今回も哲学書の解説シリーズです。今回は、アリストテレス『形而上学』を取り上げます。
はじめに――タイトルの由来は、本の中身とは無関係だった
今日取り上げるのは、西洋哲学の歴史そのものを2000年以上にわたって規定し続けてきた、ある巨大な著作です。
「形而上学」という言葉を聞くと、多くの方は、感覚を超えた、抽象的で神秘的な、いかにも高尚な学問を思い浮かべるのではないでしょうか。実際、日本語の「形而上学」という訳語も、英語のmetaphysicsという言葉も、いかにもそういう重々しい響きを持っています。
ところが、この言葉の由来を種明かしすると、拍子抜けするほど素っ気ない事実にたどり着きます。この本の原題、古代ギリシア語で”タ・メタ・タ・フュシカ”は、直訳すれば「自然学の”後に”来るもの」という、いわば整理番号のような意味でしかないのです。しかも、この名付けを行ったのは、アリストテレス自身ではありません。
彼の死後、数百年を経て彼の著作群を編纂したある人物が、この一連の講義録を、『自然学』という別の著作集の”次の巻”として、たまたま書架に並べたことに由来する呼び名なのです。
つまり『形而上学』というタイトルは、この本の中身が何であるかを、実は何ひとつ説明していません。にもかかわらず、この偶然の書架整理から生まれた一冊は、西洋哲学が2000年以上をかけて格闘し続けることになる、いくつもの巨大な問いを提示することになります。
たとえば「存在するとはどういうことか」という、あまりに当たり前すぎて誰も正面から問わなかった問いです。アリストテレスはこの問いに答えるために、「実体」――ウーシアと呼ばれる概念です――という道具立てを持ち出し、この世界に本当に存在していると言えるのは何なのか、机の色や大きさのような属性と、それらを支えている”本体”そのものとは何が違うのか、を執拗に問い詰めていきます。
さらに、変化とは何かという問題を説明するために、「可能態」と「現実態」という一対の概念を編み出し、大理石の塊が彫像へ、あるいは種が木へと変化していく過程を、単なる偶然の連続としてではなく、一貫した論理で説明しようと試みます。
そして本全体の頂点には、あらゆる運動と変化の究極の原因として、それ自身は動かされることなくすべてを動かす「不動の動者」という、後の中世神学にまで多大な影響を及ぼすことになる概念が置かれています。ちなみに、この著作は全部で14巻からなり、ギリシア文字を使って「アルファ」から「ニュー」まで、律儀に番号が振られています――こんな味気ない番号の振り方一つを取っても、これがもともと体系立てて書き下ろされた”一冊の本”ではなく、性質の異なる講義ノートの寄せ集めだったことがうかがえますね。
これらの概念は、のちにトマス・アクィナスをはじめとする中世スコラ哲学の骨格そのものとなり、さらに近代哲学が「存在論」と呼ぶ分野そのものの出発点にもなりました。この本がいかに難解でありながら避けて通れないものだったかを物語る、こんな逸話も伝えられています。11世紀のイスラーム世界を代表する哲学者・医学者であったイブン・シーナー、西欧では「アヴィケンナ」の名で知られる人物は、若き日の自伝の中で、この『形而上学』を40回読み返し、ほとんど暗誦できるほどになってもなお、その真の狙いがどうしても理解できずにいた、と告白しています。
彼の混乱がようやく解けたのは、書店でたまたま手に取った、先達の哲学者アル・ファーラービーによる、まさに『アリストテレスの形而上学の意図について』と題する、薄い一冊の解説書に出会ったときだったといいます。1000年以上前、遠く離れた文化圏の俊才をもってしても、独力では読み解ききれなかったほどの書物だということですね。
それでもなお、後世の哲学者たちはこの難物に果敢に挑み続けました。12世紀イベリア半島の哲学者イブン・ルシュド、ラテン語名アヴェロエスは、この『形而上学』にあまりに徹底した注釈を施したため、後世のヨーロッパでは単に「あの注釈者」を意味する”The Commentator”という異名で呼ばれるようになり、詩人ダンテも『神曲』の中で敬意を込めて彼に言及しています。
13世紀のトマス・アクィナスもまた、このアヴェロエスの浩瀚な注釈のスタイルに倣いながら、『形而上学』の一行一行に自らの注解を付けていく大著を著しました。ちなみに本編の冒頭、第1巻アルファの書き出しは、「すべての人間は、生まれつき知ることを欲する」という、哲学史上もっとも有名な一文の一つで始まります。
今日私たちが挑む一冊は、こうして幾多の巨人たちを惹きつけ、また悩ませ続けてきた本なのです。いわば、たった一人の編集者が書架の都合でつけた呼び名が、結果として、人類が”存在すること”そのものについて考えるときの共通言語になってしまった、というわけです。
では、アリストテレス自身は、この本でいったい何を論じようとしていたのでしょうか。そして、たまたま付けられたこの名前が、なぜ2000年以上経った今も、人類の思考の最も根源的な領域を指す言葉として使われ続けているのでしょうか。安心してください、今日の動画では、こうした専門用語のひとつひとつを、難しい前提知識なしに、具体的な例を交えながら、順を追って丁寧にほどいていきます。
実体とは何か、可能性が現実になるとはどういうことか、そして「動かされることなくすべてを動かすもの」とは一体何を意味するのか――これらはすべて、これから一つひとつ、じっくりと解き明かしていきますので、今の時点で完全に理解できていなくても、まったく問題ありません。
実際、今日の分析哲学の世界でも「存在論」と呼ばれる分野の研究者たちは、いまだにこの本の議論を出発点として引用し続けています。2000年以上前の、しかも編集者の都合でたまたま一冊にまとめられた講義ノートが、21世紀の哲学の最前線でもなお現役の議論の相手であり続けているというのは、考えてみればとても不思議なことですね。
今日は、この謎めいた大著を、全9章にわたって、できる限り丁寧に、具体例とともに読み解いていきます。長い旅になりますが、最後までお付き合いください。
第1章 生涯――マケドニア宮廷から、逍遥学派の創始者へ
まず、この本を書いたアリストテレスという人物自身の歩みに、じっくりと触れておきましょう。アリストテレスは紀元前384年、ギリシア北方、カルキディキ半島にある小さな町、スタゲイラに生まれました。父ニコマコスは、マケドニア王アミュンタス3世――のちのアレクサンドロス大王の祖父にあたる人物です――の侍医を務めており、この宮廷とのつながりが、のちのアリストテレスの人生を大きく左右することになります。
母ファイスティスは、エウボイア島のカルキスの出身で、この地に一族の資産を持っていたと伝えられています。しかしアリストテレスは、まだ10歳ほどの少年の頃に父を、その前後には母をも失い、早くに両親を亡くしてしまいます。その後は、姉アリムネステの夫であったプロクセノスが後見人となり、彼を育てたとされています。
17歳か18歳の頃、アリストテレスはアテナイに渡り、プラトンが主宰する学園「アカデメイア」に入門します。以後、紀元前347年にプラトンが没するまでの約20年間、彼はここで学び続けました。プラトンは彼を「学園の精神」と評したとも伝えられ、当初は師の説くイデア論の熱心な信奉者だったようですが、次第に独自の批判的な視座を育てていくことになります。
この批判の中身については、のちほど第3章でじっくりとご紹介します。プラトンの死後、アリストテレスはアテナイを離れます。学園の後継者に選ばれなかったこと、あるいは当時強まっていた反マケドニア感情が背景にあったとも言われています。
小アジアのアッソスに移った彼は、この地を治めていた僭主ヘルミアスの庇護を受け、弟子のテオプラストスとともに動植物の実地観察に没頭する数年間を過ごします。この時期、アリストテレスはヘルミアスの姪、あるいは養女とも伝えられるピュティアスという女性と結婚しました。彼女はまだ18歳ほど、アリストテレスはすでに40歳前後だったとされ、二人の間には母親と同じ名を持つ娘が生まれています。
ピュティアスとの結婚生活は10年ほど続きましたが、彼女は比較的早くに世を去ってしまいます。のちにアリストテレスは、ヘルピュリスという女性との間にもう一人の子、息子ニコマコスをもうけました。この息子の名は、アリストテレスの父の名と同じであり、また後世、彼の代表的な倫理学の著作が『ニコマコス倫理学』と呼ばれる所以ともなった人物です――このニコマコスが父の遺稿の編集に関わった、あるいは彼に捧げられた著作だからこの名がついた、という説が伝えられていますが、詳しい経緯は必ずしも明らかではありません。
なお、この息子ニコマコスは、まだ年若いうちに戦場で命を落としたと古代の伝承は伝えており、父の哲学を大成させるはずだったこの子が、父の遺した倫理学書にただ名を残すだけの存在になってしまったことも、あわせて心に留めておきたいところです。紀元前343年頃、マケドニア王フィリッポス2世から、当時13歳だった王子アレクサンドロス――のちの大王です――の家庭教師として招かれます。
この師弟関係がどこまで実質的な影響を及ぼしたかについては議論がありますが、後年アレクサンドロスが東方遠征の際、珍しい動植物の標本を各地からアリストテレスのもとへ送り届けさせたという逸話も残っています。
さらに古代の伝承によれば、アリストテレスが手ずから校訂・注釈を加えた『イリアス』の写本を、アレクサンドロスは終生手放さず、遠征にも携えていたとされます。この写本は、ペルシア王ダレイオス3世から鹵獲した豪華な小箱に収めて持ち運ばれていたことから「箱入りの写本」と呼ばれ、アレクサンドロスはこれを短剣とともに、いつも枕元に置いていたと伝えられています。
もっとも、この逸話の主な出典はプルタルコスの『英雄伝』であり、注釈を加えた人物としてアリストテレスのほかカリステネスやアナクサルコスの名も挙げられているなど、細部には諸説あることも付け加えておきます。紀元前335年、アリストテレスはアテナイに戻り、自らの学校「リュケイオン」を創設します。ただし、アリストテレスはアテナイの市民権を持たない、いわゆる「メトイコイ(在留外国人)」の身分であったため、この地に土地や建物を所有することは法律上できませんでした。
そのため彼が実際に用いたのは、アポロン・リュケイオスという神に捧げられた公共の体育場、すなわち「リュケイオン」の敷地であり、かつてソクラテスもこの同じ場所で若者たちと語らったと伝えられています。彼はここで、屋根付きの回廊――ペリパトスと呼ばれる場所です――を歩きながら弟子たちと議論する講義スタイルを好んだとされ、これにちなんで彼の学派は「逍遥学派」あるいは「ペリパトス派」と呼ばれるようになりました。
後世の伝承によれば、リュケイオンでの一日は午前と午後とで性格が異なっていたとも言われます。午前中は少数の熟練した弟子だけを相手に、論理学や自然学、形而上学といった専門的で難解な主題を扱い、午後になると、より広い聴衆に向けて、弁論術や政治学といった、比較的とっつきやすい主題を講じたとされているのです。
この伝承をそのまま史実として鵜呑みにはできませんが、私たちが今日読む『形而上学』のような凝縮された講義録が、おそらく前者の、内輪向けの専門的な議論から生まれたものだろうという推測とは、よく符合しています。リュケイオンは単なる講義の場にとどまらず、動植物の標本を集めた博物学的コレクション、各都市国家の政治制度を集めた資料集――『アテナイ人の国制』はその一部として今日まで現存しています――などを備えた、古代世界でも屈指の総合的な研究機関へと発展していったと考えられています。
地理学者ストラボンは、後年この蔵書のことを振り返り、「私の知る限り、書物を蒐集し、それをエジプトの王たちに図書館の整理の仕方として教えたのは、アリストテレスが最初の人物である」とまで書き残しています――もっとも、エジプトやメソポタミアにはそれ以前から大規模な文書庫が存在していたことがわかっており、この評価はいくぶん誇張が含まれているとも指摘されていますが、それでもアリストテレスの蔵書が古代世界において伝説的な規模と評判を誇っていたことは間違いなさそうです。
ここで、今日私たちが手にしている「アリストテレスの著作」について、少し立ち入った説明をしておく必要があります。古代の伝承によれば、アリストテレスの著作には2つの系統がありました。一つは「エクソテリコイ」、つまり「外向きの」著作群で、一般読者向けに練り上げられた洗練された対話篇であり、古代には非常に高く評価されていました。
『エウデモス、あるいは魂について』、若者に哲学を学ぶよう説いた『プロトレプティコス』、『哲学について』といった作品の名が伝わっており、いずれも今日では断片という形でしか残っていませんが、後世の哲学者たちに大きな影響を与えました。ローマの政治家キケロは、これを「黄金の川の流れ」と評したと伝えられ、自身の失われた対話篇『ホルテンシウス』を、アリストテレスの『プロトレプティコス』に倣って書いたとも言われています。
もう一つは「アクロアマティコイ」、つまり「講義用の」著作群で、リュケイオンの弟子たちだけを対象にした、専門的で凝縮された講義ノートです。皮肉なことに、前者の洗練された対話篇は、そのほとんどが後世に失われてしまいました。私たちが今日「アリストテレスの著作」として読んでいるものは、本来は公開を意図していなかった、後者の、いわば内輪向けの講義メモのほうなのです。
この事情は、これから読み解いていく『形而上学』の込み入った、時に難解な文体の一因にもなっています。伝記作家ディオゲネス・ラエルティオスが伝える古代の著作目録には、対話篇や研究資料、論考、書簡などを含めて、実に145もの作品名が挙げられており、その分量は行数にして44万行以上にのぼったとされています。
今日私たちが読むことのできるアリストテレスの著作は、この目録のごく一部、研究者の推計ではおそらく全体の5分の1ほどに過ぎないと言われており、彼が実際にどれほど広大な知的活動を行っていたかを想像すると、気が遠くなるような話ですね。
なお、アリストテレス自身の人物像についても、後世にはさまざまな逸話が伝えられています。伝記作家ディオゲネス・ラエルティオスは、当時の伝承として、彼がやや舌足らずな話し方をしたこと、脚がほっそりしていたこと、目が小さかったことなどを書き留めていますが、同時に、身なりには非常に気を配り、指輪を好み、髪型にもこだわる、洒落者だったとも記しています。
ただし、これらの記述は彼の死後何百年も経ってから書かれた伝承に基づくものであり、どこまで事実を反映しているかは慎重に見る必要があるでしょう。紀元前323年、アレクサンドロス大王が急死すると、アテナイでは再び反マケドニア感情が高まります。マケドニア宮廷と縁の深かったアリストテレスは、かつてのソクラテスと同様に「不敬神」の罪で告発されるに至りました。
彼は「アテナイに、哲学に対して二度目の罪を犯させはしない」――ソクラテスの処刑を暗に指しています――と語ったと伝えられ、アテナイを去ってエウボイア島のカルキスに退きました。その翌年、紀元前322年、彼はそこで生涯を終えています。アレクサンドロスの死からわずか1年後のことでした。
アリストテレスが遺した遺言状は、ディオゲネス・ラエルティオスによってほぼ全文が伝えられており、今日まで読むことができます。そこには、ヘルピュリスに銀一タラントンと侍女三人を与えること、亡き妻ピュティアスの遺骨を自分の墓に一緒に納めるよう指示すること、そして自分に仕えてきた奴隷たちについては、決して売り払わず、しかるべき年齢に達し、それにふさわしい働きをした者には自由を与えるようにという指示までが、細やかに記されています。
遺言の執行人には、当時マケドニアの摂政として絶大な権力を握っていた将軍アンティパトロスが指名されており、これもまた、アリストテレスが最後までマケドニア宮廷と深い関係を保っていたことを物語っています。ピュティアスとの間に生まれた娘――同じくピュティアスという名です――については、成人したのちニカノルという人物のもとに嫁がせるようにと指示されており、それまでの間、テオプラストスをはじめとする数名の友人たちが後見人として、彼女とヘルピュリス母子、そして遺産全体の面倒を見るよう定められています。
さらに、このニカノルが遠征から無事に帰還できた暁には、かつて誓ったとおり、故郷スタゲイラに高さ4キュビト――およそ2メートル近くにもなる、ゼウスとアテナへの石像を奉納するようにという、私的な信仰心をうかがわせる一文も残されています。
なお、このヘルピュリスがそもそもどのような身分の女性だったのかについても、研究者の間で議論があります。ギリシア語で伝わる遺言では、彼女は自由な立場の女性であったかのように読めるのですが、後世のアラビア語訳の遺言では、彼女がもともと使用人であったことをうかがわせる記述になっており、この食い違いをどう解釈するかは、今も定説を見ていません。
そして、自らの蔵書と草稿の原本、さらにはリュケイオンの後継としての地位は、長年の高弟テオプラストスに託されました。抽象的な存在の原理を追い求めた哲学者が最期に遺した文書は、家族への愛情と、身近な人々の処遇への具体的な配慮に満ちた、驚くほど人間味のある内容だったのです。遺言の通りリュケイオンの当主となったテオプラストスは、その後36年もの長きにわたって学園を率い、大いに繁栄させました。
彼自身、植物の分類や生態を体系的にまとめた『植物誌』などの著作を残し、後世「植物学の父」とも呼ばれる存在になっています。師から受け継いだ、あらゆる事物を観察し、分類し、体系立てて記述しようとするこの姿勢は、こうして弟子の代にも確かに引き継がれていったわけですね。
第2章 なぜ「形而上学」という名前がついたのか
さて、いよいよ本題に入っていきましょう。第2章では、この『形而上学』というタイトルそのものの由来を、もう少し詳しく掘り下げます。先ほどお話しした通り、アリストテレス自身は、この一連の講義録が扱う主題を、「形而上学」とは呼んでいません。
彼自身の言葉では、これは「第一の哲学」、時には「知恵」、あるいは「神学」とも呼ばれています。彼がこの学問に与えた最も特徴的な定義は、「存在をそのようなものとして、存在する限りにおいて研究する学」というものです。少しわかりにくい表現かもしれませんが、こう考えてみてください。
個々の存在者――石であれ、人間であれ、数であれ――がそれぞれ何であるかを研究するのは、幾何学や生物学といった個別科学の仕事です。ですが「そもそも存在するとはどういうことか」「存在するものすべてに共通する、最も根本的な性質とは何か」を問う学問は、それらの個別科学よりも一段上位に位置する、最も普遍的で根源的な探求だと、アリストテレスは考えました。
ここで彼は、「存在する」という言葉が、実はただ一つの意味で使われているわけではない、という点にも注意を促しています。「存在」は、いろいろな仕方で語られる言葉だというのです。彼がよく持ち出す例が「健康」です。
私たちは「健康な人」とも「健康な食事」とも「健康な顔色」とも言いますが、これらの「健康」はすべて同じ意味で使われているわけではありません。健康な食事とは健康を”生み出す”ものであり、健康な顔色とは健康を”示す兆候”に過ぎず、本当に健康”である”のは、あくまで人の身体だけです。
つまり、さまざまな用法はすべて、ただ一つの中心的な意味――ここでは「身体の健康」――との関係によって、それぞれ意味を持っているわけですね。アリストテレスは、「存在する」という言葉もこれと同じ構造を持っていると考えました。石が存在するのと、色が存在するのと、数が存在するのとでは、それぞれ「存在する」の意味合いが微妙に異なりますが、それらはすべて、最も根源的な意味で”存在する”もの――のちほど詳しく見る「実体」です――との関係によって、存在すると言われているのです。
だからこそ、一見ばらばらに見える個別科学の対象すべてを、たった一つの学問、第一の哲学が統一的に扱うことができる、というのが彼の狙いでした。もっとも、研究者たちの間では、この「第一の哲学」の性格そのものについて、長年議論が続いてきました。というのも、この14巻の講義録の中には、実は微妙に異なる2つの規定が並んで登場するからです。
ある巻――第4巻ガンマにあたる部分です――では、第一の哲学は「存在するものすべて」を対象にする、きわめて普遍的な学として描かれます。ところが別の巻――第6巻エプシロンです――では、第一の哲学は、物質を離れた、永遠に不変な特別な存在、つまり神的なものだけを扱う「神学」として描かれているのです。存在するものすべてを扱う普遍的な学なのか、それとも神的なものだけを扱う特殊な学なのか――この一見矛盾するとも取れる2つの顔を、アリストテレスがどう両立させようとしたのかは、今日に至るまで研究者の間で解釈が分かれる、この本を読み解くうえでの大きな論点の一つになっています。
実は、アリストテレスは学問全体を、大きく3つの領域に分類しています。一つは、ものを実際に作り出すことを目的とする「制作的な学」――弁論術や詩作の技術がこれにあたります。
もう一つは、人間の行為や共同体のあり方を扱う「実践的な学」――倫理学や政治学です。そしてもう一つが、知ること自体を目的とする「理論的な学」であり、アリストテレスはこれをさらに3つに分けています。自然界の運動や変化を研究する「自然学」、量や図形を抽象的に扱う「数学」、そして、感覚を超えた、不変で自立した存在そのものを研究する「第一の哲学」です。
アリストテレスはこの3つの理論的な学のうち、第一の哲学こそが最も尊いと考えました。なぜなら、それは最も普遍的で、最も根源的な原理を扱う学問だからです。この分類の中で、のちに「メタ・フュシカ」と呼ばれることになる一連の講義録は、序列としては「自然学」よりも上位に置かれていたことになります。
では、この一連の講義録は、いつ、どのようにして「メタ・フュシカ」という名を得たのでしょうか。紀元前1世紀頃、ロドス島出身の学者アンドロニコスが、散逸しかけていたアリストテレスの膨大な著作群を整理し、体系的な全集として編纂する作業を行いました。この経緯を伝える最も重要な古代の史料は、地理学者ストラボンの『地理誌』第13巻と、伝記作家プルタルコスの『英雄伝』中の「スラ伝」です。
両者が伝える物語によれば、アリストテレスの蔵書と草稿は、彼の死後、弟子のテオプラストスに、さらにその弟子ネレウスへと受け継がれましたが、紀元前2世紀頃、ペルガモン王による蔵書の没収を恐れたネレウスの遺族が、これを地下室に隠してしまいます。長い年月、湿気と虫食いにさらされて損傷したこれらの巻物は、紀元前100年頃になってようやく、アペリコンという裕福な蒐集家の手に渡り、彼は損傷の激しい写本をもとに、欠落部分を独自に補いながら杜撰な校訂版を作らせたとされています。
その後、紀元前86年にアテナイを攻略したローマの将軍スラが、このアペリコンの蔵書ごと接収してローマへ持ち帰り、スラの死後、文法学者テュランニオンがこれを整理し、そこからアンドロニコスが写しを入手して、本格的な校訂・編纂を行った、という筋書きです。この伝承の細部については、後世の誇張や脚色も含まれていると考える研究者も少なくありません。
地下室に何十年も隠されていたはずの巻物について、そこまで詳細な経緯が伝わっていることへの疑問や、ストラボンとプルタルコスの記述の間の食い違いも指摘されています。
とはいえ、いずれにせよ、私たちが今日「アリストテレスの全集」として手にしている構成は、著者本人の生前の意図というより、彼の死後何世紀も経ってから、一人の編集者の判断によって形づくられたものだという点は、押さえておく価値があります。
実は、寄せ集めであることを疑わせる証拠は、編纂の経緯だけにとどまりません。20世紀初頭、ドイツの古典学者ヴェルナー・イェーガーは、『形而上学』のテキストそのものを綿密に分析し、この14巻の中には、アリストテレスがまだプラトンのイデア論に近い立場で書いた比較的初期の部分と、経験的な自然研究を積み重ねた後年になって書かれた、より独自色の強い部分とが、地層のように入り混じって存在していると主張しました。
つまり『形而上学』は、単に後世の編集者が寄せ集めたというだけでなく、そもそもアリストテレス自身が、生涯にわたる思索の深まりの中で、少しずつ書き足し、書き直していった、いわば未完成のまま重ね書きされた草稿群である可能性が高いというのです。イェーガーのこの仮説は20世紀の研究に大きな影響を与えましたが、今日ではその具体的な結論の多くが疑問視されてもおり、あくまで一つの有力な仮説として理解しておくのがよいでしょう。
このときアンドロニコスは、自然界の事物の運動や変化を扱う一連の講義――『自然学』――を先に配置し、その”後ろ”に、自然を超えた、より根本的な存在の原理を扱うこの一連の講義を並べました。この配置上の呼び名――「自然学の後に来るもの」――が、そのままこの著作群の通称として定着してしまったのです。
皮肉なことに、後世の人々はこの偶然の名付けに、後から哲学的な意味を読み込むようになります。「自然学の”後に”来る」という言葉を、単なる書架上の配置ではなく、「自然を”超えた”領域を扱う学」という意味に読み替えたのです。
こうして「メタ・フュシカ」は、ラテン語の”metaphysica”を経て、英語の”metaphysics”へと受け継がれていきました。日本語の「形而上学」という訳語もまた、独自の由来を持っています。この言葉は、中国古典『易経』の繋辞上伝にある「形而上なる者、之を道と謂い、形而下なる者、之を器と謂う」という一節から取られたもので、明治期の哲学者・井上哲次郎が、1881年、明治14年に東京大学から刊行された、日本初の本格的な哲学用語集『哲学字彙』の中で、metaphysicsの訳語として案出したとされています。
この『哲学字彙』は、井上のほか和田垣謙三、国府寺新作、有賀長雄という4人の学者によって編まれ、当時の日本で乱立していた哲学関連の訳語を統一するという目的を持っていました。土台となったのは、19世紀イギリスの哲学者ウィリアム・フレミングによる『哲学字典』の見出し語だったとされ、この一冊がきっかけとなって、「哲学」「科学」「形而上学」「普遍」「意志」「絶対」といった、今日私たちが当たり前のように使っている数々の日本語の哲学用語が定着していったと言われています。
興味深いことに、この訳語をめぐっては、東アジア全体を巻き込むちょっとした逆転劇がありました。清末の中国では、当初、翻訳家として知られる厳復が、道家の古典『老子』にある「玄之又玄、衆妙之門」――玄妙の中のさらに玄妙、あらゆる妙なるものの入り口、というような意味です――という一節にちなんで、「玄学」という訳語をmetaphysicsに当てていました。
ところが、日本に留学した中国人学生たちが持ち帰った夥しい数の日本語の哲学書を通じて、井上の案出した「形而上学」という訳語が中国国内に逆輸入され、次第に厳復の「玄学」を押しのけて定着していったと言われています。
つまり私たちが「形而上学」と呼んでいるこの重々しい響きの言葉は、ギリシアでの偶然の書架配置と、中国古典からの引用と、明治日本の翻訳事業、そしてそれが再び中国へと逆輸入されるという東アジア規模の知の往還という、幾重にも積み重なった歴史の産物なのです。
第3章 第一巻――先人たちへの批判的検討
第3章に進みましょう。ここからは、いよいよ本文の中身に入っていきます。現在14巻――ギリシア文字でアルファ大文字、アルファ小文字、ベータ、ガンマ、デルタ、エプシロン、ゼータ、エータ、テータ、イオタ、カッパ、ラムダ、ミュー、ニューと呼ばれています――から構成されるこの著作群は、冒頭、非常に有名な一文から始まります。
「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」。人間が感覚を通じて得る喜び、とりわけ視覚を通じた喜びを例に挙げながら、アリストテレスは、実用的な必要性を離れてなお、人間には物事を知りたいという純粋な欲求が備わっていると論じます。学問――エピステーメーという言葉です――は、この欲求が、経験の蓄積を経て、原因や原理の体系的な理解へと発展したものだと位置づけられます。
この探求の出発点にあるものとして、アリストテレスがとりわけ重視するのが、「驚き」――タウマゼインという言葉です――という感情です。人間は、身近な物事に対する素朴な驚きから出発し、やがて天体の動きや、この宇宙そのものの成り立ちといった、より遠く大きな問いへと、驚きの対象を広げていきました。神話を愛する人もまた、ある意味で哲学者だとアリストテレスが言うのも、神話がまさに、この”驚くべきこと”を語る営みだからです。
続く第一巻の大部分は、アリストテレス以前の哲学者たちが、事物の根本原因をどう説明してきたかを、批判的に検討する、一種の哲学史のサーベイになっています。アリストテレスによれば、「哲学の祖」とされるタレスは、万物の根源――アルケーという言葉です――を、水だと考えました。このタレスにまつわる逸話は、後世にもいくつか伝えられています。
古代の歴史家ヘロドトスによれば、タレスは紀元前585年に起きた日食を事前に言い当てたとされ、その日食は、メディア人とリュディア人のあいだで長く続いていた戦争を、一時中断させるほどの出来事だったと伝えられています。
もっとも、彼が実際にどのような方法でこれを予測しえたのかは、現代の研究者のあいだでも議論が分かれるところです。一方でプラトンは『テアイテトス』のなかで、星を観察することに夢中になるあまり、タレスが足元の井戸に落ちてしまい、それを見ていたトラキア人の召使いの娘に、天上のことばかり知りたがって、足元のことにさえ気づけないのですね、とからかわれた、という逸話を紹介しています。
天を知ろうとする純粋な知的探求と、日々の実際的な生活とのあいだの、この昔からある緊張関係を、この小さな挿話はよく物語っています。アナクシメネスは空気を万物の根源に据えました。空気が薄まっていくと火になり、逆に凝縮が進むと、風になり、雲になり、さらに凝縮すれば水に、最後には土や石にまでなる、と彼は考えたと伝えられています。
性質の違いを、密度という単一の量的な変化に還元して説明しようとした、この着眼点は、のちの自然学的な思考様式の先駆けとも評価されています。ヘラクレイトスは火を万物の根源に据えました。このヘラクレイトスは、「万物は流転する」という思想でも知られ、後世、「同じ川に二度足を踏み入れることはできない」という警句として広く知られるようになりましたが、彼自身の言葉として伝わっている断片は、むしろ「同じ川に足を踏み入れる者にも、そのつど異なる水が流れ寄せてくる」といった趣旨の表現に近く、この定式化じたいは、のちにプラトンが『クラテュロス』のなかで、ヘラクレイトスの後継者たちの立場を要約する際に、練り上げていったものだと考えられています。
エンペドクレスは、土・水・火・空気という4つの根に加え、それらを結合・分離させる力として、愛と争いという2つの原理を導入しました。この愛と争いという2つの原理は、彼の宇宙論のなかで、交互に優勢になる大きな循環を描いています。愛だけがすべてを完全に統一し尽くした状態は、球――スファイロスという言葉です――と呼ばれる、いわば神にもたとえられる調和の極みであり、そこから争いが徐々に勢力を増し、ついには4つの根がすべて分離しきった、正反対の極限状態へと至ります。
私たちが目にする、生物や気象を伴ったこの現実の世界は、この2つの極限のあいだ、愛と争いがともにせめぎ合っている、いわば移行の局面においてのみ立ち現れるのだと、エンペドクレスは考えました。アナクサゴラスは、無数の異質な微粒子を秩序づける知性――ヌースという言葉です――という、より洗練された原理を提示しました。
彼はまた、どんなに小さな物質のかけらにも、あらゆる種類の”種”――スペルマタという言葉です――が、あらゆる割合で含まれていると考えました。ある物が骨に見えたり肉に見えたりするのは、そのなかで骨の種や肉の種が、たまたま他の種よりも多くの割合を占めているからにすぎない、というわけです。この”すべてのもののなかに、すべてのものが含まれている”という発想を、アリストテレスは独自の術語を用いて紹介しながら、批判的に検討しています。
そしてピュタゴラス派は、事物の本質を数そのものに見出そうとしました。彼らが特に神聖視した図形に、「テトラクテュス」と呼ばれるものがあります。1、2、3、4という最初の4つの数を、点を並べて三角形に配置したもので、これらを足し合わせるとちょうど10になる――当時最も完全な数と考えられていた数です――ことから、宇宙の調和そのものを象徴するものとして、特別な誓いの対象にもなっていたと伝えられています。
彼らがここまで数に神秘的な意味を見出した背景には、弦の長さと音程の関係をめぐる発見があったとされています。1本の弦を半分の長さにして弾くとオクターブ上の音が、3分の2の長さにすると完全五度の音が、4分の3の長さにすると完全四度の音が得られるというように、耳に心地よく響く音程が、いずれも単純な整数の比率と結びついていることに気づいたピュタゴラス派は、この発見を足がかりに、宇宙の秩序そのものが、究極的には数と数の比率によって成り立っているのだ、という壮大な世界観へと進んでいったと考えられています。
アリストテレスは、これら先人たちの理論を一つ一つ丁寧に検討しながら、彼らがそれぞれ、のちに紹介する4種類の原因のうち、どれか一部だけを捉え、他を見落としていたと論じていきます。
総じて言えば、タレスやアナクシメネス、ヘラクレイトスのように、水や空気や火といった単一の素材を根源に据えた論者たちは、事物が”何からできているか”という質料因には目を向けたものの、その素材が、なぜ、どのようにして、現在のような秩序ある姿へと変化していくのか、その変化を引き起こす側の原因については、十分に説明できていなかった、とアリストテレスは考えます。
素材そのものが、みずからをひとりでに変化させることはできないはずだからです。これに対してエンペドクレスの愛と争い、アナクサゴラスのヌースは、この変化を引き起こす原因、すなわち作用因に近いものへと手を伸ばした試みだったと、アリストテレスは一定の評価を与えつつも、その扱いはなお漠然としたものにとどまっていた、と結論づけています。
こうした先人たちの理論の検討を踏まえて、アリストテレスは、事物を説明するために必要な原因を4種類に整理します。これが有名な「四原因説」です。
たとえば1軒の家を例に取れば、それが建てられている素材である石材や木材が「質料因」、「家とはこういうものだ」という設計上の間取りや構造が「形相因」、実際にそれを組み立てた大工の仕事が「作用因」、そして人が雨風をしのいで住むためという、家の存在目的が「目的因」にあたります。同じ枠組みを、彼はしばしば彫像――青銅という質料、彫刻家が与える特定の姿という形相、彫刻家の作業という作用因――にも当てはめて説明しますが、もう一つ、彼が繰り返し好んで用いる例が、医術です。
病人を診察し治療を施す医者、あるいは医術という技術そのものが、患者の身体に健康という変化をもたらす作用因であり、健康そのものが、その治療がめざす目的因にあたる、という説明を、アリストテレスは『自然学』のなかでも重ねて行っています。この四原因説は、のちに『自然学』でより体系的に展開される枠組みですが、ここではまず、先人たちの哲学がこの4つの原因のうち、どれか一部しか捉えられていなかったという、批判の物差しとして用いられています。
とりわけ手厳しいのが、師プラトンのイデア論への批判です。プラトンは、私たちが感覚を通じて捉える個々の事物――この馬、この美しいもの――は、その背後にある永遠不変のイデア――馬そのもの、美そのもの――を分有することによって、初めてそのようなものとして存在すると考えました。アリストテレスはこれに対し、いくつかの根本的な疑問を投げかけます。
もしイデアが感覚的な個物とは別に、独立して存在するのだとしたら、そのイデアはいったいどこに、どのようにして存在しているのでしょうか。イデアが個物の原因だと言うなら、それは質料因なのか、作用因なのか、それとも何か別のものなのでしょうか。プラトンの理論は、この問いに明確に答えられていない、とアリストテレスは考えます。
さらにアリストテレスは、もし「美しい個物」と「美そのもの」の両方が”美しい”のなら、両者に共通する美しさを説明するために、さらに”第三の美”を想定しなければならなくなるという、無限後退の危険性も指摘します。これは後世、「第三人間論」として知られるようになる論法の原型です。この論法の骨格を、後代の注釈家アレクサンドロス・アプロディシエウスは、おおよそ次の3つの前提の組み合わせとして再構成しています。
第一に、複数の大きなものが”大きい”のは、それらが「大きさそのもの」というイデアを分有しているからだ、という前提。第二に、分有される側のイデアと、分有する側の個物は、互いに同じ種類の述語――ここでは”大きい”――で語られる以上、両者は似ていなければならない、という前提。
そして第三に、イデアは個物とは別次元に存在する、独立した実在でなければならない、という前提です。この3つを組み合わせると、「大きなもの」の集まりに加えて、それらが似ている以上、その類似性を説明するための、もう一つの”大きさ”を、さらに別のイデアとして立てなければならなくなり、そこにもまた同じ論法が適用できてしまうため、理論上、無限にイデアが積み重なっていくことになってしまいます。
この論法をより精緻な形で展開したとされるのが、現存しないアリストテレスの著作『イデア論について』――ペリ・イデオーンという表題です――で、この著作そのものはすでに失われていますが、後代の注釈家アレクサンドロス・アプロディシエウスが、自身の『形而上学』注釈のなかにその内容を引用の形で書き残してくれたおかげで、私たちは今日でもその骨子を知ることができます。
もっとも、この著作が本当にアリストテレス自身の手によるものかどうかについては、研究者のあいだでも意見が分かれています。興味深いことに、この種の無限後退の問題は、実はプラトン自身も、後期対話篇『パルメニデス』のなかで、みずから提起しています。そこでは、若きソクラテスがイデア論を語り、年長の哲学者パルメニデスから、個物とイデアがどのように”似ている”と言えるのか、その類似性を説明するためにさらに別のイデアを立てなければならなくなるのではないか、という、まさに第三人間論と同じ構造を持つ鋭い反論を突きつけられます。
ソクラテスはこれにうまく答えられず、対話篇はこの難問を、明確な解決を示さないまま残しています。師みずからが、自分の理論の急所を突く問いを、隠すことなく対話篇のなかに書き記していたという事実は、アリストテレスの批判が、まったくの的外れな攻撃ではなく、プラトン学派の内部でもすでに自覚されていた弱点を、正面から引き継ぎ、掘り下げるものだったことを物語っています。
要するに、イデアは個物の世界とは別に、いわば”もう一つの世界”を無用に複製しているだけであり、感覚世界で実際に起きている運動や変化を説明する助けには、少しもなっていない、というのがアリストテレスの結論です。
第4章 第四巻――存在の多義性と、矛盾律の擁護
第4章、第四巻の議論に移りましょう。この巻でアリストテレスは、本書全体の方法論的な土台を据え直します。「存在するものを、存在するものとして研究する学がある」と、彼は改めて宣言します。
個別の科学――数学、生物学、医学――は、それぞれ存在するものの、ある特定の側面だけを切り出して研究します。ですが「存在するとはどういうことか」そのものを主題として研究する学は、あらゆる個別科学の土台に横たわる、最も普遍的な学だと、アリストテレスは位置づけます。
ここでまず問題になるのが、そもそも「存在」を、通常の定義の手続きにしたがって、一つの類とその下位区分である種によって定義できるのか、という論点です。ある事物を定義するとき、私たちは通常、それがどの類に属し、同じ類に属する他の種と、どのような種差によって区別されるのかを述べます。
たとえば「人間」は「動物」という類に属し、「理性的である」という種差によって、他の動物から区別される、といった具合です。ところがアリストテレスは、この手続きが「存在」そのものには当てはまらないと論じます。もし「存在」を一つの類だと考えるなら、その類を下位の種へと分割するための種差もまた、当然「存在する」のでなければ、そもそも語ることも指し示すこともできません。
つまり、類である「存在」の外部にあるべきはずの種差が、実はすでに「存在」という同じ類のうちに、常に含まれてしまっているのです。これでは、類と種差を互いに独立させて組み立てる、通常の定義のやり方そのものが、循環に陥って成り立たなくなってしまいます。この論点は、僅かに先行する巻ですでに提起されていたものですが、「存在」を単一の類として扱うことができない以上、それでもなお「存在」を一つの学の主題としてまとめ上げるには、別の仕方が必要になる、というのが第四巻の出発点になっています。
ここで彼が強調するのが、「存在は、多くの仕方で語られる」という有名なテーゼです。「存在する」という言葉は、あらゆる事物に対してまったく同じ意味で使われるわけではありません。ですがそれは、単なる言葉の同音異義でもありません。
あらゆる「存在する」という語り方は、健康という一つの中心的な概念に関連づけられた、”健康的な”食事や”健康的な”顔色のように、ある一つの中心的な意味――この場合は実体です――との関係によって、統一的に理解できるとアリストテレスは論じます。同じ構造を、アリストテレスは「医学的」という言葉でも説明しています。
医療器具が”医学的”と呼ばれるのは、それが医術の実践に用いられる道具だからであり、ある処置が”医学的”と呼ばれるのは、それが医術という技術から生み出される行為だからであり、ある知識や書物が”医学的”と呼ばれるのは、それが医術に関する知を語っているからです。器具も、処置も、書物も、それぞれまったく違う仕方で”医学的”なのですが、そのすべてが、医術というただ一つの技術との関係によって、統一的に理解できるわけです。
この「一つのものへの関係における多義性」――専門的には「プロス・ヘン」と呼ばれる考え方です――が、雑多に見える存在の諸領域を、一つの学として研究することを可能にする、方法論的な鍵になっています。
さらにアリストテレスがこの巻で指摘するのは、「存在する」を扱う学は、同時に「一である」――ト・ヘンという言葉です――をめぐる学でもある、という点です。あるものが一つのまとまりとして存在するということと、それが存在するということは、いわば表裏一体の関係にあり、実体が一つの統一体として成り立っていることと、それが存在していることとは、切り離すことができません。
そして「一」を扱う学は、当然、そこから派生する「同じ」「異なる」「類似する」「対立する」といった、事物を互いに比較するときに使われる、さまざまな基本的な概念についても、あわせて扱わなければなりません。
こうしてアリストテレスは、存在をめぐる学の守備範囲を、実体という中心的な意味を軸にしながら、そこに関連するこれらの諸概念にまで、少しずつ押し広げていきます。あわせてアリストテレスは、この第四巻で、自分が構想する「哲学」という営みを、当時のギリシアで盛んだった、よく似た2つの知的活動と区別しようとしています。
一つは「弁証術」――ディアレクティケーという言葉です――で、これは哲学と同じように、存在するものごと全般について論じますが、実際に何かを”知る”ための力を欠いており、むしろ相手の主張を吟味し、批判的に検討することに主眼を置く営みです。
もう一つは「ソフィスト術」で、これは哲学であるかのように”見える”だけの、いわば哲学の見せかけにすぎません。3つとも扱う対象という点ではほぼ重なり合っているにもかかわらず、それぞれが必要とする能力のあり方や、その営みが目指す生き方そのものにおいて、根本的に異なっている、とアリストテレスは考えています。
第四巻はまた、論理学の基礎中の基礎である「矛盾律」――ある事物が、同じ観点から、同時に、あるものであり、かつないことはできない、という原理――を擁護する議論でも知られています。アリストテレスは、この矛盾律こそが、あらゆる原理のなかでもっとも確実なものであり、他のあらゆる論証や原理が、最終的にはこの一点に支えられているのだと、きわめて強い調子で位置づけています。
そのうえで彼は、この原理を否定する論者――当時、プロタゴラスや、そして第一巻ですでに万物の根源を火に見た人物として紹介した、あのヘラクレイトスの流れを汲む相対主義者たちが念頭に置かれています――に対し、独特の反論を展開します。とりわけヘラクレイトス的な”万物は流転する”という立場を極端に推し進めた論者たちは、事物が絶えず変化し続けているのなら、ある瞬間に、あるものが”そうである”と同時に”そうでない”とも言えてしまうはずだ、という結論に行き着きかねません。
矛盾律そのものは、あらゆる論証の大前提であるため、それ自体を他の何かから直接証明することはできません。そこでアリストテレスが用いるのが、相手に何かを語らせ、その発言そのもののうちに、すでに矛盾律への依存が入り込んでいることを気づかせるという、いわば論駁――エレンコスという言葉です――を通じた間接的な証明です。
彼らがもし本当に矛盾律を否定するなら、彼らは自分の発言にすら、いかなる確定した意味も込められないはずだと言うのです。「これは存在しない」と主張する行為そのものが、実は「これ」という確定した何かを指し示し、それについて何ごとかを”意味している”ことを、暗黙のうちに前提してしまっています。
たとえば「人間」という言葉一つを取っても、それが何かを意味するのであれば、「人間である」ということと「人間でない」ということは、当然、異なる何かを意味しているはずだとアリストテレスは論じます。もし相手が、この最低限の要求にすら応じず、「人間である」と「人間でない」が”同じことを意味する”のだと言い張るなら、その人はもはや、いかなる実体もいかなる本質も語ることができなくなり、そもそも会話の相手として成立しなくなってしまう、というのがアリストテレスの見立てです。
さらにアリストテレスは、もしあらゆる主張が等しく真であってよいとするなら、ある事物についての、互いに矛盾する二つの主張――たとえば「これは人間である」と「これは人間ではない」――もまた、同時に真でなければならなくなると指摘します。そうなると、ある事物を他の事物から区別するための本質的な特徴というものが、もはや意味をなさなくなり、あらゆる区別が崩れ落ちて、突き詰めれば、すべての事物が一つに溶け合ってしまう、という不合理な帰結に至ります。
この議論は、「人間は万物の尺度である」というプロタゴラスの相対主義に対しても向けられます。プロタゴラスの立場では、あらゆる物事は、それを知覚する各人にとってそう現れる通りに真である、とされます。
しかしアリストテレスは、この主張そのものが現に語られている以上、プロタゴラスは「人間が万物の尺度である」という、まさにその一文によって、何か確定したことを述べようとしているはずだと指摘します。もし彼の主張までもが、語る人によってどのようにでも意味が変わってよいのだとしたら、その主張そのものが、そもそも何かを”主張したこと”にすらならなくなってしまうからです。
矛盾律を本気で否定しようとすれば、その否定の言葉自体が意味を失い、語ることそのものが不可能になってしまう。この、いわば反論者に自分自身の発言によって自己論駁させる、背理法的な立証は、後世の論理学において、繰り返し参照される名高い議論になっています。
第5章 第七〜九巻――実体(ウーシア)とは何か
第5章では、本書の哲学的な核心部、実体をめぐる議論に入っていきます。第七巻、第八巻、第九巻――ゼータ、エータ、テータと呼ばれる巻です――は、アリストテレス哲学全体の中でも最も難解で、最も議論が絶えない部分として知られています。
ここでアリストテレスが問うのは、「実体」――ウーシアという言葉です――とは何かという問題です。存在するものにはさまざまな種類――性質、量、関係、場所など――がありますが、アリストテレスは、それらすべての土台になる、最も基礎的な存在のあり方が「実体」だと考えます。
たとえば「ソクラテスは色白だ」と言うとき、”色白”という性質は、それ単独では存在できず、必ず”ソクラテス”という実体に宿ることによってのみ存在します。
興味深いのは、アリストテレスがこの実体の候補として、”人間”や”動物”といった、いわゆる普遍者――多くの個体に共通してあてはまる、類や種の概念――を、はっきりと退けている点です。第七巻の第十三章で彼が展開する論証によれば、実体とは何よりもまず「分離して存在し、かつこの何か」――トデ・ティという、”これ”を指し示すような言い方です――でなければなりません。
ところが”動物”という普遍者は、ソクラテスにもプラトンにも、あらゆる犬にも馬にも、等しく述語づけられる共通の性格にすぎず、それ自体で独立して”この一つのもの”として存在しているわけではありません。もし普遍者そのものが実体だとすれば、一つの実体が同時に無数の個体の中に、それぞれ全体として宿ることになってしまい、実体の”個別性”という根本的な性格と矛盾してしまうのです。
もっとも、ここにはアリストテレス自身も自覚していた大きな捻れがあります。というのも、彼は同時に、実体こそが真に定義されうるものであり、そして定義とは常に普遍的な言葉によってなされるものだ、とも主張しているからです。個々の”この人”ソクラテスそのものは、厳密には定義できません。
定義できるのは”人間”という普遍的な種のほうです。実体は個別的でなければならないのに、実体の何であるかを言い表す定義は普遍的にしかなされえない――この緊張関係は、ゼータ巻の解釈をめぐって現代の研究者たちの間でも意見が大きく分かれる、いまなお決着のついていない難問として知られています。
では、この実体そのものは、何によって成り立っているのでしょうか。実は、実体の第一候補として、質料そのものではないか、という考え方もありえます。
しかしアリストテレスはこれもまた退けます。ある事物からあらゆる性質やかたちを次々と剥ぎ取っていき、最後に残るはずの”純粋な基体”――いかなる規定も持たない、ただの素材そのもの――を思い描いてみると、それは、量でも質でもなく、さらには”この一つのもの”ですらない、まったく無規定なものになってしまいます。
実体とは、分離して存在し、かつ”この何か”でなければならないという先ほどの条件を、この無規定な質料はまったく満たせません。こうしてアリストテレスは、質料の背後にひかえる形相にこそ、実体としての資格が本来的に備わっているのではないか、という方向へと議論を進めていきます。この議論の枠組みとして、アリストテレスはここで、「質料」――ヒュレーという言葉です――と「形相」――エイドスという言葉です――という対概念を導入します。
たとえば1体の青銅の彫像を考えてみましょう。青銅そのもの――質料――は、彫像になる前から存在していた素材であり、それ自体では特定の彫像ではありません。彫像を彫像たらしめているのは、その素材に与えられた特定の”かたち”、すなわち形相です。
この、素材だけでは事物の何であるかを説明しきれないという論点を、アリストテレスは非常に印象的な比喩によっても示しています。それが、音節をめぐる議論です。
たとえば”BA”という音節は、”B”と”A”という二つの文字から成り立っています。しかし、この音節を、単にバラバラの文字を寄せ集めた集合体として捉えてしまうと、大切な何かが見落とされてしまう、とアリストテレスは指摘します。文字の並び順を入れ替えて”AB”としてしまえば、同じ二つの文字を使っていながら、まったく別の音節になってしまうからです。
つまり、音節は、それを構成する文字そのものと同一ではなく、文字プラス、それらを一定のあり方へとまとめあげる”何か”――まさに構造、すなわち形相にあたるもの――によって、はじめて成立しているのです。アリストテレスはこの”何か”を、事物の本質そのものだとまで言い切ります。彫像における質料と形相の関係も、これと同じ構造を持っています。
青銅という素材だけをいくら積み上げても、それだけでは彫像は立ち現れません。素材を一定のかたちへと組織する形相こそが、単なる寄せ集めと、真に一つのまとまりを持つ実体とを分け隔てる、決定的な違いを生み出しているのです。
なお、この質料と形相という枠組みは、生き物においては、いっそう特別な意味を帯びてきます。アリストテレスは、後の著作『霊魂論』――デ・アニマという書物です――の中で、生き物の”魂”――プシュケーという言葉です――を、まさにその生き物の身体の”形相”にほかならないと論じています。斧を例にとれば、斧を斧たらしめているのは、木や鉄といった材料――質料――そのものではなく、”ものを切る”という機能を実現する、特定の刃のかたち――形相――です。
もし斧から、そのかたちが失われてしまえば、残された木や鉄の塊は、もはや斧とは呼べません。生き物における魂と身体の関係も、これと似た構造を持ちます。ただし、青銅の塊がかたちを失ってもなお青銅として存在し続けられるのに対して、生き物の身体は、魂といういわば”生きるための形相”を失ってしまえば、もはやその身体ではありえなくなってしまう、という点で、両者は決定的に異なっているのです。
アリストテレスは、真の意味での実体とは、この質料でも、単なる形相でもなく、質料と形相が結びついた”この個々の複合体”――たとえば、まさにこの1体の彫像――だと考える立場と、より根源的には形相こそが実体の本質を規定する第一の原理だとする立場との間を、慎重に行き来しながら論じていきます。この議論とあわせて、アリストテレスは「本質」――ト・ティ・エン・エイナイ、直訳すれば”それがそれであったところのもの”という、独特な言い回しの概念――も導入します。
これは、ある事物を、それ以外の何ものでもなく、まさにそれたらしめている、根本的な”何であるか”を指します。たとえば人間の本質は「理性的動物であること」であり、この本質を欠けば、それはもはや人間とは呼べなくなります。アリストテレスにとって、実体の探求とは、最終的にはこの本質――形相と密接に結びついた、事物の核心的な”何であるか”――を突き止める探求に他なりません。
この本質という概念をめぐって、アリストテレスはさらに興味深い問いを投げかけています。それは、いったいどのようなものが、厳密な意味での”本質”を持ちうるのか、という問いです。
たとえば”色白の人間”について考えてみましょう。これは”人間”という実体に、”色白”というたまたまの性質が付け加わったものにすぎず、”色白”という性質は、その人がたまたま持っているだけで、その人を根本的にその人たらしめているわけではありません。アリストテレスによれば、こうした”たまたまの結びつき”――偶有的な結合――には、厳密な意味での本質は存在せず、本質という言葉が厳密にあてはまるのは、”人間”のような、実体そのもの、あるいは実体の第一の種にかぎられるのです。
この線引きは、一見些細な区別のようでいて、「何が真に一つのものと呼べるのか」という、ゼータ巻全体を貫く”統一性”の問題に直結する、重要な論点になっています。
実は、この”複合体はなぜバラバラの部分の寄せ集めではなく、一つのまとまった実体でありうるのか”という統一性の問題こそが、第八巻――エータ――が正面から取り組む主題です。アリストテレスはここで、質料と形相の関係を、可能態と現実態の関係として読み替えることで、この問題に決着をつけようとします。すなわち、質料とは”可能態としてのその実体”にほかならず、形相とは、その可能性が実現された”現実態としてのその実体”にほかならない。
青銅はもともと”可能態としての彫像”であり、そこに形相が与えられることで”現実態としての彫像”になる、というわけです。こう考えれば、質料と形相を、あらためて別々に結びつける”接着剤”のようなものを探す必要はなくなります。なぜなら、質料と形相は、そもそも同じ一つの実体の、いわば”未完成の状態”と”完成した状態”という、二つの位相を言い表しているにすぎないからです。
この、可能態と現実態という視点こそが、次の第九巻――テータ――で、本格的に掘り下げられていくことになります。この議論の中で登場するのが、「可能態」――デュナミスという言葉です――と「現実態」――エネルゲイアという言葉です――という、これもまたアリストテレス哲学を代表する対概念です。一粒のどんぐりは、樫の木に”なりうる”という可能性を、その内に秘めています。
しかし、どんぐりがまだどんぐりである限り、それは”可能態としての”樫の木であって、”現実態としての”樫の木ではありません。可能性が実際に発現し、完成した状態に至ることを、アリストテレスは現実態と呼びます。第九巻で、アリストテレスはこの可能態と現実態の区別を、さらに一段階細かく掘り下げていきます。
たとえば、ある人が幾何学の知識を身につけているとします。この人が眠っていて、まったく幾何学のことを考えていないときでも、その人は”幾何学を知っている人”であり続けています。この、身につけた能力としての知識のことを、アリストテレスは”第一の現実態”――まだ知識を持たない人から見れば、いわば”第二の可能態”――と呼びます。
これに対して、その人が実際に目を覚まし、頭の中で図形を思い描きながら証明を組み立てている、まさにその瞬間の活動は”第二の現実態”にあたります。
つまり同じ”知っている”という状態にも、眠っている間ずっと保持され続ける潜在的な能力としての知と、いままさに発揮されている活動としての知という、二重の意味があるのです。この区別は、単なる言葉の綾ではありません。どんぐりが樫の木になる場合のように、可能態が現実態へと移行して、そこで完全に消えてしまうような変化と、幾何学の知識のように、いったん身につけた後は、使っていないときでも失われずに保持され続け、必要なときにいつでも発揮できるという、まったく性質の異なる”可能性”がある、ということをこの区別は教えてくれます。
さらにアリストテレスは第九巻で、現実態は可能態よりも根源的に”先立つ”のだという、重要な主張を展開します。彼はこの”先立つ”という関係を、少なくとも三つの意味で論じています。
まず定義の上で、現実態が先立ちます。というのも、”何かをなしうる能力がある”ということを説明しようとすれば、必ずその能力が実際に発揮された状態――現実態――を先に定義しておかなければならないからです。
次に、存在としての格において、現実態は可能態に先立ちます。可能態はあくまで現実態という目的に向けた、いわば途上の段階にすぎないからです。そして何より重要なのが、時間的な意味でも、ある種の仕方で現実態が先立つという主張です。
なるほど、一人の人間の成長という観点だけを見れば、赤ん坊はまず可能態としての大人であり、後になってはじめて現実態としての大人になるのですから、可能態のほうが時間的に先行しているように見えます。
しかし、その赤ん坊を”現実態としての人間”たらしめたのは、他でもなく、すでに現実態として存在していた別の人間――赤ん坊の両親――です。可能態としてのものが現実態になるためには、必ずそれに先立って、すでに現実態として存在する何かが働きかけていなければならない、とアリストテレスは考えます。
つまり、可能性としての人間、いわば”なりうる人間”を生み出すのは、常にすでに現実に存在している人間なのです。この意味で、いかなる可能態も、突き詰めれば、それに先立つ何らかの現実態なしには決して現実化しえない、というのがアリストテレスの結論です。この可能態と現実態の枠組みは、単に生物の成長だけでなく、あらゆる変化・運動を説明する一般的な原理として、本書全体で繰り返し用いられていきます。
なお、この現実態の優位という考え方は、後の第十二巻で展開される、永遠に存在し続ける天体や神的な知性をめぐる議論の伏線にもなっています。アリストテレスによれば、天体のように永遠に存在し続けるものは、”存在しなくなる”という可能性そのものを、そもそも内に持ちません。永遠なるものは、常に完全な現実態としてあり続け、可能態と現実態が入れ替わるような不安定さを、いっさい抱えていないのです。
第6章 第十二巻――動かざる動者、自分自身を考える神
第6章、第十二巻――ラムダと呼ばれる巻です――に進みましょう。ここでアリストテレスは、宇宙全体の運動の究極の原因という、神学的とも呼べる主題に踏み込んでいきます。この巻でアリストテレスは、まず実体を大きく三つの種類に整理するところから議論を始めます。
第一は、動植物のように、生成し消滅する、感覚によってとらえられる実体です。第二は、太陽や星々といった天体のように、感覚によってとらえられるという点では同じでありながら、永遠に存在し続け、決して滅びることのない実体です。
そして第三が、感覚ではとらえられず、質料をまったく持たない、永遠不変の実体です。アリストテレスがこれから論じようとする「不動の動者」は、まさにこの第三の種類の実体、すなわち動植物や天体といった自然学の対象をはるかに超えたところに位置づけられる、最も根源的な実体にほかなりません。アリストテレスの宇宙論では、天体は永遠に円運動を続けています。
この永遠の運動が始まりも終わりもなく続くためには、その運動を引き起こす、それ自体は動かない第一の原因が存在しなければならない、と彼は考えます。これが「動かざる動者」、あるいは「不動の動者」です。もしこの第一の動者自身が何かによって動かされているのなら、その動かしているものをさらに動かす別の何かが必要になり、無限後退に陥ってしまいます。
無限後退を避けるためには、それ自体はまったく動かされることなく、他のものを動かす、純粋な始点が必要になるのです。ここでアリストテレスが強調するのが、この不動の動者が、いかなる意味でも質料を持たない、純粋に非物質的な存在でなければならないという点です。なぜなら、アリストテレスの体系において、質料とは常に”可能態”の原理だからです。
何かが質料を持つということは、その事物がいまだ実現していない、別のあり方へと変化しうる潜在的な可能性を、内に抱えていることを意味します。青銅が彫像になる”前”の状態でありうるように、質料を持つものは、常に”いまとは違うものになりうる”という余地を残しています。
しかし不動の動者は、それ自身は何によっても動かされず、いかなる変化も被らない、完全に現実態そのものとして存在していなければなりません。もしこの動者が質料を含んでいるなら、それは同時に何らかの可能態――いまだ実現していない別のあり方への余地――を抱え込んでいることになり、それ自体が変化や運動を被りうる存在になってしまいます。
それでは、あらゆる運動の”動かされることのない”起点であるという、不動の動者の定義そのものと矛盾してしまうのです。それゆえアリストテレスは、不動の動者を、質料をいっさい含まない、混じりけのない現実態――可能性という余地をまったく残さない、完全に実現しきった存在――として位置づけます。
さらにアリストテレスは、この不動の動者が、いかなる大きさも持たず、部分に分割されえない存在でなければならないとも論じています。天体の運動は永遠に、つまり無限の時間にわたって続けられるものですが、有限な大きさしか持たないものは、有限な力しか持つことができず、無限の時間にわたって運動を引き起こし続ける力を持つことはできない、とアリストテレスは考えます。
したがって、永遠の運動を引き起こしうる不動の動者は、そもそも大きさや部分といった、量的に区切られたあり方そのものを持たない存在でなければならないのです。
ここで興味深いのは、この不動の動者が、いったいどのようにして他のものを”動かす”のかという説明です。アリストテレスは、これを機械的な押す力によってではなく、「愛される者として」動かすのだと説明します。恋する者が、恋する対象に引き寄せられて動くように、宇宙全体は、この不動の動者への”憧れ”によって運動するのです。
つまりこれは、物を押して動かす作用因ではなく、目指されることによって動きを引き起こす、目的因としての動かし方です。この作用因と目的因の違いは、たとえば次のように考えると分かりやすいかもしれません。誰かを突き飛ばして押し動かす場合、押す側は、押すという行為のために自ら力を消費し、みずから状態を変化させながら運動に関与します。
ところが、道端で見かけた美しい風景や、心惹かれる誰かの姿に、思わず足を止め、引き寄せられてしまうとき、その風景や人物のほうは、こちらを引き寄せるために何かをしたわけではありません。ただそこに、望ましいもの、美しいものとして”在る”だけで、見る者の側に憧れを引き起こし、結果として見る者を動かしてしまうのです。
不動の動者が天球を動かすのも、まさにこの後者のあり方によってだとアリストテレスは考えます。不動の動者自身は、何ら力を働かせることも、みずから状態を変化させることもなく、ただこの上なく望ましいもの、最高度に善いものとして存在し続けているだけで、天球の側にそれを希求する運動を引き起こすのです。
もっとも、この作用因と目的因の区別をどこまで厳密に切り離せるかについては、研究者の間でなお議論が続いています。一部の研究者は、不動の動者は目的因であると同時に、天球の側に”憧れ”という運動を実際に引き起こしている以上、広い意味では作用因としての役割も果たしていると解釈できるのではないか、と論じています。
そしてこの不動の動者そのものの本質を、アリストテレスは「思考の思考」――ノエーシス・ノエーセオースという言葉です――つまり自分自身を考え続ける純粋な思考活動として描きます。もしこの神的な知性が、自分以外の何か――たとえばこの世界の不完全な出来事――を考えの対象にするなら、その知性は自分より劣ったものに依存することになり、完全な自己充足性を損なってしまいます。
それゆえ、最高の思考は、考えるという活動そのものを、自分自身を対象として、永遠に続けている以外にありえない。これが、アリストテレスの考える「神」の姿です。ただし、この”自分自身しか考えない神”という描写は、古代から現代に至るまで、解釈者たちを大いに悩ませてきた難問でもあります。
もし不動の動者が本当に自分自身のことしか考えていないのだとしたら、この神は、世界で起きているさまざまな出来事――たとえば人間たちの営みや、この世界の個々の出来事――について、いったい何かを知っているのだろうか、それとも一切関知していないのだろうか、という疑問が当然わいてきます。この点についてアリストテレスのテキストそのものは、必ずしも明確な答えを与えておらず、不動の動者は世界のことをまったく”知らない”、完全に無関心な存在なのだとする解釈もあれば、自分自身を思考することの中に、いわば間接的な仕方で、世界の秩序そのものへの認識が含みこまれているのだとする、より穏健な解釈も提出されています。
これは現在に至るまで決着のついていない、アリストテレス研究における代表的な難問の一つとして、今も議論が続けられているということを、ここでは強調しておきたいと思います。
また、これとは別に、そもそも”純粋な現実態”であるはずの不動の動者が、思考するという活動を営んでいること自体をめぐっても、研究者の間で疑問が呈されてきました。というのも、思考するという営みは、通常、対象へと向かい、何かを捉えるという、ある種の働きかけを伴う活動であるはずですが、いかなる可能態も持たない、完全に静止しきった現実態に、はたしてそうした活動的な性格がそなわりうるのか、という問いです。
この点についても、決定的な答えはいまだ得られておらず、”思考の思考”というアリストテレスの規定そのものが、彼の現実態・可能態の理論全体にとって、どこまで整合的でありうるのかは、研究者たちの間で今なお論じられ続けています。人格を持って人々に語りかけたり、世界を創造したりする神ではなく、ただ純粋な思考活動として、永遠に自己自身の中で完結している存在――この概念は、のちに中世の哲学者たちによって、大きく作り変えられながら受け継がれていきます。
イスラーム世界では、哲学者イブン・スィーナー――ラテン語名でアヴィケンナ――が、アリストテレスの運動論をもとにしながらも、運動そのものよりも”存在することが本質的に必然であるもの”という観点から議論を組み立て直し、”必然的存在者”という独自の概念へと発展させました。他方、キリスト教世界では、トマス・アクィナスが、その代表作『神学大全』の中で、神の存在を証明するための”五つの道”の第一のものとして、この運動論的な論証をほぼそのままの形で採用しています。
もっとも、アクィナスは、質料も部分も持たない、純粋な現実態としての第一の動者という枠組みだけを引き継ぎながら、そこに、無から世界を創造する人格神というキリスト教独自の神理解を重ね合わせ、まったく異なる宗教的な神の概念へと作り変えていきました。
さらにアリストテレスは、当時の天文学者エウドクソスやカリッポスが提唱していた同心天球のモデルを踏まえ、実は不動の動者は一つではなく、複数存在すると考えていたことも興味深い点です。それぞれの天球――恒星天、惑星、太陽、月など――の固有の運動を説明するために、それぞれに対応する不動の動者が必要だとされ、アリストテレスはその数を47、あるいは55にまで及ぶとする議論を展開しています。
この数字が単純ではないのには理由があります。エウドクソスは、太陽と月にそれぞれ3つ、五つの惑星のそれぞれに4つの天球を想定し、後継者カリッポスは、太陽と月にさらに2つずつ、惑星にもそれぞれ1つずつ天球を追加して、観測データとの整合性を高めました。
ところがアリストテレスは、これらの天球群を、単なる数学的なモデルとしてではなく、実際に物理的に存在し、互いに接触しながら回転する球体の集まりとして捉え直そうとします。そのままでは、ある惑星を動かす天球群の運動が、隣接する別の惑星の天球群にまで、意図せず伝わってしまうという問題が生じるため、アリストテレスは、各惑星の天球群のあいだに、その伝わってしまった余分な運動を打ち消すための”巻き戻し球”――アネリットゥーサイという言葉です――を、いくつも挿入することを提案します。
この巻き戻し球の分まで含めて数えた結果として導かれるのが、47、あるいは55という数字なのです。とはいえ、これらの複数の不動の動者の中でも、最も外側の恒星天を動かす第一の不動の動者こそが、最高度に完全な、純粋な現実態としての神的な知性だとされます。
興味深いことに、この不動の動者の姿は、アリストテレスのもう一つの代表作『ニコマコス倫理学』が説く、人間にとっての最高の幸福とも直接につながっています。同書でアリストテレスは、人間にとって最も神的で、最も自己充足的な活動は、実践的な行為ではなく、純粋に知的な”観照”――テオーリアという言葉です――つまり何ものにも奉仕せず、それ自体のために行われる思索の活動であると論じています。
人間は不動の動者のように、常に完全な自己観照の状態にとどまり続けることはできませんが、ごく限られた瞬間にせよ、この観照の活動に浸ることができたとき、人間は最も神に近づく、というのが『ニコマコス倫理学』の結論です。事実、『ニコマコス倫理学』第十巻でアリストテレスは、この観照的な生き方について、きわめて印象的な言葉を残しています。
彼は、こうした最高の生き方は、”人間としてのわれわれ”にふさわしいというより、われわれのうちにある、何か神的なものにふさわしい生き方なのだと述べ、われわれは、みずからが死すべき存在であることを忘れず、人間的なことがらだけを考えるべきだという、世に流布する助言に従うのではなく、むしろできる限り、みずからのうちにある不死なるもの、神的なものにしたがって生きるよう努めるべきだ、と説いています。
知性――ヌースという言葉です――こそが、人間のうちに宿る、この”神的なもの”にほかならないというわけです。つまり『形而上学』第十二巻の神学的な議論は、単なる宇宙論の一部ではなく、アリストテレスが人間の生き方そのものについて説いた倫理学の到達点とも、深いところで響き合っているのです。
第7章 第十三・十四巻――数は、それ自体で存在するのか
第7章、第十三巻・第十四巻――ミュー、ニューと呼ばれる巻です――に進みましょう。本書の終盤にあたるこの2巻で、アリストテレスは再びプラトン批判へと立ち返ります。今度の標的は、プラトンの後継者たちが唱えていた、数学的対象――とりわけ”数”――を、感覚的な事物からも、イデアからも独立した、それ自体で存在する実体として扱う立場です。
ここで名指しに近い形で槍玉に挙げられているのが、プラトンの死後、アカデメイアの学頭を引き継いだ二人の弟子、スペウシッポスとクセノクラテスです。この二人は、師プラトンが遺したイデア論と数学的対象をめぐる理論を、それぞれ異なる方向へと発展させました。スペウシッポスは、イデア論そのものを事実上放棄しながらも、数学的な数をなお独立した実体として存在させる立場を取り、感覚的事物・数学的対象・善のイデアといった存在の階層を、それぞれ別々の原理によって基礎づけようとしました。
一方のクセノクラテスは、逆の方向に進み、イデアと数を同一視し、イデア数と数学的数を一つに融合させてしまいます。アリストテレスはこの立場に対して、もしイデアが単位の集まりとしての数にほかならないのなら、イデアはもはや万物の根源としての地位を保てず、足し算や掛け算といった算術的な操作の対象に成り下がってしまうではないか、と鋭く突きつけます。
実はプラトン自身は、スペウシッポスともクセノクラテスとも異なる、第三の立場を取っていたと伝えられています。プラトンは、感覚的な事物とイデアという二層構造だけでなく、その中間に”数学的対象”という独自の存在領域を設け、感覚的事物・数学的中間者・イデアという三層構造の存在論を提示していました。この中間的な数学的対象は、感覚的事物とは違って永遠不変でありながら、イデアとは違って、同じ種類のものが複数存在しうるとされます――たとえば”2″というイデア数はただ一つしかありませんが、数学者が計算のたびに用いる”2″という数学的対象は、同じものがいくつあっても構わないからです。
アリストテレスはこの中間者説に対しても、なぜわざわざ感覚的事物とイデアのあいだに、もう一つ別の存在階層を挿入しなければならないのか、その中間者はいかなる原理から生じ、いかなる仕方で存在するのか、説明の負担ばかりが増えて、何一つ解決されていないではないか、と手厳しく問いを重ねます。
続く第十四巻――ニューと呼ばれる巻――では、標的がさらに広がり、プラトン派が万物の根本原理として掲げていた”一”と”不定の二”――しばしば”大と小”とも呼ばれます――という、二つの対立的な原理そのものが俎上に載せられます。プラトン派の考えでは、一が秩序と統一性をもたらす原理、不定の二が多様性と無限定性をもたらす原理であり、この二つの原理の組み合わせから、数をはじめとするあらゆるものが生み出されるとされました。
アリストテレスはこの図式に対しても、身近な例を挙げながら反論を加えます。もし多様性が、質料にあたる”不定の二”だけから生じるのだとすれば、一つの形相からは、常に一つのものしか生み出せないはずです。
ところが実際には、一人の大工が、一つの木材の塊から複数の机を作ることができますし、一頭の雄が、複数の雌を身ごもらせることもできます。形相を与える側が一つであっても、結果として生み出されるものは複数になりうるという、この当たり前の事実だけを見ても、”一”と”不定の二”という二原理の組み合わせだけで、多様性の発生をすべて説明しきれるわけではないことがわかる、とアリストテレスは指摘するのです。
アリストテレスにとって、数とは、リンゴが3つあるときの”3″のように、あくまで具体的な事物のあり方に付随する性質であって、リンゴから切り離されて、それ自体で宙に浮かぶように存在するものではありません。もし数がイデアのように独立した実体として存在するのなら、なぜ幾何学の点や線もまた、同じように独立した実体として存在するとは考えないのでしょうか。
プラトン派の理論は、数学的対象の地位について、一貫した答えを持てていないと、アリストテレスは畳みかけるように批判していきます。では、アリストテレス自身は、数学的対象をどのように理解していたのでしょうか。彼が対置するのは、はるかに慎ましい説明です。
数学者は、物理的な事物を研究するという点では自然学者と変わりません。ただし数学者は、その事物を”量”や”図形”としてのみ捉え、色や重さ、硬さといった他の性質を、思考の中でいったん脇に置く――アリストテレスの言葉で言えば”捨象する”――ことによって、対象を扱います。
たとえば青銅の球を前にした数学者は、その球が青銅製であることを問題にせず、ただ球であること、丸いという形だけを取り出して考察します。この”取り出し”はあくまで思考上の操作であって、量や図形が、事物から実際に切り離されて、どこか別の場所に独立して存在するようになるわけではありません。同じことは幾何学についても言えます。
数学者が図形を扱うとき、その図形を思考のうちで感覚的な素材から切り離して考えはするものの、その図形が実際に、素材を欠いたまま、どこかに独立して存在しているわけではないという点で、幾何学的対象もまた、数と同じ立場に置かれます。数は実体ではなく、事物のあり方を捉えるための、いわば思考の切り口なのだという、この慎ましくも筋の通った立場こそが、プラトン派の壮大な数論に対する、アリストテレスなりの対案なのです。
この2巻は、第一巻でのイデア論批判と呼応する形で、本書全体を、プラトン主義との対決という一つの太い線でくくり直す役割を果たしています。研究者たちの間では、この第十三・十四巻は、本編の議論から独立した、いわば二つの”付論”のような性格を持つ部分だとしばしば位置づけられます。それまでの巻で積み上げてきた実体や存在をめぐる肯定的な議論とは違い、この2巻はもっぱら、同時代のプラトン派が唱えていた諸学説に対する、個別具体的な反駁に多くの紙幅が割かれており、内容の面でも文体の面でも、他の巻とはやや異なる、論争的な色合いの濃いまとまりとして扱われることが多いのです。
とはいえ、そこで示される数学的対象についてのアリストテレス自身の立場は、決して枝葉の議論ではありません。存在するものすべてを、実体・性質・量といったカテゴリーに即して秩序立てて捉えようとする、本書全体を貫く企てにとって、数や図形という、一見すると特殊な対象をどう位置づけるかという問いは、避けて通れない試金石だったと言えるでしょう。
第8章 第五巻――哲学用語辞典としての一巻
第8章では、少し趣向を変えて、本書の中でもひときわユニークな一巻、第五巻――デルタと呼ばれる巻です――をご紹介します。ここでアリストテレスは、それまでの巻で使ってきた哲学の基本用語――「原因」「本性」「一」「存在」「実体」「必然的」「量」「性質」「全体」など、約30の概念――を、一つずつ順に取り上げ、それぞれの語が持ちうる複数の意味を、丁寧に腑分けしていきます。
たとえば「原因」の項目では、先に見た四原因説――質料因・形相因・作用因・目的因――が、改めて簡潔に整理し直されます。「必然的」の項目では、単に「そうならざるを得ない」という強制的な必然から、論証における前提の必然性まで、複数の異なる意味の必然性が区別されます。「一」の項目では、数的な意味での一――同じ一つのもの――、種としての一――同じ種類のもの――、類としての一など、複数の水準の同一性が腑分けされます。
「潜在的・現実的」の項目では、先ほど見た可能態と現実態の区別が、より厳密な定義とともに再確認されます。ほかにも興味深い項目はいくつもあります。「自然」の項目では、この語が、生成してくるものの由来、事物が成長を始める起点、事物がそこから運動を始める内在的な始まり、さらには事物の実体・本質そのものを指す用法まで、複数の異なる意味を持つことが示され、単に草木や動物を指す日常語としての”自然”と、哲学用語としての”自然”との間に、微妙な意味のずれがあることが浮き彫りにされます。
「部分」と「全体」の項目では、量の一部としての部分、種を構成する類としての部分、定義を構成する要素としての部分など、部分という語の多義性が整理され、全体についても同様に、単なる寄せ集めと、有機的にまとまった全体との違いが論じられます。「先なるもの・後なるもの」の項目では、空間的な近さによる先後、時間的な早さによる先後、そして最も重要な、他のものなしには存在しえないという、存在論的な依存関係にもとづく先後――実体は他のあらゆるカテゴリーに対して、この意味で”先”である、というアリストテレス哲学の根幹に関わる主張――までが区別されます。
「同一・他・類似」の項目では、数のうえで一つであるという意味での同一、定義を共有するという意味での同一、類を共有するという意味での類似などが腑分けされ、日常会話では曖昧に使われがちなこれらの語が、厳密にどう異なるのかが示されます。「性質」の項目でも、事物の実体を規定する性質と、単なる状態や様態としての性質とが、丁寧に区別されます。
とりわけ見逃せないのが、「存在」と「実体」という、本書全体を貫く最重要語についての項目です。「存在」の項目では、”あるものがある”と言われる意味が、複数の水準に切り分けられます。一つは、たまたま結びついているにすぎない、付帯的な意味での存在――たとえば”教養ある人が、たまたま建築家でもある”というような、偶然の結びつき――、もう一つは、それ自体のあり方として言われる、本質的な意味での存在、さらに、命題が真であることを指す”真としての存在”、そして可能態・現実態としての存在という区別が加わります。
この整理は、後の巻で本格的に展開される議論の、いわば予告編としての役割を果たしています。「実体」の項目でも同様に、二つの異なる意味が区別されます。一つは、他のあらゆる性質や状態がその上に載っている、土台・基体という意味での実体、もう一つは、あるものを”それがまさにそれであるもの”たらしめている本質・形相という意味での実体です。
前者は日常的な直観に近い意味であり、後者はアリストテレス自身が、実体論の核心をなす巻でより深く掘り下げていく、専門的で野心的な意味だと言えます。「反対・対立」の項目も見逃せません。
ここでは、ものごとが”対立している”と言われる場合にも、実は四つの異なる種類があることが示されます。中間を許さない、矛盾――たとえば”良い”と”良くない”のような、イエスかノーかの対立、両極のあいだに段階を許す、反対――たとえば”熱い”と”冷たい”のように、そのあいだに”ぬるい”を許す対立、視力と盲目のように、本来備わるべきものが欠けている状態を指す、欠如、そして”二倍”と”半分”のように、互いに相関的な関係にある、相関の対立です。
日常語では十把一絡げに”反対のもの”とまとめられてしまうこれらの関係が、実はまったく異なる論理構造を持っているのだということを、この項目は丁寧に解きほぐしていきます。この巻は、いわば本編の途中に挿入された、簡潔な哲学用語辞典のような性格を持っています。なぜこのような辞典的な巻が、講義録の中に紛れ込んでいるのでしょうか。
研究者たちの間では、この巻がもともと独立した用語集として書かれ、のちに全集への編纂過程で、この位置に組み込まれたのではないかという見方が有力です。
実際、アリストテレスの議論はしばしば、一つの言葉が持つ複数の意味を注意深く区別することから始まります。たとえば「実体」という言葉も、日常的な意味と、彼が専門的に用いる意味とでは、微妙にニュアンスが異なります。この辞典的な巻は、そうした彼の議論の進め方そのものを支える、縁の下の力持ちのような役割を果たしているのです。
とりわけ「存在」という語をめぐっては、先ほどの第四巻――ガンマと呼ばれる巻――で、”存在は複数の意味で語られる”という有名な宣言がなされていました。一見すると、これは”存在という学問”そのものを不可能にしてしまいそうな、厄介な事態です。もし”存在する”という言葉が、てんでばらばらの意味を持つのであれば、それらすべてを統一的に研究する学問など、成り立ちようがないはずだからです。
アリストテレスがここで持ち出すのが、後の研究者たちが”焦点的意味”――一つの中心的な意味に、他のさまざまな意味が関連づけられるという語の使われ方――と呼ぶことになる考え方です。健康という言葉が、健康な身体そのものだけでなく、健康に良い食べ物や、健康の指標となる顔色にも使われるように、それらの用法は、あくまで”健康な身体”という一つの中心的な意味との関連において、初めて理解可能になります。
“存在”という語についても同様に、実体としての存在という中心的な意味を軸として、量や性質、関係といった、他のカテゴリーにおける存在の意味が、そこから派生する形で理解されるのだと、アリストテレスは考えます。第五巻の辞典的な作業は、まさにこうした”複数の意味を、闇雲にではなく、秩序立てて腑分けする”という方法を、個々の哲学用語について、地道に実践してみせる場でもあったのです。
研究史のうえでも、第五巻はしばしば「哲学者の辞典」――フィロソファーズ・レキシコン――と呼ばれ、後代の注釈者や研究者たちからも、独立した参考文献として重宝されてきました。この巻がいつ、どのような経緯で書かれたのかについても、古くから議論が続いており、もともと『形而上学』とは別の機会に作成された独立の用語集が、編纂の過程でこの位置に組み込まれたのではないかという見方が、今も有力な仮説の一つとして残っています。
事実、現代の校訂版や翻訳の中には、この巻だけを単独で取り出し、詳細な注釈を付して刊行しているものも少なくありません。たとえばオックスフォード大学出版局のクラレンドン・アリストテレス叢書では、第四巻・第五巻・第六巻――ガンマ・デルタ・エプシロンです――をまとめて一冊とし、逐語的な注釈を付した専門的な校訂版が刊行されており、この辞典的な一巻が、単独の研究対象として十分に成り立つだけの厚みを持っていることを物語っています。
全十四巻を通読する時間がなくても、この一巻さえ手元に置いておけば、アリストテレス哲学の基本用語を一通り確認できるという意味で、独立して価値を持つ、便利な一巻なのです。
第9章 なぜこの本はこんなにも読みにくいのか
第9章では、ここまで読み進めてきたこの本の、少し困った性格について、正面から向き合ってみたいと思います。『形而上学』を実際に手に取った読者の多くが、最初にぶつかる壁があります。この本には、始まりから終わりまで一貫した、明快な論証の筋道が見当たりません。
同じ主題が複数の巻で繰り返し論じられ、時には互いに矛盾するとも取れる立場が、同じ本の中に並存しているように見える箇所さえあります。その理由は、すでにお話しした通り、この本がもともと一般読者向けに練り上げられた著作ではなく、リュケイオンでの講義のために書かれた、いわば教材・メモの集積だったことにあります。
しかもこの14巻は、アリストテレスが生涯の異なる時期に、異なる目的で書いた複数の講義群を、後世の編纂者――アンドロニコスらです――が、一つの著作群としてまとめ上げたものだと考えられています。第十一巻――カッパと呼ばれる巻です――は、第二・三・四・六巻の内容を圧縮した要約のような性格を持ち、後世の弟子による編集ではないかとも言われています。
第二巻――小文字のアルファと呼ばれる、分量も短い巻です――は、アリストテレス本人の手によるものかどうか、古くから議論が続いています。重複や食い違いは、巻をまたいで随所に見られます。
たとえば第三巻――ベータと呼ばれる巻――では、第一哲学が取り組むべき根本的な難問、いわゆる”アポリアイ”が、十数個にわたって列挙されますが、実はこれとほぼ同じ難問のリストが、第十一巻カッパの冒頭でも、ほぼ並行する形で繰り返し論じられているのです。二つの巻が、なぜこれほど似通った内容を、独立に持っているのか。
これも、もともと別々の講義群が、のちに一つの著作としてまとめられたことの、動かぬ痕跡だと考えられています。実際、カッパをより仔細に見ていくと、その重複ぶりはベータとの関係にとどまりません。研究者による対照表によれば、カッパの冒頭部分はベータの難問群をほぼそのままなぞり、続く章では、”存在としての存在”を論じるガンマの議論、および学問の探究方法を論じるエプシロンの議論が、順になぞられる形で再録されており、さらに後半の章にいたっては、まったく別の著作である『自然学』からの抜粋が、ほとんど手を加えられないまま挿入されています。
つまりカッパという一巻は、他の複数の巻や、さらには別の著作からの寄せ集めという性格を、そのままかなり色濃く残しているのです。また、実体をめぐる議論についても、核心部分にあたる第七巻――ゼータと呼ばれる巻――が展開する実体の分析と、第十二巻――ラムダと呼ばれる巻――が展開する、不動の動者を頂点とする実体論との間には、微妙な食い違いがあると、多くの研究者が指摘してきました。
ゼータでは、感覚的な事物の内側にある形相こそが第一の実体だと論じられるのに対し、ラムダでは、感覚的な事物から完全に切り離された、非物質的な実体――不動の動者――こそが真の第一原理として位置づけられており、両者の実体概念が、果たしてどこまで整合しているのか、研究者の間でも見解が分かれています。こうした複雑な成立過程の解明に、大きな足跡を残したのが、20世紀の古典学者ヴェルナー・イェーガーです。
イェーガーは1957年に刊行した校訂版――オックスフォード古典叢書の一冊です――において、『形而上学』の各巻が、アリストテレスの思想的発展の異なる段階を反映した、複数の層から成り立っているという見方を打ち出し、以後の研究に大きな影響を与えました。イェーガーの見立てによれば、現在私たちが読んでいるテキストは、系統の異なる二つの写本の流れ――アリストテレス自身が生涯の異なる時期に残した、二種類の講義草稿にまで遡ることのできる、二つの伝承系列――が、後世どこかの段階で合流した結果だと考えられ、巻ごとに見られる論調や用語法のわずかな違いも、こうした成立の重層性を反映していると論じられました。
もっとも、イェーガーの学説そのものは、その後の研究によってかなりの修正を受けており、現在では、彼が想定したほど明確に”初期の思想・後期の思想”を線引きできるわけではないという、より慎重な見方が主流になっています。
とはいえ、『形而上学』を単一の体系書としてではなく、重層的に積み重ねられたテキストとして読むという基本姿勢そのものは、今日の研究にも受け継がれています。イェーガーに先立つ1924年、ウィリアム・デイヴィッド・ロスが刊行した、全2巻からなる浩瀚な校訂版・注釈書もまた、各巻の成立事情や写本間の異同を丹念に洗い出した基礎研究として、今日にいたるまで版を重ね、広く参照され続けています。
そもそも『形而上学』というこの書名自体、アリストテレス本人が名付けたものではありません。ギリシア語の原題は、直訳すれば「自然学の後に来るもの」を意味する言葉であり、これは、紀元前1世紀ごろにアリストテレスの著作群を編纂した後代の編集者――アンドロニコスその人だとも言われています――が、この一連の講義群を、自著『自然学』のすぐ後に配置したという、書棚での並び順に由来する、いわば便宜的な名称だったと考えられています。
アリストテレス自身は、この分野を”第一哲学”や”神学”と呼んでおり、”形而上学”という言葉で自分の探究を語ったことは、一度もなかったのです。書名からしてすでに、この本が一人の著者によって一気に書き下ろされた作品ではなく、後代の編纂という手を経て、今日のかたちに整えられたものであることを、雄弁に物語っていると言えるでしょう。
つまり『形而上学』は、最初から「一冊の本」として構想され、書き上げられたものではありません。私たちが手にしているのは、ある偉大な思想家が、生涯をかけて同じ根源的な問い――存在するとはどういうことか――に、繰り返し、さまざまな角度から挑み続けた、その思考の痕跡そのものなのです。読みにくさは、欠陥である以上に、この本の成り立ちそのものが持つ、いわば必然的な特徴だと言えるでしょう。
現代の研究者たちの間では、こうした複雑な成立過程を踏まえ、『形而上学』を「一つの体系だった著作」としてではなく、「同じ主題をめぐる、複数の講義群の集成」として読むアプローチが、広く受け入れられています。第一巻から第九巻あたりまでを核とする一連の議論と、第十二巻の神学的な議論、そして第十三・十四巻のプラトン批判は、それぞれ別個に成立し、のちに一つの表題のもとにまとめられた、独立性の高いまとまりだと考えられているのです。
実際、現代の翻訳や研究書の多くは、必ずしも巻の順番通りに読むことを推奨しておらず、読者の関心に応じて、第一巻――歴史的サーベイ――、第四・七巻――存在論の核心――、第十二巻――神学――というように、目的別に部分を選んで読むことも、この本との付き合い方として十分に理にかなっています。もし初めてこの本に挑戦するなら、具体的にはこんな順番がお勧めです。
まずは第一巻で、アリストテレス以前の哲学者たちが存在をどう論じてきたかという見取り図をつかみ、次に第四巻で、”存在としての存在”を扱う学問としての形而上学の輪郭をつかみます。
そのうえで、本書全体の白眉ともいえる第七巻――実体論の核心――に取り組み、体力と関心が残っていれば、第十二巻の神学的な議論、そして今回ご紹介した第十三・十四巻のプラトン批判へと進む、という道筋です。第二巻・第三巻・第五巻・第十一巻といった、要約的・辞典的な性格の強い巻は、必要に応じて後から参照する形で十分でしょう。
なぜこの順番が理にかなっているのかと言えば、第一巻と第四巻で”何が問われているのか”という土台を固めておけば、本書全体でもっとも難解と評される第七巻の実体論も、いきなり読むより格段に見通しがよくなりますし、実体論の見通しさえ立てば、それを乗り越えるように展開される第十二巻の神学的議論、そして今回取り上げた第十三・十四巻のプラトン批判も、単発の脱線としてではなく、一つの探究の到達点として読めるようになるからです。
全14巻を律儀に頭から読み通そうとして挫折するくらいなら、こうして関心に応じてつまみ食いをしながら、少しずつ全体像を埋めていく読み方のほうが、この本の成り立ちそのものに、むしろ忠実な付き合い方だと言えるかもしれません。二千年以上前に書かれた講義メモの寄せ集めが、今なお世界中の研究者によって、一字一句をめぐって議論され続けているという事実そのものが、この本の持つ、ある種の底知れなさを物語っているとも言えるでしょう。
【独自の視点】伝播の歴史と、後世からの評価・批判
さて、ここからは【独自の視点】として、このチャンネルなりの批判的な検討を加えていきたいと思います。まず取り上げたいのは、この本がたどった、驚くべき伝播の歴史です。古代ギリシアで書かれたこの講義録が、数世紀後、遠く離れたイスラーム世界の哲学者たちによって精読され、注釈が重ねられ、そこからさらにラテン語に翻訳されて中世ヨーロッパの神学者たちに受け継がれていった、という伝播の経路そのものが、この本の射程の広さを物語っています。
この伝播を可能にしたのが、8世紀から10世紀にかけてバグダードを中心に展開された、大規模な翻訳運動です。アッバース朝の庇護のもと、ギリシア語の哲学・科学文献が、シリア語を経由して、あるいは直接アラビア語へと、組織的に翻訳されていきました。『形而上学』もこの流れの中でアラビア語に訳され、アル・キンディー、アル・ファーラービー、そしてイブン・スィーナー――ラテン名アヴィケンナです――へと、注釈の連鎖が続いていきます。
この伝播の過程で、この本の難解さを物語る、たいへん印象的な逸話が残されています。イブン・スィーナーは、若き日、自伝の中で次のように書き残しています。彼は『形而上学』を40回通読し、ほとんどの内容を暗記するに至りましたが、それでもこの本が本当に何を主題としているのか、最後まで理解できなかったというのです。
ある日、書店でたまたま安値で売られていた、哲学者アル・ファーラービーによる小論――『アリストテレス「形而上学」の諸主題について』――を手に入れ、それを読んだことで、ようやくこの本の全体像が腑に落ちたと、彼は記しています。イブン・スィーナーはこの体験に深く感謝し、貧しい人々に施しをしたとも伝えられています。
もっとも、『形而上学』がラテン語圏に届いた経路は、このアラビア語を経由するルートだけではありませんでした。実は、これとほぼ並行して、ビザンツ帝国に残された写本から、ギリシア語原典を直接ラテン語に翻訳するという、もう一つの独立した経路も存在していたのです。12世紀の翻訳者ジェームズ・オブ・ヴェニスは、ギリシア語からラテン語へと『形而上学』の一部を直接翻訳しており、この「古訳」と呼ばれるテクストは、早くも1210年ごろにはパリで流通していたことが分かっています。
さらに13世紀後半には、教皇に仕えた翻訳者ウィリアム・オブ・メルベケが、ギリシア語原典によりいっそう忠実な、全巻にわたる新しい翻訳を完成させました。
興味深いことに、後ほどご紹介するトマス・アクィナス自身の逐語的な注釈書は、アヴェロエスの注釈を参照しつつも、本文そのものについては、アラビア語経由の翻訳ではなく、このメルベケによる、ギリシア語からの直接訳を土台として書かれています。
つまり『形而上学』は、アラビア語を経由する道と、ギリシア語から直接ラテン語へと渡る道という、二つの独立したルートを通って中世ヨーロッパにたどり着き、両者が突き合わされ、磨き合わされることで、ようやく信頼できるテクストとして確立していったのです。一冊の本が、これほど複雑な経路をたどって私たちの手元に届いているという事実は、それ自体、驚くべきことだと言えるでしょう。
12世紀以降、今度はこのアラビア語版が、コルドバなどイベリア半島の翻訳者たちによってラテン語に訳され、ようやく中世ヨーロッパの大学で本格的に読まれるようになりました。この過程で、とりわけ大きな役割を果たしたのが、12世紀コルドバに生まれた哲学者イブン・ルシュド、ラテン名アヴェロエスです。アヴェロエスは、生涯にわたってアリストテレスのほぼすべての著作に注釈を書き続けた人物として知られており、しかもその注釈のスタイルは一様ではありませんでした。
彼は同じ著作に対して、要点を凝縮して示す「小注釈」、本文を言い換えながら平易に解説する「中注釈」、そして本文を一文一文引用しながら逐語的に読み解いていく「大注釈」という、少なくとも三つの異なる水準の注釈を書き分けており、『形而上学』についても、1186年ごろに完成したとされる「大注釈」を残しています。
この気の遠くなるような注釈作業のおかげで、中世ラテン世界の学者たちは、アリストテレスをただ読むというよりも、アヴェロエスという分厚いフィルターを通して読む、という状況が長く続くことになりました。
実際、当時のラテン語圏では、アリストテレスは定冠詞つきで「あの哲学者」と呼ばれる一方、アヴェロエスは「あの注釈者」――コメンタトルと呼ばれるほど、両者はほとんどセットで扱われていたのです。この評価は、宗教や国境を越えて、当時のヨーロッパの文芸にまで及んでいます。14世紀イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリは、代表作『神曲』の「地獄篇」第4歌で、キリスト教徒ではないものの徳の高い人々が集う「辺獄」を描く場面で、イブン・スィーナー(アヴィケンナ)らとともにアヴェロエスの名を挙げ、「大注釈をものした、あのアヴェロエス」――原文では「アヴェロイス、ケル・グラン・コメント・フェオ」――という一行を残しています。
イスラーム世界の哲学者が、キリスト教文化を代表する叙事詩の中で、まさに「注釈者」としての功績によって名指しで称えられているという事実は、この本の伝播が、いかに宗教や文化の垣根を越えて進んでいったかを、何よりも雄弁に物語っていると言えるでしょう。このアヴェロエスの「大注釈」は、13世紀前半、スコットランド出身の翻訳者ミカエル・スコトゥスの手によって、1220年代前半にラテン語へと翻訳されました。
この翻訳によって、『形而上学』はようやく、当時の学問の中心地であったパリの大学人たちに、まとまった形で届けられることになります。当時のパリでこの翻訳がどれほど熱心に迎えられたかは、現存する写本の数の多さそのものが物語っています。手に入れられる者は誰もが競うようにこの一冊を書き写し、所有しようとしたと考えられているのです。
しかしこの熱狂は、同時に大きな摩擦も生み出しました。アリストテレスとアヴェロエスがもたらした思想――たとえば、不動の動者を、意志によってではなく、いわば受動的・必然的な仕組みとして世界に運動を及ぼす原理として捉える見方や、それに連なる決定論的な世界観――は、神の全能性や自由意志を重んじるキリスト教神学と、しばしば正面から衝突しました。
この緊張は、1277年、パリ司教エティエンヌ・タンピエによる、219にのぼる命題の一括禁令という形で、一つの頂点に達します。禁令の対象となった項目の中には、アリストテレスの「不動の動者」を、神の自由な意志を欠いた、いわば受け身の原理として理解する立場や、それに連なる必然論的な世界観に対する批判が含まれており、とりわけアヴェロエスの解釈に強く依拠していたシジェ・ド・ブラバンらの思想家が、この禁令の主な標的だったと考えられています。
中世キリスト教世界は、この本を熱心に受容すると同時に、その内容の一部を、公式に断罪せざるをえなかったのです。特筆すべきは、こうした緊張関係のただ中にあった、13世紀の神学者トマス・アクィナスの受容です。アクィナスは、アリストテレスを単に「あの哲学者」――固有名詞すら不要な、哲学の代名詞――として扱い、『形而上学』の「不動の動者」の議論を、キリスト教の神の存在証明――五つの道のうちの一つ、「不動の動者からの証明」――の枠組みに組み込んでいきました。
アクィナス自身、キャリアの後半には、『形而上学』全巻を一節ずつ丁寧に読み解いていく、逐語的な注釈書までも著しており、アヴェロエスの「大注釈」を手元に置きつつも、随所でその解釈に修正を加え、アリストテレスをキリスト教神学の枠組みの内側へと、慎重に、しかし大胆に組み込み直していきました。ギリシアの多神教的な世界観の中で生まれた「自分自身を考え続ける純粋な思考」という神の概念が、一神教の神学の中核的な論証装置として、形を変えて生き延びていったのです。
この本の影響は、必ずしも好意的な形ばかりではありません。20世紀ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーは、西洋の形而上学の歴史全体を、「存在するとは何か」という本来の問いを、いつしか「あらゆる存在者の根拠となる、最高の存在者――神、あるいは不動の動者――とは何か」という問いにすり替えてしまった歴史だとして、批判的に総括しました。
ハイデガーはこの構造を「存在=神論」、専門用語でオントテオロギーと呼び、その最も原初的な、そして最も強力な源泉として、まさに『形而上学』第十二巻の不動の動者の議論を名指ししました。ハイデガー自身の哲学は、こうしてアリストテレス以来の伝統全体をいったん解体し、存在そのものへの問いを、もう一度その根本から問い直そうとする試みでした。
皮肉なことに、2000年以上前のこの講義録は、称賛され続けるだけでなく、20世紀最大級の哲学的挑戦の”標的”としても、なお生き続けているのです。
もっとも、この本に対する評価は、ハイデガーによる根底的な批判で終わったわけではありません。むしろ20世紀後半から21世紀にかけて、英語圏の分析哲学の内部で、この本は思いがけない形で”復権”を遂げています。20世紀半ばの分析哲学は、一時期、形而上学そのものを、検証不可能な無意味な言説として退ける傾向を強めていました。
ところが1970年代以降、様相論理学の発展などを背景に、「本質とは何か」「実体とは何か」といった、まさに『形而上学』が扱ってきた問いそのものが、分析哲学の主要な研究テーマとして復活してきます。この流れを代表する哲学者の一人が、アメリカの哲学者キット・ファインです。ファインは、「本質」を「必然的にそうである」という様相論理の概念に還元して説明しようとする、20世紀後半の主流的なアプローチに正面から異を唱え、むしろアリストテレス的な、定義に近い意味での「本質」の概念こそが、必然性や可能性といった様相概念を根拠づけるのだと論じました。
同様に、イギリスの哲学者E・J・ロウも、アリストテレスの『カテゴリー論』にまで遡る枠組みを土台に、実体を中心に据えた独自の存在論――四カテゴリー存在論――を展開し、形而上学を「本質の学」として位置づけ直しました。両者に共通するのは、”本質”という概念を、単なる言葉の定義の問題としてではなく、この世界がどのような構造を持っているかを説明するための、根本的な道具として捉え直そうとする姿勢であり、これはまさに、この本が2300年前に切り開いた発想そのものです。
こうした潮流は「新アリストテレス主義」とも呼ばれ、ハイデガーが解体しようとしたはずの伝統が、まったく別の哲学的文脈――大陸哲学ではなく分析哲学の内部で――生き延び、むしろ活性化しているという、興味深いねじれを見せています。
さらに、この本をめぐっては、アリストテレス自身の思想内部における、ある根深い緊張関係も、長年にわたって研究者のあいだで議論され続けています。アリストテレスは、現存する著作の相当な部分を、動物の観察や解剖に基づく、きわめて実証的な生物学研究に費やした人物でもありました。魚の発生過程やニワトリの胚の発生段階を丹念に記録した彼の生物学的な仕事は、経験的な観察を何よりも重視する、地に足のついた探究者としてのアリストテレス像を、私たちに強く印象づけます。
ところが『形而上学』第十二巻で展開される不動の動者の議論は、感覚では捉えられない、純粋に思考のみによってその存在が要請される、きわめて抽象的な存在者を前提としています。この、経験に基づく生物学者としてのアリストテレスと、感覚を超えた抽象的な原理を語る神学者としてのアリストテレスとが、果たして同一の思想体系のうちで本当に整合しているのか、という問いは、研究者のあいだで今なお意見が分かれる、根深い論点であり続けています。
実際、『自然学』第八巻と『形而上学』第十二巻とでは、不動の動者がどのようにして運動を引き起こすのか、その因果関係の説明の仕方にも微妙な違いが見られ、両者を単純に同一の理論として調和させられるのかどうかも、いまだ決着のついていない専門的な論争の一つです。
一方で、この二つの側面を対立するものとしてではなく、むしろ地続きのものとして捉え直そうとする研究者もいます。たとえば、彼が胚の発生過程を観察する中で、「可能性としての生命が、外部からの働きかけなしに、いかにして秩序だった仕方で現実の生命へと展開していくのか」を考え抜いたことこそが、外部からの力を必要とせずに世界に秩序と運動をもたらす「不動の動者」という発想そのものへとつながっていった、とする見方も示されています。
この論争に最終的な決着がついているわけではありませんが、少なくとも、経験的な生物学者としてのアリストテレスと、抽象的な形而上学者としてのアリストテレスという、一見相容れないように見える二つの顔が、実は同じ一つの知的探究心から生まれたものだ、という点については、多くの研究者の見方が一致しています。
なお、こうした緊張の背景には、この本自体が抱える、もう一つの事情も関わっていると考えられています。20世紀の古典学者ヴェルナー・イェーガーをはじめとする文献学的な研究によれば、不動の動者を論じる第十二巻、通称「ラムダ巻」は、もともと『形而上学』全体とは独立した、一つの小さな論考として書かれ、のちになって現在の位置に組み込まれた可能性が高いとされています。
私たちが今「一冊の本」として読んでいる『形而上学』が、実際にはアリストテレス自身、あるいは後世の編集者の手によって寄せ集められた、複数の講義録の集合体であったことを思い出すなら、生物学者としての顔と神学者としての顔とが、一つの体系の中で必ずしも滑らかにつながっていないとしても、それは決して不思議なことではないのかもしれません。
もう一つ、興味深い符合をご紹介して、この章を締めくくりましょう。アリストテレスのもう一つの代表作『ニコマコス倫理学』は、息子ニコマコス――あるいは父と同名の祖父――に由来するとされる書名を持っていたと考えられています。『形而上学』が偶然の書架配置から名を得たのに対し、『ニコマコス倫理学』は、諸説あるとはいえ、家族への献辞に近い経緯で名づけられたと考えられているのです。
同じ著者の代表作でありながら、一方はまったくの偶然で、もう一方は個人的な結びつきによって名付けられたという対比は、アリストテレスの著作群が、いかに雑多な経緯を経て今日の私たちのもとに届いているかを、象徴的に示しているように思えます。
【まとめ】今の人生に、この本をどう活かすか
最後に、この本が今の私たちの人生に、どう活かせるかを考えてみましょう。『形而上学』が問い続ける「存在するとはどういうことか」という問いは、一見、日常生活とはかけ離れた、抽象的な思弁のように感じられるかもしれません。ですがこの本が実践している”やり方”――物事の根底にある前提そのものを、一度立ち止まって問い直す姿勢――は、意外なほど実用的な形で、今の人生にも応用できます。
たとえば仕事や人間関係で行き詰まったとき、私たちはたいてい、目の前の個別の問題――このプロジェクトが進まない、この人と話が噛み合わない――を、その表面のレベルだけで解決しようとします。ですがアリストテレスが繰り返し実践したのは、「そもそも、この問題を成り立たせている、もっと根本的な前提は何か」を問い直すことでした。
彼が「原因」という言葉一つを取っても、それが指しうる複数の異なる意味――材料の問題なのか、仕組みの問題なのか、誰の行動が引き金なのか、そもそも何のためにやっているのか――を丁寧に腑分けしたように、私たちも、目の前の悩みを構成しているいくつもの異なる”原因”を、一度きちんと腑分けしてみることで、初めて見えてくる解決の糸口があるかもしれません。
また、「可能態」と「現実態」という対概念も、今の人生に応用しやすい視点を与えてくれます。まだ実現していない自分の可能性――学び始めたばかりのスキル、育ちきっていない人間関係、形になっていないアイデア――を、どんぐりがまだ樫の木ではないからといって、価値がないと見なす必要はありません。それはすでに、樫の木に”なりうる”という、確かな可能性をその内に宿しています。
可能態を現実態へと育てていく過程そのものに、時間と手間がかかることを、アリストテレスの枠組みは、あらかじめ織り込んでいるのです。さらに一歩踏み込むなら、この「現実態」という言葉自体にも、実はよく見ると二つの異なる段階が隠れていると考えることができます。一つは、すでに身につけていて、いつでも発揮できる状態にある能力そのもの――たとえば、文法や単語をひととおり習得していて、望めばいつでもその言語で話せる状態です。
もう一つは、実際に今まさにその能力を使っている、現に発揮されつつある状態――今この瞬間、実際にその言語で誰かと会話している状態です。この二段階の区別を踏まえると、たとえば「学生時代に一生懸命勉強したのに、何年も使っていないうちにすっかり錆びついてしまった外国語」に対する向き合い方も、少し変わってくるのではないでしょうか。
何年も声に出していないというだけで、私たちはつい、その言語の能力そのものがゼロに戻ってしまった、もう一からやり直さなければならないと思い込みがちです。ですが、少なくとも一度、時間をかけてその言語を身につけたという経験がある以上、その能力は、今まさに発揮されていないというだけで、完全に失われてしまったわけではないはずです。
それは、いつでも再び目覚めさせることのできる、いわば”眠ったままの現実態”として、今もどこかに保持され続けている可能性があります。もしそうだとすれば、私たちに必要なのは、まったくの初心者に戻ってゼロから積み上げ直す作業ではなく、すでに自分の内にあるものを、もう一度呼び覚まし、日常的に使える状態へと引き戻していく作業だ、ということになります。
学び直しや、久しぶりに再開する趣味、しばらく疎遠になっていた人間関係の立て直しについても、同じことが言えるかもしれません。「何もない状態からのスタート」ではなく「すでに持っているものの再起動」なのだと捉え直すだけで、取り組むハードルは、ずいぶん低く感じられるのではないでしょうか。
もう一つ、この本の「実体」と「付帯性」という区別も、日々の暮らしの中で、静かな支えになってくれる考え方です。アリストテレスは、あるものがそれであるために欠かせない核の部分を「実体」、あってもなくても、そのもの自体の同一性を左右しない周辺的な特徴を「付帯性」と呼んで、両者を区別しました。転職をしたり、引っ越しをしたり、体型や肩書き、話し方までもが大きく変わったりしても、私たちは普通、「自分が自分でなくなった」とは感じません。
それは、変化しているのがあくまで付帯性のレベルにとどまり、私たちを私たちたらしめている、もっと核にある何かは、変化を経てもなお保持され続けている、という直観を、私たちがどこかで持っているからではないでしょうか。
逆に言えば、大きな変化や転機を迎えるときに感じる不安の多くは、「自分の核の部分まで失われてしまうのではないか」という漠然とした恐れに由来しているのかもしれません。アリストテレスのこの区別は、そうした場面で、「今揺らいでいるのは、本当に自分の実体そのものなのか、それとも付帯的な部分にすぎないのか」を、一度立ち止まって問い直すための、ささやかな道具を与えてくれます。
さらに、アリストテレスが繰り返し用いた「質料」と「形相」という対概念も、日々の生活に応用できる、もう一つの視点を与えてくれます。たとえば同じ青銅という「質料」からでも、球という「形相」を与えれば青銅の球になり、人物像という「形相」を与えれば彫像になる、とアリストテレスは説明しました。同じ材料であっても、そこにどのような形を与えるかによって、まったく違うものが生まれてくるのです。
この発想は、私たちが日々与えられている、時間やエネルギーといった限られた”材料”の使い方にも、そのまま当てはめることができます。一日24時間、限られた体力や集中力という、誰もがほぼ同じように持っている材料であっても、それにどのような習慣や仕組みという”形”を与えるかによって、そこから生まれてくる成果や暮らしの質は、大きく変わってきます。
「もっと多くの材料が欲しい」――つまり、もっと時間があれば、もっと体力があれば、と願うことも自然な気持ちですが、アリストテレスの枠組みは、むしろ「今すでにある材料に、どのような形を与えるか」という、もう一つの、そして往々にしてより現実的な問いへと、私たちの目を向けさせてくれるのです。
そして、矛盾律をめぐる彼の議論――何かを語ろうとする行為そのものが、実はある確定した現実を前提にしてしまっている、という指摘――は、極端な相対主義、「すべては人それぞれ」「絶対に正しいことなど何もない」といった考えに流されそうになったとき、踏みとどまる一つの足場にもなるでしょう。何かを主張し、誰かに伝えようとする限り、私たちはすでに、伝達可能な、確定した意味の世界に足を踏み入れています。
この本が2000年以上前に指摘したこの単純な事実は、今なお、地に足のついた思考の出発点でありうるのです。最後に、イブン・スィーナーが40回読んでもすぐには理解できなかったというこの逸話は、多くの視聴者の皆さんにとっても、一つの慰めになるのではないでしょうか。難解な本や、すぐには答えの出ない問いに直面したとき、一度で理解できないことを恥じる必要はありません。
むしろ、繰り返し立ち返り、時には別の人の解説の助けを借りながら、少しずつ理解を深めていくという営みそのものが、この本が2000年以上生き延びてきた歴史そのものが証明している、知るということの自然な姿なのだと思います。
最後にもう一つだけ、冒頭でお話しした話に立ち返らせてください。『形而上学』という書名は、単に「自然学の後に置かれた書物」という、編集上の偶然から生まれたものでした。アリストテレス自身は、この分野を、そんな味気ない名前で呼ぶつもりなど、おそらくなかったはずです。
けれども振り返ってみると、書名こそ偶然の産物だったとしても、その中身までもが偶然の産物だったわけでは、決してありませんでした。実体とは何か、原因とは何か、可能性はどのように現実になるのか、そして矛盾なく語るとはどういうことか――そうした一つひとつの問いは、アリストテレスが生涯をかけて、丹念に、そして必然的な仕方で積み上げていった思考の結晶です。
偶然名付けられた書物のうちに、必然の探究がぎっしりと詰め込まれている――このねじれた対比自体が、この本を読み解くうえでの、一つの象徴なのかもしれません。今日は、アリストテレス『形而上学』を、生涯から始まり、その名前の由来、実体論、神学、そして後世への影響まで、たっぷりとご紹介してきました。長時間ご視聴いただき、ありがとうございました。
次回もまた、一冊の哲学書を、じっくりと読み解いていきたいと思います。それでは、また次回お会いしましょう。

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