した、純粋な労働力の支出です。裁縫であれ、大工仕事であれ、農作業であれ、すべて人間のエネルギーを使います。脳、筋肉、神経の生理学的な支出。
この側面では、すべての労働は同質です。比較可能です。量的に測定できます。時間で計れます。
抽象的人間労働が、価値を生み出します。商品の価値は、その商品に投入された抽象的人間労働の量です。
この区別がマルクス経済学の出発点
この区別を理解することが、マルクス経済学の入り口です。マルクス自身、これを自分の最も重要な発見の一つとみなしていました。
商品の二重性(使用価値と価値)は、労働の二重性(具体的有用労働と抽象的人間労働)に対応します。
具体的有用労働→使用価値を生む 抽象的人間労働→価値を生む
この対応関係を理解すれば、商品、価値、貨幣、資本の謎が解けていきます。
なぜこの区別が重要なのか。それは、資本主義では、労働者の具体的な作業内容がどうであれ、すべてが「抽象的労働」として扱われるからです。資本家にとって重要なのは、何を作るかではなく、どれだけの価値を生むかです。
現代の労働を見てください。多くの仕事が標準化され、マニュアル化され、誰でも交換可能になっています。これは、労働が抽象化されているということです。
5. 商品フェティシズム
物と物の関係に見えるが、実は人と人の関係
『資本論』第1章の最後で、マルクスは「商品の呪物的性格」を論じます。これは非常に深い洞察です。
商品社会では、人間関係が物の関係として現れます。これは倒錯です。
例えば、あなたがパンを買う時、「パン1個=200円」という関係を見ます。これは物(パン)と物(貨幣)の関係のように見えます。
しかし実際には、これは人と人の関係です。パンを作った労働者と、あなたとの関係。パンを作るのに費やされた労働と、あなたが200円を得るために費やした労働との交換。
ところが資本主義社会では、この人間関係が見えなくなります。商品と貨幣の関係だけが見え、その背後にある労働者が見えない。
例:コーヒー1杯500円の背後にある労働者
カフェでコーヒーを注文します。500円を支払います。これは単純な商品購入に見えます。
しかしその背後には、何人もの労働者がいます。
コーヒー豆農家――おそらくラテンアメリカやアフリカの小規模農家です。彼らは低賃金で、時には児童労働を使いながら、コーヒーチェリーを収穫します。彼らの取り分は、あなたが払う500円のうち、わずか数円かもしれません。
輸送労働者――船員、港湾労働者、トラック運転手。彼らが何千キロも離れた場所から豆を運びます。
焙煎工場労働者――生豆を焙煎し、包装します。工場労働は単調で、労働条件は厳しいことが多い。
カフェ店員――あなたにコーヒーを淹れてくれた人。彼女は時給1,000円で、立ちっぱなしで働いています。
この一杯のコーヒーには、何十人もの労働者の労働が凝縮されています。しかし私たちはそれを見ません。ただ「コーヒー」という物と、「500円」という貨幣の交換だけを見ます。
人間関係が商品関係として現れる倒錯
マルクスはこれを「フェティシズム(呪物崇拝)」と呼びます。未開社会で、人々が木や石の偶像を崇拝するように、商品社会では人々が商品を崇拝する。
しかし木や石に神秘的な力はありません。それを信じる人々の関係が、木や石に投影されているだけです。
同様に、商品に神秘的な力はありません。その価値は、人間労働の社会的関係から来ています。しかし商品社会では、まるで商品それ自体に価値があるかのように見えます。
金には、それ自体に価値があるように見えます。しかし金の価値も、それを採掘し精錬するのに必要な労働から来ています。
価格は、需要と供給で上下するように見えます。しかしその背後には、労働時間という実体があります。
現代の「モノ崇拝」「ブランド信仰」の原型
この商品フェティシズムは、現代社会で極端な形をとっています。
ブランド商品を考えてください。同じ機能のバッグが、ブランドロゴがあるかないかで、価格が10倍違います。なぜでしょうか。
「ブランドの価値」と人々は言います。しかしそれは何でしょうか。物理的には同じ革、同じ縫製です。違いは、そこに投影された社会的関係――ステータス、所属意識、承認欲求――です。
しかし私たちは、まるでブランド品それ自体に特別な価値があるかのように感じます。これがフェティシズムです。
株式市場も同様です。株価が上がった、下がったと人々は騒ぎます。しかしその背後には、企業で働く労働者がいます。彼らが生み出す剰余価値が、配当や株価上昇の源泉です。ところが、まるで株価が独自の生命を持って動いているかのように見えます。
暗号通貨はさらに極端です。ビットコインの価格が1日で10%変動する。しかしビットコインには使用価値がほとんどありません。その価値は完全に社会的関係――人々の信用と投機――に依存しています。
マルクスが生きた19世紀よりも、現代の方が商品フェティシズムは深化しているかもしれません。商品の背後にある人間労働は、ますます見えにくくなっています。
グローバル化により、生産と消費が何千キロも離れました。あなたが着ているシャツは、バングラデシュで作られたかもしれません。スマートフォンの部品は、何十カ国もの労働者の労働の結晶です。
この複雑なグローバル・サプライチェーンの中で、労働者の顔は完全に消えます。残るのは、商品というモノだけです。
しかしマルクスは言います――商品関係の背後を見よ。そこには必ず人間労働がある。搾取される労働者がいる。これを理解することが、資本主義を理解する第一歩なのだと。
第3章:貨幣の誕生物語
1. 物々交換の限界
欲望の二重の一致が必要
商品が交換されるためには、物々交換から始まります。しかしここには根本的な困難があります。
あなたはリンゴを持っていて、小麦が欲しいとします。しかし小麦を持っている人があなたのリンゴを欲しがるとは限りません。彼はシャツが欲しいかもしれません。
これを「欲望の二重の一致」の問題と言います。交換が成立するには、A氏がB氏の物を欲しがり、同時にB氏もA氏の物を欲しがる必要があります。この条件は非常に厳しい。
小規模な共同体では、物々交換も機能します。顔見知りの数十人なら、誰が何を必要としているか分かります。しかし社会が拡大し、交換が頻繁になると、物々交換は非効率的になります。
リンゴ農家が必要な100種類の商品を手に入れるには、それぞれの商品の所有者を見つけ、相手がリンゴを欲しがるのを待たなければなりません。これでは交換に膨大な時間がかかります。
交換の困難さ
さらに問題があります。価値の分割です。
あなたのリンゴ20個が、馬1頭に等しいとします。しかしあなたは馬を丸ごと欲しいわけではありません。馬の20分の1が欲しい。しかし馬は分割できません。
また商品の保存性の問題もあります。リンゴは腐りやすい。今すぐ交換しないと価値を失います。しかし相手が今リンゴを必要としていなければ、交換は成立しません。
時間的なズレもあります。今リンゴを売りたいが、小麦は収穫期の3ヶ月後に必要になる。物々交換では、この時間差を埋められません。
これらの困難を解決するために、人類は「貨幣」を発明しました。いや、正確には「発明」ではありません。社会的交換の中から、自然発生的に生まれてきたのです。
2. 価値形態の発展プロセス
マルクスは、貨幣の論理的な発展段階を4つに分けて分析します。これは歴史的発展でもあり、論理的展開でもあります。
単純な価値形態:リンゴ20個=小麦1kg
最も単純な交換の形です。ある商品が、別の商品で価値を表現します。
「リンゴ20個=小麦1kg」
ここには二つの役割があります。
相対的価値形態:価値を表現される商品(リンゴ)。能動的な役割です。「私の価値は小麦1kgに等しい」と表現しています。
等価形態:価値を表現する商品(小麦)。受動的な役割です。他の商品の価値を測る「鏡」になっています。
この区別が重要です。交換の両側は対称ではありません。一方が価値を表現し、他方がその価値を映し出す。
例えば「あなたは太陽のように明るい」という比喩。あなたが相対的価値形態、太陽が等価形態です。あなたの性格を、太陽という別のもので表現しているのです。
単純な価値形態では、まだ貨幣は登場しません。二つの商品が直接交換されるだけです。
拡大された価値形態:リンゴ20個=小麦1kgまたはシャツ1枚または…
交換が頻繁になると、一つの商品が様々な商品で価値を表現するようになります。
「リンゴ20個=小麦1kg=シャツ1枚=斧1本=…」
リンゴの価値が、小麦でも、シャツでも、斧でも表現できます。これは進歩です。交換の選択肢が増えました。
しかし新たな問題が生じます。リンゴの価値を知るには、すべての商品との交換比率を知らなければなりません。小麦とは何対何か、シャツとは何対何か、斧とは…。
これは非常に煩雑です。100種類の商品があれば、4,950通りの交換比率を記憶しなければなりません(100×99÷2)。
また、異なる商品所有者の間で、交換比率が異なるかもしれません。ある人は「リンゴ20個=小麦1kg」と言い、別の人は「リンゴ25個=小麦1kg」と言う。混乱が生じます。
一般的価値形態:すべての商品が1つの商品で価値を表現
解決策は、一つの商品を選んで、すべての商品がその商品で価値を表現することです。
例えば、共同体の人々が「金」を選んだとします。
「リンゴ20個=金1グラム」 「小麦1kg=金1グラム」 「シャツ1枚=金1グラム」 「斧1本=金2グラム」
今や、すべての商品の価値が金で表現されます。金が一般的等価物になりました。
これは劇的な簡素化です。リンゴ農家は、自分のリンゴが金何グラムに相当するか知れば十分です。そうすれば、間接的に他のすべての商品との交換比率が分かります。
なぜなら、小麦も金1グラムなら、リンゴ20個と小麦1kgは等しいと分かるからです。
貨幣形態:金が社会的に貨幣として固定
一般的価値形態が社会的に固定され、慣習化されると、貨幣形態になります。
金(あるいは銀)が、社会的に「貨幣」として認められます。もはや選択ではなく、強制です。すべての商品は金で価格を表示しなければなりません。
なぜ金が選ばれたのでしょうか。金の物理的性質が理由です。
均質性:どの金も同じ。品質が均一。 分割可能性:いくらでも細かく分けられる。 耐久性:腐らない、錆びない。 可搬性:少量で大きな価値を持つ。軽い。 希少性:誰でも手に入るわけではない。
これらの性質により、金は貨幣に「適して」いました。しかし注意すべきは、金それ自体に貨幣の力があるわけではないことです。金も一つの商品です。採掘し精錬するのに労働が必要です。だから価値を持ちます。
金が貨幣になったのは、社会的慣習によってです。人々が「金で価値を表現する」ことに合意したから、金は貨幣になったのです。
3. 貨幣の3つの機能
価値尺度:すべての商品の価値を測る物差し
貨幣の第一の機能は、価値尺度です。
すべての商品が貨幣で価値を表現します。これが「価格」です。
「リンゴ1個=100円」 「シャツ1枚=3,000円」 「自動車1台=300万円」
価格は、商品の価値を貨幣で表現したものです。ただし、価格は価値と必ずしも一致しません。需要と供給により、価格は価値の周りを上下に変動します。
しかし長期的には、価格は価値に収束する傾向があります。なぜなら、もし価格が価値より長期間高ければ、生産者が増えて供給が増加し、価格は下がるからです。逆もまた然りです。
価値尺度の機能のために、貨幣は実際に存在する必要さえありません。「観念的な貨幣」で十分です。価格表を作る時、実際の金貨が手元になくても構いません。「この商品は金2グラム相当」と表現できます。
流通手段:商品交換を媒介する
貨幣の第二の機能は、流通手段です。ここでは貨幣は実際に手渡されなければなりません。
物々交換は「W-W」(商品→商品)でした。これが「W-G-W」(商品→貨幣→商品)に変わります。
リンゴ農家の取引を見てみましょう。
- リンゴを市場で売る:W→G(商品を貨幣に換える)
- 貨幣でシャツを買う:G→W(貨幣を商品に換える)
全体として「W-G-W」です。リンゴ→貨幣→シャツ。
この流通では、貨幣は媒介者です。出発点は商品(リンゴ)、終点も商品(シャツ)。目的は使用価値の獲得です。リンゴという使用価値を手放し、シャツという使用価値を獲得する。
貨幣は一時的に手に入りますが、すぐに手放されます。農家にとって、貨幣を持つこと自体は目的ではありません。
貨幣の流通速度
ここで重要な点があります。同じ貨幣が何度も流通します。
あなたがリンゴを売って得た100円は、次にシャツ屋に渡ります。シャツ屋はその100円で小麦を買います。小麦農家はその100円で靴を買います…。
同じ100円が、何回も商品交換を媒介します。これを「貨幣の流通速度」と言います。
したがって、社会に必要な貨幣量は、商品の総価値より少なくて済みます。商品総額が1億円でも、貨幣が10回循環すれば、1千万円の貨幣で足ります。
この法則から、マルクスは重要な結論を導きます。必要な貨幣量は、商品の価格総額を貨幣の流通速度で割ったものです。
もし商品生産が増えれば、より多くの貨幣が必要になります。もし流通速度が上がれば、少ない貨幣で足ります。
貨幣としての貨幣
貨幣の第三の機能は、「貨幣としての貨幣」です。少し分かりにくい表現ですが、重要です。
前二つの機能では、貨幣は商品流通の手段でした。しかし貨幣は、流通から引き上げられ、貯蔵されることもあります。
蓄蔵手段:人々は貨幣を金庫に貯めます。なぜか。貨幣は抽象的富だからです。あらゆる商品と交換できる一般的な購買力です。
中世の農民は、豊作の年に穀物を貯蔵しました。しかし穀物は腐ります。ネズミに食われます。しかし金貨は腐りません。いつでも必要な商品と交換できます。
この蓄蔵欲求が、しばしば病的な形をとります。守銭奴は、金貨を使わずに溜め込むことに快感を覚えます。マルクスは言います――「貨幣蓄蔵者は、商品を流通させることを犠牲にして、流通から貨幣を救い出す」。
支払手段:商品の引き渡しと貨幣の支払いの間に時間差が生じる場合、貨幣は支払手段になります。
例えば、商人Aが商人Bから商品を受け取りますが、支払いは1ヶ月後です。これは信用取引です。Bは「債権」を持ち、Aは「債務」を負います。
1ヶ月後、Aは貨幣で債務を決済します。ここで貨幣は、単なる流通手段ではなく、支払手段として機能しています。
この信用関係が複雑に絡み合うと、金融システムが生まれます。手形、小切手、銀行券――これらは貨幣の支払手段機能から発展しました。
世界貨幣:国内では紙幣が流通しますが、国際取引では金(または銀)が使われました。国家の保証は国境で終わりますが、金の価値は世界共通だからです。
19世紀には金本位制が確立します。各国通貨は一定量の金と交換可能でした。国際貿易の決済は、最終的に金で行われました。
4. 貨幣は「商品の王様」
すべての商品が貨幣を欲する
貨幣の不思議な力は、それが「直接的交換可能性」を持つことです。
リンゴ農家がシャツを欲しい時、リンゴを直接シャツと交換できるとは限りません。シャツ屋がリンゴを欲しがるとは限らないからです。
しかし貨幣なら、誰もが受け取ります。貨幣を持っていれば、いつでも、どこでも、何とでも交換できます。
マルクスは言います――「貨幣は、商品の疎外された姿である」。すべての商品が、自分を貨幣に変えようと欲します。市場は、商品たちが貨幣をめぐって競争する場です。
この一般的な欲望が、貨幣に社会的権力を与えます。貨幣を持つ者は、あらゆる商品を手に入れられます。労働も、才能も、土地も、さらには人間の尊厳さえも。
現代の不換紙幣、電子マネーとの違い
マルクスの時代、貨幣は金貨または金兌換紙幣でした。紙幣は金の「代理」であり、いつでも金と交換できました。
しかし1971年、アメリカは金とドルの交換を停止します(ニクソン・ショック)。以後、世界の主要通貨はすべて「不換紙幣」になりました。金の裏付けがない紙幣です。
では現代の紙幣の価値は何でしょうか。それは国家の信用です。政府が「これは価値がある」と宣言し、法律で支払いを強制します(法定通貨)。人々がそれを信じる限り、紙幣は機能します。
電子マネーやクレジットカードは、さらに進んでいます。物理的な形さえありません。銀行のコンピューターに記録された数字に過ぎません。
暗号通貨は極端です。中央銀行も金も、物理的裏付けは何もありません。純粋に人々の「信用」だけで価値を持ちます。
マルクスの貨幣理論は、このような現代の貨幣にも適用できるのでしょうか。議論があります。しかし基本原理――貨幣が社会的関係の表現であること、価値の一般的等価物であること――は今でも有効です。
形態は変わっても、貨幣の本質は変わりません。それは、商品世界から生まれた、価値の結晶なのです。
第4章:資本の誕生
1. 貨幣が資本に変身する
貨幣と資本は異なります。財布の中の1万円札は貨幣ですが、資本ではありません。では何が両者を分けるのでしょうか。それは運動の形式です。
通常の商品流通を見てみましょう。農民が小麦を市場に持っていきます。買い手が現れ、小麦は貨幣に変わります。農民はそのお金で服を購入します。小麦という商品から始まり、貨幣を経由して、服という別の商品で終わる。マルクスはこれをW-G-Wという式で表現しました。
Wは商品を意味するドイツ語Wareの頭文字、Gは貨幣を意味するGeldです。商品が貨幣になり、貨幣が別の商品になる。この循環の出発点は商品であり、終点も商品です。
この流通の目的は何でしょうか。使用価値の獲得です。農民は小麦という使用価値を持っていましたが、それは自分にとって余剰です。彼が本当に必要としているのは服です。だから小麦を手放し、服を手に入れます。
貨幣はあくまで仲介者です。小麦と服を直接交換できれば、貨幣は不要です。しかし服の生産者が小麦を欲しがるとは限りません。だから貨幣が必要になるのです。
重要なのは、この流通には終わりがあるということです。農民が服を手に入れれば、この循環は完結します。彼は市場から離れ、服を着て生活します。流通から退出するのです。
ところが資本の流通は全く異なる形式を取ります。G-W-G’です。貨幣で始まり、貨幣で終わります。
具体例を見ましょう。商人が100万円を持っています。彼はこの貨幣で綿布を購入します。そして綿布を別の市場で売却し、120万円を得ます。貨幣→商品→より多くの貨幣という流れです。
この120万円、つまりG’は、元の100万円であるGよりも大きくなっています。この差額の20万円こそが剰余価値です。ギリシャ文字のデルタ(Δ)を使えば、ΔG = G’ – G = 20万円となります。
W-G-Wとの違いは明確です。第一に、出発点と終点が同じ形態、つまり貨幣であること。第二に、終点の貨幣が出発点より増加していること。
この流通の目的は何でしょうか。使用価値ではありません。商人は綿布を着るために買ったのではありません。綿布そのものには関心がないのです。彼の目的はただ一つ、貨幣を増やすことです。価値の増殖です。
100万円が100万円のままなら、この流通には意味がありません。G-W-Gという循環は無意味です。なぜわざわざ貨幣を商品に変え、また貨幣に戻す必要があるのか。100万円をそのまま持っていればいいはずです。
この流通が意味を持つのは、G’がGより大きい時だけです。つまり剰余価値が生まれる時だけです。この剰余価値の獲得こそが、資本の流通の唯一の動機なのです。
こうして貨幣は資本に変身します。同じ100万円でも、W-G-Wの流通に入れば単なる貨幣ですが、G-W-G’の流通に入れば資本となります。運動の形式が、貨幣の性格を決定するのです。
2. 資本の運動の特徴
W-G-Wには明確な終わりがあります。農民が服を手に入れれば、流通は完結します。彼は満足し、市場を離れます。服という使用価値が彼の欲求を満たしたからです。
しかしG-W-G’には終わりがありません。商人が120万円を得た瞬間、何が起こるでしょうか。彼はその120万円を再び投資します。今度は140万円を目指して。そして140万円を得れば、それを元手に160万円を追求します。
G-W-G’-W-G”-W-G”’という無限の連鎖です。どこまで行っても終点はありません。なぜなら、貨幣の増加には限界がないからです。
W-G-Wでは、両端の商品Wは質的に異なります。小麦と服は全く別のものです。だから交換に意味があるのです。しかしG-W-G’では、両端は同じ貨幣です。100万円も120万円も、質的には同じです。違いはただ量だけです。
量的な違いには終わりがありません。120万円を得た人間が満足する理由はどこにもないのです。なぜなら、120万円も140万円も160万円も、すべて同じ貨幣だからです。より多くを求める運動は、自動的に継続します。
ここで重要な洞察があります。使用価値はもはや目的ではないということです。
W-G-Wでは、使用価値こそが目的でした。農民は服を着るために小麦を売ったのです。商品の具体的な性質、つまり使用価値が重要でした。
しかしG-W-G’では、商品は単なる通過点です。商人が扱うのが綿布であろうと、小麦であろうと、機械であろうと、本質的には問題ではありません。重要なのは、それが価値を増殖させるかどうかだけです。
極端に言えば、商品の内容は無関心です。綿布そのものへの関心はゼロです。綿布が美しいか、丈夫か、そんなことはどうでもいいのです。問題は、100万円が120万円になるかどうか、それだけです。
マルクスはこの運動を「資本の自己増殖」と呼びます。まるで資本が生きている有機体のように、自分自身を増やし続けるのです。
100万円という貨幣が、自分で商品を買い、自分で売却し、120万円になって戻ってくる。そしてまた投資に向かう。まるで自動機械です。人間の意志とは無関係に、機械的に動き続ける装置のようです。
ではこの運動の中で、資本家はどういう存在でしょうか。彼は資本の人格化です。
資本家個人の欲望や性格は、実は重要ではありません。彼が貪欲であろうと、慈悲深かろうと、倹約家であろうと、浪費家であろうと、資本家である限り、価値増殖を追求せざるを得ません。
なぜなら、競争があるからです。Aという資本家が価値増殖を止めれば、Bという資本家に負けます。市場から排除されます。だから資本家は、個人的にどう思おうと、資本の増殖を続けなければならないのです。
資本家は資本という運動の担い手、代理人にすぎません。資本という主体が、資本家という仮面をかぶって活動しているのです。マルクスの表現を借りれば、「資本家は人格化された資本」なのです。
この転倒した関係が重要です。通常、人間がお金を使います。しかし資本主義では、資本が人間を使うのです。資本家でさえ、資本の論理に従属しています。
こうして資本は、終わりなき自己増殖運動として、社会全体を支配していきます。すべてが価値増殖という単一の目的に向けて組織されていくのです。
3. 剰余価値の謎
資本は価値を増殖させます。100万円が120万円になります。しかし、ここに深刻な矛盾が潜んでいます。
商品交換の基本原則は等価交換です。同じ価値を持つものが交換されます。100万円の価値を持つ商品は、100万円で売買されるはずです。市場では等しい価値同士が交換されます。これが資本主義経済の大前提です。
ところが資本の流通では、100万円が120万円になります。価値が増えているのです。等価交換の原則に従えば、このようなことは起こりえません。これが剰余価値の謎です。
もし商品を価値より高く売れば、確かに利益が出ます。100万円の価値の商品を120万円で売れば、20万円儲かります。これが剰余価値の源泉でしょうか。
マルクス以前の重商主義者たちは、そう考えました。商業の秘訣は、安く買って高く売ることだ。流通過程で利益が生まれる。彼らはこう信じていました。
しかしマルクスは、この考えが根本的に誤っていると指摘します。なぜなら、すべての商品が価値より高く売れることは論理的に不可能だからです。
Aという商人が商品を価値より高く売るとします。彼は利益を得ます。しかしその商品を買ったBは、価値より高く買わされています。Bは損をしているのです。
Aのプラス20万円は、Bのマイナス20万円です。社会全体で見れば、プラスマイナスゼロです。価値の総和は変わりません。
すべての商品所有者が高く売ろうとすれば、同時にすべての商品所有者が高く買わされることになります。結局、誰も得をしません。
流通は価値を再配分するだけです。AからBへ、BからCへと価値が移動するだけで、新しい価値は生まれません。100万円は100万円のまま、所有者が変わるだけなのです。
もう一つの可能性を考えてみましょう。商品を価値より安く買って、価値通りに売る。これなら利益が出そうです。
しかしこれも同じ問題に直面します。Aが安く買えば、売ったBは損をします。社会全体で価値は増えません。ただ価値が移転しただけです。
マルクスの結論は明確です。流通からは剰余価値は生まれない。流通は既存の価値を循環させるだけです。パイを切り分け直すだけで、パイ自体は大きくなりません。
それでは剰余価値はどこから来るのでしょうか。流通ではないとすれば、どこで価値は増えるのか。
答えは生産過程にあります。商品が作られる場所、工場や農場で、何かが起こっているのです。
資本家は市場で商品を買います。等価交換です。そしてその商品を使って何かを生産します。生産された商品を市場で売ります。これも等価交換です。
しかし、買った商品の価値の合計と、売った商品の価値を比べると、後者の方が大きい。ここに秘密があります。
流通の表面では、すべては公正に見えます。誰も騙されていません。詐欺もありません。等価交換の原則は守られています。しかし生産過程という舞台裏で、価値が増殖しているのです。
マルクスは読者にこう言います。「さあ、この領域を離れて、資本家と労働者について行き、生産の隠れた場所に入って行こう」と。
剰余価値の源泉を見つけるには、流通の表面を離れ、生産の深部に降りていく必要があります。そこで私たちは、ある特殊な商品に出会うことになるのです。
4. 特殊な商品「労働力」の発見
生産過程に剰余価値の秘密があるなら、資本家はそこで何を買うのでしょうか。原料、機械、建物。しかしこれらは価値を増やしません。100万円の綿花は100万円のままです。
マルクスは市場で一つの特殊な商品を発見します。労働力です。
労働力とは何でしょうか。それは人間が持つ労働能力です。肉体的・精神的な力の総体であり、人間が何かを生産する時に発揮する能力のことです。筋肉を動かす力、頭脳を使う力、技能や知識、これらすべてが労働力です。
重要なのは、労働力が商品になっているということです。労働者は毎朝、工場の門の前に立ちます。彼は自分の労働力を売りに来たのです。資本家がそれを買います。この取引は他の商品売買と同じように見えます。
労働力の価値はどう決まるのでしょうか。すべての商品と同様に、それを生産するのに必要な労働時間で決まります。しかし労働力を「生産する」とはどういうことか。
それは労働者が生きていくこと、そして次世代の労働者を育てることです。つまり労働力の価値は、労働者とその家族が生活を維持するために必要な生活手段の価値なのです。
具体的には何でしょうか。まず食費です。パン、肉、野菜。労働者は食べなければ働けません。住居費も必要です。雨風をしのぐ家がなければ、労働力は維持できません。衣服費、医療費、こうした日常的な支出が含まれます。
さらに教育費も重要です。現代の労働者には読み書きや計算の能力が必要です。専門技術を持つ労働者なら、その訓練費用も労働力の価値に含まれます。機械工の労働力は、単純労働者より価値が高いのです。
ここで重要な点があります。労働力の価値は、純粋に生理的最低限ではないということです。歴史的・社会的に決定されるのです。
19世紀イギリスの労働者と21世紀日本の労働者では、「普通の生活」の内容が違います。昔は水道がなくても生きられましたが、今は水道が当然です。スマートフォンすら、現代では生活必需品に近づいています。
また同じ時代でも、国によって違います。イギリスではビールが労働者の生活に含まれ、フランスではワインが含まれます。文化的・社会的習慣が、労働力の価値を規定するのです。
つまり労働力の価値には、階級闘争の歴史が刻まれています。労働組合が勝ち取った権利、社会保障制度、これらが労働力の価値を引き上げてきました。
では労働力の使用価値は何でしょうか。他の商品と同様、それを使うことで得られる効用です。パンの使用価値は空腹を満たすこと。機械の使用価値は製品を作ること。
労働力の使用価値は、価値を生み出すことです。いや、正確に言えば、労働力は自分の価値以上の価値を生み出す能力を持っているのです。
ここに剰余価値の秘密があります。資本家が労働市場で労働力を買う時、彼は等価交換をします。労働力の価値に見合った賃金を払います。何も不正はありません。
しかし労働力という商品には、驚くべき性質があります。それを使用すると、つまり労働者を働かせると、支払った価値以上の価値が生まれるのです。
労働力の価値が1日4時間分の労働に相当するとしましょう。資本家はその対価を賃金として支払います。しかし労働力の使用価値は、8時間働く能力です。労働者は8時間働けるのです。
この差、4時間分が剰余価値の源泉です。資本家は4時間分の価値を支払って、8時間分の価値を手に入れます。完全に合法的に、等価交換の原則を守りながら、価値を増殖させるのです。
労働力だけが、自分自身の価値を超える価値を生み出せる唯一の商品なのです。
5. 労働と労働力の区別
マルクスの最も独創的な発見の一つが、労働と労働力の区別です。この区別を理解しなければ、剰余価値の仕組みは見えてきません。
労働力は能力です。潜在的な力であり、可能性です。労働者が持っている、働くことができる力のことです。これが商品として市場で売買されます。
労働は活動です。労働力の発揮であり、実際の仕事です。工場で機械を動かすこと、畑を耕すこと、計算をすること。これが労働です。
この違いは決定的です。リンゴを買うことを考えてみましょう。八百屋でリンゴを買えば、そのリンゴは買い手のものになります。買い手はリンゴを食べることができます。
労働力も同じです。資本家が労働市場で労働力を買います。雇用契約を結びます。1日8時間、労働者の労働能力を使う権利を買うのです。
しかし資本家が買ったのは労働そのものではありません。労働する能力を買ったのです。そしてこの能力を、生産過程で使用します。つまり、実際に労働者を働かせるのです。
ここに微妙だが重要な点があります。資本家が市場で購入するのは労働力という商品です。その対価として賃金を支払います。これは等価交換です。労働力の価値に見合った金額が支払われます。
しかし生産過程で消費されるのは労働です。労働力ではなく、労働力の使用、つまり現実の労働活動です。
労働力の価値と、労働が生み出す価値は同じでしょうか。ここが核心です。
労働力の価値は、労働者の生活費で決まります。1日の食費、住居費などを合わせて、仮に4時間分の労働に相当するとしましょう。資本家は4時間分の価値を賃金として支払います。
しかし労働力の使用価値、つまり労働する能力は、4時間では尽きません。労働者は8時間、10時間、あるいはそれ以上働くことができます。
資本家は労働力を買い、それを生産過程で消費します。8時間労働させるのです。すると8時間分の価値が生み出されます。
ここに不等式が成立します。労働力の価値は4時間分ですが、労働が生み出す価値は8時間分です。労働力の価値<労働が生み出す価値。
この差額の4時間分が剰余価値です。資本家は4時間分の賃金を払って、8時間分の価値を手に入れます。差し引き4時間分が利潤となるのです。
重要なのは、ここに何の不正もないということです。資本家は労働力を正当な価格で買いました。労働者を騙してはいません。契約通りに賃金を支払っています。
等価交換の原則は完璧に守られています。それなのに剰余価値が生まれるのです。なぜなら、売買されるのは労働ではなく労働力だからです。
もし労働そのものが売買されるなら、8時間働けば8時間分の賃金を得るはずです。しかし売買されるのは労働力という能力であり、その価値は労働者の生活費で決まります。
この巧妙な仕組みによって、資本家は合法的に、そして必然的に、剰余価値を獲得します。搾取は不正の結果ではなく、資本主義的交換の論理的帰結なのです。
労働と労働力の区別。これがマルクスの天才的な洞察であり、資本主義の秘密を解く鍵なのです。
6. 具体例で理解する
抽象的な議論を、具体的な数字で見てみましょう。
ある紡績工場で働く労働者を想像してください。彼の1日の生活費、つまり彼とその家族が生活するために必要な費用を計算します。パン、肉、家賃、衣服、子どもの教育費。これらを合計すると、社会的に4時間分の労働に相当する価値だとしましょう。
この4時間分の価値が、労働力の価値です。資本家は賃金として、この4時間分に相当する金額を支払います。仮に1時間あたり1000円の価値とすれば、日給4000円です。
労働者は朝6時に工場に入ります。紡績機の前に立ち、綿花を糸に紡ぐ作業を始めます。
最初の4時間、朝6時から10時まで。この時間に労働者が生産した価値は4000円分です。これは労働者自身の労働力の価値、つまり彼の生活費に等しい金額です。
マルクスはこの時間を「必要労働時間」と呼びます。労働者が自分自身を再生産するために必要な労働です。この4時間で、労働者は言わば自分の賃金分を稼いだことになります。
しかし労働者は10時で帰れません。雇用契約は8時間労働です。彼は午後2時まで働き続けなければなりません。
午前10時から午後2時までの後半4時間。この時間に労働者は何をしているでしょうか。同じように紡績機を回し、糸を作っています。そして4時間分の価値、つまり4000円分の価値を生産します。
この後半4時間が「剰余労働時間」です。ここで生産された4000円分の価値が剰余価値となります。
労働者は合計8時間働き、8000円分の価値を生産しました。しかし賃金として受け取るのは4000円だけです。残りの4000円は資本家のものになります。
ここで重要なのは、労働日が2つの部分に分割されることです。必要労働時間と剰余労働時間。前者は労働者自身のため、後者は資本家のためです。
労働者の視点から見れば、8時間すべてが自分の労働です。しかし価値の観点から見れば、前半4時間は自分のため、後半4時間は資本家のために無償で働いているのです。
資本家は8時間分の労働を使用しながら、4時間分の賃金しか支払いません。これが搾取の実態です。
剰余価値率、つまり搾取率を計算してみましょう。剰余価値4000円を、労働力の価値4000円で割ります。4000÷4000=100%。搾取率は100%です。
これは、労働者が自分のために働く時間と、資本家のために働く時間が等しいことを意味します。労働日の半分は無償労働なのです。
もし労働日が12時間に延長されたらどうなるでしょうか。必要労働時間は4時間のままです。しかし剰余労働時間は8時間になります。剰余価値率は8000÷4000=200%に跳ね上がります。
逆に労働日が6時間に短縮されれば、剰余労働時間は2時間だけです。剰余価値率は2000÷4000=50%に下がります。
ここから明らかなのは、労働日の長さが決定的に重要だということです。資本家は労働日を延ばそうとし、労働者は短縮しようとします。これが19世紀の工場法をめぐる激しい闘争の経済的基礎でした。
数字を通して見えてくるのは、搾取が隠蔽される仕組みです。表面的には、労働者は8時間働いて4000円を得ます。正当な取引に見えます。
しかし実際には、彼は8時間働いて8000円分の価値を生産し、そのうち4000円しか受け取っていません。残りの4000円は見えない形で資本家に移転しているのです。
この見えない移転こそが、資本主義的搾取の本質なのです。
7. 資本主義成立の歴史的前提
労働力が商品として売買される。これは自然な状態ではありません。人類史の大部分において、労働力は商品ではありませんでした。資本主義が機能するには、特殊な歴史的条件が必要だったのです。
その条件とは、「二重の意味で自由な労働者」の存在です。マルクスはこの「二重の自由」という表現に皮肉を込めています。
第一の自由は、人格的自由です。労働者は法的に自由な人間でなければなりません。奴隷ではないのです。
古代ローマの奴隷を考えてみましょう。奴隷は人間ではなく、物として扱われました。奴隷自身が商品でした。主人は奴隷そのものを売買しました。奴隷は自分の労働力を売ることができません。なぜなら、彼自身が他人の所有物だからです。
資本主義的雇用は異なります。労働者は自分自身を売るのではなく、自分の労働力を一定期間売るのです。朝9時から夕方5時までの8時間、自分の労働能力を使う権利を資本家に売ります。しかし5時以降、労働者は自由です。
この区別は重要です。労働者は契約の主体として、資本家と対等な法的地位にあります。両者は自由意志で契約を結びます。強制はありません。少なくとも法的には。
第二の自由が、より重要です。それは生産手段からの自由です。労働者は土地も、工具も、原料も、何も持っていません。生産手段から完全に切り離されているのです。
中世の農奴を見てみましょう。農奴は領主に隷属していました。人格的には自由ではありません。しかし農奴は土地へのアクセスを持っていました。領主の土地で働く義務がありましたが、同時に自分の小さな畑も耕せました。
中世の職人はどうでしょうか。彼は親方のもとで働きましたが、いずれ独立して自分の工房を持つ道がありました。道具を所有し、徒弟を雇い、自分で生産することができたのです。
これらの人々は、労働力を売る必要がありませんでした。なぜなら、自分で生産手段を持っていたからです。農民は自分の畑で作物を育てられます。職人は自分の工房で製品を作れます。
しかし資本主義の労働者は違います。彼は何も持っていません。工場も機械も原料もありません。あるのは自分の肉体と頭脳だけです。つまり労働力だけです。
だから彼は労働力を売らざるを得ません。それ以外に生きる方法がないのです。働かなければ食べられない。そして働くためには、生産手段を持つ資本家に雇われる必要があります。
これが「二重の自由」の皮肉です。労働者は確かに自由です。奴隷のように鎖につながれてはいません。しかし同時に、あまりにも自由すぎるのです。生産手段から自由、つまり何も持っていないがゆえに、労働力を売ることを強制されるのです。
この状態は自然に生まれたのではありません。歴史的プロセスの結果です。
中世ヨーロッパでは、農民は土地に縛られていました。領主制のもとで、農民は土地から離れることができませんでした。15世紀、16世紀になると、この封建制が崩壊し始めます。
イギリスでは「囲い込み運動」が起こりました。共有地が私有化され、農民が土地から追い出されました。羊毛産業が利益を生むと分かった地主たちは、耕作地を牧草地に変えました。農民は追放され、浮浪者となりました。
大陸ヨーロッパでも、ギルド制度が解体されました。職人組合の規制が緩み、独立した職人の道は閉ざされていきました。
こうして大量の人々が、土地からも生産手段からも切り離されました。彼らは都市に流入し、工場で働く以外に選択肢がなくなったのです。
マルクスはこのプロセスを「本源的蓄積」と呼びます。資本の蓄積の前提となる、原初的な蓄積です。資本家の側には富が蓄積され、労働者の側には生産手段を持たない大衆が蓄積されました。
この歴史的転換によって初めて、労働力の商品化が可能になりました。そして労働力が商品になって初めて、資本主義的生産様式が本格的に展開できたのです。
資本主義は自然な経済システムではありません。それは特定の歴史的条件のもとで、しばしば暴力的な手段によって作り出された社会システムなのです。
前編のまとめ
ここまでのポイント整理
長い旅路でしたが、ここで一度立ち止まり、これまで学んだことを整理しましょう。
商品の二重性
すべては商品の分析から始まりました。商品には二つの側面があります。使用価値と価値です。
使用価値は具体的な有用性です。パンは空腹を満たし、服は寒さから守ります。これは商品の物質的側面、自然的側面です。
しかし商品には価値もあります。それは抽象的人間労働の凝固です。パンを作るのに3時間、服を作るのに6時間かかるなら、服の価値はパンの2倍です。この価値こそが、全く異なる商品を交換可能にする共通の尺度なのです。
商品の二重性は、労働の二重性から来ています。具体的有用労働は使用価値を生み、抽象的人間労働は価値を生みます。この区別がマルクス経済学の出発点でした。
貨幣の本質
商品交換が発展すると、一つの商品が特別な地位を獲得します。それが貨幣です。
貨幣は商品世界から生まれた一般的等価物です。すべての商品が、自分の価値を貨幣で表現します。金という商品が、社会的に選ばれて貨幣の地位を得たのです。
貨幣は価値尺度として機能し、流通手段として商品交換を媒介し、蓄蔵手段として富を保存します。しかし貨幣の本質は、それが商品であるということです。特殊な、しかし依然として商品なのです。
資本の定義
貨幣がすべて資本なのではありません。貨幣が資本になるのは、特定の運動形式に入る時です。
G-W-G’という流通です。貨幣で始まり、より多くの貨幣で終わる運動。この自己増殖する価値こそが資本です。
単純商品流通W-G-Wには終わりがありますが、資本の運動G-W-G’には終わりがありません。価値の無限の増殖、これが資本の本質です。そして資本家は、この運動の人格化にすぎないのです。
剰余価値の源泉
では、どうやって価値は増えるのか。等価交換の原則を守りながら、どうやって100万円が120万円になるのか。
秘密は労働力という特殊な商品にありました。労働力は市場で売買される人間の労働能力です。その価値は労働者の生活費で決まります。
しかし労働力の使用価値は特別です。それは価値を生み出す力です。しかも、自分自身の価値以上の価値を生み出す力なのです。
労働者の1日の生活費が4時間分の労働に相当しても、労働者は8時間働けます。この差額が剰余価値の源泉です。
搾取の構造
ここに資本主義の核心があります。搾取は等価交換の中に隠されています。
資本家は労働力を正当な価格で買います。詐欺も暴力もありません。しかし労働力という商品の特殊性ゆえに、等価交換が不等価を生み出すのです。
労働と労働力の区別が決定的でした。売買されるのは労働力という能力であり、その価値は生活費で決まります。しかし生産過程で消費されるのは労働であり、それは労働力の価値を超える価値を生み出します。
労働日は二つに分割されます。必要労働時間では労働者は自分の賃金分を生産し、剰余労働時間では資本家のために無償で働きます。この見えない分割が、搾取の実態なのです。
次回予告
前編では、資本主義の基礎的メカニズムを学びました。商品、貨幣、資本、剰余価値という概念の連鎖です。
しかし、これはまだ始まりにすぎません。次回、第2回では、剰余価値の生産メカニズムをさらに深く掘り下げます。
資本家はどうやって剰余価値を増やすのか。二つの方法があります。絶対的剰余価値と相対的剰余価値です。
絶対的剰余価値は労働日の延長によって得られます。8時間労働を10時間、12時間、さらには16時間へ。19世紀イギリスで繰り広げられた、労働日をめぐる死闘を見ていきます。労働者の抵抗と工場法の成立、そこに刻まれた階級闘争の歴史です。
相対的剰余価値は、労働生産性の向上によって得られます。必要労働時間を短縮し、剰余労働時間を延長する。ここに技術革新の資本主義的動機があります。
そして機械の導入です。機械と大工業が労働者にもたらした衝撃、女性労働と児童労働の増大、労働の単純化と熟練の解体。産業革命の光と影を詳しく見ていきます。
最後に賃金の本質を明らかにします。時間給、出来高給、それぞれの形態が搾取をどう隠蔽するのか。賃金が労働の価格ではなく、労働力の価格であることを再確認します。
最後に
「商品・貨幣・資本」という基礎概念を理解できれば、資本主義社会の見え方が変わります。
日常的に使っているお金、買い物をする商品、働いて得る賃金。これらすべてが、実は複雑な社会関係の現れなのです。
スーパーで買うコーヒー1杯の背後には、途上国の農園労働者がいます。スマートフォンの中には、中国の工場労働者の労働が凝固しています。私たちの賃金は、私たちが生み出した価値の一部でしかありません。
マルクスが『資本論』で行ったのは、この見えない関係を可視化することでした。商品のフェティシズムを剥ぎ取り、物と物の関係として現れる人と人の関係を明らかにすることでした。
前編はここまでです。コメント欄で質問や感想をぜひお寄せください。わかりにくかった点、もっと知りたい点があれば、お答えします。
次回もお楽しみに。剰余価値の生産メカニズムという、さらにスリリングな世界へご案内します。

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