フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』完全解説――なぜ「ことば」は、差異でしかできていないのか

哲学

今回も哲学書の解説シリーズです。今回は、フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』を取り上げます。

  1. はじめに――著者が一行も書いていない、20世紀最大の書物
  2. 第一章 フェルディナン・ド・ソシュールという人物――早熟の天才、沈黙の晩年
  3. 第二章 この本の異様な成立事情――講義ノートから甦った「幻の書」
  4. 第三章 ラングとパロール――「言語」という社会的な制度と、個人の発話
  5. 第四章 共時態と通時態――「今の姿」を見るか、「移り変わり」を見るか
  6. 第五章 言語記号――「シニフィアン」と「シニフィエ」
  7. 第六章 記号の恣意性――なぜ「犬」は「犬」と呼ばれるのか
  8. 第七章 シニフィアンの線条性――ことばは、なぜ「一列」に並ぶのか
  9. 第八章 記号の不変性と可変性――誰にも変えられないのに、なぜ変わってしまうのか
  10. 第九章 言語価値――「意味」は、システムの中の位置にすぎない
  11. 第十章 連辞関係と連合関係――ことばが結びつく、2つの軸
  12. 第十一章 相対的恣意性――純粋な恣意性と、体系内の動機づけ
  13. 第十二章 セミオロジー構想――言語学は、より大きな学問の一部にすぎない
  14. 第十三章 「形式であって実質ではない」――言語というシステムの抽象性
  15. 第十四章 秘められたもう一つの研究――アナグラム、あるいはソシュールの「もう一つの顔」
  16. 第十五章 構造主義の誕生――プラハ学派から人類学、精神分析へ
  17. 第十六章 脱構築という応答――デリダによる批判、そしてその後
  18. 【独自の視点】このチャンネルとしての批判的検討
  19. 【まとめ】:「差異」という発想が、その後の思想に残したもの

はじめに――著者が一行も書いていない、20世紀最大の書物

哲学書の読解シリーズ、今回取り上げるのは、20世紀の思想全体を塗り替えたとまで言われる一冊、フェルディナン・ド・ソシュールの『一般言語学講義』です。本編に入る前に、皆さんにひとつ、驚くべき事実をお伝えしておきたいと思います。それは、この本の「著者」とされているフェルディナン・ド・ソシュールという人物が、実はこの本を一行も書いていない、という事実です。表紙には確かに彼の名前が刷られています。書店に行けば、哲学書、あるいは言語学の古典として、堂々とその名前で並んでいます。

ところが、ソシュール本人は、この『一般言語学講義』という書物の原稿を、ただの一枚も書いていません。それどころか、この本というかたちで自分の思想がまとめられ、世に出るということ自体を、本人はまったく知らないまま、1913年にこの世を去っています。普通、私たちが哲学書、思想書として学ぶ本というのは、当然ながら、その著者自身が机に向かい、みずからのペンで、一字一句書き上げたものです。プラトンにせよ、カントにせよ、ニーチェにせよ、それぞれの思考の癖や、迷いながら言葉を選んだ跡までもが、著者本人の手を通して、紙の上に刻まれています。

ところが、これから読み解く『一般言語学講義』は、そうした当たり前の前提が、まったく通用しない一冊なのです。奇妙だと思いませんか。著者が書いていない本が、どうして出版され、しかもそれが、言語学という一分野の枠をはるかに超えて、人類学、精神分析、記号論、文芸批評にいたるまで、20世紀の人文知全体を書き換えてしまうほどの影響力を持つことになったのか。種明かしをすると、この本は、ソシュールが晩年、ジュネーヴ大学で行った3回の講義を、実際にはその講義に一度も出席していなかった2人の教え子が、学生たちの取ったノートだけを頼りに、後から一冊の書物として編み上げたものなんです。当時、教室での講義を録音するような技術は、まだこの世に存在しません。

学生たちは、万年筆やペンを片手に、ソシュールが語ることばを、その場で必死に書き取っていくしかありませんでした。いわば、本人の肉声を、教え子たちが、そうした断片的な記録から復元してみせた、再構成の書。しかもその再構成は、単なる寄せ集めではなく、時に本人の実際の語り口以上に鋭く、断定的に整えられていた形跡すらあることが、後の研究でわかっています。

つまり私たちがこれから読み解いていく「ソシュールの理論」というのは、幾重にも人の手を経て届けられた、いわば伝言ゲームの末に結晶化した思想だということです。しかも、この講義録が実際に一冊の本として世に出たのは1916年のこと。折しもヨーロッパ全体が、第一次世界大戦の戦火に包まれていた、そのさなかのことでした。そんな時代のスイスの片隅で、すでに世を去った恩師の思想が、教え子たちの手によって、ひっそりと一冊の本へと編み上げられていたのです。

それでもなお、この一冊が投げかけた問いは、あまりにも根源的で、あまりにも射程が広いものでした。実際に手に取ってみると、この本は、決して分厚い大著というわけではありません。むしろ、一回の大学の講義をまとめた本としては、ごく標準的な分量の一冊です。それにもかかわらず、この薄い一冊は、その後100年以上にわたって、言語学者だけでなく、人類学者、精神分析家、文芸批評家、そして今日ではコンピュータによる記号処理を研究する人たちにいたるまで、驚くほど幅広い分野の研究者たちに読み継がれていくことになります。その中心にあるテーゼを、ひとことで言ってしまうと、こうなります。「ことばの意味は、それ自体には宿っていない」。

当時の学問の常識では、ことばとは、あらかじめこの世界に存在するものごとに、あとからラベルを貼り付けていく作業だ、というふうに、わりあい素朴に考えられていました。犬という生き物がまずいて、それに「犬」という名札をあとから貼りつける、というイメージです。ソシュールは、この講義のなかで、そうした素朴なラベル貼りのイメージを、根底から覆していくことになります。私たちは普段、ことばというものを、それぞれの単語が、あらかじめ固定された意味を、まるで容器のように内側に抱え込んでいるものだと、なんとなく思い込んでいます。「犬」という言葉には「犬」という意味が、最初から、当たり前のように宿っている、と。

たとえば信号機の赤という色そのものに、「止まれ」という意味が、自然に、生まれつき宿っているわけではありません。青や黄色という、他の色と区別されて、初めて赤という色は「止まれ」を意味することができる。ソシュールが、この本のなかで示そうとしたのは、これと似た発想を、ことば全般にまで押し広げるという、大胆な転換でした。ことばの意味は、それ自体のうちにあるのではなく、他のことばとの「違い」の網の目のなかで、そのつど、相対的に成り立っているにすぎない、というのです。

この一見地味に見える発想の転換が、なぜ、構造主義という名で呼ばれる、20世紀後半の人文学最大の思想潮流を生み出すことになったのか。なぜ、ある人類学者は、遠く離れた部族の親族関係のなかにこの発想を見出し、ある精神分析家は、無意識の奥底の仕組みをこの発想で読み解こうとし、ある批評家は、広告のポスター一枚のなかにまで、この発想を見出そうとしたのか。今回は、著者が書いていないという、この本の異様な成り立ちそのものから話を始めて、ソシュールという人物の生涯、そしてこの「差異」という発想が持っていた、途方もない射程まで、じっくりと読み解いていきたいと思います。

第一章 フェルディナン・ド・ソシュールという人物――早熟の天才、沈黙の晩年

まず、この途方もない書物を書くことになる、正確には書かなかったことになるこの人物、フェルディナン・ド・ソシュールとは、いったいどんな人物だったのかを見ていきましょう。ソシュールが生まれたのは1857年、スイスのジュネーヴです。ジュネーヴのド・ソシュール家といえば、代々にわたって学者を輩出してきた、名門中の名門でした。その祖先には、アルプス登山と地質学の先駆者として知られる、オラス=ベネディクト・ド・ソシュールという人物がいます。18世紀、まだ誰もモンブランの頂に立ったことがなかった時代に、みずから懸賞金までかけて登頂者を募り、ついには自身もその頂に立った、あの冒険的な博物学者です。フェルディナン・ド・ソシュールは、そうした、未知の領域を体系的に解き明かそうとする知的な血筋を受け継いで生まれてきた人物だったわけです。

そして幼いころから、この人物は、並外れて早熟な言語への関心を示していました。実際、彼がまだ13歳だったころ、ド・ソシュール家と親交のあった言語学者アドルフ・ピクテという人物が、少年ソシュールに、インド・ヨーロッパ語族を対象とする比較言語学という、当時最先端の学問の手ほどきを授けています。この出会いをきっかけに、ピクテは、その後数年にわたって、若きソシュールにとっての、いわば知の師のような存在になっていきました。事実、ソシュールは15歳にして、すでに「諸言語についての試論」と題する一篇のエッセイをものしており、そこには、はっきりとピクテからの影響が読み取れると言われています。

そして若くしてスイスを離れ、当時、歴史比較言語学研究の世界的な中心地であったドイツのライプツィヒ大学へ留学します。ここでソシュールは、レスキーン、オストホフ、ブルークマンといった、当時の言語学の最前線を走っていた俊英たち、いわゆる「青年文法学派」、ドイツ語でノイグラマティカーと呼ばれる学派の面々に学びました。彼らは、言語の音の変化には、例外のない厳密な法則性があるはずだ、という立場から、精緻な比較言語学を打ち立てつつあった人たちです。同時にソシュールは、この若い学派とはやや距離を置いていた、年長の碩学ゲオルク・クルティウスにも師事しています。まだ学生と呼んでいい年齢でありながら、当時の言語学界における、新旧両方の潮流の第一人者たちから、直接教えを受けていたということになります。

そして、このライプツィヒ時代、ソシュールはわずか21歳にして、後世に語り継がれることになる、驚くべき業績を打ち立てます。1878年に発表された『インド・ヨーロッパ諸語における原初母音組織に関する覚え書き』という論文です。この論文でソシュールが取り組んだのは、印欧祖語、つまりヨーロッパやインドの言語の多くが枝分かれしてきた、大もとの言語の母音体系を再建するという、途方もない作業でした。そしてその再建の過程で、ソシュールは、当時どこにも直接の証拠が存在しなかった、ある仮説的な音を想定します。「ソナント係数」と呼ばれるものです。実際にその音を発音している資料など、どこにもありません。ソシュールはただ、言語の体系そのものが持つ、内的な論理の整合性だけを頼りに、この体系が矛盾なく成り立つためには、ここに、まだ知られていないある種の音があったはずだと、理論的に要請してみせたのです。

証拠がないのに、理屈だけで存在を予言する。まるで、天文学者が、惑星の軌道のわずかな乱れから、まだ観測されていない未知の惑星の存在を計算だけで予言するような、そんな離れ業でした。この論文は、発表当初、フランスでは絶賛をもって迎えられた一方、当のドイツでは、しばらくのあいだ、さほど大きな注目を集めなかったとも言われています。それどころか、興味深いことに、ライプツィヒでソシュールを直接指導していたオストホフやブルークマンといった、青年文法学派の当の面々が、この弱冠21歳の教え子の論文のなかに、実は自分たち自身の着想と重なり合う部分を見出し、内心穏やかならぬ思いを抱いた、という逸話まで伝えられています。

教える側であったはずの碩学たちが、教わる側であったはずの若者の仕事のなかに、みずからの発想の先取りを見出してしまう。それほどまでに、この21歳の論文は、常識外れの完成度を備えていたということなのでしょう。そして、この若き日の大胆な予言には、さらに驚くべき後日談が待っていました。ソシュールの死後、何十年も経った1927年、ポーランドの言語学者クリロヴィッチが、1915年に解読されたばかりの古代語、ヒッタイト語の研究のなかから、ある特定の子音、のちに「喉頭音」、ラリンジアルと呼ばれることになる音の痕跡を発見します。

そして、この喉頭音こそが、かつて若きソシュールが理屈だけで要請してみせた、あの「ソナント係数」に、みごとに対応するものだったのです。証拠がまったくない段階で、体系の内的な整合性だけから未知の要素の存在を見抜き、それが何十年ものちに、思わぬ形で実証される。この一件は、ソシュールという人物の思考の性格そのものを、象徴的に物語るエピソードだと言えるでしょう。彼はその後、パリへと移り、高等研究実習院で10年近くにわたって教鞭を執ります。ゴート語や古高ドイツ語、比較文法などを教えるかたわら、若きアントワーヌ・メイエをはじめとする、のちに言語学界を担うことになる多くの俊英たちを育て上げました。

そして1891年、ソシュールは故郷ジュネーヴへと戻り、ジュネーヴ大学の教授に就任します。ここまでの経歴だけを見れば、順風満帆な、押しも押されもせぬ言語学界のトップランナーの姿です。ところが、ここから先のソシュールは、私たちが期待するような姿とは、いささか違った道をたどることになります。これほどの実績と洞察力を持ちながら、ソシュールは、生涯を通じて、みずからの言語理論を体系的な書物としてまとめ、世に問うことを、頑なにためらい続けた人物だったのです。彼が「一般言語学」と呼べるようなまとまった理論を語ったのは、晩年、1907年、1908年から09年、そして1910年から11年にかけての、わずか3回、ジュネーヴ大学で行った講義のなかだけでした。

あれほどの知性を持ちながら、なぜ、それを一冊の本として、みずからの手でまとめようとしなかったのか。この問いに対する明確な答えは、残されていません。ただ、あまりに巨大な理論体系の構想を前にして、既存の言語学の用語や概念そのものが、その構想を語り尽くすには、まだ追いついていないと、本人が感じ続けていたのではないか、という見方も語られています。完璧主義であったとも、みずからの理論がまだ完成に至っていないと感じ続けていたとも言われています。

そして1913年、ソシュールは、喉や肺の不調を伴ったと伝えられる病により、この世を去ります。早熟の天才として鮮烈にデビューしながら、その後半生は、沈黙のうちに過ぎていった。次の章では、この沈黙から、どのようにして、あの『一般言語学講義』という一冊の書物が生まれてきたのか、その異様な成立の経緯を見ていきます。

第二章 この本の異様な成立事情――講義ノートから甦った「幻の書」

では、ソシュールが、これほどの洞察を持ちながら、ついにみずからの手で一冊の本にまとめることのなかった彼の言語理論が、いったいどのようにして、私たちが今日『一般言語学講義』として手に取ることのできる書物になったのか、その成立の経緯を見ていきましょう。まず押さえておきたいのは、ソシュール自身が、講義のために使った原稿の類を、ほとんど残していなかったという事実です。そして1913年に彼が世を去ったあと、身辺を整理しても、彼自身の手による、まとまった草稿のようなものは、ほぼ見つかりませんでした。晩年の3回の講義で語られた、あの野心的な言語理論は、いわば、ソシュールの頭のなかと、教室の空気のなかにしか存在しない、消えかかった記憶のようなものだったわけです。

当時の大学の教室を、少し想像してみてください。黒板の前に立つソシュールが、のちに20世紀の知のありようを大きく変えることになる講義を語っている、まさにその同じ瞬間、教室の机に座った学生たちは、ただ黙々と、ペン先を紙にすべらせながら、聞き取った内容を書き取ることに追われていたはずです。彼らのうちの誰ひとりとして、自分が今書き取っているノートが、何十年ものちに、世界中の研究者たちによって、一字一句のレベルで検証し直されることになるとは、夢にも思っていなかったことでしょう。

ここで登場するのが、ソシュールの同僚だった2人の言語学者、シャルル・バイイとアルベール・セシュエです。この2人が、散逸しかけていたソシュールの理論を、なんとか一冊の書物として後世に残そうと動き出します。ところが、ここに、この本の成立事情を、いっそう異様なものにしている事実があります。

実は、このバイイとセシュエの2人は、ソシュールが行った3回の講義のいずれにも、一度も出席していなかったのです。本人の肉声を、直接その場で聞いていた人物ではない2人が、この本の編者となった。では、いったい何を頼りに、この本は書かれたのか。答えは、実際に講義を受講していた学生たちが、教室で取っていた、手書きの筆記ノートです。なかでも、アルベール・リードランジェという学生が取っていたノートが、この再構成作業において、もっとも中心的な役割を果たしたことがわかっています。バイイとセシュエは、複数の学生たちが残した、これらの断片的な筆記ノートを丹念に集め、突き合わせ、3回にわたって行われた講義の内容を、1つの首尾一貫した理論体系として編み直していきました。

そうして1916年、ソシュールの死からわずか3年後に、『一般言語学講義』という書物が、世に送り出されることになったのです。出版された当初は、専門の言語学者たちのあいだで静かに読まれる、堅実な教科書の一つという受け止められ方が大勢だったと言われています。この本が、のちに人文学全体を揺るがす震源地になろうとは、当のバイイとセシュエ自身も、おそらく想像していなかったことでしょう。

ここで、私たちが心に留めておくべき、とても重要な点があります。この2人の編者による作業は、単に、ばらばらの学生ノートを寄せ集めて整理しただけの、ただの「まとめ」ではなかった、ということです。むしろそれは、実質的には「再創造」と呼んだほうがふさわしいような、大がかりな編集作業だったのです。このことは、のちの研究によって、かなり具体的に裏付けられています。

まず、スイスの言語学者ロベール・ゴデルが、1957年に、学生たちが残した実際の講義ノートの写本そのものを、丹念に研究しました。さらに、ルドルフ・エングラーという研究者が、1967年から74年にかけて、学生ノートの原文と、公刊された『講義』の本文とを、一字一句照らし合わせるという、気の遠くなるような校訂作業を行いました。このゴデルとエングラーによる、地道な文献学的な検証作業がなければ、私たちはおそらく今でも、『一般言語学講義』の本文を、ソシュール本人が語った言葉そのものだと、疑うことなく信じ込んだままだったことでしょう。

この校訂作業がどれほど大がかりなものだったかというと、学生たちが残した、筆跡も内容もまちまちな、断片的な筆記ノートの一文一文を、公刊された『講義』の該当箇所と丹念に付き合わせていくという、根気のいる作業でした。しかも厄介なことに、1907年、1908年から09年、1910年から11年という3回の講義は、そもそも年によって、扱う話題の重点や、説明の順序そのものが、少なからず異なっていました。バイイとセシュエは、この3つの、時期も内容の重みづけも異なる講義を、あたかも最初から一つの首尾一貫した講義であったかのように、滑らかにつなぎ合わせていったのです。具体的には、学生によって聞き取りの精度や、書き留める詳しさにばらつきがあり、ある学生が丁寧に記録していた箇所を、別の学生はほとんど書き漏らしていたり、同じ概念の説明でも、学生ノートごとに、順序や力点が微妙に食い違っていたりする、といった状況だったと言われています。

バイイとセシュエは、こうした玉石混淆の資料のなかから、もっとも筋の通っていそうな説明を選び取り、時には空白を自分たちのことばで補いながら、一冊の書物としての、なめらかな論理の流れを作り上げていきました。その結果わかってきたのは、実際に学生たちが書き取った講義の内容と、世に出た『一般言語学講義』の本文とのあいだに、決して少なくない食い違いが存在する、という事実でした。

たとえば、のちの章でじっくり取り上げることになる、「言語というものには、差異しか存在しない」という、あの有名で断定的な一節。この言い回しについても、ソシュール本人が実際の講義でどこまで断定的に語っていたのかは、学生ノートの記述と照らし合わせると、いささか怪しくなってきます。編者である2人が、本人の講義よりも、いくぶん先鋭化させ、体系立てて整理し直した表現が、そこに含まれている可能性が、指摘されているのです。

ここで、私たちがこれから、この講義録を読み解いていくにあたって、あらかじめ共有しておきたい、大切な留保があります。それは、これから紹介していく「ソシュールの理論」というものが、ソシュール本人の肉声そのものではなく、多かれ少なかれ、バイイとセシュエという2人の編者による編集というフィルターを通過したうえでの姿である、ということです。考えてみれば、これほど数奇な運命をたどった書物も、そう多くはないでしょう。すでに世を去った本人の声を、その場に居合わせなかった2人の手が、居合わせた学生たちの断片的な記憶を頼りに、まるで一冊の本として降ろし直す、そんな作業を経て、この講義録は結晶化したのです。本人が一行も書かなかった本でありながら、その内容が、20世紀の思想全体を動かすほどの影響力を持つことになった。

この逆説の背後には、こうした、教え子たちによる、忠実でありながらも、同時に創造的でもあった、途方もない再構成の作業があったのです。それでは次に、この、教え子たちの手によって甦った理論の中身そのものへと、いよいよ分け入っていきましょう。

第三章 ラングとパロール――「言語」という社会的な制度と、個人の発話

それでは、いよいよ『一般言語学講義』の核心となる理論の中身に入っていきます。ソシュールが、この講義でまず最初に行ったのは、それまで漠然と「言語」とひとくくりに呼ばれていたものを、きちんと腑分けする作業でした。私たちは普段、「言語」ということばを、ずいぶんいろいろな意味で使っています。日本語という体系そのものを指して「言語」と言うこともあれば、誰かが今この瞬間に発した、ある具体的なひとことを指して「言語」と言うこともあります。ソシュールは、この、なんとなく一緒くたにされてきた「言語」というものを、はっきりと2つに分けることから、みずからの理論を組み立てていきます。それが、「ラング」と「パロール」という、有名な対概念です。

まず「ラング」、フランス語でlangueと綴られるこの語が指すのは、ある共同体全体が共有している、社会的な制度としての言語体系そのものです。日本語なら日本語、フランス語ならフランス語という、それぞれの言語が持っている、単語の集まりや、文法の規則、音の体系といったものの総体、それがラングです。

たとえば、赤ちゃんが生まれてから、周囲の大人たちが話すのを聞きながら、少しずつことばを覚えていく過程を考えてみてください。赤ちゃんは、日本語というラングを、一から自分で発明しているわけではありません。すでにそこに存在している、共同体の体系のなかに、あとからそっと参加させてもらっているにすぎないのです。

ここで重要なのは、このラングというものが、特定の一個人の意志や工夫によって、どうにかできるようなものではまったくない、という点です。誰か一人が、今日から「机」という単語を、まったく別の音で呼ぼうと思い立ったとしても、その思いつきが、社会全体に受け入れられないかぎり、ラングという体系そのものは、びくともしません。せいぜい、その人一人だけが、周囲に通じないことばを話す、少し変わった人になるだけです。ラングは、いわば、その共同体全体で長い時間をかけて積み上げられ、共有されてきた、巨大な「宝の蔵」のようなものだと、ソシュールは捉えます。

そして、私たち一人ひとりの脳裡には、この途方もなく大きな宝の蔵の全体がまるごと入っているわけではなく、その一部分だけが、いわば潜在的な形で、しまい込まれているにすぎない、というのです。辞書に載っている単語のすべてを、一字一句そらんじている人などいません。それでも私たちは、自分のなかに蓄えられた、ラングのごく一部分を使うだけで、日々、十分にことばを操ることができています。私たちが学校で外国語を学ぶとき、まず単語や文法規則を覚えるところから始めるのも、考えてみれば、その言語のラングという体系そのものを、自分のなかに少しずつ移植しようとする作業にほかなりません。逆に言えば、たとえどれほど多くの個別の会話例を丸暗記したところで、その言語の体系そのものを理解したことには、ならないということでもあります。

たとえば、オーケストラが演奏する、一篇の交響曲を思い浮かべてみてください。楽譜そのものは、作曲家の手を離れたのちも、演奏される時代や場所を問わず、変わらずそこにあり続ける、いわば体系です。ところが、ある晩、ある会場で、ある指揮者のもとで実際に鳴り響く、その日限りの演奏そのものは、二度と寸分たがわぬ形では繰り返されません。ラングとパロールの関係も、これによく似ています。共同体全体が共有する、変わらぬ体系としてのラングと、そのつど個々人によって具体的に実行される、一回限りのパロール、という対比です。

これに対して、「パロール」、フランス語でparoleと綴られるこちらの語が指すのは、まったく対照的なものです。パロールとは、ある個人が、いままさに、その共同体で共有されているラングという体系を利用して、そのつど、意志的に、そして知的に行う、具体的で一回きりの発話の実行行為そのものを指します。誰かが今、目の前で「おはようございます」と口にする、そのひとことひとこと、その都度その都度の、生きた発話の出来事、それがパロールです。

たとえば、同じ「ありがとうございます」ということばでも、ある地方特有の訛りをともなって語られることもあれば、標準的な発音で語られることもあります。あるいは、緊張のあまり言い間違えてしまうことも、疲れて舌がもつれることもあるでしょう。こうした、その人固有の癖や、その瞬間ならではの偶然の産物は、すべてパロールの領域に属する出来事であって、ラングという体系そのものが揺らいでいるわけではありません。

とはいえ、パロールが完全に自由奔放というわけでもありません。話し手は、ラングという既存の体系のルールの範囲内でしか、ことばを組み立てることができません。まったくでたらめな音の並びを発しても、それは、その言語共同体のなかで、意味のある発話として受け止められることはないでしょう。パロールは、ラングという枠組みに支えられながら、そのつど自由に営まれる、個人的な実践なのです。ラングが、いわば非人称的で、社会全体に属する、静的な体系であるのに対し、パロールは、個人的で、そのつど一回限りの、動的な実行だという、この対比です。

そして、ここからが、ソシュールの理論のなかでも、とりわけ重要な分岐点になります。それは、言語学という学問が、そもそも何を研究の対象とするべきなのか、という問いに対して、ソシュールが下した、ある方法論的な決断です。もし言語学が、こうした無数のパロール、つまり、人によって、その日の気分によって、体調によって、無限に変化していく、雑多な発話の実例だけをかき集めて研究しようとしたら、いったいどうなるでしょうか。おそらく、いつまで経っても、きりのない事例の山に埋もれるばかりで、そこから、言語というものに共通する、普遍的な仕組みを取り出すことはできないはずです。ソシュールは、言語学がまず第一に研究すべき対象は、雑多で、個人的で、そのつど移ろっていくパロールのほうではなく、体系的で、社会的で、ある程度安定して存在しているラングのほうである、とはっきり宣言します。

その背後にあって、あらゆる発話行為を可能にしている、体系そのものであるラングに目を向けたほうが、言語という現象を、科学的に、体系立てて研究することができる。ソシュールは、そう考えたのです。この、「ラングを研究せよ」という、一見地味に見える方法論上の決断こそが、実は、その後の言語学全体、そしてのちに言語学の枠を大きく超えて広がっていくことになる、構造主義という思想潮流全体にとっての、出発点となっていきます。個々ばらばらの現象そのものを追いかけるのではなく、その背後にある、体系・構造に目を向けるという発想の型が、まさにここから始まっているのです。次の章では、このラングという体系そのものを、いったいどのような角度から眺めるべきなのか、ソシュールがさらに踏み込んで示していく、もう一つの根本的な区別を見ていきます。

第四章 共時態と通時態――「今の姿」を見るか、「移り変わり」を見るか

さて、ここまで見てきたラングとパロールという区別に続いて、ソシュールは、彼の理論全体を根底から支えることになる、もう一つの決定的な区別を持ち込みます。それが、この章で見ていく「共時態」と「通時態」という対の考え方です。まず、ソシュール自身がどういう場所で言語学を学んだのかを、少し思い出してみましょう。彼が若き日に身を投じた十九世紀の歴史比較言語学、いわゆる青年文法学派の研究というのは、その名の通り、ある言語のある発音や語形が、どこから来て、どんな法則にしたがって少しずつ形を変え、今の姿にたどり着いたのか、その変化の道筋を、どこまでも遡って再構成していくことに、情熱のほとんどを注ぎ込む学問でした。

ある単語の発音が、数百年前にはどんな形をしていて、それがどういう音の移り変わりを経て今の発音になったのか——そうした「変化の系譜」を、緻密な証拠の積み重ねによって描き出すことこそが、当時のもっとも先端的な言語研究のあり方だったのです。たとえば、ある言語に、一見して不規則にしか見えない語形が残っていたとしましょう。歴史比較言語学の研究者たちは、この不規則さを説明しようとするとき、決まって何百年も前にまでさかのぼり、かつて存在した、より古い規則的な形が、長い年月のなかでの音の移り変わりによって、少しずつ削れたり、ねじれたりして、今の不規則な姿になったのだ、という具合に、もっぱら過去の変化のプロセスのなかにその答えを求めようとしました。

もちろん、それ自体は間違った態度ではありません。しかし、そこには一つの盲点がありました。今この瞬間、その不規則に見える語形を実際に使っている話者たちにとって、その語がどういう働きをし、他の語とどういう関係にあるのかは、過去の変化の道筋とはまったく別に、今の体系のなかだけで、すでに立派に機能してしまっている、という側面です。話者は、その語の歴史的な成り立ちなど何も知らなくても、今この瞬間の体系のルールにしたがって、その語を正しく使いこなしているのです。

ところが、ソシュールは、この歴史をひたすら追いかけるやり方には、決定的に見落とされているものがあるのではないか、と考えるようになります。それは、ある一つの時点、たとえば「今、まさにこの瞬間」の言語というものが、それ自体で一つのまとまった体系として、きちんと成り立っているという側面です。変化の歴史ばかりを追いかけていると、言語というものが、まるで、ばらばらの変化がたまたま積み重なっただけの寄せ集めのように見えてきてしまいます。

しかし実際には、私たちが今この瞬間に使っていることばは、それがどんな歴史をたどってここまで来たのかをまったく知らなくても、今この瞬間の話し手と聞き手のあいだで、きちんと意味が通じ合う、一つの完結した仕組みとして働いているはずです。そこでソシュールが持ち込むのが、二つの視点のはっきりとした区別です。一つは、ある一時点における言語の状態を、まるごと一つの体系として捉える視点で、これを「共時態」、フランス語でサンクロニーと呼びます。もう一つは、時間の流れのなかで、言語がどう移り変わっていくかを追いかける視点で、これを「通時態」、ダイアクロニーと呼びます。

この二つの視点の違いを、ソシュールは、誰もが一度は目にしたことのある、とても身近な比喩を使って説明してみせます。それが、チェス盤の比喩です。想像してみてください。目の前に、対局の途中まで進んだチェス盤があります。白と黒の駒が、盤上のあちこちに配置され、ある一つの局面ができあがっている。このとき、この局面がどういう状態にあるのかを理解するために、私たちは、これまでの対局で、どちらの駒が、どういう順番で、どう動かされてきたのか、その手順の歴史をいちいち知っている必要があるでしょうか。答えは、はっきりとノーです。今、盤の上に置かれている駒どうしの位置関係、どの駒がどの駒を狙っているか、王手がかかっているかどうか——そうした、今この瞬間における駒どうしの関係だけを見れば、この局面がどういう状態にあるのかは、それだけで完全に理解できてしまいます。

極端な話、それまでの対局をまったく見ていなかった人が、途中からその盤面だけをふいに見せられたとしても、盤上の駒の配置関係さえ読み取れれば、次にどんな手が有効かを、正しく考えることができるのです。これは、たとえば、上演の途中から劇場に入ってきた観客が、それまでの筋書きを何も知らなくても、今、舞台の上に立っている登場人物たちの位置関係や、誰が誰に対してどんな態度をとっているかという、その瞬間の関係性さえ見えれば、今まさに繰り広げられている場面の意味を、ひとまず十分に理解できてしまうのと、どこか似ています。もちろん、それまでの筋書きを知っていれば、理解はいっそう深まるでしょう。

しかし、その瞬間の場面そのものは、それだけで一つの完結した意味のまとまりとして、観客の前に成立している。ソシュールは、言語という体系についても、まったく同じことが言えると考えました。ある時点における言語の体系は、その言語がそこに至るまでにどんな歴史的変化をたどってきたのかを知らなくても、その時点に存在している要素どうしの関係、つまり、語と語、音と音のあいだに張りめぐらされた差異の網の目だけを見れば、それとして完全に理解できる、いわば自己完結した一つの秩序なのだ、というわけです。たとえていうなら、ある川の、ある瞬間の流れをとらえた一枚の写真と、その川が何千年もの歳月をかけて、どのように蛇行を変え、流れを移し替えてきたかを描いた地図とは、まったく別の種類の情報であるのと似ています。

写真を理解するのに、地図の知識は必要なく、地図を読み解くのに、その瞬間の一枚の写真だけでは足りない——それくらい、この二つの見方は、性質の異なるものなのです。そして、ソシュールはここで、強く念を押します。この共時態と通時態という二つの視点は、決して混同してはならない、まったく別々の軸に属する見方なのだ、と。ある言語現象を説明するときに、「今この体系のなかでどう位置づけられるか」という話と、「歴史的にどういう経緯を経てここに至ったのか」という話とを、うっかり一緒くたにしてしまうと、まるで、昔の古い地図を広げて、今の道路の混み具合を説明しようとするような、ちぐはぐな議論になりかねません。

この二つは、はっきりと切り分けて、別々に論じなければならない——これが、ソシュールの譲れない方法論的な主張でした。そして、この共時態という視点、つまり、ある時点の言語を、それ自体で完結した一つの体系として捉えるという考え方こそが、これから見ていく、言語記号の仕組みや、記号どうしが織りなす関係のあり方といった、ソシュールの理論全体を支える、揺るぎない土台になっていくのです。歴史をひたすら遡ることでしか言語を語れなかった時代に、まず目の前の体系そのものへと視線を向け直させた、この地味に見えて実は根本的な発想の転換こそが、ソシュールを、単なる歴史比較言語学者の一人から、まったく新しい言語理論の創始者へと押し上げた、最初の一歩だったと言えるでしょう。

第五章 言語記号――「シニフィアン」と「シニフィエ」

さて、ラングとパロールという区別、そして共時態と通時態という区別によって、言語学が向き合うべき対象が、ある一時点における体系としての言語なのだということが、はっきりしてきました。それでは、その体系を作り上げている、いちばん基本的な単位とは、いったい何なのでしょうか。

ここでソシュールが持ち出すのが、「言語記号」という考え方です。私たちはふだん、ことばというものを、なんとなく、「ものの名前」のようなものだと思って使っています。目の前に犬がいて、それに「イヌ」という名前がついている、机があって、それに「机」という名前がついている、というように、あらかじめ存在している「もの」に、後から「名前」というラベルが貼りつけられているだけだ、という捉え方です。これを、命名目録的な言語観と呼ぶことができます。辞書というものが、まるで、ものの一覧表に、それぞれの呼び名を対応させただけの目録であるかのように見えてしまう、あの発想です。子供向けの絵本で、リンゴの絵の下に「りんご」という文字が添えられているのを見ると、私たちはつい、この絵本のページのように、「もの」がまずあって、そこに「ことば」というラベルが後から貼りつけられているだけなのだ、と思い込んでしまいがちです。

しかし、ソシュールは、この素朴な言語観を、はっきりと退けます。ソシュールによれば、言語記号というのは、もっと繊細な、二つの要素が結びついてできる、心のなかの実体なのだ、というのです。その二つの要素とは何か。一つは、「意味されるもの」、つまり、私たちの頭のなかにある「概念」そのものです。これを、ソシュールは「シニフィエ」と呼びます。もう一つは、「意味するもの」、つまり、その概念を指し示すために使われる、「音のイメージ」です。これを、ソシュールは「シニフィアン」と呼びます。

ここで、とても大事な注意点があります。この「音のイメージ」というのは、実際に空気中を伝わっていく、物理的な音の振動、つまり音波そのもののことではありません。そうではなく、その音を聞いた人の心のなかに、痕跡として刻み込まれる、聴覚的な印象、いわば心的な表象のことを指しているのです。

たとえば、「イヌ」ということばを耳にしたとき、私たちの心のなかには、実際に鼓膜を震わせた空気の振動そのものが残っているわけではありません。残っているのは、その音を聞いたときに感じた、あの独特の響き、「イ」という音と「ヌ」という音がつながって作り出す、心のなかでの音の型、いわば音の記憶のようなものです。ソシュールが「音のイメージ」と呼ぶのは、まさにこの、心のなかに刻まれた音の型のことなのです。考えてみれば、同じ「イヌ」という一つのことばでも、それを実際に口にする人によって、声の高さも、話す速さも、方言によるわずかな訛りも、一人ひとりまったく違っています。子供が舌ったらずに発音する「イヌ」と、大人が発音する「イヌ」とでは、物理的な音波としては、かなり違ったものになっているはずです。

それにもかかわらず、私たちは、そのどちらを聞いても、同じ一つのことばとして理解することができます。これは、私たちの心のなかに、個々の発音の違いを超えた、いわば抽象化された一つの「音の型」が、あらかじめ共有の財産として蓄えられているからにほかなりません。ソシュールが言う「音のイメージ」とは、まさに、この、個々の具体的な発音のばらつきを超えた、心のなかの抽象的な型のことを指しているのです。そして、この「音のイメージ」であるシニフィアンと、「概念」であるシニフィエとは、どちらか一方だけで単独に存在することはできず、常に一体となって、一つの記号を作り上げている、とソシュールは考えます。

この、切り離すことのできない一体性を説明するために、ソシュールが持ち出す、たいへん有名な比喩があります。それが、一枚の紙の比喩です。一枚の紙には、必ず表と裏があります。この紙を、はさみで真っ二つに切ろうとすれば、表だけを切り離すことも、裏だけを切り離すことも、絶対にできません。表を切れば、必ず同時に裏も切れてしまう。表と裏は、別々の二枚の紙ではなく、一枚の紙の、切り離しえない両面なのです。ソシュールは、シニフィアンとシニフィエの関係も、まさにこれと同じだと言います。シニフィアンという「音のイメージ」の面と、シニフィエという「概念」の面とは、一枚の紙の裏表のように、切っても切り離せない、一体の実体として、私たちの心のなかに存在している、というわけです。

ためしに、一枚の紙を手に取って、表の面だけをそっとはがし取ろうとしてみてください。どれだけ丁寧に、どれだけ薄く削ぎ取ろうとしても、表を残そうとすれば必ず裏の一部が付いてきますし、裏だけを取り除こうとすれば、必ず表も一緒についてきてしまいます。頭のなかで思い描くことはできても、実際にその両面を引きはがすことは、原理的に不可能なのです。シニフィアンとシニフィエの関係も、これとまったく同じで、私たちは、説明のために、頭のなかで「音のイメージの側面」と「概念の側面」とを、便宜的に分けて考えることはできますが、実際の心のなかの記号として、その二つが本当にばらばらに引き離されて存在しているわけではありません。

この定義がもたらす意味は、決して小さくありません。もし、言語記号が、あらかじめ存在する「もの」に、後から「名前」を貼りつけただけのものであるなら、ことばというのは、単なるラベルの集まり、「ものの名前のリスト」にすぎないということになってしまいます。しかし、ソシュールが示した記号のモデルにしたがえば、そうではありません。記号とは、独立して存在する「もの」と「名前」との対応関係ではなく、あくまで、心のなかで、概念と音のイメージという二つの側面が、分かちがたく結びついてできる、一つのまとまった実体なのです。先ほどの絵本の比喩に戻るなら、ソシュールの捉え方では、ページの片側にリンゴという「もの」があり、もう片側に「りんご」という「文字」がある、という具合に、二つの独立した領域が別々に存在していて、それを線でつなぐのが言語だ、というふうには考えません。

むしろ、私たちの心のなかで、あの丸くて赤い果物についての概念と、「り・ん・ご」という音の型とが、あらかじめ一体になって、一つの記号として組み上がっている、と考えるのです。この視点の転換によって、ことばというものが、単に外の世界にあるものを指し示す道具である以上に、私たちの心のなかで、概念と音とがどのように結びつき、組織立てられているかという、もっと内側の仕組みの問題として、見直されることになります。

この、「記号とは何か」というモデルそのものの捉え直しこそが、この先の章で見ていく、記号と記号との関係のあり方、そして、ことばの意味というものが、いったいどこに宿っているのかという、ソシュール理論の核心部分へとつながっていく、重要な出発点になっているのです。

第六章 記号の恣意性――なぜ「犬」は「犬」と呼ばれるのか

さて、シニフィアンとシニフィエという二つの側面が結びついてできる、言語記号というものの姿が見えてきたところで、ソシュールは、この講義全体を貫く、いわば第一原理とも呼べる、決定的なテーゼを打ち出します。それが、「記号の恣意性」と呼ばれる考え方です。フランス語では「アルビトレール・デュ・シーニュ」と言いますが、その中身はとてもシンプルです。シニフィアンという「音のイメージ」と、シニフィエという「概念」とのあいだには、自然に、必然的に結びついていなければならない理由が、いっさい存在しない。両者を結びつけているのは、ただ、その言語を使う共同体のなかで、昔からそう決まっているという、社会的な取り決め、いわばコンヴァンシオンにすぎないのだ、というのです。

これだけを聞くと、当たり前すぎることのように感じるかもしれません。しかし、この当たり前に思えることのなかに、実はとても大きな意味が込められています。考えてみてください。私たちが「イヌ」と呼んでいる、あの、四本足で歩き、尻尾を振り、ワンと吠える動物のことを、フランス語では「シアン」と呼び、英語では「ドッグ」と呼びます。同じ一つの動物、同じ一つの概念を指しているにもかかわらず、その概念に結びつけられている「音」は、日本語、フランス語、英語のあいだで、まったく異なっています。もし、犬という概念と、それを指し示す音とのあいだに、何か自然な、必然的なつながりがあるのだとしたら、世界中のどの言語であっても、犬を指す音は、似たようなものになっていなければおかしいはずです。

ところが実際には、そうなっていません。ある言語では「イヌ」、別の言語では「シアン」、また別の言語では「ドッグ」と、てんでばらばらの音が、同じ一つの概念に結びつけられている。この事実そのものが、シニフィアンとシニフィエとの結びつきに、いかなる必然性もないことの、何よりの証拠なのだ、とソシュールは論じます。同じことは、「イヌ」に限らず、ほとんどあらゆる概念について言えます。

たとえば、誰かに感謝の気持ちを伝えるときのことばも、日本語では「ありがとう」、フランス語では「メルシー」、英語では「サンキュー」と、まったく違う音の連なりになっていますし、頭の上に広がっている、あの青い、あるいは灰色の空間を指すことばも、日本語の「そら」、フランス語の「シエル」、英語の「スカイ」というふうに、これもまた、てんでばらばらです。もし仮に、ある概念とそれを指す音とのあいだに、何か自然の理法のようなものが働いているのだとしたら、これほどまでに多様な音の体系が、世界中に並び立っているはずがありません。

この、驚くほど徹底したばらつきこそが、両者の結びつきが、自然の必然ではなく、それぞれの共同体が、歴史のなかでたまたま取り決めてきた、一つの慣習にすぎないことを、雄弁に物語っているのです。ここで、一つの反論を思いつく方もいるかもしれません。それは、オノマトペ、つまり擬音語や、驚いたときに思わず口をついて出る感動詞のような、いかにも音と意味とが自然に結びついていそうに見える例についてです。犬の鳴き声を表す音などは、その最たるものでしょう。

しかし、ソシュールは、この例外に見えるケースについても、じっくり検討したうえで、やはり恣意性の原則は揺るがないと結論づけます。というのも、同じ犬の鳴き声一つを取っても、それを言い表す音は、言語ごとにまったく異なっているからです。日本語では、犬の鳴き声を「ワンワン」と表しますが、英語では「バウワウ」と表します。もし、犬の鳴き声という一つの音そのものが、そのまま自然にことばに写し取られているのだとしたら、世界中どこでも、同じような音の表現になっていなければおかしいはずです。

ところが、実際には、同じ現実の音を耳にしながら、言語によって、まったく違う音の型に落とし込まれている。これはつまり、オノマトペのように、一見自然に音と意味が結びついているように見える例であっても、結局のところ、その具体的な音の形は、各言語共同体のなかで、慣習的に、恣意的に固定されたものにすぎない、ということを示しているのです。同じことは、ニワトリの鳴き声にも言えます。日本語では、夜明けを告げるニワトリの声を「コケコッコー」と表しますが、英語では「コッカドゥードゥルドゥー」というふうに、まったく異なる音の型に落とし込まれます。同じニワトリが、同じように鳴いているにもかかわらず、それを聞き取り、ことばに写し取る枠組みそのものが、言語ごとに違っているのです。

これは、生の物理的な音がそのまま自動的にことばになるのではなく、それぞれの言語がすでに持っている、音の型のレパートリーというフィルターを通して、初めてことばとして聞き取られる、ということを意味しています。だからこそ、いかにも自然に見えるオノマトペでさえ、実際には、それぞれの言語体系のなかに、恣意的な形で組み込まれた、一つの記号にほかならないのです。そして、この恣意性という原理は、単なる興味深い観察にとどまらず、なぜ言語が、一個人の思いつきや都合では、けっして変えることのできない、社会全体の制度でなければならないのか、という、もっと大きな問いへの答えにもなっています。もし、記号と意味とのあいだに、何か自然な、必然的な結びつきがあるのだとしたら、理屈のうえでは、一人の人間が、その必然性を自分なりに検証し直し、より正しい結びつきを見つけ出すことも、できるかもしれません。

しかし、記号と意味との結びつきが、これほどまでに恣意的な、ただの取り決めにすぎないのだとしたら、話は変わってきます。取り決めである以上、それを正当化する根拠は、ただ「昔からそう決められてきた」という、共同体全体の合意のなかにしかありません。一個人が、いくら「イヌ」ではなく別の音で呼びたいと思ったところで、その思いつき一つでは、共同体全体の合意を覆すことなどできないのです。恣意的であるからこそ、言語は、誰か一人の意志ではどうにもならない、共同体全員が共有する、大きな制度として存在し続けることになる——ソシュールが、この恣意性という原理に、これほどまでに重きを置いた理由も、まさにここにあります。試しに、明日から自分一人だけ、「イヌ」という動物を「ガブ」と呼ぶことに決めた、という人がいたとしましょう。

その人がどれほど熱心に「ガブ」と言い張ったところで、周りの誰も、それが何を指しているのか理解できず、結局その人は、誰とも意思疎通ができなくなってしまいます。これは、記号と意味との結びつきが、個人の頭のなかだけで完結するものではなく、共同体全体にまたがる、巨大な取り決めの網の目の一部として、初めて機能するものだからにほかなりません。個人がどれほど賢くても、どれほど強い意志を持っていても、この取り決めの網の目を、一人で書き換えることはできない。恣意性とは、決して「なんでも自由に決めてよい」という意味ではなく、むしろ逆に、いったん共同体のなかで取り決められてしまえば、誰にも動かしようのない、強固な拘束力を持つようになる、という性質を意味しているのです。

第七章 シニフィアンの線条性――ことばは、なぜ「一列」に並ぶのか

言語記号の恣意性というテーゼに続いて、ソシュールがもうひとつ、言語学全体を支える根本原理として掲げるのが、「シニフィアンの線条的性格」と呼ばれるものです。ここで言う線条性とは、文字通り「線」のように一列に連なる性質のことで、音として発せられることば、すなわちシニフィアンが持つ、ある避けがたい制約を指しています。それは、ことばというものが、絵画や紋章、あるいは一枚の写真のような視覚的な記号とは、まったく異なる仕方でしか、世界に姿を現すことができない、という事実です。

たとえば一枚の絵を思い浮かべてみてください。そこに描かれた色彩や形、人物の配置、背景の風景は、見る者の目に、ほとんど同時に、いっぺんに飛び込んできます。上に描かれたものと下に描かれたもの、右に配置されたものと左に配置されたものを、私たちは同時に見渡すことができますし、どこから視線を向けるかという順序も、見る側にある程度自由に委ねられています。家紋や紋章のような図像も同じで、中央に配置された図柄と、その周囲を縁取る模様、四隅にあしらわれた小さな意匠とを、私たちは一目で、いっぺんに眺めわたすことができます。

ところが、音として発せられることばには、こうした自由がまったくありません。ある単語を発音するとき、私たちはその音を構成する要素を、ひとつずつ、順番に、時間という、ただ一本しかない線に沿って、前から後ろへと押し出していくしかないのです。二つの音を、まったく同時に、重ね合わせるようにして発することはできません。ちょうど、一本のメロディーラインしか奏でられない楽器のように、ことばは常に、一つの音が終わってから次の音が始まる、という具合に、時間の流れのなかを一列になって進んでいくほかないのです。楽譜であれば、複数の段に音符を書き並べ、いくつもの音を重ねて同時に響かせる和音を表すこともできますが、話しことばには、そのような重ね書きの余地がそもそも存在しません。

ソシュールは、この、あまりにも当たり前すぎて、これまで正面から注目されることのなかった性質こそが、実は、言語という仕組み全体のありようを、根底から規定している決定的な原理なのだと指摘します。なぜなら、語と語がどのように組み合わさり、文がどのように構成されるかという、ことばの組み立てにまつわるすべての現象は、この、時間という一本の線の上での、前後の位置関係としてしか、実現されようがないからです。ある語が別の語の前に来るか後に来るかという、その並び順そのものが、意味を左右する力を持つのも、突き詰めれば、シニフィアンがこの線条性という制約のもとにあるからにほかなりません。もし、ことばが、絵画のように複数の次元を同時に使えるものであったなら、語と語の関係のありようも、まったく違ったものになっていたはずです。

世界には、語順がかなり自由な言語もあれば、語順によって意味が大きく左右される言語もありますが、どれほど自由に見える言語であっても、二つの語をまったく同時に発するということだけは、どの言語にも許されていません。声の高さや抑揚といった要素が、あたかも音に重ねて添えられているように感じられることがあったとしても、それはあくまで、一本の線として流れていく音の上に、いわば薄く色を差すように重ねられているだけであって、線条性という制約そのものを破るものではありません。

ここで、文字で書かれたことばについても、一言触れておく必要があります。私たちが紙の上やスクリーンの上で目にする文章は、文字という記号が、左から右へ、あるいは上から下へと、空間のなかに並べられたものです。この様子だけを見ると、線条性とは、文字が空間のなかに一列に並ぶ、という性質のことのように思えるかもしれません。

しかし、ソシュールに言わせれば、これは順序が逆なのです。文字が空間上に一列に並ぶのは、あくまで、その根底にある話し言葉が、時間のなかで一列に展開していく、という性質を、目に見える形に写し取っているからにすぎません。横書きであれ縦書きであれ、右から左へ読む書き方であれ、書き言葉がどのような空間的な配置を採用しているとしても、そこで守られているのは、つねに「どちらが先で、どちらが後か」という、順序そのものです。書き言葉における空間的な線条性は、いわば二次的な現象であり、その土台には、常に、話し言葉における時間的な線条性が横たわっている、という整理です。恣意性が、シニフィアンとシニフィエの結びつき方にかかわる原理であったのに対し、この線条性は、シニフィアンそのものが、どのような形でしか世界に現れえないか、という、いわば記号の「存在の仕方」そのものにかかわる原理だと言えるでしょう。

この二つの原理が、ソシュールの記号論全体の、いわば土台の石として、静かに置かれているのです。ふだん私たちは、話すという行為があまりにも自然に、意識もせずに行われているために、ことばが時間という一本の線に縛られていること自体を、あらためて考えてみることなどありません。

しかし、たとえば外国語を学び始めたばかりの頃、一つの単語をゆっくりと一音ずつ確かめながら発音した経験のある人なら、ことばというものが、いかに厳密な順序に従って、一つずつしか外へ出ていけないものであるかを、身をもって実感しているはずです。この、誰もが当たり前だと思って見過ごしてしまう性質のなかに、言語という体系の骨格そのものが隠れていた、というのが、ソシュールがここで示した、静かでありながら鋭い洞察なのです。

この線条性は、話し手と聞き手のあいだの関係のありようをも、静かに規定しています。聞き手は、話し手が時間をかけて紡ぎ出していく音の連なりを、始めから終わりまで、その順番どおりに辿るようにしてしか、受け取ることができません。絵画を前にした鑑賞者であれば、気になった部分に視線を戻したり、まだ見ていない隅へと先に目を走らせたりと、みずからの意志で眺める順序を選び直すことができますが、生身の発話を耳にする聞き手には、そうした自由がそもそも与えられていないのです。話し手が一つの語を口にし終えるまで、聞き手は次に何が続くのかを、ただ待つことしかできません。録音技術によって音声を巻き戻したり、文字として書き記して後から読み返したりすることは、あくまで、この本来の制約の上に、後から付け加えられた工夫にすぎないのです。

恣意性が、記号と意味の結びつき方という、いわば言語の「内実」にかかわる原理であったのに対し、線条性は、その結びつきが、どのような「容れ物」のなかでしか実現されえないかを定める原理だと言えるでしょう。ソシュールが並べて提示する、この二つの根本原理は、いわば言語という建物を支える、対をなす二本の柱のようなものであり、これから先の章で見ていくことになる、語と語の結びつきのあり方や、意味の成り立ち方そのものの土台として、静かに機能し続けていくことになります。一見、地味で、取り立てて論じるまでもないように見えるこの性質に、あえて一つの章を割いてまで光を当てたところに、目の前の現象を当たり前として素通りせず、その奥に潜む構造を丹念に掘り起こしていく、ソシュールという思想家の姿勢そのものが、よく表れていると言えるでしょう。

第八章 記号の不変性と可変性――誰にも変えられないのに、なぜ変わってしまうのか

記号の恣意性というテーゼから、ソシュールがさらに導き出していく、一見矛盾するかに見える、しかし実は表裏一体である、二つの性質について見ていきましょう。それは、ある時点で、ある言語共同体に課せられた記号は、個人が思いのままに変えることのできない「不変性」と、しかし時間が経てば、言語は必ず、少しずつ姿を変えていってしまうという「可変性」です。一見すると、変えられないはずのものが変わってしまう、という、矛盾した話に聞こえるかもしれません。

しかし、ソシュールに言わせれば、この二つはどちらも、記号が恣意的である、という、まさにその同じ一点から生まれてくる、いわば表と裏の関係にあるのです。まず、不変性について考えてみましょう。なぜ、私たち一人ひとりは、たとえば「犬」という語を、明日から別の音で呼ぶことにしよう、と思い立っても、それを実行に移すことができないのでしょうか。理由は、記号が恣意的だからこそ、そこにあります。もし、シニフィアンとシニフィエのあいだに、何か自然の根拠、たとえば、その生き物の姿かたちそのものが、ある特定の音を必然的に要求している、というような結びつきがあったなら、私たちはその必然性に訴えて、記号のあり方を検証し、場合によっては正当な理由をもって改めることもできたかもしれません。

しかし、その結びつきがまったくの恣意的な取り決めにすぎない以上、それを支えているのは、ただ「昔からそう使われてきた」という、伝統の重みだけです。この伝統という土台を、たった一人の意志で崩すことは、誰にもできません。加えて、言語という体系は、無数の語彙と規則が絡み合った、あまりに巨大で複雑な仕組みであるため、その全体を一人の人間が見渡し、意図を持って改変するということが、そもそも原理的に不可能なのです。誰かが独断で新しい言い方を持ち出しても、共同体の残りの全員がそれに同意し、同じように使い始めない限り、その新しい言い方は、ただの誤用か、独りよがりの思いつきとして、聞き流されて終わるだけでしょう。

実際、綴りや語法をより合理的なものに改めようという、いわゆる正書法改革の試みが、歴史上、幾度となく提案されてきましたが、そのほとんどが、社会全体を動かすだけの合意を取りつけられず、頓挫してきたことも、この不変性の力の強さを裏づけています。ちょうど、ある国の通貨制度を、一人の市民が思いつきだけで勝手に作り替えることができないのと、よく似た事情がそこにはあります。さらに言えば、私たちは誰ひとりとして、まっさらな状態からことばを設計し直す機会など与えられていません。生まれ落ちたときにはすでに、母語という体系がまるごと出来上がっていて、私たちはただ、その既成の体系を、いわば譲り受けるようにして身につけていくだけです。

前の世代から手渡され、次の世代へと手渡していく、その受け渡しの連鎖のなかに、個人が割って入り、勝手に設計図を書き換える余地は、どこにもないのです。ところが、この同じ恣意性が、今度は正反対の効果ももたらします。それが可変性です。記号と意味の結びつきに、これを永遠に守り抜くべき自然の必然性がまったく存在しないからこそ、時間という要素がそこに働きかけると、結びつきはしだいに、少しずつずれていってしまうのです。

このずれには、大きく分けて二つの種類があります。ひとつは、発音そのものが少しずつ移り変わっていく「音韻変化」です。たとえば、古代ローマで宿泊するための場所を意味していたラテン語の「マンシオーネム」という語は、幾世紀もの歳月のあいだに、話者たちの発音が少しずつ簡略化され、擦り減っていくことで、今日のフランス語の「メゾン」、家を意味する語にまで変化しました。もうひとつは、語の指し示す意味そのものが移り変わっていく「意味変化」です。

たとえば、英語の「シリー」という語は、もともと古い時代には、幸福な、神に祝福された、敬虔な、といった、まったく肯定的な意味を持つ語でした。それが、無邪気な、あわれな、といった意味を経て、何世紀もかけてしだいに意味の重心を移していき、現在ではむしろ、愚かな、ばかげた、といった、正反対に近い否定的な意味で使われる語になっています。発音であれ、意味であれ、これを固定しておくべき自然の縛りがどこにもない以上、世代から世代へと言語が受け継がれていくその過程で、少しずつ、しかし確実に、ずれが積み重なっていくのです。ある世代の話者にとっては、ごくわずかなずれにすぎなくても、それが何十世代にもわたって積み重なっていけば、もとの姿はほとんど見分けがつかないほど、遠くまで移り変わっていくことになります。

こうして見てくると、不変性と可変性は、決して矛盾する二つの性質ではないことが分かります。むしろ、恣意性という同じ一つの根っこから、ある一点においては共同体全体にのしかかる強制力として、また時間という流れのなかでは止めようのない変化の芽として、同時に生え出てくる、二つの枝なのです。記号が恣意的であるからこそ、誰にも動かせないほど頑丈でありながら、同時に、誰にも押しとどめられないほど移ろいやすい、というこの逆説こそが、ソシュールが言語という現象のなかに見出した、深い洞察のひとつなのです。個人にはどうにもできないほど固く共同体に課せられていることばが、それでも長い時間の果てには必ず姿を変えてしまう、という、この一見不思議な事実の裏側には、記号と意味とを結びつける、たった一つの単純な性質、すなわち恣意性が、静かに働き続けているのです。

ここで大切なのは、この変化が、けっしてある日突然、一夜にして生じるものではない、という点です。発音のずれも、意味のずれも、つねに、ごくわずかな、気づかれることさえないほど小さな揺らぎが、世代から世代へと、気の遠くなるほど気長に積み重ねられていった果てに、ようやく目に見える変化として現れてくるものにすぎません。

だからこそ、ある一つの時代を生きる話者たちにとっては、自分たちの使っていることばは、あたかも最初から、びくともせず固定されたものであるかのように感じられます。しかし、その足元では、次の世代へと受け渡されていくあいだに、すでに静かな変化の種が、絶えず蒔かれ続けているのです。目の前の一時点だけを切り取って眺めれば揺るぎなく見える体系が、時間という軸に沿って眺め直したとたん、絶え間なく移り変わる流れの一齣にすぎなかったことが分かる、という、この二重の見え方こそ、記号の不変性と可変性が、決して矛盾ではなく、同じ一つの恣意性というコインの、表と裏にすぎないことを、何よりもよく物語っています。

第九章 言語価値――「意味」は、システムの中の位置にすぎない

いよいよここで、ソシュールの理論のなかでも、もっとも独創的で、もっともこの思想全体の核心に触れる概念、「言語価値」、フランス語でヴァルールと呼ばれる考え方に入っていきます。この概念を理解する足がかりとして、ソシュール自身が持ち出すのが、経済学における「価値」という概念との比較です。

たとえば、一枚の硬貨、あるいは一枚の紙幣を思い浮かべてみてください。この硬貨には、いったいどれほどの価値があるのでしょうか。ひとつの答え方は、この硬貨で、どれだけのパンが買えるか、どれだけの品物が買えるか、というふうに、硬貨とはまったく性質の異なるもの、すなわち食べ物や品物という、異質な対象との交換比率によって、その価値を測るという仕方です。

しかし、ソシュールは、これだけでは、硬貨の価値のすべてを説明したことにはならない、と指摘します。この一枚の硬貨の価値は、それと同じ通貨体系のなかにある、他の硬貨や紙幣、たとえば一円玉や千円札といった、同質のもの同士の関係のなかに置かれて初めて、はっきりと定まるものでもあるのです。百円玉の価値は、それがパンとどれだけ交換できるかということだけでなく、十円玉十枚分に相当し、五百円玉の五分の一に相当する、という、同じ貨幣体系の内部における位置関係によっても、規定されているのです。異質なものとの交換と、同質なもの同士の比較、この二つがそろって初めて、一枚の硬貨の価値は、余すところなく定まる、というのが、経済学におけるこの類比の要点です。

ソシュールはここで、語の意味を考えるときにも、これと同じ二つの側面を切り分ける必要があると考えます。ひとつは、ある語のシニフィアンと、それに対応するシニフィエとが、一対一で結びつく、いわば「意味作用」と呼べる側面です。しかし、この意味作用だけを見ていても、その語が言語全体のなかでどのような役割を担っているかは分かりません。もうひとつ、その語を取り巻く、他のすべての語との関係のなかに置いて初めて見えてくる、いわば体系上の値打ちとでも呼ぶべき側面があり、これこそがソシュールの言う「価値」なのです。硬貨がパンと交換できるという事実だけでは、その硬貨が貨幣体系のなかでどれほどの重みを持つ単位であるかが分からないのと同じように、ある語がある概念と結びついているという事実だけでは、その語が言語という体系のなかでどれほどの範囲を担っているかは、まだ分からないままなのです。

言語記号の意味もまた、これとまったく同じ構造を持っている、というのが、ソシュールの主張です。ある語の意味は、その語が指し示している現実の対象、すなわちその語の外側にある実体そのものによって、直接的・実体的に、いわば積極的に定まるのではありません。むしろ、その語の意味は、同じ言語体系のなかに存在する、他のすべての語との「違い」、すなわち差異の網の目のなかに置かれることによって、初めて、相対的・消極的に定まるにすぎないのです。

ここでソシュールが残した、あの有名な一節を紹介しないわけにはいきません。それは、「言語には、積極的な項をいっさい欠いた、ただ差異だけがある」という一節です。ある語の意味は、その語が「何であるか」という、それ自体に内在する積極的な性質によって定まるのではなく、体系のなかで、他の語と「何が違うか」ということによってのみ定まる、という、徹底して関係主義的な言語観が、ここには示されています。

もっとも、この断定的な言い回しについては、実際にソシュール本人が講義でどこまで踏み込んで語ったのか、編者たちの手によっていくぶん先鋭化された可能性があるのではないか、という議論も存在しており、この点については、のちほど、あらためて振り返ることにいたします。この「価値」という考え方を、もっとも鮮やかに示してくれる例が、フランス語の「ムートン」と、英語の「シープ」「マトン」の対比です。フランス語の「ムートン」という一つの語は、生きて牧場を歩いている羊そのものを指すのにも、その羊の肉を調理して食卓に並べる場合にも、どちらにも使うことのできる語です。

ところが英語では、事情が違います。生きている羊を指すときには「シープ」という語を使い、その肉になったものを指すときには、まったく別の語である「マトン」という語を使い分けます。ここで注目すべきなのは、フランス語話者にとっての羊も、英語話者にとっての羊も、現実の世界において指し示している対象そのものは、まったく同じ生き物であり、まったく同じ肉である、ということです。それにもかかわらず、フランス語の「ムートン」という語と、英語の「シープ」という語とでは、その語が担っている「価値」が、微妙に、しかし決定的に異なっているのです。英語の「シープ」は、「マトン」という、肉を指す語がすぐ隣に存在しているからこそ、「生きている動物」という領域だけに、みずからの意味を限定されています。

一方、フランス語の「ムートン」には、この対になる語が存在しないため、生きた動物と肉という、両方の領域を一手に引き受けることになるのです。同じ現実を指していても、その語をとりまく体系のなかに、区別する別の語が存在するかどうかによって、語の担う「価値」そのものが変わってしまう、この事実こそが、意味とは、対象そのものにではなく、体系のなかでの位置、すなわち他の語との差異の関係のなかにこそ宿る、というソシュールの核心的な主張を、何よりも雄弁に物語っているのです。

ここで確認しておくべきなのは、これが単に、フランス語と英語とで、語彙の数がたまたま違う、という程度の話ではない、ということです。もし英語に「マトン」という語がなく、「シープ」一語だけで、生きた羊も肉になった羊もまかなっていたとしたら、その「シープ」という語自体の担う値打ちは、いま私たちが知っているものとは、そっくり違ったものになっていたはずです。語の意味とは、辞書の一項目として、あらかじめどこかに実体として貯蔵されているものではなく、その語を取り囲む、体系全体との関係のなかで、そのつど織り上げられていくものにほかならない、ということが、この一組の対比から、くっきりと浮かび上がってくるのです。

この見方に立つと、ある言語で書かれた文章を、別の言語にそっくりそのまま置き換えることが、なぜあれほど難しいのか、その理由の一端も見えてきます。二つの言語のあいだで、辞書の上では対応関係にあるとされる語どうしであっても、それぞれが属している体系のなかでの位置、すなわち周囲の語との区切り方が異なっている以上、両者がまったく同じ「価値」を担っているという保証は、どこにもないからです。指し示している現実の対象がどれほどよく似ていても、その語が体系のなかでどこからどこまでを引き受けているのか、その境界線の引かれ方こそが、言語ごとに異なる、というこの事実は、意味というものの正体が、対象との対応関係にではなく、あくまで体系内部の差異の網の目のなかにこそある、というソシュールの主張を、あらためて裏づけていると言えるでしょう。

第十章 連辞関係と連合関係――ことばが結びつく、2つの軸

これまで見てきた「言語価値」という考え方は、ある語の意味が、その語が何であるかによってではなく、体系の中で他の語と何が違うかによって定まる、という、いわば言語を「差異の網の目」として捉える視点でした。ここでソシュールは、その網の目がいったいどのような仕組みで織り上げられているのか、その構造そのものにメスを入れていきます。彼によれば、言語記号どうしが互いに関係し合う仕方には、性格のまったく異なる二つの軸があるといいます。一つ目の軸は、実際に発話された言葉の連鎖の中で、前後にきちんと並んで結びつく関係で、「連辞関係」、フランス語で言う「サンタグム」と呼ばれるものです。以前の章で見た、シニフィアンが時間という一本の線に沿ってしか展開できないという「線条性」を思い出していただきたいのですが、この時間の線の上で、語と語が実際に手をつないで並ぶときに生まれる結びつきこそが、まさに連辞関係にほかなりません。

たとえば「読み‐直す」ということばを考えてみましょう。ここでは「読み」という要素と「直す」という要素が、発話という一本の線の上で、実際に前後に並んで結びつくことによって、「もう一度読む」という一つのまとまった意味を作り出しています。同じように「すべての‐人」ということばも、「すべての」という要素と「人」という要素が、現実の発話の中で隣り合って並ぶことによって、初めて一つの意味のまとまりとして機能するのです。これらはどちらも、実際に口に出され、耳に聞こえることばどうしの、現前する組み合わせだという点で共通しています。ソシュールはこれを「イン・プレセンティア」、つまり「現に存在するものどうし」の関係と呼びました。

連辞という軸のおもしろいところは、要素の並び方そのものが意味を作り出す点にあります。「読み‐直す」を「直し‐読む」という順番に入れ替えてしまえば、たとえ同じ二つの要素を使っていても、もはや同じ意味は成り立ちません。要素と要素の組み合わせ方、そして並ぶ順序そのものが、意味を生み出す働きを担っているのです。

ところが、言語記号どうしの結びつきには、これとはまったく違う、もう一つの軸があるとソシュールは指摘します。それが「連合関係」と呼ばれるものです。これは、発話の中には実際には現れていないのに、話し手の記憶の中で、何らかの共通点によって互いに結びつけられ、たがいを連想させ合っている語の集まりのことです。

たとえば「教育」ということばを耳にしたとき、私たちの心の中では、発話には出てこないはずの「教える」「学習」「養成」といった、意味の似通った語の集まりが、いわば背後から静かに立ち上がってくるのを感じるはずです。それだけではありません。「教育」ということばは、意味のうえでの連想とは別に、「体育」「飼育」「訓育」といった、語の形のうえで「育」という要素を共有する語の集まりをも、記憶の中に呼び起こします。

つまり連合関係には、意味の近さによって結びつく集合と、語の形の近さによって結びつく集合という、少なくとも二つの結びつき方がありうるということになります。いずれの場合であっても、これらの語は、いま実際に発話されている文の中には、どれ一つとして姿を現していません。それにもかかわらず、「教育」という一語を選び取り、理解する背後では、こうした連想の集合が、記憶の奥でつねに静かに待機し、その一語を支え、その一語に意味を与え続けているのです。ソシュールはこの関係を「イン・アブセンティア」、つまり「不在のものどうし」の関係と呼び、連辞関係とはっきり区別しました。連辞関係が、いわば布地の横糸のように、発話という時間の流れの上に実際に姿を見せる結びつきであるのに対し、連合関係は、いわば布地の縦糸のように、目には見えない記憶の奥で、語と語を静かに結び合わせている関係だと言えるでしょう。

なお、この「連合関係」という呼び名は、のちにデンマークの言語学者イェルムスレウらによって「パラディグム」、日本語で言う「範列関係」という呼び方に改められ、以後はこちらの呼称のほうが広く定着していくことになります。ソシュールの見立てによれば、言語という巨大な体系全体は、この二つの軸が縦横に組み合わさることによって、初めて一枚の織物のように織り上げられているのです。発話という時間の線の上で語と語が実際に手をつなぐ「連辞関係」という横糸と、記憶の奥でたがいを呼び起こし合う語の集合が支える「連合関係」という縦糸。

この二つが交差する一点一点に、私たちがいま実際に口にしている、一つ一つの具体的なことばが宿っている、というわけです。連辞関係についても、もう一つ具体例を加えておきましょう。「食べ‐過ぎる」ということばも、「食べ」という要素と「過ぎる」という要素が、時間という一本の線の上で実際に前後に並んで結びつくことによって初めて成り立つ、連辞関係の典型例です。要素そのものは単独でも使えるものでありながら、この特定の並び方によって結ばれたときにだけ、「限度を超えて食べる」という、まとまった一つの意味が生まれてくるのです。

一方、連合関係のほうも、もう少し踏み込んで考えてみると、私たちが実際にことばを選び取るという行為そのものを、根っこから支えていることがわかります。たとえば「きょうは晴れです」と言うとき、私たちは「曇りです」でも「雨です」でもなく、あえて「晴れです」ということばを選んでいるわけですが、この選択が意味を持つのは、発話には出てこない「曇り」や「雨」といった語が、記憶の奥で「晴れ」と同じ集合をなし、たがいを比べ合う背景として控えているからにほかなりません。もし「曇り」や「雨」ということばが最初から存在しなかったなら、「晴れです」という一言も、これほど明確な意味を担うことはできなかったでしょう。以前の章で見た、ある語の意味は他の語との違いによって定まるという「言語価値」の考え方が、ここでは、連合関係という具体的な仕組みを通して、実際に働いている様子を見て取ることができるわけです。

連辞関係という、現に発話された語どうしの横のつながりと、連合関係という、記憶の奥に控える語どうしの縦のつながり。ソシュールは、この二つの軸が組み合わさることによってはじめて、私たちがふだん何気なく話しているひとことひとことが、意味を担うことができるのだと考えました。発話には現れなかった無数の語の集合が、いつも背後で静かに控えているのだと思うと、当たり前に使っていることばの奥行きが、あらためて違って見えてくるのではないでしょうか。私たちは日常、ことばを話すときも聞くときも、この二つの軸をいちいち意識することはありません。

けれども、ソシュールがここで示してみせたのは、その意識されない水面下にこそ、連辞と連合という、二つの秩序だった軸が、たえず休みなく働き続けているという事実でした。ことばを話すという、ごくありふれた営みの奥に、これほど精緻な二重の織り目が張りめぐらされていたのだと知ると、私たちが日々当たり前のように行っている「話す」という行為そのものが、にわかに驚くべきものに見えてくるのではないでしょうか。

第十一章 相対的恣意性――純粋な恣意性と、体系内の動機づけ

記号の恣意性というテーゼは、この講義全体を貫く第一原理として、すでにじっくりと見てきたとおりです。シニフィアンとシニフィエのあいだには、自然な必然性など何もなく、両者を結びつけているのは、ただ社会全体の取り決めにすぎない、という、あの原理です。ところがソシュールは、この原理をそのまま素朴に振りかざすのではなく、みずからさらに一歩踏み込んで、精緻化していきます。彼が指摘するのは、すべての記号が、等しく、どこまでも「絶対的に」恣意的なわけではない、という事実です。なかには、体系の中にすでに存在する、他の記号どうしの組み合わせによって成り立っているために、いくぶんか「動機づけられている」、フランス語で言う「モティヴェ」な記号も存在するのだ、とソシュールは言うのです。

この違いを、フランス語の数詞を例に、具体的に見ていきましょう。まず「ヴァン」ということばがあります。これはフランス語で「二十」を意味する語ですが、この語の音の並びと、「二十」という意味とのあいだには、これ以上分解しようのない、純粋な結びつきしかありません。「ヴァン」という一つのまとまりそのものが、丸ごと恣意的に、「二十」という意味に割り当てられているだけであって、この語を、体系の中にあるほかの何らかの既存の記号の組み合わせとして説明することはできません。

ところが、これに対して「ディス・ヌフ」ということばはどうでしょうか。これはフランス語で「十九」を意味する語ですが、よく見てみると、この語は、「十」を意味する「ディス」という語と、「九」を意味する「ヌフ」という語という、体系の中にすでに存在している、二つの既存の記号を、そのまま組み合わせてできあがっていることに気づきます。「ディス」も「ヌフ」も、それ自体としては、なぜその音がその意味を表すのか、まったく理由のない、純粋に恣意的な記号にすぎません。

けれども、「ディス・ヌフ」という語全体は、この二つの恣意的な要素を、体系の規則にしたがって組み合わせることによって成り立っているという点で、まったく無根拠なわけではなく、体系の内部において、いくぶんかの「動機づけ」を与えられていると言えるのです。つまり、「ヴァン」が、体系の外の現実とも、体系の内の他の記号とも、何の脈絡もなく、丸ごと恣意的に割り当てられた記号であるのに対して、「ディス・ヌフ」は、体系の内側にすでにある部品どうしを組み合わせることで、いわば体系そのものによって、ある程度まで「説明のつく」記号になっている、という違いです。ソシュールは、この「相対的な動機づけ」という視点から、言語全体を、一つの連続したスペクトルとして捉え直します。

一方の極には、「ディス・ヌフ」のように、既存の要素の組み合わせによって、体系内的に相対的に動機づけられた語彙が数多く集まる、より文法的・組織的な極があります。もう一方の極には、「ヴァン」のように、これ以上分解できない、個々の語根のような、ほぼ純粋に恣意的な語彙が数多く集まる、より辞書的・語彙的な極があります。実際の言語という体系は、この二つの極のあいだのどこかに位置する、無数の語の集まりとして存在しているのであって、しかも、どの言語も、この二つの極のどちらに重心を置きやすいかについて、それぞれ固有の傾向を持っているのだとソシュールは考えました。

この相対的恣意性という視点は、記号の恣意性という原理を、けっして無効にするものではありません。むしろ逆に、「ディス」も「ヌフ」も、その一つ一つの要素そのものは、根本のところでは、あくまで恣意的な記号でしかないという大前提のうえに、この体系内的な組み合わせの動機づけが、いわば二階建てのようにして積み重なっているのだ、と捉えるべきでしょう。恣意性という土台があってはじめて、その土台の上で、体系が要素どうしを組み合わせることによる、二次的な動機づけが働く余地が生まれてくるのです。記号の恣意性を第一原理として掲げた張本人が、ここであえて、その原理に濃淡や度合いがあることを認めてみせる、というのは、一見すると奇妙な身のこなしのようにも見えるかもしれません。

けれども、これはけっして、みずからの原理を裏切る後退ではなく、むしろ、恣意性という土台の上に、体系の内的な規則性がどのように積み重なっていくのかを、より精密に見つめ直す作業だと理解すべきでしょう。この「ディス・ヌフ」という語の成り立ちは、いわば、すでに出来上がっている二つの部品を、決められた規則にしたがって組み合わせることで、新しい一つの形を作り上げる、ブロック玩具の組み立てにも似ています。「ディス」というブロックと「ヌフ」というブロックは、それぞれ一つずつを取り出してみれば、なぜその形をしているのか、理由を問うことのできない、無根拠な部品にすぎません。

けれども、この二つを、決まった順序で組み合わせるという操作そのものは、体系のルールにきちんと沿ったものであり、まったくの出たとこ勝負ではありません。「ヴァン」という語には、これに類する組み立ての跡がどこにも見られず、丸ごと一つの、いわば特注の一体成型パーツとして、体系の中にぽつんと存在しているのです。この違いに注目すると、私たちがことばを覚えていくときの感覚とも、どこかで響き合うところがあるように思われます。「ディス・ヌフ」のように、すでに知っている部品の組み合わせで理解できることばは、初めて耳にしたときでも、なんとなく仕組みを推測しやすいのに対して、「ヴァン」のように、まるごと一つの塊として覚えるしかないことばは、その音と意味の結びつきを、ただそのまま記憶に刻み込むよりほかに手立てがありません。

ソシュールが示したこの相対的恣意性という視点は、フランス語の数詞という、ごく限られた一角の観察から出発したものでありながら、実はどの言語にも、多かれ少なかれ当てはまる、一般的な物差しになりうるものです。既存の部品を組み合わせて新しい語を作り出す働きが強い言語もあれば、個々の語根をそのまま丸ごと恣意的に割り当てる働きが強い言語もあり、この二つの極のあいだの、どのあたりに重心を置くかということ自体が、それぞれの言語の個性を形づくっているのだと言えるでしょう。数の名前という、私たちがふだん何気なく使っていることばの中にさえ、恣意性という原理と、体系内の組み合わせによる動機づけという、二つの力がせめぎ合いながら共存しているのだと考えると、ことばという体系の織りなす仕組みの精妙さが、あらためて浮かび上がってくるのではないでしょうか。

第十二章 セミオロジー構想――言語学は、より大きな学問の一部にすぎない

ここまで、ラングとパロール、共時態と通時態、シニフィアンとシニフィエ、記号の恣意性、言語価値、連辞関係と連合関係、そして相対的恣意性と、ソシュールは、言語という一つの体系を、実にさまざまな角度から丹念に腑分けしてきました。ところが、この講義の締めくくりに近い部分で、彼は、それまで積み重ねてきた議論の射程を、一気に押し広げるような、ひときわ野心的な構想を語り出します。それが「セミオロジー」、日本語で言う「記号学」という構想です。

この名前は、ソシュール自身が提案したもので、「記号」を意味するギリシャ語の「セーメイオン」に由来しています。ソシュールが思い描いていたのは、言語という一つの記号体系だけにとどまらず、人間の社会に存在する、ありとあらゆる「記号」というものを、一つの大きな学問のもとに研究する、いまだこの世に存在しない、未来の学問でした。考えてみれば、私たちの社会は、ことば以外にも、実にさまざまな記号のしくみで満ちあふれています。

たとえば、結婚式や葬儀といった「儀礼」の作法、テーブルマナーのような「礼儀作法」、軍隊が用いる旗や信号による「合図」、目の不自由な人々のための「点字」――これらはどれも、ある一定の形式(シニフィアン)が、社会の取り決めによって、ある一定の意味(シニフィエ)と結びつけられているという点で、言語記号とまったく同じ構造を持った、記号のしくみだと言えます。ソシュールは、こうした記号のしくみすべてを研究対象とする、より大きな学問領域が、いずれ成立するはずだと見通していました。

そして、その未来の学問全体のなかで、言語学がどのような位置を占めるべきかについても、ソシュールは、はっきりとした見通しを示しています。数ある記号体系のなかでも、ことばという体系は、もっとも複雑で、もっとも精緻に組織化されており、しかも、人類のあらゆる社会に、もっとも広く行き渡った記号体系である、というのがソシュールの見立てでした。

だからこそ、言語学こそが、これから生まれてくるはずのセミオロジーという学問全体にとって、いわば模範となるべき「一般的なパターン」の役割を果たすべきなのだ、とソシュールは考えたのです。つまり、儀礼の記号であれ、合図の記号であれ、それらを研究しようとする者は、まず、言語というもっとも発達した記号体系がどのように機能しているのかを手本にすれば、ほかのあらゆる記号体系を分析するための、共通の方法論を手に入れることができるはずだ、というわけです。なぜ、数ある記号体系のなかでも、よりによって言語が、その手本の役割を担うべきだとソシュールは考えたのでしょうか。その理由は、これまで見てきた言語という体系の性格そのもののなかにあります。

記号の恣意性、線条性、そして言語価値というしくみを通して、私たちがすでに確認してきたように、言語という体系は、数ある記号体系のなかでも、要素どうしの関係と差異だけによって織り上げられた、もっとも純粋で、もっとも徹底した形の記号体系だと言えます。儀礼や作法、あるいは軍隊の合図といった記号体系は、しばしば、身ぶりや道具といった、何らかの実質的な要素に頼らざるをえない部分を残していますが、ことばという体系は、これまで見てきたとおり、ほとんど純粋に、差異の関係だけによって成り立っています。

だからこそ、言語という体系をまず精密に分析しておけば、そこで磨かれた視点や方法を、ほかのあらゆる記号体系へと、応用の利く形で広げていくことができるはずだ、というのが、ソシュールの見通しだったのです。当時の言語学の主流は、あくまで、個々の言語が歴史のなかでどう変化してきたかを、地道に跡づける歴史比較言語学であり、儀礼や身ぶり、点字といった、ことば以外の記号体系にまで視野を広げ、それらを言語学と同じ枠組みで論じようとする発想は、あまりにも早すぎる、突飛な思いつきとしか映らなかったのも無理はありません。

この構想は、講義がおこなわれた当時、そしてこの本が世に出た1916年の時点では、ほとんど注目されることのない、いわば時代に先駆けすぎた、埋もれた提案にすぎませんでした。ところが、それから半世紀ほどが過ぎたころ、この構想は、思いもよらない形で、大きく花開くことになります。フランスの文芸・文化批評家ロラン・バルトをはじめとする研究者たちが、広告写真やファッション、流行歌といった、現代の大衆文化そのものを、まさに一つの巨大な「記号のしくみ」として読み解いていく、「記号論」と呼ばれる研究の潮流を築き上げていったのです。興味深いのは、ソシュール自身は、この「セミオロジー」という学問の中身を、具体的にみずから作り上げることはなかった、という点です。

彼が講義のなかで語ったのは、あくまで、こうした学問がいつか成立するはずだという、輪郭だけの見取り図にすぎませんでした。いわば、まだ建てられていない建物の設計図を、ごく大まかにスケッチしただけで、ソシュール自身は世を去ってしまったのです。だからこそ、この構想は、当時の読者にとっては、あまりにも漠然とした、実体のつかみにくい提案に映ったのでしょう。この記号論という流れは、ソシュールに由来する系譜だけでなく、アメリカの哲学者チャールズ・パースに由来する、もう一つ別の記号研究の系譜とも合流しながら、20世紀後半の人文知のなかで、大きな存在感を放つようになっていきました。言語という一つの体系を分析するために磨き上げられた、シニフィアンとシニフィエ、恣意性、差異といった一連の道具立てが、いわば万能の鍵のように、広告写真の構図から、洋服の着こなし、流行歌の歌詞にいたるまで、ありとあらゆる社会的な記号のしくみを開けてみせる場面を、私たちは20世紀後半の人文知のなかに、数多く見出すことができます。

ジュネーヴの教室の片隅で、講義の締めくくりとして、いわば思いつきの余談のように語られたにすぎなかった、この「セミオロジー」という、ごく短い一節が、半世紀の時を経て、広告の写真一枚、雑誌のファッションページ一枚にまで、意味の網の目を読み取ろうとする、壮大な知の運動の出発点になっていった、というこの経緯そのものが、ソシュールという人物の思考が、いかに時代を先取りしていたかを、何よりも雄弁に物語っていると言えるのではないでしょうか。ことばという体系を分析するために編み出された道具立てが、ことばの外側に広がる、社会のありとあらゆる記号を読み解くための鍵にもなりうるのだという、この見通しの射程の大きさこそ、この講義が単なる一言語学の教科書にとどまらず、20世紀の知全体を揺り動かす一冊になった、大きな理由の一つなのです。

第十三章 「形式であって実質ではない」――言語というシステムの抽象性

前章では、ソシュールが思い描いた「セミオロジー」という壮大な構想を見てきましたが、この構想全体を、根底で静かに支えている、もう一つの、けっして見過ごすことのできない原理について、この章では、じっくりと腰を据えて考えてみたいと思います。それは、「言語とは、形式であって実質ではない」という、一見すると禅問答のようにも聞こえる、しかし『一般言語学講義』全体を最後まで貫いている、きわめて重要なテーゼです。ソシュールがここで言う「実質」とは、たとえば、声帯の震えによって生み出される、あの物理的な音そのもの、あるいは紙の上に記された、あのインクの染みとしての文字そのもの、紙質や筆跡やフォントの違いといった、感覚に直接与えられる、具体的な素材のことを指しています。

これに対して「形式」とは、そうした素材そのものではなく、素材と素材のあいだに成り立つ、純粋な関係、つまり、これまでの章でくり返し確認してきた「差異」のネットワークのことにほかなりません。ソシュールは、言語という体系の本質は、まさにこの形式のほうにあるのであって、実質のほうにはない、と言い切るのです。考えてみれば、同じ「ありがとう」という一語も、大声で叫ばれようと、ささやくように発せられようと、あるいは、丁寧な楷書で紙に書かれようと、癖のある走り書きで記されようと、そのつど物理的な実質はまるで違っています。

それでも、私たちがそれを同じ一つの語として認識できるのは、その語が、体系のなかで他の語との関係のなかに占める、ただ一つの位置――「ありがとう」であって「おはよう」でも「さようなら」でもない、という差異の網の目のなかでの位置――が、寸分違わず保たれているからにほかなりません。ソシュール自身も、講義のなかで、これとよく似た例を、文字そのものを使って示しています。アルファベットの「t」という一文字は、几帳面な楷書体で書かれようと、崩した筆記体で書かれようと、あるいは活字の書体で組まれようと、そのつど線の形はまるで異なります。

それでも、私たちがそれを同じ「t」だと認識できるのは、その文字が持つ絶対的な形そのものによってではなく、ただ、それが「l」でも「f」でもない、他のアルファベットとは違う、というその一点、つまり差異が保たれているからにほかならない、とソシュールは指摘するのです。

ここで、あの有名なチェスの比喩も、ふたたび登場します。チェスの駒が、象牙で彫られていようと、木を削って作られていようと、あるいは、なにかの事情で欠けてしまった駒の代わりに、ボタン一つを置いて代用しようと、ゲームとしてのチェスの進行には、いっさい影響がありません。なぜなら、チェスというゲームにおいて意味を持つのは、その駒が「ナイトである」「ルークである」という、他の駒との関係のなかで占める位置と役割だけであって、その駒がどんな素材でできているかという、物理的な実質のほうは、まったくどうでもよいことだからです。ソシュールは、これとよく似た例として、毎朝運行される、ジュネーヴ発パリ行きの、あの急行列車のことも引き合いに出しています。

その列車を牽引する機関車も、連結される客車も、乗務にあたる乗務員たちも、実際には日によってすっかり入れ替わっているにもかかわらず、私たちは、それを迷うことなく「同じ列車」として扱い続けます。なぜなら、その列車の同一性を成り立たせているのは、機関車や客車という物理的な実質ではなく、発車時刻や運行経路といった、時刻表全体のなかでのただ一つの位置、つまり関係のほうだからです。言語という体系についても、まったく同じことが言えるとソシュールは考えます。ある語のシニフィアンが、実際にどのような音として発音されるか、その物理的な音波の細かな性質そのものは、言語体系にとって本質的な問題ではありません。本質的なのは、その語が、体系のなかの他のすべての語と、どのような関係=差異の網の目を形づくっているか、という一点だけなのです。

この考え方を突き詰めていくと、驚くべき帰結が導かれます。言語という体系そのものは、原理的には、話し言葉という、あの空気の振動としての音声実質から、完全に切り離しても、なお記述し、研究することができるはずだ、という立場です。関係だけを取り出して純粋に扱うことができるのであれば、その関係を担う媒体が、声であろうと、身振りであろうと、あるいは、まったく別の何かであろうと、理論上はかまわないことになるからです。言い換えれば、言語という体系にとって本当に大切なのは、素材という「入れ物」ではなく、その入れ物のなかで組み上げられている、関係という「設計図」のほうなのだ、とソシュールは考えていたことになります。

実際、私たちの身のまわりには、これを裏づけるような体系がいくつも存在しています。目の不自由な人々のための点字は、指先で触れる、小さな凹凸というまったく別の実質を使いながら、文字が担っていたのと同じ差異の関係を、みごとに移し替えていますし、手や指の動きだけで意味を伝え合う手話もまた、音声という実質にはいっさい頼ることなく、独自の関係の網の目によって、豊かな言語体系を作り上げています。ソシュールが提示した「形式であって実質ではない」という原理は、こうして、音声言語という一つの実質を超えて、およそ意味を担いうるすべての体系に、広く当てはまりうる、射程の長い原理であったことがわかります。

この抽象性へのこだわりこそが、のちに、プラハ学派やレヴィ=ストロースといった、まったく異なる分野の研究者たちが、ソシュールの発想を、音声という枠を超えて、さまざまな体系へと応用していくことを可能にした、決定的な足がかりになっていくのですが、それはまた別の章で、じっくり見ていくことにしましょう。ただし、ここで一つ、心に留めておいていただきたい、興味深いねじれがあります。ソシュールは、理論的には、言語を実質から切り離して抽象的に扱うことができると考えながらも、この講義そのもののなかでは、話し言葉、つまり音声言語こそが、言語学が研究すべき本来の対象であり、文字言語のほうは、あくまでその音声を書き写すための、二次的な道具、いわば「写し」にすぎないと、はっきりと位置づけているのです。

声はいわば言語の本体であり、文字はその影にすぎない、というこの序列づけは、当時としてはごく自然な前提のように受け止められていたのですが、実は、この一見何気ない一節にこそ、のちに、ある一人のフランスの哲学者によって、鋭く突きつけられることになる、根源的な批判の芽が、すでに静かに潜んでいたのです。点字や手話の例が示していたように、もし文字もまた、音声とは独立に、それ自体で一つの差異の体系を作りうるのだとしたら、それをはじめから音声の二次的な写しにすぎないと決めつけてしまってよいのか――この講義そのものが打ち立てた「形式であって実質ではない」という原理の徹底が、皮肉にも、この講義自身の音声偏重の姿勢を、内側から静かに揺るがしかねない種を、すでに宿していたことになります。

形式を重んじ、実質を軽んじると言いながら、話し言葉という一つの実質だけを、なぜか特別に優遇してしまう――この講義に内在する、小さな、しかし見過ごせない緊張を、まずはここで、そっと心に留めておいていただければと思います。

第十四章 秘められたもう一つの研究――アナグラム、あるいはソシュールの「もう一つの顔」

前章で見た「形式であって実質ではない」という原理は、あくまで、ソシュールが公の場で、学生たちに向けて語った理論でした。ですが、この同じ人物の生涯には、公表された理論とはまったく別に、誰にも語られることのないまま、何年にもわたって、ほとんど執念と呼んでもよいほどの情熱を注ぎ込んでいた、もう一つの研究がありました。それが、この章で見ていく「アナグラム研究」、当時のソシュール自身の言葉では「下綴語」、のちの研究者たちのあいだでは「イポグラム」とも呼ばれることになる、奇妙な探求です。「アナグラム」とは、もともとは、一つの語を構成する文字を並べ替えて、別の語を作り出す言葉遊びを指す名称ですが、ソシュールが探し求めていたのは、これよりもさらに複雑な仕掛けでした。

単に文字を並べ替えるのではなく、長い詩句全体のなかに、ある語を構成する音の断片が、順序もばらばらのまま、いくつもの行にまたがって散らばっている――そうした、より大がかりで、より捉えどころのない構造だったのです。時期にしておよそ1906年から1909年ごろにかけて、舞台となったのは、古代ローマの、まだ後世の韻律法則が確立する以前の、素朴な響きを持つ「サトゥルヌス調」と呼ばれる詩や、あるいはホメロスの叙事詩、さらにはラテンの詩人たちの作品でした。「サトゥルヌス調」とは、ギリシャの精緻な韻律理論がローマに輸入されるよりも前、古代ローマに固有の響きとして用いられていた、素朴で古拙な詩形のことで、その規則性がいまだ十分に解明されていない、謎めいた詩の形式でもありました。

ソシュールは、これらの詩句を、文字どおり何百、何千という行にわたって、丹念に読み込みながら、あることに気づき始めます。詩の表面をなぞって読んでいるだけでは決して見えてこない、もう一つの層――詩句のなかに、ある特定の人名や神名、あるいはテーマとなる語が、一つのまとまった単語としてではなく、いくつもの音節にばらばらに分解された姿で、行のあちこちに、まるで意図的に埋め込まれたかのように、散りばめられているように見える、という発見でした。

たとえば、ある神を讃える詩であれば、その神の名を構成する音の断片が、詩句の随所に、ひそかに織り込まれているのではないか――ソシュールは、こうした仮説のもとに、来る日も来る日も、大量のノートに、詩句と、そこから抽出した音節の対応関係を、几帳面な文字で書きつけ続けました。教壇で「一般言語学」を語っていた、あの理知的なソシュールとは別に、自宅の書斎で、夜な夜な一人机に向かい、古代の詩句のなかに、誰にも見せることのない秘密の模様を探し続ける、もう一人のソシュールが、たしかにそこにいたのです。実際、のちに彼の遺品のなかから見つかったノートの束は、優に百冊を超える分量にのぼったと伝えられています。

この探求に取り憑かれるあまり、ソシュールは、同僚であり教え子でもあったアントワーヌ・メイエや、友人のレオポルド・ゴーティエにあてて、たびたびこの発見について書き送り、さらには、当時まだ存命だった、イタリアの詩人ジョヴァンニ・パスコリ本人にまで、みずから手紙を書き送っています。ある詩句に見られる技巧的な細部は、まったくの偶然によるものなのか、それとも、詩人が意識的に、意図をもって仕込んだものなのか――ソシュールは、生きている当の作者にじかに問いただすことで、自分の仮説に、なんとか客観的な裏づけを得ようとしたのです。

ですが、この直接の問いかけに対して、納得のいく明確な答えが返ってくることはなく、この研究は、ソシュール自身の生前に、まとまった論文として発表されることは、ついに一度もありませんでした。それどころか、彼はこの研究のことを、ごく親しい一部の相手に、断片的に打ち明けた以外は、ほとんど誰にも語らないまま、1909年ごろを境に、みずから筆を置き、沈黙を守り続けたのです。ある意味で、この探求は、ソシュールという人物の思考の癖そのものを、そのまま映し出してもいました。彼は、若き日に印欧祖語の母音体系を再建したときと同じように、表面にはけっして現れていない、隠れた規則性を、丹念な観察と推論とによって掘り当てようとする、生来の体系家だったのです。

ただし、若き日のあの音韻の再建は、のちにヒッタイト語という、まったく予期していなかった物的証拠によって、鮮やかに裏づけられることになったのに対し、古代の詩句のなかに人名を見出すという、この探求のほうは、それを客観的に裏づける手立てを、ついに見出すことができませんでした。この沈黙の背景には、単なる遠慮以上の、切実な理由があったと考えられています。研究を進めれば進めるほど、ソシュールは、自分がいま見出しつつあるパターンが、詩人によって本当に意図的に仕込まれた仕掛けなのか、それとも、大量の文字の連なりのなかに、たまたま偶然として現れているだけの、単なる見せかけの一致にすぎないのか、みずから確信を持てなくなっていったと伝えられています。

あれほど厳密に、体系的に思考を組み立てることのできた学者が、これほどまでに慎重に、みずからの発見を封印し続けた、ということ自体が、この研究の持つ、ただならぬ切実さを物語っています。この研究がふたたび日の目を見るのは、ソシュールの死から半世紀近くを経た、1960年代のことです。批評家のジャン・スタロバンスキーが、遺されていた大量の手稿ノートのなかに、この知られざる研究の全貌を見出し、まず1964年に、その一部を専門誌の外でも読める形で紹介し、そして1971年、『語のもとの語――フェルディナン・ド・ソシュールのアナグラム』としてまとめ上げ、広く世に知らしめました。

この発見は、当時の言語学界に、静かな衝撃を与えました。構造主義の担い手の一人であったロマン・ヤコブソンは、これを単なる年老いた学者の気まぐれな妄想として片づけることなく、みずから「輝かしい直観」であると評したと伝えられており、ソシュールの知られざるもう一つの探求は、こうして半世紀の沈黙を破り、ふたたび光を当てられることになったのです。

もっとも、この発見が与えた影響は、手放しの称賛だけではありませんでした。のちに統計学的な手法を用いて、この仮説を検証しようと試みた研究者たちのあいだでは、ソシュールが見出したとされる音節のパターンが、単なる偶然の域を超えて、統計的に有意な形で存在するとまでは言い切れない、とする慎重な見方も根強く残っており、この探求そのものの評価は、今日にいたるまで、なお定まってはいません。この逸話が、私たちの心に、静かなざわめきを残すのは、そこに、あまりにも対照的な、二つの顔が同居しているからです。片方の顔――『一般言語学講義』の顔――は、シニフィアンとシニフィエの結びつきに、いかなる自然の必然性もなく、そこにあるのは、社会が取り決めた、まったくの恣意にすぎないと、堂々と説き、20世紀の知のありようそのものを塗り替えました。

しかしもう片方の顔――誰にも見せることのなかった、あの大量のノートの顔――は、詩句という言葉の連なりのなかに、偶然ではありえない、誰かが意図して埋め込んだはずの、隠された必然のパターンを、来る日も来る日も、執念深く探し求め続けていたのです。記号と意味との結びつきに必然性などない、と言い切った当人が、私的には、言葉の奥に必然の意匠を見出そうとして、生きた詩人本人にまで手紙を書き送り、それでも疑い、苦しみ、そして最後まで、答えを出せないままに筆を置いた――この矛盾めいた緊張のなかにこそ、一人の天才の頭脳の、もっとも人間くさい部分が、はしなくも姿を現しているように思われてなりません。

第十五章 構造主義の誕生――プラハ学派から人類学、精神分析へ

前章では、ソシュール自身の内面に潜んでいた、体系への信頼と、体系そのものへの懐疑という、二つの相反する顔を見てきましたが、この章では、視点をふたたび公の思想史の舞台に戻し、ソシュールが世を去ったのちに、彼の発想がどのように受け継がれ、そして大きく花開いていったのか、その広がりを追いかけてみたいと思います。ソシュールの教えを、もっとも直接的に受け継ぎ、発展させたのは、1926年、言語学者ヴィレーム・マテジウスを中心に、当時のチェコスロヴァキアの首都プラハで旗揚げされた、「プラハ言語学サークル」と呼ばれる研究者集団でした。

この集団には、かつてジュネーヴでソシュールやバイイに直接学んだ経験を持つ、ロシア出身の言語学者セルゲイ・カルツェフスキーも名を連ねており、彼を一つの結び目として、ジュネーヴの教室で語られた発想が、プラハへと橋渡しされていった、という経緯も伝えられています。そしてこのサークルのなかでも、とりわけ中心的な役割を果たしたのが、ニコライ・トルベツコイと、ロマン・ヤコブソンという、二人の言語学者でした。彼らは、ソシュールが提示した「言語とは差異の体系である」という発想を、音そのものの研究へと、具体的な形で応用していきます。それまでの音声学が、もっぱら、人間の口や喉がどのような物理的な音を作り出すか、という実質面にばかり注目していたのに対し、彼らが切り拓いた「音韻論」は、ある言語の体系のなかで、意味の違いを生み出すのに役立っている音の対立だけを取り出し、それを「音素」という単位として捉え直すという、まったく新しい視点を打ち立てたのです。

ある音とある音が、物理的にどれほど似ていようと違っていようと、その言語の体系のなかで、意味を区別する働きを担っていなければ、同じ音素とみなされる――これはまさに、実質ではなく形式に、そして同一性ではなく差異にこそ本質を見るという、ソシュールの発想そのものの、みごとな具体化にほかなりませんでした。ここには、ある種の因縁めいた反復も見られます。トルベツコイは、1938年、48歳の若さで急逝してしまうのですが、彼の音韻論を集大成した主著『音韻論の原理』が刊行されたのは、その翌年、1939年のことでした。著者自身が世を去ったのちに、遺された仲間たちの手によって、その理論がようやく一冊の書物としてまとめ上げられていく、という成立の経緯は、まさに、バイイとセシュエという教え子たちによって遺稿とノートから編み直された、あの『一般言語学講義』そのものの運命と、奇妙なまでに重なり合っています。

この「差異の体系」という発想は、やがて、言語学という一つの学問領域の枠を、大きく踏み越えていくことになります。フランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースにとって、決定的な転機となったのが、第二次大戦中、亡命先のニューヨークで、ほかならぬロマン・ヤコブソンその人と出会い、意気投合したという出来事でした。ヤコブソンから直接教えを受けたプラハ学派の音韻論の手法に触発される形で、レヴィ=ストロースは、世界各地の諸民族に見られる、複雑きわまりない親族関係の規則や、一見すると荒唐無稽にも思える神話の数々を、ばらばらの雑多な事象としてではなく、ソシュール的な二項対立の組み合わせからなる、一つの体系として読み解けるのではないか、という壮大な仮説のもとに、構造人類学と呼ばれる新しい学問領域を切り拓いていったのです。

人類学者が、婚姻や親族名称の規則を、あたかも一つの言語であるかのように読み解いていく、というこの発想の転換は、当時の学界にとって、大きな驚きをもって迎えられました。それまで、諸民族の風習は、それぞれの土地に固有の、雑多な慣習の寄せ集めとして記述されるのがふつうでしたが、レヴィ=ストロースは、その奥底に、ちょうど音素の体系のように、限られた対立の組み合わせから、無数のバリエーションを生み出す、普遍的な論理が働いているのではないか、と考えたのです。

またほぼ同じ時期、精神分析家のジャック・ラカンは、1953年のローマでの講演を出発点に、「無意識は言語のように構造化されている」という、彼を象徴する有名なテーゼを掲げ、シニフィアンとシニフィエの関係を、フロイトの精神分析理論を読み直すために、独自の仕方で読み替えていきます。興味深いことに、ソシュール自身の実の息子であるレーモン・ド・ソシュールもまた、医学からフロイトの精神分析へと進み、スイスにおける精神分析運動の草分けの一人となった人物でした。父の紡いだ言語理論と、精神分析という新しい学問とのあいだに、思いがけない形で血のつながりが生まれていた、というこの事実も、言語学と精神分析とが、決して無縁の領域ではなかったことを、静かに物語っています。

ラカンによるこの講演をはじめとする一連の仕事は、のちに1966年、『エクリ』という浩瀚な著作集としてまとめられることになりますが、そこで示された、人が発する症状や夢や言い間違いのなかにも、当人の意識には決して還元できない、シニフィアンどうしの連鎖という、言語的な構造が働いているのだという読み替えは、精神分析という学問そのもののあり方を、大きく揺さぶることになりました。さらに、文芸批評家であり文化批評家でもあったロラン・バルトは、かつてソシュールが講義の締めくくりに、いまだ存在しない未来の学問として夢見た「セミオロジー」という構想を、実際に手に取って動かし始めた人物の一人でした。バルトは、1957年に発表した『神話作用』のなかで、広告のポスターや、ファッション雑誌の誌面、はやりの流行歌といった、当時の学問の対象としてはほとんど顧みられることのなかった、日常のありふれた大衆文化の一つ一つを、ソシュール的な記号の体系として読み解いていったのです。

パンやワインといった食品の広告から、映画のポスター、プロレスの試合の一挙一動にいたるまで、あらゆる大衆文化の一片が、それ自体で意味を発する記号として読み解かれていく、というバルトのまなざしそのものが、ソシュールの蒔いた種の、思いがけない開花であったと言えるでしょう。

こうして、一介の大学教授が、ジュネーヴの教室でひっそりと語った、三度きりの講義から出発した発想は、言語学、音韻論、人類学、精神分析、文化批評という、まったく異なる複数の分野を、国境と亡命の経験まで飛び越えながら横断し、20世紀後半の人文・社会科学全体を大きく覆っていく、「構造主義」という、一つの巨大な思想潮流へと結実していくことになったのです。興味深いのは、言語学者、人類学者、精神分析家、文化批評家という、これほど出自の異なる書き手たちのあいだに、あらかじめ組織立った連携があったわけではない、という点です。彼らはそれぞれ、自分自身の関心と手法にしたがって、独立に思考を進めていっただけなのですが、その根っこをたどっていくと、ジュネーヴで語られた、たった一つの発想――意味とは実体にではなく差異の関係のなかに宿る、という、あの静かな洞察に行き着いてしまう。

「構造主義」という呼び名そのものも、当事者たちが最初から掲げていた旗印というよりは、のちになって、この一連の広がりを振り返った人々によって、事後的に与えられた名前だった、という側面が強くあります。

第十六章 脱構築という応答――デリダによる批判、そしてその後

さて、ここまで見てきたソシュールの理論は、二十世紀の後半に入ると、思いがけない方向から、鋭い批判にさらされることになります。一九六〇年代後半、フランスの哲学者ジャック・デリダは、一九六七年に発表した著書『グラマトロジーについて』のなかで、ソシュールの言語学そのものの根幹に、するどい刃を突き立てました。デリダが問題にしたのは、これまで見てきた通り、ソシュールが、話し言葉をこそ言語学の本来の対象と定め、文字言語のほうは、あくまでその「二次的な写し」、いわば話し言葉の影のようなものにすぎない、と位置づけていた、あの立場そのものです。デリダに言わせれば、これは単なる、言語学上の一つの方法論的な判断にとどまるものではありません。

話す声、生きた声のほうを、書かれた文字よりも優位に置こうとする、この身振りそのものが、実は、プラトン以来の西洋哲学の全体を、ひそかに、しかし一貫して貫いてきた、根深い偏見のあらわれにほかならない、というのです。デリダは、この偏見を「音声中心主義」、あるいはより大きく、理性や言葉(ロゴス)を中心に据えて世界を組み立てようとする姿勢そのものを指す「ロゴス中心主義」と名づけました。声によって語られたことばは、話し手の心のなかにある考え、その「真理」に、直接触れているかのように感じられる。

ところが文字は、その声を、あとから書き写した、間接的な代用品にすぎない――そう見なす発想が、実は、プラトンからルソー、そしてソシュールに至るまで、絶えることなく繰り返されてきた、というのがデリダの見立てでした。そして、ここからがデリダの議論の、もっとも興味深いところです。デリダは、ソシュールその人が打ち立てた「差異」の理論を、いわば逆手に取り、これをさらに徹底させることによって、みずからの思想の中心となる、ある新しい概念を作り上げていきます。それが「差延」、フランス語で「ディフェランス」と呼ばれる概念です。ソシュールは、言語のなかには積極的な実体は何もなく、ただ他との「違い」だけがある、と説きました。

デリダは、この「違い」ということそのものに、もう一つの意味を重ね合わせます。フランス語の「ディフェレ」という動詞には、「異なる」という意味だけでなく、「先延ばしにする」という意味もあるのです。デリダによれば、意味というものは、この二重の運動――他との違いによって成り立つと同時に、その確定が絶えず先へ先へと延期され続けるという運動――のなかに置かれています。ある語の意味を確かめようとして辞書を引いても、そこにあるのは、また別の語による説明にすぎず、その語の意味を確かめようとすれば、さらに別の語へとたどっていかなければならない。

この連鎖には、終わりがありません。意味は、けっして、これ以上さかのぼる必要のない、最終的で安定した「現前」――今ここに、まるごと満たされた形で立ち現れる何か――には到達せず、常に、次のことばへと先送りされ続ける。そして、この新しい造語そのものにも、デリダらしい仕掛けが施されていました。「ディフェランス」というつづりは、本来のフランス語の正書法にある「ディフェランス(違い)」という語の、真ん中の綴り字を、eからaへとひそかに置き換えたものです。

ところが、この綴りの違いは、声に出して発音するかぎり、まったく聞き分けることができません。目で文字を追ったときにだけ、初めてその違いが見えてくる、いわば「耳には聞こえず、目にだけ映る」差異なのです。声の優位を疑うための概念そのものが、声では伝わらず、書かれた文字によってしか成り立たない、という、なんとも皮肉な仕掛けを、デリダはここに忍び込ませていたことになります。デリダは、ソシュールが差異の体系として描き出した言語の姿を、いわばさらに一段深く掘り下げることで、この、けっして閉じることのない、終わりなき差異の運動を、あぶり出してみせたのです。

さらにデリダは、話し言葉と書き言葉という、あの対立そのものを、根底から掘り崩していきます。よく考えてみれば、話し言葉もまた、前後の文脈から切り離されても意味を保ち、何度でも反復して用いることができ、そのつど何かを差し向けながら、同時に何かをずらしていくという、私たちがふつう「書くこと」に結びつけて考えている性質を、あらかじめ帯びているのではないか。デリダは、こうした、差異・反復可能性・空間化といった性質のほうを、むしろより根源的な「エクリチュール」――狭い意味での文字にとどまらない、広い意味での「書くこと」――と呼び、話し言葉さえも、この根源的なエクリチュールが生み出す一つの効果にすぎない、と論じました。

声こそが、書かれた記号よりも先に、あるがままの意味に近づいているのだ、という前提そのものが崩れてしまえば、話し言葉を優位に置くソシュールの立場も、その足場を失わざるをえません。デリダにとって、声と文字のどちらが先か、どちらが本物かという問いの立て方そのものが、すでに間違っていたことになります。両者はいずれも、痕跡(トレース)と呼ばれる、より根源的な運動が生み出す、いわば二つの現れ方にすぎない、というわけです。

もっとも、この批判がそのまま無条件に受け入れられてきたわけではありません。ソシュールを丁寧に読み直す言語学研究者たちのなかからは、デリダの読解に対する、対抗的な指摘も、根強く出されてきました。ソシュールが実際に述べていたのは、あくまで、話し言葉を言語学という一つの学問の、方法論的な出発点として選び取る、という限定された判断にすぎなかったのではないか。それを、西洋の形而上学全体を覆う「ロゴス中心主義」という、はるかに大きな哲学的診断にまで一気に広げてしまうのは、いささか論点を誇張し、単純化しすぎているのではないか――そうした反論です。実際、ソシュール自身は、文字言語をまったく無価値なものと切り捨てていたわけではなく、あくまで研究対象を絞り込むための、方法上の優先順位を語っていたにすぎない、と読むこともできます。

もしそうだとすれば、デリダは、一人の言語学者が、自分の学問の対象を定めるために下した、いわば実務的な線引きを取り上げて、そこに西洋哲学二千年分の重みを背負わせすぎている、ということにもなりかねません。この応酬そのものが、じつに示唆的です。というのも、ソシュールの体系を批判することによって生まれた「脱構築」という思想の身振りもまた、皮肉なことに、ソシュールという同じ一つの源泉から分かれ出た、もう一つの支流にほかならないからです。もしソシュールが、あれほど徹底して、意味とは実体にではなく差異の関係のなかにしか宿らない、と説いていなければ、デリダが、その差異という発想を、みずからの手でさらに先へ、際限のない先送りの運動にまで押し広げることも、そもそもありえなかったはずです。

構造そのものの限界を、構造の内側から問い直そうとする「ポスト構造主義」という潮流全体が、まさにこの意味で、ソシュールなくしては生まれえなかった、彼の遺産の、もう一つの継承の仕方だったと言えるでしょう。ソシュールが開いた「差異」という扉は、彼自身が思い描いていた以上に遠くまで、その後の思想を連れ出していったのです。

【独自の視点】このチャンネルとしての批判的検討

ここまで、フェルディナン・ド・ソシュールという一人の学者が遺した講義録を、ずいぶんと丁寧にたどってきました。ですが、この番組では、紹介した思想をただそのまま持ち上げるだけでは終わりません。ここからは、いま見てきた『一般言語学講義』という一冊そのものに対して、後世の研究者たちがどのような疑問を投げかけてきたのかを、四つの角度から、じっくりと見ていきたいと思います。

まず何よりも踏まえておかなければならないのは、第二章で確認した、この本の成立事情そのものの重みです。私たちがこれまで「ソシュールの理論」として紹介してきたものの少なからぬ部分は、実のところ、ソシュール本人が実際に語った肉声そのものではなく、彼の講義に一度も出席していなかった二人の編者、シャルル・バイイとアルベール・セシュエが、学生たちの筆記ノートだけを頼りに再構成した、いわば「編集された姿」なのです。

この点をめぐっては、後年、本格的な文献学的検証が行われています。スイスの言語学者ロベール・ゴデルは、一九五七年、現存する学生たちの手書きノートそのものを丹念に洗い直す研究を発表し、さらにルドルフ・エングラーは、一九六七年から七四年にかけて、公刊された『講義』の本文と、その典拠となったノートの原文とを、一行ずつ並べて対照するという、気の遠くなるような校訂版を完成させました。ページを開けば、片側に公刊された『講義』の一文が、もう片側に、それに対応する複数の学生ノートの記述が、並んで印刷されている。そうやって見比べてみると、同じ一つの論点についてすら、学生ごとに書き取り方が微妙に食い違っていたり、公刊された文章のほうが、学生ノートのどれよりも、いくぶん整った、断定的な言い回しになっていたりする箇所が、決して少なくないことが、はっきりと浮かび上がってきます。

その結果、明らかになったのは、公刊された『講義』の随所に、編者二人による、強調や単純化、そして体系化の跡が、少なからず残されているという事実です。たとえば、私たちが第九章で紹介した、あの有名な一節――「言語には、積極的な項をいっさい欠いた、ただ差異だけがある」――についても、学生ノートに残されたソシュール本人の実際の言い回しは、もう少し留保のこもった、慎重なものであった可能性が指摘されています。この一節の断定的な響きそのものが、多かれ少なかれ、編者たちの筆によって先鋭化された結果である疑いがあるというのです。もちろん、だからといって、バイイとセシュエの仕事を、たんなる改竄や捏造として切り捨てるのは、あまりに一方的でしょう。

まとまった草稿を残さなかった恩師の思考を、断片的なノートの山から、なんとか一つの筋道立った書物として救い出そうとした、二人なりの誠実さの表れでもあったはずです。それでも、私たちがこれから語る「ソシュールの理論」とは、つまるところ、本人の思考そのものというより、彼という人物と、それを書き留めた編者たちとのあいだで生まれた、一種の共同作業の産物として捉えておく必要があるでしょう。

次に取り上げたいのは、この講義全体の第一原理とも言うべき、「記号の恣意性」というテーゼそのものへの、言語学内部からの異論です。ソシュールは、シニフィアンとシニフィエの結びつきに、自然的な必然性は何もない、と説きました。ところが近年の音象徴、いわゆるサウンド・シンボリズムの研究は、この前提に、静かに、しかし着実に、揺さぶりをかけ続けています。

もっとも有名な実例が、「ブーバ/キキ効果」と呼ばれる現象です。とがった、角ばった図形を見せて、「これは『ブーバ』と『キキ』、どちらの名前だと思いますか」と尋ねると、文化的な背景や母語の違いを問わず、多くの人が、とがった図形には「キキ」、丸みを帯びた図形には「ブーバ」という名前を選ぶ、という実験結果が、数々の国と言語を横断して、繰り返し確認されているのです。この効果自体は、二十世紀初頭の心理学者ヴォルフガング・ケーラーによる実験にまでさかのぼりますが、二〇〇一年、神経科学者ラマチャンドランとハバードが、「ブーバ」「キキ」という、より覚えやすい名前を与えて紹介し直したことで、広く知られるようになりました。

その後、二〇二二年には、二十五もの異なる言語の話者を対象とした大規模な追試も行われ、母語がまったく異なる人々のあいだでも、驚くほど高い一致率で、同じ対応関係が見られることが確認されています。もし記号と意味の結びつきが、ソシュールの言うとおり、完全に恣意的であるならば、こうした一致は本来、生まれようがないはずです。この研究が示しているのは、ソシュールが例外的な現象として脇に置いた「動機づけ」というものが、実際には、これまで考えられていたよりもはるかに広く、言語の根底に染み渡っている可能性がある、ということです。

もっとも、公平のために付け加えておくならば、ソシュール自身も、第十一章で見た通り、「ディス・ヌフ」のような例を通じて、体系内における「相対的な動機づけ」の存在は、すでに認めていました。ですから、この異論は、恣意性という原理そのものを根こそぎ覆すというより、ソシュールが想定していたよりも、動機づけの領域がずっと広く、恣意性一辺倒では言語の全体を語りきれない、という方向からの、修正の提案として理解するのが適切でしょう。三つ目に見ておきたいのは、共時態と通時態という、ソシュールがあれほど截然と分けようとした、あの区別への異論です。アメリカの社会言語学者ウィリアム・ラボフに代表される「変異理論」、ヴァリエーショニズムと呼ばれる研究の流れは、言語の変化というものを、まったく違う角度から眺め直しました。

ソシュールにとって、言語の変化は、ある一時点の体系そのものとは別の、いわば体系の「外側」で進行する出来事でした。だからこそ、チェス盤の比喩のように、ある瞬間の言語体系は、そこに至る歴史を知らなくても、それだけで完結して理解できる、とされたのです。ラボフが行った、もっとも有名な調査の一つが、一九六六年に、ニューヨークの三つの百貨店――高級店のサックス・フィフス・アヴェニュー、中堅のメイシーズ、そして庶民的な安売り店であるクラインズ――で、店員たちの発音を聞き取り比べる、という調査でした。「四階」を意味する「フォース・フロア」という、ごく簡単な一言のなかに含まれる「r」の音を、はっきり発音するかどうかという、たったそれだけの違いが、店の格によって、統計的にきれいな傾きを描いて変わっていくことを、ラボフは実地の観察によって示してみせたのです。

この結果が物語っているのは、言語の変化というものが、決して体系の外側からやってくるのではなく、まさに、いま現在進行形で言語を使っている、その共時的な共同体そのものの内部に、世代や社会階層による発音や用法の「ゆれ」という形で、直接に、しかも観察可能な形で、すでに存在している、という事実でした。言い換えれば、ある一時点を切り取ってみても、そこには決して一枚岩の均質な体系があるのではなく、変化の途上にある、いくつもの異なる話し方が、同時に共存している。

この発見は、共時態と通時態を、決して混同してはならない別々の軸として截然と切り分けようとした、ソシュールの方法論的な決断そのものに、静かな再考を迫るものとなりました。そして四つ目に、先ほど第十六章で見た、ジャック・デリダによる音声中心主義批判そのものの妥当性をめぐる論争にも、あらためて触れておきたいと思います。デリダの読解に対しては、言語学者の側から、ソシュールが実際に述べたのは、あくまで話し言葉を言語学の研究対象として優先するという、限定された方法論上の判断にすぎなかったのであって、それを、西洋形而上学全体を覆う「ロゴス中心主義」という、途方もなく大きな哲学的診断にまで一気に拡大するのは、論点の誇張ではないか、という反論が、根強く出され続けています。

ソシュールが講義のなかで、文字を軽んじるような言い回しを用いたのは事実だとしても、それは、言語学という一つの学問の対象を、音声という扱いやすい実質に絞り込むための、いわば実務的な割り切りであって、文字によって伝えられるものすべてを、真理から遠い偽物として貶めようとする、壮大な哲学的企てだったわけではないだろう――そう読む余地は、たしかに残されています。

とはいえ、この論争に、どちらが完全に正しく、どちらが完全に誤っているという、簡単な決着をつけることは、この番組の役目ではないでしょう。むしろ大切なのは、一人の言語学者が方法論として下した一つの決断が、半世紀ののちに、これほど大きな哲学的な問いを呼び覚ますことになった、という、その広がり方そのものではないかと思います。四つの角度から見てきたどの異論も、それぞれの分野で丹念に積み上げられてきた、無視できない実証研究に支えられています。

それでも、こうした異論の一つ一つが、ソシュールという一冊の本を、まるごと否定し去るものではないという点は、あらためて確認しておきたいと思います。編者による先鋭化があったとしても、体系のなかで意味が相対的に定まるという発想の骨格そのものが揺らぐわけではありませんし、音象徴の存在が広く確認されたとしても、それによってあらゆる記号が動機づけられていることにはなりません。ラボフの変異理論にしても、ある一時点を輪切りにして体系として捉えるという視点そのものを不要にするわけではなく、その輪切りの内部が、決して均質ではなかったことを教えてくれるにすぎません。

こうして四つの角度から見えてくるのは、この番組としての、次のような見立てです。『一般言語学講義』とは、著者本人が一行も書かなかった、編者というフィルターを通過した、いわば二重に媒介されたテクストであり、その核となる恣意性のテーゼも、共時態と通時態の分離という方法論も、後年の実証研究によって、さまざまな形で修正され、相対化されてきました。

それでもなお、「意味とは、実体にではなく、差異の関係のなかに宿る」という、この一冊が打ち出した根本的な発想そのものは、いっこうに色あせることがありません。言語学という一つの専門分野の枠をはるかに超えて、人類学から精神分析、文芸批評、そして今日のデジタル記号論に至るまで、応用され続けているという、その説明力の広さ、射程の長さこそが、この講義録が、二十世紀の知の一つの原点であり続けている、何よりの理由だと言えるのではないでしょうか。

【まとめ】:「差異」という発想が、その後の思想に残したもの

さて、ここまで、フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』という、実に数奇な運命をたどった一冊を、じっくりと読み解いてまいりました。最後に、この長い旅路を、あらためて振り返っておきたいと思います。名家に生まれた早熟の天才ソシュールが、若くして印欧祖語の母音体系という難問に挑み、体系の内的な論理だけから、のちに実証されることになる未知の音を予言してみせたところから、私たちの物語は始まりました。

そして、彼が生涯を通じて、みずからの理論を体系的な書物としてまとめることを、頑なにためらい続けたこと、その結果、死後、教え子たちの手によって、講義ノートという断片の寄せ集めから、この一冊が「再構成」されるという、異様な成立事情を見てきました。そこから、社会的な制度としての「ラング」と個人の発話である「パロール」、ある時点の体系を見る「共時態」と、移り変わりを見る「通時態」、「シニフィアン」と「シニフィエ」が表裏一体となった言語記号、そして、その結びつきには何の必然性もないという「記号の恣意性」――この一冊を貫く、いくつもの根本的な区別を、一つずつ確認してまいりました。

さらに、線条性、不変性と可変性、そして「言語には積極的な項をいっさい欠いた、ただ差異だけがある」という、あの言語価値の理論、連辞関係と連合関係、相対的恣意性、そして未来の学問として構想された「セミオロジー」、言語というシステムの抽象性――こうした一つ一つの概念が、実は、ばらばらの断片ではなく、「意味とは実体にではなく、差異にこそ宿る」という、ただ一つの発想から枝分かれした、一本の太い幹でつながっていることも、見えてきたのではないかと思います。

そして、公表されることのなかった秘密のアナグラム研究という、この人物のもう一つの顔、その死後、プラハ学派から人類学、精神分析、文芸批評へと広がっていった構造主義という大きな潮流、さらには、その構造主義への応答として、デリダが差延という概念を打ち立てていった脱構築の系譜、そして私たちチャンネル自身による、四つの角度からの批判的な検討まで、たどってまいりました。振り返ってみれば、これほど多岐にわたる話題を扱いながら、その一つ一つが、まったく別々の話ではなく、「意味は、それ自体のうちにではなく、他との違いのなかにこそ宿る」という、たった一つの原点から、地下水脈のようにつながっていたことに、あらためて驚かされます。

考えてみれば、実に不思議な話です。著者本人が、生涯において一行も書かなかった一冊の本が、彼の死後、教え子たちの手を経て、幾重にもフィルターをかけられながら世に出て、それにもかかわらず、二十世紀の人文知全体を書き換えてしまうほどの力を持つに至った。この特異な運命そのものが、まさに、ソシュールが説いた「言語」というものの本質を、体現しているようにも思えてきます。ことばの意味が、話し手個人の意図には決して収まりきらず、社会という体系のなかで、絶えずかたちを変えながら受け継がれていくのだとすれば、この本自体もまた、ソシュールという一人の人物の手を離れ、編者、そして読み継いできた無数の読者たちとの関係のなかで、そのつど新しい「価値」を与えられながら、生き続けてきたのだと言えるのではないでしょうか。

一人の学者が沈黙のうちに世を去り、その沈黙のなかから、これほど雄弁な思想が立ち上がってきたという事実は、私たちに、著者という存在そのものについても、あらためて考えさせてくれます。最後に、この一冊が私たちに投げかけている問いを、二つ、持ち帰っていただきたいと思います。一つ目は、いま私たちが日々やり取りしているスマートフォンの絵文字やスタンプ、あるいは何気なく口にすることばの一つ一つの「意味」は、それ自体のうちに、あらかじめ宿っているものなのか、それとも、他の記号との「違い」によって、そのつど、関係のなかで成り立っているだけのものなのか、という問いです。同じ笑顔の絵文字一つをとっても、それがどんな絵文字と並べて使われるか、どんな相手との、どんな文脈でのやり取りのなかに置かれるかによって、皮肉にも、親愛にも、あるいは気まずさをごまかす合図にもなる。

その意味は、絵文字そのものの図柄に、あらかじめ書き込まれているというより、そのつどの関係のなかで、初めて形をとっているのではないでしょうか。そしてもう一つは、自分がふだん何気なく使っていることばが、実は、個人の意志ではどうにもならない、社会全体の取り決めにすぎないのだとしたら、それでもなお「自分自身のことばで語る」ということは、いったいどういうことを意味するのか、という問いです。私たちは、生まれ落ちたときから、すでに出来上がっている、この巨大な体系のなかに投げ込まれ、そこから語彙を借り受けることでしか、ものを考えることも、感じることも、伝えることもできません。

それでも、その借り物のことばを、自分なりに組み合わせ、選び取り、ときに少しずつ意味をずらしながら使っていくという営みのなかにこそ、私たち一人ひとりの「自分らしさ」が、宿っているのかもしれません。この二つの問いを、ぜひ、ご自身の頭で、じっくりと考えてみていただければと思います。著者が一行も書かなかった一冊の講義録が、これほど遠くまで、これほど多くの分野を巻き込みながら、私たちの「ことば」の見方そのものを変えてしまった。

この驚くべき事実を、ぜひ、今日という日の記憶の片隅に、留めておいていただければと思います。もしこの動画が面白いと感じていただけましたら、ぜひチャンネル登録と高評価をお願いいたします。それでは、また次回、新たな一冊をじっくりと読み解いていきます。

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