ジークムント・フロイト『夢判断』──夢はなぜ見るのか、心の奥に何が隠れているのか|「無意識」を発見した精神分析の出発点

哲学

今回も哲学書の解説シリーズです。今回は、ジークムント・フロイト夢判断を取り上げます。 

はじめに

昨夜、あなたはどんな夢を見たでしょうか。

もしかすると、もう思い出せないかもしれません。あるいは、断片だけが奇妙な手触りとともに記憶に残っているかもしれません。会ったこともない人と話していた。行ったこともない場所を歩いていた。死んだはずの誰かが、当たり前のように笑っていた。空を飛び、追いかけられ、試験会場でペンを握ったまま立ち尽くしていた――。目が覚めた瞬間、私たちはこう思います。「なんて、わけのわからない夢だろう」と。

そして、たいていの場合、私たちはその夢を無意味なものとして、朝のコーヒーとともに洗い流してしまいます。

けれども、もしその「わけのわからなさ」そのものに、意味があるとしたら。もし、あなたが昨夜見たあの奇妙な夢が、あなた自身でさえ気づいていない、心の奥底からの「メッセージ」だったとしたら――。

前回、私たちはアンリ・ベルクソンの『物質と記憶』を読み解きました。覚えておられるでしょうか。ベルクソンは、私たちの常識を根底から揺さぶる、あるひとつの主張を打ち出しました。それは、「過去は消え去らない」という考え方です。

私たちは普通、過去を「もう存在しないもの」だと思っています。過ぎ去った時間は、どこにもない。あるのは現在だけだ、と。ところがベルクソンは、こう論じました。過去は失われたのではなく、潜在的に――目には見えないかたちで――存在し続けている。私たちが何かを思い出すとき、それは過去を新しく作り出しているのではなく、すでにそこに存在し続けている記憶の世界へと、降りていっているのだ、と。彼は、意識の表面の下に広がる、巨大な記憶の貯蔵庫を描き出してみせたのです。

つまりベルクソンは、私たちの意識の「奥」に、私たちが普段は気づかない広大な領域があることを示しました。そしてここで、ひとつの問いが自然と立ち上がってきます。

その意識の奥――自分でも気づくことのできない心の領域には、いったい何があるのか。

ベルクソンは、この「意識の奥」に、哲学という道を通って迫っていきました。彼が見出したのは、過ぎ去った記憶が潜在的に保たれている世界でした。ところが、ちょうど同じ時代に、まったく別の道から、同じ「意識の奥」へと降りていった人物がいます。哲学者ではなく、ひとりの精神科医でした。彼は書斎の思索からではなく、苦しむ患者たちの前で、その治療の現場から、心の深層へと足を踏み入れていったのです。

その人物こそ、ジークムント・フロイト。彼が見出した心の奥の領域は、ベルクソンの「潜在的な過去」とはまた違う、もっと暗く、もっと衝動的な何か――彼が「無意識」と名づけた領域でした。

ここに、ひとつのバトンが渡されます。「意識の奥には何があるのか」という、同じひとつの問いをめぐって、その探究のバトンが、哲学者から精神科医へと手渡されるのです。一方は潜在的な記憶として、もう一方は抑圧された無意識として。似ているようでいて、決定的に異なるふたつの「心の深層」。このふたつを並べて眺めるとき、人間の心という謎が、いっそう立体的に浮かび上がってくるはずです。

さて、フロイトがこの「無意識」への扉を開けるために選んだ鍵が、ほかでもない「夢」でした。

そこで、改めて最初の問いに戻りましょう。なぜ私たちは、毎晩あれほど奇妙な夢を見るのでしょうか。

考えてみれば、不思議なことです。私たちは人生のおよそ三分の一を眠って過ごし、その眠りのなかで、来る夜も来る夜も、つじつまの合わない物語を体験しています。脈絡もなく場面が変わり、論理は無視され、ありえないことが平然と起こる。にもかかわらず、夢のなかにいるあいだ、私たちはそれを少しもおかしいとは思わない。

これは、ただの脳の雑音なのでしょうか。眠っているあいだに、脳が垂れ流す、意味のないノイズにすぎないのでしょうか。それとも――夢は、何かを語っているのでしょうか。

人類はこの問いに、長いあいだ向き合ってきました。古代の人々にとって、夢は決して無意味なものではありませんでした。それは神々からのメッセージであり、未来を告げる予言であり、聖なる神託でした。王は夢のお告げによって国の行方を占い、人々は夢に運命の暗示を読み取ろうとしました。夢は、人間を超えた何かが語りかけてくる、神秘の通路だったのです。

ところが、近代に入り、科学が世界を測り始めると、この夢への眼差しは一変します。理性と実証を重んじる近代科学は、夢を冷ややかに切り捨てました。夢など、眠っているあいだの身体の刺激が引き起こす、たわいない反応にすぎない。胃がもたれれば苦しい夢を見るし、寝室の物音が夢に紛れ込むだけのことだ。そこに意味などありはしない――。こうして夢は、神託の座から引きずり下ろされ、「無意味な脳の活動」という地位に落とされたのです。

フロイトが立っていたのは、まさにこの分かれ道でした。

そして彼は、近代科学が捨て去ったものを、もう一度拾い上げます。ただし、古代へと逆戻りするわけではありません。フロイトの主張は、こうです。

夢には意味がある。そして夢は、「解読」することができる。

これは、当時としては大胆きわまる宣言でした。夢を予言だと信じる迷信でもなく、夢を雑音だと退ける冷笑でもない。第三の道――夢を、心が語る「言葉」として読み解くという道を、フロイトは切り開こうとしたのです。

ではその言葉は、いったい誰の、何を語っているのか。フロイトの答えは、衝撃的なものでした。夢とは、私たちの心の奥に隠された「無意識の欲望」が、本来の姿を巧妙に変えて、こっそりと表に現れ出たものである――と。

つまり、夢が「わけのわからない」ものに見えるのは、そこに意味がないからではない。むしろ逆に、あまりに切実な意味が隠されているからこそ、それは変装し、歪められ、解読を必要とするものになっている。夢の不可解さそのものが、心の奥からの暗号なのだ、というわけです。

この発想を出発点として、フロイトは壮大な探究を繰り広げていきます。この記事では、その核心となるいくつかの鍵を、ひとつずつ丁寧にたどっていきます。

まず、夢はそもそも「願望の充足」なのだという、フロイト理論の土台となる考え。次に、その願望がなぜ素直に現れず、姿を変えてしまうのか――そこに働く「夢の検閲」という、心の検閲官のような仕組み。そして、欲望が夢へと変装させられていく具体的な過程、すなわち「圧縮」や「置き換え」と呼ばれる、心の巧妙な手口。さらにその先で、フロイトがたどり着いた、心の地図そのものを描き変える発見――「無意識」という、私たちの心の広大な暗黒大陸。

これらを読み解いていくことは、単に夢の謎を解くだけにとどまりません。それは、二十世紀という時代をまるごと揺るがすことになる、ひとつの巨大な思想――精神分析という営みの、まさに出発点に立ち会うことを意味します。フロイト以降、人間は二度と、それ以前と同じようには自分を見ることができなくなりました。「自分の心は、自分のものだ」「私は理性で自分を律している」――そんな当たり前だと思っていた前提が、ここから静かに、しかし決定的に崩れ始めるのです。

あなたが昨夜見た、あの夢。

その奇妙な物語の奥に、いったい何が隠れているのか。そして、夢を手がかりに降りていったその先に、フロイトは私たちの心のどんな素顔を見出したのか。

それでは、二十世紀の幕開けを告げた一冊、『夢判断』の世界へ、一緒に足を踏み入れていきましょう。

【序文】:ジークムント・フロイトとはどんな人物か──無意識の発見者

まず、この本を書いた人物について、知っておきましょう。

ジークムント・フロイト。一八五六年に生まれ、一九三九年に世を去った、オーストリアの精神科医です。そして何より、「精神分析」という、まったく新しい学問領域を一から築き上げた、その創始者として知られています。

彼が生涯をかけて格闘した相手は、人間の心でした。ただし、机の上の抽象的な心ではありません。フロイトは医師でした。彼の前にはいつも、現実に苦しんでいる生身の患者たちがいたのです。

当時、彼のもとを訪れた患者の多くは、「神経症」と呼ばれる症状に悩んでいました。身体にはどこにも異常が見つからないのに、手足が動かなくなる。説明のつかない不安に襲われる。同じ行為を繰り返さずにはいられない。原因不明の麻痺や痙攣に苦しむ。医学的な検査では、どこにも傷も病気も見当たらない。それなのに、患者は確かに苦しんでいる――。

この不可解な症状を前にして、フロイトはあることに気づき始めます。患者の苦しみは、身体の故障ではなく、心のなかの「何か」から来ているのではないか。しかもその「何か」は、患者本人ですら、まったく自覚していない。本人の意識が決して触れることのできない、心の奥深くに隠れている――。

こうしてフロイトは、患者たちの治療という具体的な実践のなかから、ひとつの領域へとたどり着いていきます。それが、彼が「無意識」と名づけた、心の隠れた大陸でした。私たちが「自分の心」だと思って意識している部分は、実は氷山の一角にすぎない。その水面下に、はるかに巨大な、自分でも気づけない心の世界が広がっている――。これは、当時の常識からすれば、にわかには信じがたい考えでした。

そのフロイトが、自らの発見を世に問うために著したのが、今回読み解く『夢判断』です。原題は、ドイツ語で『ディー・トラウムドイトゥング』。「夢の解釈」という意味の言葉です。

この本の刊行年には、ひとつの象徴的な逸話があります。

正式な刊行は一九〇〇年とされていますが、実際に本が出回り始めたのは、その前年、一八九九年の末のことでした。それでも出版社は、刊行年として「一九〇〇年」を選びました。新しい世紀の幕開けにふさわしい一冊として、この本を送り出そうとしたのです。結果として『夢判断』は、二十世紀という時代の、まさに最初の年に世界へ姿を現すことになりました。そしてこの本は、その後の百年を覆い尽くすほどの影響力を持つことになるのですから、この一致は、後から振り返れば、どこか運命的でさえあります。

フロイト自身も、この本を特別なものとして見ていました。彼はのちに、『夢判断』を指して、こう語っています。これは「生涯にただ一度しか恵まれない発見」を記したものだ、と。数多くの著作を遺したフロイトにとっても、夢の研究を通じて無意識の扉を開いたこの一冊は、まぎれもなく自らの仕事の中核であり、最良の達成だったのです。

ところが――です。

これほどの自負をもって世に送り出されたにもかかわらず、刊行当初の『夢判断』は、まったくと言っていいほど売れませんでした。最初の数年間で、印刷されたわずかな部数すら、なかなかさばけなかったと言われています。世間はこの本を黙殺し、学界からは冷笑や無視をもって迎えられました。心の奥に無意識があるなどという話は、まじめな科学者の語ることではない、と。

しかし、時間が、この評価を完全にひっくり返します。年月を経るにつれて、この本のまわりには少しずつ理解者が集まり始め、やがて精神分析という運動が大きなうねりとなっていきます。そして気がつけば、最初は見向きもされなかったこの一冊は、精神分析の「聖典」とも呼ぶべき、思想史上の記念碑へと姿を変えていたのです。世に出た瞬間ではなく、時の試練を経てその真価が認められた――『夢判断』は、まさにそういう種類の本でした。

では、この本はいったいどんな時代の空気のなかから生まれてきたのでしょうか。

舞台は、十九世紀末のウィーン。当時のウィーンは、ヨーロッパ文化が爛熟の極みに達した、華やかでありながらどこか神経質な都市でした。そして医学の世界では、ある症状が大きな関心を集めていました。「ヒステリー」です。

ヒステリーとは、先ほど触れたような神経症の一種で、身体に器質的な原因がないのに、麻痺や失明、痙攣などのさまざまな症状が現れる病でした。多くの医師たちがこの謎めいた病に取り組み、フロイト自身も、先輩の医師とともにヒステリー患者の研究に深く関わっていきます。心の問題が身体の症状として現れる――この事実こそ、フロイトを「心の奥」へと向かわせた、最初の決定的な手がかりでした。

そんな時代にあって、夢に対する科学の態度は、すでにお話しした通り、きわめて冷たいものでした。当時の主流の見解では、夢とは睡眠中の身体的な刺激が反映された、意味のない断片の寄せ集めにすぎない、とされていました。寝ているあいだの体の状態や、外からの物音が、たまたま夢のイメージを生むだけだ。そこに解読すべき意味などない――これが、いわば「科学的に正しい」夢の見方だったのです。

フロイトの『夢判断』は、この主流の見解に真っ向から挑む、対抗の書でした。夢は無意味な断片ではない。夢には、解読されるべき意味が確かにある。彼はそう主張して、時代の流れに逆らおうとしたのです。

そして、その主張を裏づけるために、フロイトは実に異例の研究方法を採りました。

彼が分析の材料として持ち出したのは、患者の夢だけではありませんでした。なんと、フロイト自身が見た夢を、いくつも俎上に載せ、それを赤裸々に分析してみせたのです。自分の心の恥ずかしい部分や、認めたくない欲望までもが透けて見えるような自分の夢を、研究の素材として公衆の前にさらす――これは、当時としては大胆を通り越して、無謀とすら言える試みでした。学者が自分自身を実験台にし、自らの心の奥を解剖してみせる。この「自己分析」という方法こそが、『夢判断』という本に、他のどんな学術書にもない生々しさと迫力を与えているのです。

では最後に、この本がどのような構成で進んでいくのか、その全体の見取り図を、ざっと描いておきましょう。これから私たちがたどっていく道筋の、地図のようなものです。

本書はまず、第一章で、これまでの夢研究を批判的に検討することから始まります。過去の学者たちが夢をどう扱ってきたかを丁寧に振り返り、その限界を浮き彫りにしていく。いわば、自説を立てるための地ならしの作業です。

続く第二章で、フロイトはいよいよ、夢を解読する具体的な方法を提示します。ここで登場するのが、本書最大の見せ場のひとつ、「イルマの注射」と呼ばれる、フロイト自身の夢の分析です。一つの夢を、要素ごとに徹底的に解きほぐしていくこの章は、フロイトの方法が実際にどう働くのかを、目の前で実演してみせる場面と言えます。

そしてこの分析から導き出されるのが、第三章以降で展開される、本書の中心的な主張です。すなわち、「夢とは願望の充足である」というテーゼ。夢は、私たちが叶えたい欲望を、眠りのなかで満たしてくれるものだ、という考え方です。

しかし話はそこで終わりません。なぜ大人の夢では、願望がそのままの姿で現れないのか。その謎を追う過程で、フロイトは「夢の作業」という、心の巧妙な仕掛けを明らかにしていきます。「圧縮」「置き換え」「形象化」「二次加工」――これら四つの仕組みが、本来の欲望を奇妙な夢へと変装させているのだ、と。この部分は、本書のもうひとつの核心です。

そしてすべての探究の果てに、終章でフロイトがたどり着くのが、「無意識」という心の領域そのものです。夢という入り口から降りていった先に、彼は人間の心の根本的な構造を見出すことになる。ここに、精神分析という壮大な思想の出発点が刻まれるのです。

これが、『夢判断』という旅の全体像です。それでは、その第一歩――フロイトが、これまでの夢研究をどのように批判していったのか、というところから、本論へと入っていきましょう。

【第一章】:夢は科学に見捨てられていた──従来の夢研究への批判

人類は、夢というものを、ずっと二つのまったく異なる眼差しで見つめてきました。

ひとつめの眼差しは、はるか古代へとさかのぼります。

文字が生まれるよりも前から、人々は夢を、特別な意味を帯びたものとして畏れ、敬ってきました。眠りのなかで体験する不思議な光景は、自分の頭が勝手に生み出したものではない。それは、人間を超えた存在――神々が、夢という通路を通じて語りかけてくるものだ。そう信じられていたのです。

古代メソポタミアの人々は、夢を神からのお告げとして記録に残しました。古代エジプトでは、夢を解き明かす専門の神官がいて、夢に込められた意味を読み解こうとしました。旧約聖書のなかでも、夢は重要な役割を果たします。ヨセフは、ファラオの見た「七頭の太った牛と七頭の痩せた牛」の夢を解読し、来たるべき豊作と飢饉を言い当てた、と伝えられています。古代ギリシアでは、病に苦しむ人々が神殿に泊まり込み、治癒のお告げを夢に求めました。

これらの文化に共通しているのは、夢を「予言」あるいは「神託」として捉える態度です。夢は未来を告げ、運命を暗示し、神意を伝える。だからこそ、夢は決して無視してはならない、解読すべき神聖なメッセージだったのです。この眼差しのもとでは、夢には明確に「意味がある」とされていました。

ところが、もうひとつの眼差しが、この古代の夢観を根こそぎ否定します。それが、近代科学の眼差しでした。

啓蒙の時代を経て、世界を理性と観察によって説明しようとする近代科学が力を持つようになると、夢に対する態度は冷ややかなものへと一変します。神々が夢を通じて語りかけるなどという話は、科学的な根拠のない迷信にすぎない。そう見なされるようになったのです。

では、夢とは何なのか。近代の科学者たちは、こう考えました。夢とは、眠っているあいだに脳や身体が受けるさまざまな刺激が、たまたまイメージとして反映されたものにすぎない、と。神秘も意味もない。ただの生理的な現象だ。夢は、覚醒しているときの精神活動に比べれば、はるかに劣った、低級で混乱した心の働きにすぎない――。こうして夢は、神託の高みから引きずり下ろされ、「無意味な脳の活動」という最下層へと突き落とされたのです。

ここに、二つの夢観が、真っ向から対立することになります。一方は、夢を神聖なメッセージと崇めた古代の見方。もう一方は、夢を無意味な雑音と切り捨てた近代の見方。フロイトは、この対立のただなかに立っていました。

そこでフロイトは、まず当時の科学が唱えていた夢の理論を、丹念に検討していきます。彼は議論を始めるにあたって、それまでに書かれた夢に関する文献を、徹底的に読み込みました。古代から自分の時代に至るまで、人々が夢をどう論じてきたか――その膨大な蓄積を、まず正面から受け止めようとしたのです。ここには、新しい説を立てる前に、まず先人の仕事を誠実に整理するという、フロイトの学者としての姿勢がよく表れています。

そのうえで彼が注目したのが、当時もっとも有力だった、ある考え方でした。それは、「夢は睡眠中の感覚刺激から生まれる」という説です。

この説によれば、夢を作り出すのは、眠っているあいだに私たちの感覚に届くさまざまな刺激です。たとえば、寝室の窓の外で鳴る物音。布団がはだけて感じる寒さ。膀胱がいっぱいになった感覚。胃のもたれや、足のしびれ。こうした身体の内外からの刺激が、眠っている脳に届き、それがイメージへと変換されて夢になる――というわけです。

この考え方は、一見すると、なかなか説得力があります。実際、私たちにも思い当たることがあるでしょう。目覚まし時計の音が、夢のなかで教会の鐘の音になっていた。喉の渇きが、夢のなかで水を探す場面につながっていた。こうした経験は、確かに「身体の刺激が夢を作る」という説を裏づけているように見えます。

ところが、フロイトはここで、鋭い疑問を投げかけます。

確かに、ある刺激が夢のきっかけになることはあるだろう。それは認めよう。だが――と彼は問います。仮に同じ刺激が与えられたとして、それがなぜ「その特定のイメージ」になるのか、この説はまったく説明できていないではないか、と。

少し立ち止まって考えてみましょう。たとえば、目覚まし時計のベルが鳴ったとします。身体刺激説に従えば、その音が夢に取り込まれることになります。けれども、その音は、なぜ「教会の鐘」になるのでしょうか。なぜ「火事を知らせる半鐘」ではないのか。なぜ「電話のベル」や「学校のチャイム」ではないのか。理屈の上では、その音はいくらでも別のイメージになりえたはずです。それなのに、現に見られた夢では、ほかでもない「その」イメージが選び取られている。

つまり、刺激が「夢のきっかけ」になることは説明できても、その刺激から「なぜ、ほかでもない、まさにそのイメージが生まれたのか」という、いちばん肝心な部分が、すっぽりと抜け落ちているのです。同じ音を聞いても、人によって、また同じ人でも夜によって、まるで違う夢になる。この多様性、この選択を、身体刺激だけでは決して説明できません。

ここにこそ、フロイトは決定的な突破口を見出します。

夢のイメージの内容を決めているのは、外から来る刺激そのものではない。それを受け取って、特定のイメージへと形作っている、心の内側の何かがあるはずだ。同じ鐘の音を、ある人は祝福の響きとして夢に描き、別の人は不吉な警告として夢に描く。その違いを生んでいるのは、刺激ではなく、その人の心の側に潜んでいる何かにほかならない――。

こうしてフロイトは、自らの立場を明確に打ち出します。

夢は、決して無意味ではない。夢には意味があり、そしてその意味は解釈することができる。

これは、二つの夢観の単純な復活でも否定でもありません。フロイトがここで行ったのは、対立する両者をいわば乗り越える、第三の立場の提示でした。

彼は、近代科学が夢を「身体刺激の反映」としか見なかったことを、不十分だと退けます。それでは夢の中身がなぜそうなるのかが説明できないからです。同時に、彼は古代人が夢を「予言」「神託」と見たことも、そのままでは受け入れません。夢が未来を告げるなどという考えは、やはり科学的に支持できないからです。

しかし――ここがフロイトの卓越したところですが――彼は、古代人がいだいていた根本的な直観そのものは、正しかったと認めるのです。「夢には意味がある」「夢は解読されるべきものだ」という古代の確信。これだけは、近代科学が捨て去ってしまったけれども、本当は手放してはならない真実だった。フロイトはそう考えました。

ただし、その「意味」の中身が、古代の理解とはまるで違います。夢が告げているのは、外からやってくる未来の出来事ではない。神々の意志でもない。夢が表現しているのは、ほかでもない、その人自身の心の中身なのです。夢は未来の予言ではなく、心の表現である。これが、フロイトの到達した立場でした。

言い換えれば、フロイトは古代人の直観を、まったく新しい土俵の上で復活させたのです。夢には意味がある。それは正しい。だがその意味は、空の彼方や神々の領域にあるのではなく、私たち自身の心の奥――まだ誰も覗き込んだことのない、内なる深みにこそ隠されている。夢を解読することは、未来を占うことではなく、自分自身の心を知ることなのだ、と。

予言から心の表現へ。外から内へ。神々から自分自身へ。この眼差しの転換こそが、フロイトの夢研究の出発点でした。そして、夢に意味があり、それを解読できると宣言したからには、当然、次の問いが立ち上がってきます。

では、いったいどうやって、夢を解読するのか。

その具体的な方法を、フロイトは自分自身の見た、ある一つの夢を題材にして、私たちの前で実演してみせることになります。それが、次にお話しする「イルマの注射」の夢です。

【第二章】:夢はこうして解読する──「イルマの注射」の夢

夢に意味があり、それを解読できるとして――では、具体的に、どうやって解読すればよいのでしょうか。

夢を一冊の辞書のように扱って、「蛇が出てきたら、これこれを意味する」「水が出てきたら、あれを意味する」といった具合に、機械的に当てはめていく。古来の夢占いは、おおむねこういうやり方でした。けれどもフロイトは、こうした「夢辞典」のような解釈法を、きっぱりと退けます。同じ蛇でも、同じ水でも、それが何を意味するかは、見た人によってまったく違うはずだからです。夢の意味は、あらかじめ決まった対応表のなかにあるのではなく、その夢を見た当人の心のなかにしかない。

そこでフロイトが編み出した方法こそが、後の精神分析の中核となる技法、「自由連想法」でした。

これは、驚くほどシンプルな方法です。まず、見た夢を、ひとつのまとまった物語として扱うのをやめます。そのかわりに、夢をいくつもの要素――登場した人物、場所、物、出来事、言葉――へと、ばらばらに分解する。そして、その一つひとつの要素について、こう問いかけるのです。「この要素から、いったい何が心に浮かんでくるか」と。

このとき、いちばん大切なのが、頭に浮かんだことを、一切検閲せずに、そのまま口に出す、ということです。

私たちは普段、何かを語るとき、無意識のうちに取捨選択をしています。「こんなことを言ったら馬鹿げている」「これは関係ないだろう」「これは恥ずかしくて言えない」――そうやって、心に浮かんだもののうち、都合の悪いものや無関係に思えるものを、片っぱしから振り落としているのです。

ところが、自由連想法では、この検閲を意図的に外します。どんなにくだらなく思えても、どんなに無関係に見えても、どんなに認めたくないことであっても、心に浮かんだものは、ありのままに、すべて言葉にしていく。批判も整理もせず、ただ浮かんでくるにまかせる。

なぜ、わざわざ検閲を外すのか。それは、まさにその「振り落とされてしまうもの」のなかにこそ、夢の本当の意味への手がかりが隠れているからです。私たちが「これは関係ない」「これは言いたくない」と感じて遠ざけようとするもの――その抵抗の感覚こそが、そこに心の深い部分が触れている証拠なのです。

こうして、ひとつの夢の要素から連想が浮かび、その連想からまた次の連想が浮かび――と、糸をたぐるように思いをたどっていく。すると、最初はまったくつながりの見えなかった奇妙な夢のイメージの背後から、それを生み出した心の動きが、少しずつ姿を現してくる。これが、フロイトの夢解読の基本的な手つきです。

そして彼は、この方法がどう働くのかを示すために、ある一つの夢を実例として持ち出します。それも、ほかでもない、フロイト自身が見た夢でした。後に「イルマの注射の夢」として知られることになる、この夢です。

では、その夢の内容を見ていきましょう。

ある夜、フロイトは次のような夢を見ました。広間で、大勢の客を迎えている。そのなかに、イルマという女性がいる。彼女は、フロイトが治療していた患者でした。フロイトはイルマを脇へ呼び、まだ症状がよくならないことを、責めるような調子でこう言います。「もしまだ痛むのなら、それは本当に君自身のせいだ」と。

すると、イルマはひどく具合が悪そうな様子を見せます。フロイトは不安になり、彼女の口のなかを覗き込みます。すると喉の奥に、白い斑点や、ただれたような病変が見える。心配になったフロイトは、その場にいた何人かの医師仲間を呼び、診察させます。彼らはイルマを診て、あれこれと所見を述べる。そして、やがて話は、ある一人の医師――ここではM博士と呼んでおきます――が、軽率にもイルマに注射を打ったことへと向かっていきます。しかも、その注射には不潔な注射器が使われたらしい、という話まで出てくる。夢は、こうした断片が入り混じった、なんとも奇妙で混乱したものでした。

目覚めたフロイトは、この夢を、自由連想法を使って、要素ごとに徹底的に分析していきます。

なぜ、イルマを脇へ呼んだのか。なぜ、彼女の喉に病変が見えたのか。なぜ、あの医師仲間たちが登場したのか。なぜ、注射の話が出てきて、しかも「不潔な注射器」というイメージが現れたのか。フロイトは、これら一つひとつの要素について、心に浮かぶことを検閲せずにたどっていきます。

すると、この混沌とした夢の背後から、ある一貫した心の動きが浮かび上がってきました。

まず、フロイトには気がかりがありました。現実において、患者イルマの治療は、思うようにうまくいっていなかったのです。治療者として、彼は内心、こう問われることを恐れていました。「治りが悪いのは、お前の治療の腕が悪いからではないのか」と。これは、医師としてのフロイトにとって、認めたくない、しかし無視もできない不安でした。

ところが――夢のなかで起こっていたことを、よく見てください。

夢のなかでフロイトは、イルマにこう言い放っていました。「まだ痛むのなら、それは君自身のせいだ」と。つまり、治療がうまくいかない責任を、イルマ本人へと押しつけているのです。さらに夢は、ご丁寧にも別の言い訳まで用意していました。イルマの病変には身体的な原因がある、という所見。そして、あのM博士が不潔な注射器で軽率な注射を打った、というエピソード。これらは要するに、「イルマの治りが悪いのは、自分のせいではない。彼女自身の体質のせいだ、あるいは別の医者の不手際のせいだ」と告げているのです。

ここでフロイトは、はっと気づきます。この夢は、彼の心からあらゆる責任を取り除き、無罪放免してくれていたのです。治療がうまくいかないという、現実の重苦しい不安。それに対して、夢は、ありとあらゆる言い訳をかき集め、「悪いのはお前ではない」という結論を、巧みに作り上げていた。夢のなかの世界は、フロイトにとって、これ以上ないほど都合のよい状況に整えられていたのです。

つまり――この夢が満たしていたのは、フロイトの一つの願望でした。「イルマの治りが悪いのは、自分のせいではあってほしくない」という、切実な願い。現実では認められない、しかし心の奥で強く望んでいたこの願望を、夢は、眠りのなかで見事に叶えてみせていたのです。

この発見は、フロイトにとって決定的でした。一見、不安や混乱に満ちて、何の意味もなさそうに見えたあの奇妙な夢が、自由連想という方法を通して解読してみると、実は一つの願望を満たす、整然とした仕掛けだったことが明らかになったのですから。

そしてここから、フロイトは、本書全体を貫くことになる、最初の命題を打ち立てます。

夢とは、願望の充足である。

これが、『夢判断』という巨大な建物の、いちばん底に据えられた礎石です。夢は、無意味な雑音などではない。夢は、私たちの心が抱える願望――しかも、しばしば自分では認めたくないような願望を、眠りのなかでこっそりと叶えてくれる装置なのだ、と。

ここで、ひとつ重要な点に触れておかなければなりません。フロイトが自分自身の夢を、しかもこれほど都合のよい言い訳に満ちた、いわば「自分の弱さ」が透けて見えるような夢を、あえて実例として公にしたことの意味です。

彼はここで、患者の夢ではなく、自らの夢を解剖台に載せました。治療がうまくいかないという医師としての不安、その責任から逃れたいという身勝手な願望――そうした、できれば隠しておきたい心の動きを、堂々とさらけ出してみせたのです。これは、彼の方法の正しさを示すための、最も誠実な、そして最も勇気のいる選択でした。他人の心ではなく、まず自分の心の奥を解き明かしてみせる。この姿勢こそが、自己分析という、『夢判断』ならではの方法の真骨頂なのです。

こうして、「夢は願望の充足である」という命題が手に入りました。けれども、ここでもう一度、立ち止まって考えてみましょう。

イルマの夢は、確かに願望を満たしていました。しかしその願望は、なぜあんなにも回りくどい、混乱した形で現れたのでしょうか。「自分は悪くない」と思いたいなら、もっと単純に、楽しい夢を見ればよさそうなものです。それなのに、夢は不安や病変や、不潔な注射器といった、むしろ不快なイメージを使ってまで、その願望を表現していました。

なぜ、夢のなかの願望は、こうも素直でないのか。なぜ、わざわざ姿を変えて現れるのか。

この問いに答えるためには、まず「願望充足」という考え方そのものを、もっと深く掘り下げていく必要があります。そこで次は、この最初の命題が、いったいどこまで通用するのか――その射程と、そこに潜む難問へと、進んでいくことにしましょう。

【第三章】:夢は「願望の充足」である──夢の正体

イルマの夢から導き出された、「夢は願望の充足である」という命題。フロイトは、これを単なる一例にとどめず、夢というものの本質を言い当てた、普遍的な原理として打ち立てようとします。

その主張を、改めて言葉にしてみましょう。

私たちは、目覚めて生きているあいだ、数えきれないほどの願望を抱えています。けれども、現実のなかで、そのすべてが叶えられるわけではありません。叶えたくても叶えられない願い、果たせなかった望み、満たされなかった欲求――それらは、消えてなくなるわけではなく、心のなかにくすぶり続けます。夢とは、こうした、現実では満たされなかった願望を、眠りという別の舞台のうえで、いわば疑似的に成就させてくれるものだ。これが、フロイトの基本テーゼです。

起きているあいだは叶わない。だから、眠りのなかで叶える。夢は、現実が拒んだ願いを、想像のなかで実現してみせる、心のささやかな代償行為なのです。

この考え方は、もっとも単純な例を見れば、誰にでも腑に落ちるはずです。

たとえば、こんな経験はないでしょうか。喉がからからに渇いた状態で、眠りについたとき。夢のなかで、冷たい水をごくごくと飲み干している――そんな夢を見ることがあります。実際に喉が渇いているという身体の欲求が、「水を飲みたい」という願望を生み、その願望を、夢が叶えてみせているのです。

この「渇きの夢」は、フロイトの理論を非常にわかりやすく示してくれます。注目すべきは、この夢には、ある働きがあるということです。もし夢が水を飲ませてくれなければ、喉の渇きという不快な刺激のせいで、私たちは目を覚ましてしまうかもしれません。ところが、夢のなかで水を飲んで「満足した」ことにすれば、わざわざ起き上がらずに、眠り続けることができる。願望を叶えることが、同時に、眠りを守ることにもつながっている――この点は、後の章でもう一度、重要な意味を持って戻ってくることになります。今はまず、「夢が願望を叶える」という事実そのものを、しっかり押さえておきましょう。

そして、この願望充足という働きが、もっとも素直な、混じりけのない形で現れるのが、子どもの夢です。

フロイトは、子どもたちの夢に注目しました。なぜなら、子どもの夢は、大人の夢に比べて、はるかに単純で、わかりやすいからです。

たとえば、ある子が、日中に食べたかったお菓子を、我慢させられたとします。すると、その夜、その子は、そのお菓子をおなかいっぱい食べている夢を見る。あるいは、出かけたかった遠足が雨で中止になった日に、夢のなかでは晴れわたった空の下、楽しく遠足を続けている。欲しかったおもちゃを、夢のなかでは手に入れている――。

子どもの夢は、こんなふうに、現実で叶わなかった願いを、ほとんどそのままの形で、ストレートに成就させます。そこには、ごまかしも、ひねりも、わかりにくさもありません。願望が、変装することなく、まっすぐに姿を現すのです。

フロイトにとって、この子どもの夢の単純さは、とても重要でした。なぜなら、ここには「夢とは願望の充足である」という原理が、もっとも純粋なかたちで、むき出しに現れているからです。子どもの夢は、いわば夢の原型、夢の最も基本的なすがたを見せてくれるのです。

さて――ここまでは、話は実に明快でした。夢は願望を叶える。喉が渇けば水を飲む夢を見るし、子どもは欲しいものを手に入れる夢を見る。なるほど、確かにその通りだ、と。

ところが、ここで誰もが、ひとつの大きな疑問にぶつかります。フロイト自身、この疑問が当然わき起こることを、よく承知していました。

それは、こういう問いです。

もし夢が、いつでも願望を叶えてくれるものなら――いったいなぜ、私たちは「悪夢」を見るのか。

考えてみてください。私たちが見る夢のなかには、楽しい夢ばかりではなく、むしろ苦しい夢、恐ろしい夢が、たくさんあります。何かに追いかけられて、必死で逃げる夢。高いところから落ちていく夢。大切な人を失う夢。取り返しのつかない失敗をしてしまう夢。汗びっしょりで、心臓を高鳴らせながら、悲鳴とともに飛び起きる――そんな経験は、誰にでもあるはずです。

これらの夢は、どう見ても、願望が叶えられているようには思えません。それどころか、できることなら絶対に避けたい、見たくもない状況ばかりです。もし夢が願望充足だというのなら、なぜ私たちは、わざわざこんな不快な夢、苦しい夢、不安に満ちた夢を見るのでしょうか。

これは、フロイトの理論にとって、避けて通れない、最大級の難問でした。「夢は願望の充足である」という命題は、楽しい夢や子どもの夢には、なるほどよく当てはまる。けれども、悪夢の存在は、この命題を真っ向から否定しているように見えるのです。願いを叶えるはずの夢が、なぜ恐怖や苦痛をもたらすのか。ここを説明できなければ、フロイトの理論は、ただの一面的な思いつきで終わってしまいかねません。

では、フロイトはこの難問に、どう答えたのでしょうか。

その答えへの伏線は、すでに私たちの手元にあります。思い出してください。先ほど見た、あの「イルマの注射の夢」です。あれは、フロイトの願望を満たす夢でした。しかし、その願望は、楽しく心地よいかたちで現れたわけではありませんでした。むしろ、不安や病変、不潔な注射器といった、不快なイメージにまみれていた。それでも、その奥底には、「自分は悪くない」という願望が、確かに隠されていた――。

ここに、悪夢の謎を解く鍵があります。

つまり、こういうことです。大人の夢においては、願望は、子どもの夢のように、そのままの素直な姿では現れません。大人の願望は、何かによって「変装」させられ、姿を変え、歪められて、夢のなかに登場するのです。だからこそ、表面だけを見れば不快に見える夢の奥に、実は願望が隠されている、ということが起こりうる。悪夢のように見える夢も、その変装を一枚ずつ剥がしていけば、その底には、ちゃんと願望が潜んでいる――フロイトはそう考えました。

けれども、ここでさらに、根本的な問いが生まれます。

なぜ、大人の願望は、わざわざ変装しなければならないのか。子どもなら、欲しいものをそのまま夢に見る。それなのに、なぜ大人になると、願望は素直に現れることができなくなり、奇妙な変装をまとうようになるのか。

その理由を、フロイトはこう説明します。大人の心のなかには、ある「願望」を、そのままの姿では決して受け入れようとしない、もうひとつの力が働いているからだ、と。受け入れがたい願望、認めたくない欲望、口にすることもはばかられるような望み――そうしたものが、ありのままの姿で意識に上ってくることを、心は許そうとしない。その願望を見張り、検め、ふさわしくないと判断したものを締め出そうとする、いわば心の関所のような働きがある。

フロイトは、この心の関所を、「検閲」と名づけました。

願望が変装するのは、この検閲の目を、なんとかくぐり抜けるためなのです。素直な姿では検閲に止められてしまうから、願望は変装し、別のものに化け、歪んだ形をとって、ようやく夢として表に現れることができる。悪夢の不快さも、夢のわけのわからなさも、すべてはこの「検閲」と「変装」のせめぎ合いから生まれている――。

ここに、フロイトの理論は、新たな深みへと足を踏み入れていきます。夢は、ただ願望を叶えるだけの、のどかな装置ではありませんでした。そこには、願望をそのまま叶えようとする力と、それを押しとどめようとする力との、せめぎ合いが繰り広げられているのです。

では、その「検閲」とは、いったいどのような仕組みなのか。そして、検閲をくぐり抜けた願望は、夢のなかで、どんな姿に変装しているのか。次は、夢が二つの層からできている、というフロイトの鍵となる考え方――「顕在内容」と「潜在思想」をめぐって、この変装の謎の核心へと迫っていきましょう。

【第四章】:夢はなぜ「わけがわからない」のか──顕在内容と潜在思想

願望が「変装」して現れる――。この考えを正確に捉えるために、フロイトは、夢というものを、二つの層に分けて考えるという、決定的な区別を導入します。

ひとつめの層を、フロイトは「顕在内容」と呼びました。

これは、私たちが実際に見て、目覚めてから思い出す、夢のストーリーそのものです。あの広間でイルマと話していた、というような、表面に現れた夢の筋書き。空を飛んだ、追いかけられた、知らない人と話していた――目を覚ましたときに「こんな夢を見た」と語れる、その内容のすべてが、顕在内容にあたります。いわば、夢の「目に見える表側」です。私たちが普段「夢」と呼んでいるのは、この顕在内容のことにほかなりません。

そして、もうひとつの層を、フロイトは「潜在思想」と呼びました。

これは、その顕在内容の背後に隠されている、夢の本当の意味――夢を生み出した、もともとの願望や欲望、心の動きのことです。表面のストーリーの裏に潜んでいる、真の内容。これこそが、夢が本当に語ろうとしていることなのですが、それは決して表には出てきません。隠され、覆われた「裏側」にとどまっています。

ここで、両者の関係を、はっきりさせておきましょう。

私たちが見て覚えている夢、つまり顕在内容は、夢の「完成品」です。しかしそれは、もともとあった素材――潜在思想を、そのまま映したものではありません。潜在思想という「本物の中身」が、何らかの加工を受け、姿を変えられた結果として、顕在内容という「表向きの夢」ができあがっているのです。

ですから、夢を解読するということは、この関係を逆向きにたどることにほかなりません。目に見える顕在内容を出発点にして、その背後に隠された潜在思想を、掘り起こしていく。前にお話しした自由連想法は、まさにこの掘り起こしの作業だったわけです。顕在内容の各要素から連想をたどることで、その奥に沈んでいる潜在思想へと、降りていくのです。

では、なぜこんな二重構造が生まれるのか。なぜ、潜在思想は、そのまま顕在内容にならないのか。本物の中身が、わざわざ姿を変えなければならないのは、なぜなのか。

ここで登場するのが、前章の終わりで予告した、あの心の関所――「夢の検閲」です。

フロイトは、こう考えました。私たちの心の奥には、さまざまな欲望が渦巻いています。そのなかには、自分でも認めたくないような、受け入れがたい欲望が含まれています。社会の道徳に反するもの、人として恥ずべきもの、口にするのもはばかられるような、暗い願望。たとえば、身近な誰かに対する激しい憎しみや、あるいは禁じられた欲求といった、ふだんは固く心の底に押し込めているような願望です。

こうした欲望は、そのままの姿では、決して意識の表に出てくることが許されません。なぜなら、もしそれがありのままに意識に上ってしまえば、私たちは耐えがたい不快感や、強烈な不安、深い罪悪感に襲われてしまうからです。心は、自分自身を守るために、こうした受け入れがたい欲望が、堂々と表に現れることを、許そうとしないのです。

そこで働くのが、検閲という仕組みです。

この検閲は、いわば心のなかの番人、あるいは見張り役です。それは、奥底から表へと上がってこようとする欲望を一つひとつ検め、「これはそのまま通すわけにはいかない」と判断したものを、押しとどめます。けれども――ここが肝心なのですが――欲望は、それでもなお、表に出ようとする力を持っています。とりわけ、警戒のゆるむ眠りのあいだは、なおさらです。

そこで、欲望と検閲のあいだに、いわば妥協が成立します。欲望は、検閲をそのまま正面突破することはできません。けれども、自分の姿を変え、別のものに化け、誰だかわからないように変装すれば、検閲の目をかいくぐって、なんとか表に出ることができる。検閲のほうも、もはやそれが何の欲望なのか一見してわからない形になっていれば、ひとまず通行を許してしまう。

こうして、欲望は、原形をとどめないほどに姿を変え、歪められ、別のイメージにすり替えられたうえで、ようやく夢として現れることになります。これが、潜在思想が顕在内容へと変換される、その根本的な理由です。

そして――ここで、本章のいちばん大切な逆転が訪れます。

私たちはこれまで、夢が「わけがわからない」のは、夢に意味がないからだ、夢が無意味な雑音だからだ、と考えてきました。第一章で見た近代科学の立場が、まさにそうでした。

ところがフロイトは、まったく逆の見方を示します。夢が奇妙で、つじつまが合わず、わけがわからないのは、意味がないからではない。むしろ逆に、あまりに重大な意味が、検閲によって隠され、歪められているからこそ、夢はわけのわからないものになっているのだ、と。

つまり、夢の不可解さそのものが、検閲が働いた証拠なのです。夢がつじつまの合わない、奇妙な姿をしているとき、それは「ここに、そのまま見せるわけにはいかない何かが隠されている」というしるしなのです。わかりにくさは、無意味の表れではなく、むしろ、隠された意味の深さの表れだったのです。

この検閲の仕組みを、もっと身近に理解するために、フロイト自身が用いたたとえを紹介しましょう。それは、政治と言論をめぐるたとえです。

ある国を想像してみてください。権力者が強大で、人々が自由にものを言うことを許されていない社会です。そこでは、政府を批判する記事を、そのまま新聞に載せることはできません。検閲官が目を光らせていて、都合の悪い文章は、片っぱしから削除されてしまうからです。

では、批判したいことのある書き手は、どうするでしょうか。彼は、言いたいことをあきらめるわけではありません。そのかわり、検閲官に見とがめられないように、表現を工夫します。直接は名指しせず、遠回しに匂わせる。別の事柄にかこつけて、それとなく当てこする。一見、まったく無害な文章に見せかけながら、その裏に本当のメッセージを忍ばせる。読む人が読めばわかる、暗号のような書き方をするのです。

おわかりでしょうか。心のなかの検閲も、これとまったく同じ働きをしているのです。

夢のなかの願望は、この書き手のようなものです。検閲という権力者が、本心をそのまま語ることを許さない。だから願望は、遠回しの表現、当てこすり、暗号といった手段を使って、自分の正体を隠しながら、それでもなんとか表現されようとする。私たちが目覚めてから「変な夢だった」と首をかしげるとき、私たちは、その暗号化された記事を読まされているのです。表面の文章は無害でわけがわからない。けれども、その裏には、検閲をくぐり抜けた本当のメッセージが、確かに隠されている。

このたとえは、フロイトの理論の核心を、見事に照らし出しています。夢の奇妙さは、心が壊れた結果でも、脳が混乱した結果でもありません。それは、本心を語りたい力と、それを許さない力との、せめぎ合いと妥協の産物なのです。検閲という圧力があるからこそ、夢は変装し、暗号化され、わけのわからない姿をとる。夢の不可解さは、無意味さではなく、まさに「変装」の結果だったのです。

ここまでで、私たちは大きな見取り図を手に入れました。夢には、表側の顕在内容と、裏側の潜在思想という、二つの層がある。そして両者のあいだには、検閲という関所が立ちはだかっていて、潜在思想は、その検閲をくぐり抜けるために変装させられ、顕在内容となって現れる――。

しかし、ここまで来ると、当然、次の問いが浮かんできます。

その「変装」とは、具体的には、どのように行われるのか。検閲をくぐり抜けるために、潜在思想は、いったいどんな手口を使って、顕在内容へと姿を変えているのか。漠然と「変装する」と言うだけでは、まだ十分ではありません。フロイトは、この変装のプロセスを、驚くほど精密に分析してみせました。彼はそれを「夢の作業」と呼び、そこにいくつかの具体的な仕組みを見出したのです。

次は、その「夢の作業」――潜在思想を顕在内容へと変えていく、心の巧妙な手口の数々へと、足を踏み入れていきましょう。

【第五章】:夢はどう作られるのか──「夢の作業」の四つの仕組み

潜在思想が、検閲をくぐり抜けるために変装する。その変装の具体的なプロセスを、フロイトは「夢の作業」と名づけました。これは、本書のなかでも、もっとも精緻で、もっとも独創的な部分です。

「夢の作業」とは、ひとことで言えば、本当の意味である潜在思想を、目に見える夢である顕在内容へと作り変えていく、心の加工作業のことです。

ここで、フロイトのきわめて重要な発想の転換に注目してください。私たちは普通、「夢の内容」、つまり何が起こったかという物語こそが、夢の本質だと思いがちです。けれどもフロイトは、そうではないと言います。夢において本当に研究すべきなのは、夢の「内容」ではなく、夢を「作り上げている過程」――すなわち、潜在思想がどのような操作を受けて、あの奇妙な顕在内容になったのか、その変換のプロセスそのものなのだ、と。夢の本質は、できあがった物語ではなく、その物語を生み出した「作業」のほうにある、というわけです。

そして、ここから自然に、夢解釈とは何かが、はっきりと定義できます。夢解釈とは、この「夢の作業」を、逆向きにたどる営みです。心は、潜在思想から顕在内容へと向かう加工を行った。解釈者は、その逆をいく。目の前にある顕在内容から出発して、加工の手順を一つずつほどいていき、もとの潜在思想を取り出す。いわば、暗号化された文章を、もとの平文へと復号する作業なのです。

では、その加工――夢の作業には、どんな仕組みがあるのか。フロイトは、主に四つの仕組みを見出しました。一つずつ、見ていきましょう。

第一の仕組みは、「圧縮」です。

圧縮とは、複数のものが、一つに凝縮されることを言います。潜在思想のなかには、たくさんの考えやイメージ、いくつもの人物や出来事が含まれています。ところが、それらが顕在内容になるとき、いくつものものが重ね合わされ、一つのイメージへとぎゅっと縮められてしまうのです。

このことが、もっともわかりやすく現れるのが、夢に出てくる人物です。

たとえば、夢のなかに、ある人物が登場したとします。目覚めてから振り返ると、その人物は、どうにも妙な存在です。顔は友人Aのものなのに、着ている服は同僚Bのもので、話し方は学生時代の恩師そっくりで、しかもなぜか、自分の父親のような威圧感をまとっている――。一人の人物のなかに、複数の人の特徴が、混ざり合っているのです。

フロイトは、こうした人物を「合成人物」と呼びました。これこそ、圧縮が働いた、典型的なしるしです。潜在思想のなかでは、それぞれ別々に存在していた何人もの人物が、夢の作業によって一人へと圧縮され、一つの人物像のなかに重ね焼きされているのです。

この圧縮には、検閲をくぐり抜けるうえで、巧妙な効果があります。複数のものを一つに重ね合わせてしまえば、もとがいったい誰だったのか、何だったのかが、ぼやけてわからなくなります。輪郭が曖昧になることで、本当の意味が覆い隠される。だから、夢を見た本人ですら、「あれは誰だったのか」とうまく言い当てられない。圧縮は、意味を凝縮すると同時に、意味を隠す働きも果たしているのです。

第二の仕組みは、「置き換え」――フロイトの言葉では「移動」とも呼ばれます。

これは、心理的な重要さが、別のものへとずらされてしまう、という現象です。

私たちの心のなかでは、潜在思想を構成する要素のあいだに、それぞれ「重み」の違いがあります。本当に重要で、強い感情がこもっているものもあれば、どうでもいい些細なものもある。ところが、夢の作業は、この重みを、こっそりとすり替えてしまうのです。本当に重要なものから重みを取り上げて、それを、まったく些細な、どうでもいいものへと移し替えてしまう。

その結果、どういうことが起こるか。夢の表面、つまり顕在内容のうえでは、いちばん目立つ位置を占め、強い印象を放っているものが、実は、本当はどうでもいい些細な要素だった、ということが起こります。逆に、本当に重要な核心は、夢のなかでは目立たない隅っこに、さりげなく置かれていたりする。重要さと目立ちやすさが、ねじれて入れ替わっているのです。

これも、検閲を欺くための、見事な手口です。もし本当に重要なものが、夢のなかでも重要なものとして堂々と現れていたら、検閲はすぐにそれを見とがめるでしょう。けれども、重みを些細なものへずらし、核心を目立たないところに隠してしまえば、検閲の警戒はそらされます。重要なものは些細なものに見せかけられ、まんまと検閲の目をすり抜ける。だから、夢を解釈するときには、いちばん印象に残った派手な部分よりも、むしろ「なぜこんなどうでもいいものが夢に出てきたのだろう」と感じる、些細な部分にこそ、注意を向けなければならないのです。

第三の仕組みは、「形象化」――考えを、目に見えるイメージへと翻訳する働きです。

ここで、ひとつ、根本的な事実に気づく必要があります。それは、夢が基本的に「映像」でできている、ということです。私たちは夢を、論文を読むように言葉で体験するのではなく、まるで映画を観るように、イメージの連なりとして体験します。

ところが、もとになる潜在思想のほうは、必ずしもイメージとは限りません。そこには、抽象的な考えや、論理的な関係、複雑な判断が含まれています。「AはBよりも重要だ」「もしこうなら、ああなるはずだ」「これは矛盾している」といった、本来は言葉でしか表せないような思考です。

夢の作業は、こうした抽象的な思考を、なんとかして目に見える具体的なイメージへと、翻訳しなければなりません。これが、形象化です。たとえば、「高い地位にのぼりつめたい」という抽象的な願望は、夢のなかで「階段をのぼる」「高い場所に立つ」といった具体的な映像へと翻訳されるかもしれません。抽象的な意味が、いったん視覚的な絵に置き換えられるのです。

ここに、夢が「言葉」ではなく「絵」で語られる理由があります。夢は、論理や概念をそのまま扱うことが苦手で、何でもかんでも、具体的なイメージに翻訳してしまう。だから、夢のなかでは抽象的な関係が、しばしば奇妙で唐突な映像として現れることになります。言葉なら一言ですむことが、絵にされると、ずいぶん回りくどく、不可解なものになってしまう。この翻訳のぎこちなさもまた、夢のわかりにくさの一因なのです。

そして第四の仕組みが、「二次加工」です。

これは、これまでの三つとは、少し性質の違う作業です。圧縮、置き換え、形象化――この三つによって作られた夢は、本来、ばらばらで、つじつまの合わない、断片の寄せ集めです。論理も脈絡もない、混沌としたイメージの群れ。それが、夢の本来の姿です。

ところが、私たちは、目覚めて夢を思い出すとき、たいていは「こんな話の夢を見た」と、一応の筋道を立てて語ることができます。場面がつながり、なんとなくの物語になっている。これは、いったいなぜでしょうか。

それは、心が、ばらばらの夢の断片を、後から「整理」しようとするからです。私たちの心には、つじつまの合わないものを前にすると、それに何とか意味や筋を見出そうとする、強い傾向があります。この働きが、夢に対しても発動し、混沌とした断片を、もっともらしい一つの物語へと、なめらかに整えていくのです。これが、二次加工と呼ばれる作業です。

二次加工の重要な点は、それが、私たちが思い出す夢の姿を、決定的に左右する、ということです。

ここから、見過ごせない結論が導かれます。私たちが目覚めてから「こんな夢を見た」と語るその夢は、すでに二次加工によって整えられた後の姿だ、ということです。私たちは、夢の生の姿に触れているのではありません。心が後から手を加え、もっともらしく整形した「完成品」を、思い出しているにすぎないのです。本来の夢は、もっと断片的で、つじつまの合わないものだった。それを、二次加工が、見栄えよく仕立て直している。

だからこそ、夢解釈においては、この二次加工が付け加えた「もっともらしさ」に、だまされてはなりません。きれいにつながって見えるストーリーは、実は後づけの加工であって、本当の意味とは別物かもしれない。むしろ、物語の流れがぎこちなくなる箇所、つじつまが合わない継ぎ目こそが、加工が無理をして覆い隠そうとした、本当の意味のありかを示している可能性があるのです。

こうして、四つの仕組みが出そろいました。複数のものを一つに縮める「圧縮」。重みを別のものへずらす「置き換え」。考えを映像に翻訳する「形象化」。そして、断片を物語に整える「二次加工」。

これらが幾重にも重なり合って働くことで、心の奥にある潜在思想は、原形をとどめないほどに加工され、変装し、あの奇妙な顕在内容へと姿を変えていきます。夢が、私たちにとってあれほど不可解に感じられるのは、まさに、この四重の加工をくぐり抜けてきたからなのです。逆に言えば、解釈者がこの四つの加工を一つずつ丁寧にほどいていけば、その奥に隠された本当の意味へと、たどり着くことができる。

さて、これで夢が「どのように」作られるのかが見えてきました。けれども、まだ問われていないことがあります。それは、夢を作る「材料」は、いったいどこから来るのか、という問いです。夢の作業が加工する、その素材は、何でできているのか。そして、その加工をそもそも突き動かしている、根本の力は何なのか。次は、夢の「素材」と「動力源」をめぐる問題へと進んでいきましょう。

【第六章】:夢の「素材」はどこから来るのか──昼の残りと幼少期

夢が「どう作られるか」がわかったところで、次に問うべきは、夢が「何から作られるか」です。夢の作業が加工する、その素材は、いったいどこから来るのでしょうか。

フロイトは、夢を注意深く分析するうちに、ある興味深い事実に気づきました。夢のなかには、しばしば、ほんの前日や、ここ数日のあいだに経験した出来事が、材料として紛れ込んでいる、ということです。

しかも、興味深いことに、夢に取り込まれるのは、たいてい、その日経験したことのなかでも、とりわけ「些細な」出来事なのです。人生を揺るがすような重大事ではなく、道ですれ違った人の顔、ふと目に入った看板、誰かが口にした何気ない一言、新聞でちらりと読んだ記事――そんな、取るに足らない、忘れてしまってもよさそうな断片が、夢のなかに顔を出すのです。

フロイトは、こうした夢の材料を、「昼の残り」と呼びました。日中の経験の、いわば残りかす、燃えかすのようなもの、という意味です。

ここで、当然、一つの疑問がわきます。なぜ、その日の重大な出来事ではなく、こんなどうでもいい些細なことが、わざわざ夢に取り上げられるのでしょうか。

ここで、前章で学んだ「置き換え」の仕組みを思い出してください。夢は、重要なものを些細なものへとずらすことで、検閲の目をくらませるのでした。昼の残りが些細であることは、まさにこの仕組みと深く関わっています。当たり障りのない、どうでもいい出来事だからこそ、それは検閲に警戒されることなく、夢のなかに入り込むことができる。些細さは、いわば、検閲を通過するための「無害さの証明書」のような役割を果たしているのです。

しかし、ここでフロイトは、決定的に重要なことを指摘します。

昼の残りは、あくまで夢の「きっかけ」にすぎない、ということです。

これは、本当に大切な点です。夢が、前日の些細な出来事を材料にしているからといって、その出来事こそが夢の原因だ、と考えてはなりません。昼の残りは、夢が形をとるための、いわば「とっかかり」「足場」を提供しているだけなのです。それ自体は、夢を作り出すほどの力を持っていません。

では、夢を本当に突き動かしている、その動力源は、いったい何なのか。

ここで、フロイトの理論は、一気に深く、暗い領域へと降りていきます。彼はこう論じました。夢を突き動かす本当の力は、その日の些細な出来事などにあるのではない。それは、もっと深く、もっと古い欲望――私たちの幼少期にまでさかのぼる、根深い願望なのだ、と。

私たちの心の奥底には、子ども時代に形づくられた、強烈で、しかし決して満たされることのなかった欲望が、いまも消えずにくすぶり続けている。これらの幼少期に由来する願望こそが、夢を作り出す、真のエネルギー源なのです。それは、何年、何十年たっても色あせることなく、表に出る機会をうかがっている。

そして、ここで、昼の残りと、この古い欲望とが、結びつきます。

フロイトが描いてみせた構図は、こうです。心の奥に潜む、幼少期以来の根深い欲望。それは、いつも表に出たがっているが、検閲のせいで、ふだんは姿を現すことができません。ところが、日中、何か些細な出来事が起こり、それがたまたま、この古い欲望と、どこか響き合う部分を持っていたとします。すると、古い欲望は、この昼の残りを、いわば乗り物として利用するのです。

無害に見える些細な出来事に身を隠し、それと一体になることで、根深い欲望は、検閲をすり抜けて、夢のなかへと滑り込んでいく。表向きは「昨日のあの出来事の夢」に見えながら、その奥では、はるか昔からの欲望が、ようやく表現の場を得て、うごめいている――。

つまり、夢とは、現在の些細なきっかけと、過去の根深い欲望とが、手を組んで作り上げる、合作なのです。フロイトはこれを、お金にたとえて説明しました。昼の残りは、いわば事業を始めたい起業家のようなものだが、それ自体にはお金がない。一方、無意識の古い欲望は、資金を出してくれる出資者のようなものだ。事業――つまり夢――が成立するには、この両方が必要だ、と。きっかけを提供する昼の残りと、エネルギーを提供する古い欲望。この二つがそろって、はじめて一つの夢が生まれるのです。

この構図は、フロイトの理論に、独特の奥行きを与えています。夢は、単に昨日の出来事の反映ではない。その表面の下には、その人が生きてきた歴史の最も古い層――子ども時代の願望が、いまも生き続けている。夢を解読することは、現在をのぞくことであると同時に、その人の最も深い過去へと降りていくことでもあるのです。

さて、夢の素材を論じるうえで、もう一つ、避けて通れない問題があります。それは、「象徴」の問題です。

夢を数多く分析していると、フロイトは、ある気になる現象に気づきました。それは、個人の自由連想をたどっても、なかなか意味にたどり着けない要素がある、ということです。これまでの方法では、夢の各要素について、見た本人に連想してもらうことで、その人個人の心のなかにある意味を掘り起こしてきました。ところが、なかには、本人の連想とは関わりなく、多くの人の夢に共通して現れ、どうやら共通の意味を持っているらしいイメージがあるのです。

フロイトは、こうした、個人の連想を超えて共通の意味を担うイメージを、「象徴」と呼びました。象徴は、自由連想という個人的な道筋を経なくても、ある程度まで、その意味を読み取ることができるとされます。これは、夢解釈にとって、便利な補助手段にもなりえます。

しかし――ここで、フロイトの慎重な姿勢に、ぜひ注目してください。

フロイトは、この象徴という考え方を認めはしましたが、それに頼りすぎることには、強く警戒していました。彼が何よりも避けようとしたのは、夢を、まるで辞書を引くように、機械的に解釈してしまうことです。「このイメージが出たら、必ずこれを意味する」――そうやって、あらかじめ用意された対応表に当てはめていくやり方。いわば「象徴辞典」のような夢解釈です。

なぜ、フロイトはこれを警戒したのか。それは、思い出してください、彼が夢解釈の出発点に据えたのは、ほかでもない、その人個人の連想だったからです。夢の意味は、まずもって、その夢を見た当人の心のなかにこそある。同じイメージでも、人によって、また状況によって、意味はまるで違いうる。それなのに、象徴辞典に頼りきってしまえば、この最も大切な、一人ひとりの個別の意味を、取りこぼしてしまうことになります。

ですからフロイトにとって、象徴とは、あくまで自由連想を補う、補助的な手段にすぎませんでした。連想がどうしても行き詰まったときに、参考として用いることはできる。けれども、それが個人の連想に取って代わってよいわけでは、決してない。夢解釈の主役は、あくまで、その人自身の連想なのです。

この慎重さは、後世への大切な教訓を残しています。というのも、フロイト以後、世間にはしばしば、安易な「夢占い」「夢辞典」のたぐいが出回りました。「○○の夢は△△の前兆」といった、機械的な解釈です。けれども、それはフロイトが本来やろうとしたこととは、かけ離れたものです。フロイトの夢解釈は、一人ひとりの心の奥へと、地道に降りていく作業であって、出来合いの答えを当てはめる占いとは、まったく別のものだったのです。

ここまでで、夢の正体が、かなり立体的に見えてきました。夢には表と裏の二層があり、検閲をくぐり抜けるために四つの作業が働き、その材料は昼の残りに由来しつつ、本当の動力は幼少期の根深い欲望にある――。

しかし、ここで改めて、素朴な問いに立ち返ってみたいのです。これほど複雑な仕掛けを動かしてまで、心は、いったい何のために、夢を見るのでしょうか。夢には、そもそもどんな役割があるのか。次は、フロイトが夢に与えた、ある印象的な役割――夢は「眠りの番人」である、という考えへと進んでいきましょう。

【第七章】:眠りを守る番人──夢は何のためにあるのか

これほど手の込んだ仕掛けを動かしてまで、心は何のために夢を見るのか。この問いに対するフロイトの答えは、実に印象的なものでした。

夢は、「眠りの番人」である――。

これが、フロイトが夢に与えた、根本的な役割です。夢は、私たちの眠りを守るために存在している。睡眠を妨げようとするさまざまな邪魔者から、眠りを保護する、見張り役なのだ、というわけです。

この考えを理解するために、まず、眠りというものが、いかに「壊れやすい」かを思い起こしてみましょう。

私たちが眠っているあいだ、その眠りを脅かすものは、絶えず存在しています。それらは、大きく二つの方向からやってきます。

ひとつは、身体の側からの刺激です。喉の渇き、空腹、膀胱の張り、暑さや寒さ、どこかの痛みや痒み――こうした身体の不快な感覚は、放っておけば、私たちを眠りから引きずり出してしまいます。

もうひとつは、心の側からの刺激です。これまで見てきた、心の奥でうごめく欲望です。表に出ようとして、絶えず圧力をかけてくる、満たされない願望。これもまた、眠りを内側から揺さぶり、目覚めさせようとする力になります。

身体からの刺激と、心からの欲望。この二つの邪魔者が、私たちの眠りを、つねに脅かしている。もし、これらが何の処理もされずに放置されれば、私たちはたちまち目を覚ましてしまい、眠りを続けることができなくなってしまうでしょう。

そこで、夢の出番です。

フロイトの考えでは、夢は、これらの眠りを妨げる刺激を、いわば「処理」する装置です。やってくる刺激を、そのまま目覚めへとつなげてしまうのではなく、夢という形に作り変えることで、刺激の圧力をやわらげ、眠りを続けさせるのです。

ここで、思い出してください。前にお話しした、喉が渇いたときの「水を飲む夢」です。

あれは、まさにこの「眠りの番人」としての夢の、最もわかりやすい例でした。喉の渇きという身体の刺激は、本来なら、私たちを起こして、水を飲みに行かせようとします。けれども、もしそこで「水を飲んでいる夢」を見れば、どうなるか。心は、渇きという要求が、夢のなかで「叶えられた」と受け取ります。そして、満足したことにして、目を覚ます必要はない、と判断するのです。

つまり、夢は、起こりかけた目覚めを、すんでのところで引き止めている。刺激を夢という形で処理し、「もう要求は満たされたのだから、起きなくてよい」と告げることで、眠りを延長させているのです。夢を見ているあいだ、私たちは、眠り続けることができている。これこそが、夢が「眠りの番人」と呼ばれるゆえんです。

そして、ここで、これまで本書を貫いてきた、あの基本テーゼ――「夢は願望の充足である」が、新しい角度から、見事に意味を結びます。

なぜ夢は、願望を「充足」させるのか。なぜ、ただ願望を表現するだけでなく、それを「叶えた」ことにするのか。その理由が、ここで明らかになります。

願望を、夢のなかで「叶えた」ことにする。これこそが、眠りを守るための、最も効果的な手段だからです。

考えてみてください。表に出ようとする欲望を、もし押さえつけようとすれば、欲望はますます激しく抵抗し、かえって眠りを乱すかもしれません。けれども、その欲望を、夢のなかで一度「満たして」やれば、どうでしょう。満足した欲望は、ひとまず鎮まります。「もう望みは叶ったのだから、これ以上、暴れる必要はない」と。こうして、目覚めさせようとする欲望の圧力は、その場で解消されるのです。

ここに、フロイトの理論の、見事な整合性があります。夢が願望充足であることと、夢が眠りの番人であることは、別々の話ではありません。それは、一つのことの、表と裏なのです。欲望をその場で叶えて満足させること――それがそのまま、目覚めを防ぎ、眠りを守ることになる。願望充足という働きが、そのまま眠りの保護という機能を果たしているのです。

夢は、いわば、賢い番人です。眠りの扉を叩く欲望に対して、力ずくで追い返すのではなく、その場で望みを聞き入れたふりをして、「はい、ご要望は承りました。叶えておきましたよ」と、なだめてみせる。そうやって、訪問者をその場で満足させ、扉の内側――眠りの世界――を、静かに保つのです。

しかし、ここで、最後に残された問いがあります。

それなら、なぜ私たちは、悪夢で目を覚ましてしまうことがあるのでしょうか。

夢が、これほど巧みな眠りの番人であるならば、いつでも私たちを眠らせ続けてくれるはずです。それなのに、現実には、恐ろしい夢に飛び起き、心臓を高鳴らせながら、汗びっしょりで目を覚ますことがある。これは、番人としての夢が、失敗したということなのでしょうか。

フロイトは、この問いにも、一貫した論理で答えます。

そうです。悪夢で目覚めるとき、それは、夢という番人が、その務めを果たしきれなかったときなのだ、と。

これまで見てきたように、夢は、検閲の力によって、欲望を変装させ、無害な形に作り変えることで、それを安全に処理してきました。検閲がうまく働いているあいだは、欲望はおとなしく変装をまとい、夢は穏やかに眠りを守ることができます。

ところが、ときに、この検閲の力が及ばなくなることがあります。欲望があまりにも強く、激しく、検閲の押さえつけを突き破って、変装をかなぐり捨て、あまりにも露骨な形で表に出てこようとする。

そうなると、もはや夢は、その欲望を無害な形に変装させきれません。検閲という防壁が破られ、本来なら隠されているべきものが、生々しいまま意識へと噴き出してくる。それは、私たちにとって、耐えがたい不安や恐怖として体験されます。あまりに強い不快に、心はもはや眠りを保つことができず、ついに目を覚ましてしまう――。

これが、悪夢の正体です。悪夢で飛び起きるとき、それは、変装に失敗した欲望が、検閲を破って露呈してしまった瞬間なのです。つまり、悪夢とは、夢が願望充足でないことの証拠ではなく、むしろ逆に、押さえきれないほど強い欲望が確かに存在することの、そして検閲がそれと格闘していることの、証拠なのです。

ここで、第三章で私たちが直面した、あの最大の難問――「なぜ願望充足のはずの夢が、悪夢になるのか」という問いに、ついに完全な答えが与えられました。悪夢は、願望充足という原理の例外ではありません。それは、検閲という防壁が破られ、欲望が変装しきれずに噴き出した、特殊な事態なのです。番人が、あまりに激しい侵入者を前にして、ついに持ちこたえられなくなり、扉が押し開かれてしまった――それが、私たちを目覚めさせる、あの恐ろしい夢の正体だったのです。

こうして、夢の働きと役割が、一つの筋の通った全体像として、姿を現しました。夢は、願望を充足させることによって、眠りを妨げる刺激を処理し、私たちの眠りを守っている。そして、その守りが破られたとき、私たちは悪夢とともに目を覚ます――。

さて、私たちはここまで、夢のさまざまな仕組みを、一つずつ解き明かしてきました。けれども、フロイトの探究は、夢の分析それ自体を、最終目的としていたわけではありませんでした。彼は、夢という入り口を通って、その先にある、もっと大きなもの――心そのものの構造へと、たどり着こうとしていたのです。

夢の検閲は、いったいどこから来るのか。欲望は、どこに潜んでいるのか。これまで何度も口にしてきた「心の奥」とは、正確には何なのか。次は、フロイトがこの探究の果てにたどり着いた、最大の発見――「無意識」という、心の領域そのものへと、降りていくことにしましょう。

【第八章】:夢の彼方にあるもの──「無意識」という心の発見

ここまで私たちは、夢という現象を、その表側から裏側へと、丹念にたどってきました。けれども、フロイトにとって、夢の分析は、それ自体がゴールだったわけではありません。彼は、夢という小さな窓を通して、その向こうに広がる、はるかに大きな風景を見ようとしていました。

その風景こそ――人間の心そのものの、構造です。

これまでの探究を振り返ってみましょう。夢には、表に見える顕在内容と、隠された潜在思想という二層があった。両者のあいだには、検閲という関所があった。そして、夢を突き動かすのは、幼少期にまでさかのぼる、抑圧された欲望だった――。

ここで、フロイトは、決定的な問いを立てます。では、その隠された潜在思想は、どこにあるのか。検閲が押しとどめている欲望は、どこに潜んでいるのか。私たちが繰り返し「心の奥」と呼んできた、その場所とは、いったい何なのか。

夢の研究を導きの糸として、フロイトがついにたどり着いたのが、「無意識」という、心の領域でした。これこそが、『夢判断』という長い旅の、最終的な到達点です。夢は、目的地そのものではなく、この無意識へと至るための、道だったのです。

そこでフロイトは、人間の心を、三つの領域に分けて捉える、ひとつのモデルを提示します。

第一の領域は、「意識」です。

これは、いま現在、私たちが気づいている心の部分です。この言葉を読み、考え、何かを感じている――まさに今、あなたが自覚しているその心の働き。それが意識です。私たちが「自分の心」と言うとき、たいていは、この意識のことを指しています。

けれども、フロイトに言わせれば、これは心のほんの一部、表面に浮かんでいる、わずかな部分にすぎません。

第二の領域は、「前意識」です。

これは、いまこの瞬間には気づいていないけれども、ちょっと注意を向ければ、すぐに思い出せる心の部分です。たとえば、あなたの生まれた年、昨日の夕食、子どもの頃に通った学校の名前――こうした事柄は、たった今は意識していなかったでしょう。けれども、こうして問われれば、すぐに思い出すことができます。これらは、意識の控え室のような場所に保管されていて、必要に応じて、いつでも意識へと呼び出すことができる。これが前意識です。

意識と前意識のあいだの行き来は、比較的自由です。前意識にあるものは、ほとんど抵抗なく、意識へと上ってくることができます。

そして、第三の領域こそが、フロイトの発見の核心――「無意識」です。

無意識は、前意識とは、まったく性質が違います。前意識は「いまは気づいていないが、思い出せる」心でした。ところが、無意識は、思い出そうとしても、決して思い出せない。それは、意識から締め出され、追放された領域です。

なぜ、思い出せないのか。それは、無意識に押し込められているものが、意識にとって、受け入れがたいものだからです。これまで見てきた、あの抑圧された欲望――道徳に反する願望、認めたくない衝動、口にすることもはばかられる望み。それらが、検閲によって意識から閉め出され、この無意識の領域に、押し込められているのです。

無意識と意識のあいだには、前意識の場合とは違って、厳重な関所が立ちはだかっています。それが、検閲です。無意識にあるものは、そのままの姿では、決して意識に上ることが許されません。検閲をくぐり抜け、変装し、姿を変えなければ、表に出てくることができないのです。

ここまで来れば、これまで学んできたことのすべてが、この心のモデルのなかに、ぴたりとおさまることがわかるでしょう。夢の潜在思想とは、この無意識に潜む欲望のことでした。夢の検閲とは、無意識と意識を隔てる、あの関所のことでした。そして夢の作業による変装とは、無意識の欲望が、検閲をくぐり抜けて表に出るための、手立てだったのです。すべては、この三層構造のなかで起こっていたのです。

そして、ここに、フロイトの思想の、最も革命的な含意が現れます。

もし、私たちの心の大部分が、自分では決して気づくことのできない無意識でできているのだとしたら――私たちは、自分の心の、ほんの表面しか知らないことになります。意識という、水面に浮かぶわずかな部分の下に、無意識という、はるかに巨大な暗い領域が広がっている。そして、その見えない部分が、私たちの考えや行動を、ひそかに突き動かしている。

つまり、人間は、自分で思っているほど、自分自身の主人ではない。「私は理性で、自分を自由に律している」という、人間の自尊心は、ここで根底から揺さぶられることになります。

さて、こうして無意識という領域が見えてきたとき、夢の意味は、もう一段、深まります。

普段、無意識は、検閲によって固く封じられていて、私たちはそれを覗き見ることができません。ところが、眠っているあいだは、この検閲の警戒が、いくぶんゆるみます。だからこそ、無意識の欲望は、変装という形をとりながらも、夢のなかに姿を現すことができる。

ということは――夢こそが、ふだんは決して見ることのできない無意識を、覗き込むための、またとない手がかりだということになります。夢は、無意識からの便りであり、閉ざされた扉のわずかな隙間から漏れ出てくる、貴重な光なのです。

このことを、フロイトは、後に広く知られることになる、ある印象的な言葉で表現しました。

「夢解釈は、無意識を知るための王道である」と。

王道――それは、王が通るための、まっすぐで堂々とした大道のことです。無意識へと至る道は、ほかにもいくつかあるけれども、夢解釈こそが、そのなかで最も確かで、最も豊かな、本道なのだ。フロイトは、そう宣言したのです。夢を解読することは、単なる夢占いでも、知的な遊びでもない。それは、人間の心の最も深い層へと至る、王の道だったのです。

そして、ここから、フロイトの探究は、夢の枠を大きく超えて広がっていきます。

なぜなら、夢で見出されたこの仕組み――無意識の欲望が、検閲をくぐり抜け、変装して表に現れる、というメカニズムは、夢だけに特有のものではなかったからです。フロイトは、同じ仕組みが、人間のさまざまな心の現象に働いていることに気づきました。

たとえば、神経症の症状です。第二章で触れた、原因不明の麻痺や不安といった症状。これも、夢と同じように、抑圧された無意識の欲望が、形を変えて、身体や心に現れたものとして読み解くことができる。症状もまた、無意識からのメッセージなのです。

あるいは、ふとした言い間違い。言おうとしていた言葉と、まるで違う言葉が、つい口をついて出てしまう。これも、ただのうっかりではなく、無意識の欲望が、検閲の隙をついて漏れ出た瞬間として、解読することができる。

夢も、症状も、言い間違いも――一見、ばらばらに見えるこれらの現象は、すべて、同じ一つの仕組みから生まれていた。無意識という共通の源泉から、検閲をくぐり抜けて噴き出してくる、同じ水脈の現れだったのです。

ここに、精神分析という、巨大な営みの出発点が刻まれます。フロイトは、夢の解読から出発して、人間の心の全体を、新しい原理のもとに読み解く道を、切り開いたのです。

そして、これこそが、『夢判断』という一冊の、真の意義です。この本がもたらしたのは、夢に関する、一つの新しい説明だけではありませんでした。それは、人間の心そのものの「見方」を、根本から変えてしまったのです。

フロイト以前、人間の心とは、意識のことでした。心とは、自分が気づいているもの、自覚しているもののことだった。ところがフロイトは、その常識を覆します。心の本体は、むしろ意識の外、無意識のなかにある。私たちが自覚している心は、巨大な氷山の、水面上に出たほんの一角にすぎない――。

この見方の転換は、あまりにも大きなものでした。人間は、自分の心の主人ではない。私たちの背後には、自分でも気づけない、広大な無意識が広がっていて、それが私たちを動かしている。この発想は、人間が自分自身をどう理解するか、その根底を、永遠に変えてしまったのです。

『夢判断』は、こうして、夢の本を超えて、心の本となりました。それは、無意識という新大陸の、発見の記録だったのです。

では、この発見は、その後、どのような運命をたどったのでしょうか。フロイトが切り開いたこの思想は、二十世紀という時代のなかで、どれほどの広がりを見せ、また、どのような批判にさらされたのか。次は、『夢判断』が後世に遺したもの――その巨大な影響と、現代における評価へと、目を向けていきましょう。

【第九章】:『夢判断』が遺したもの──現代への影響

『夢判断』が世に放った無意識という発想は、一冊の本の枠をはるかに超えて、二十世紀という時代の隅々にまで浸透していきました。その広がりの大きさを、いくつかの方向から眺めてみましょう。

まず、フロイト自身が切り開いた、精神分析という巨大な潮流です。

『夢判断』で示された、無意識という発見、そして欲望を意識から締め出す「抑圧」という仕組み。これらは、その後フロイトが展開していく、膨大な理論の出発点となりました。

そのなかでも、とりわけ有名で、また物議をかもしたのが、「エディプス・コンプレックス」と呼ばれる考えです。これは、子どもが、無意識のうちに、異性の親に対して愛着を抱き、同性の親に対して敵意やライバル心を抱く、という心の構図を指します。フロイトは、人間の心の最も古い層に、こうした幼少期の感情の葛藤が刻まれていて、それが後の人生にまで影響を及ぼし続けると考えました。

ここで、ひとつ、誠実にお断りしておかなければなりません。エディプス・コンプレックスをはじめとする、フロイトの性的欲望をめぐる議論は、当時から激しい反発を招きましたし、現代の視点から見れば、その妥当性に大きな疑問が投げかけられているテーマでもあります。すべての人間の心を、こうした図式で説明しきれるのか、という批判は、当然のものです。ですから私たちは、これらをフロイトがそう考えた、という思想史上の事実として正確に押さえつつ、それを唯一の真理として鵜呑みにすることには、慎重でなければなりません。

さて、フロイトの思想は、彼一人にとどまりませんでした。多くの優れた後継者たちが、彼のもとから巣立っていきます。

たとえば、カール・グスタフ・ユング。彼は、はじめフロイトの最も有望な弟子の一人でしたが、やがて袂を分かちました。ユングは、無意識という発想そのものは受け継ぎながら、それを、個人の抑圧された欲望の倉庫としてだけではなく、人類が共通して持つ、もっと深い層――彼が「集合的無意識」と呼んだもの――にまで押し広げていきました。フロイトが個人の欲望に焦点を当てたのに対し、ユングは人類共通の象徴やイメージへと、関心を向けたのです。

また、二十世紀後半には、ジャック・ラカンというフランスの精神分析家が現れます。彼は「フロイトに還れ」を合言葉に、フロイトの理論を、言語学などの新しい知見と結びつけて、独自の難解な理論へと作り変えていきました。「無意識は言語のように構造化されている」という彼の言葉は、よく知られています。

ユングにせよ、ラカンにせよ、彼らはフロイトを、ある部分では批判し、ある部分では大きく作り変えました。けれども、その出発点に、つねにフロイトの『夢判断』があったことは、間違いありません。賛成するにせよ、反対するにせよ、彼らはみな、フロイトが切り開いた地平の上で、思考せざるをえなかったのです。

そして、フロイトの影響は、精神分析という専門分野の外へも、爆発的に広がっていきました。とりわけ、芸術と文化の領域です。

その最も鮮やかな例が、シュルレアリスム――超現実主義と呼ばれる芸術運動です。

二十世紀の初め、芸術家たちは、理性や論理によって整えられた世界の表面ではなく、その下にうごめく、無意識の世界そのものを、作品に表現しようとしました。彼らにとって、フロイトが見出した無意識と夢の世界は、まさに新しい芸術の宝庫でした。理屈では結びつかないイメージを、夢のように脈絡なく並べる手法。意識的なコントロールを手放して、心に浮かぶままに筆を走らせる試み。溶けた時計や、ありえない空間を描いた、あの不思議な絵画の数々――。これらはみな、フロイトが開いた無意識への扉から、流れ出してきたものでした。

芸術にとどまりません。文学では、登場人物の心の奥底を、意識の流れのままに描き出す手法が生まれました。映画は、夢のような映像表現や、人物の隠れた動機の描写に、無意識という発想を取り込みました。さらには、広告の世界さえも、人々の意識されない欲望に働きかける、という考えを学びました。

こうして、「無意識」という言葉は、もはや専門用語ではなくなりました。それは、二十世紀の文化のなかに溶け込み、私たちがものを考え、自分や他人を理解するときの、ごく当たり前の枠組みになったのです。今日、私たちが「彼は無意識のうちにそうしてしまった」「心の奥では本当はこう思っているのだろう」と語るとき、私たちは、知らず知らずのうちに、フロイトの遺産を使っているのです。

しかし――その一方で、フロイトの理論は、厳しい批判にも、絶えずさらされてきました。

最も根本的な批判は、科学の側からのものです。フロイトの理論は、果たして「科学」と呼べるのか、という問いです。

科学的な理論であるためには、それが間違っている可能性を、検証によって確かめられなければなりません。ところが、フロイトの理論は、どんな事実に直面しても、後から説明をつけられてしまう、という性質を持っています。たとえば、ある夢が願望充足に見えなくても、「それは検閲によって変装しているのだ」「あるいは、分析を否定したいという、別の願望が働いているのだ」と説明できてしまう。これでは、理論を反証することができません。こうした理由から、フロイトの精神分析は、検証不可能であり、本当の意味での科学とは言えないのではないか、という批判が、根強く投げかけられてきたのです。

また、現代の睡眠科学や脳科学の進展も、夢についての見方を、大きく変えました。

たとえば、二十世紀の半ばに、「レム睡眠」という睡眠の状態が発見されました。私たちが鮮明な夢を見るのは、主にこのレム睡眠のあいだだということが、生理学的に明らかになったのです。脳科学の一部の立場は、夢を、こう説明しようとします。睡眠中に脳が発する、ランダムな信号を、脳が後から無理やり意味のある物語にまとめあげている――それが夢なのだ、と。

もし、これが正しいとすれば、それはむしろ、第一章でフロイトが批判した、あの「夢は無意味な脳の活動だ」という見方に、近いものになります。夢は、隠された欲望のメッセージなどではなく、脳の生理現象の副産物にすぎない、というわけです。フロイトの「夢には意味がある」という主張と、現代脳科学の一部の見方とのあいだには、明らかに、大きな隔たりがあります。

では、フロイトの理論は、もう古びてしまった、過去の遺物なのでしょうか。

私は、そうは思いません。ここで、大切なのは、フロイトの個々の理論の当否と、彼がもたらした発想の革命性とを、分けて考えることです。

たしかに、願望充足という説明や、夢の作業の細かな仕組み、エディプス・コンプレックスといった個別の理論については、批判もあり、修正も必要でしょう。それらが、文字通りそのまま正しいと、今、主張することは難しいかもしれません。

けれども――フロイトがもたらした、より根本的な発想。すなわち、「人間の心には、自分では気づけない無意識という領域があり、それが私たちの考えや行動を、ひそかに動かしている」という、その発想そのものの革命性は、いまもなお、少しも色あせていません。

フロイト以前、心とは、意識のことでした。フロイト以後、私たちはもはや、自分が完全に自分の心の主人だとは、素朴に信じられなくなりました。この、自己理解の根本的な転換は、個々の理論が批判されようとも、なお私たちの思考の前提であり続けています。理論の細部が当たっているかどうかを超えて、「心に無意識がある」という見方を打ち立てたこと――そこにこそ、フロイトの、決して消えることのない功績があるのです。

さて、ここで最後に、このシリーズの前回――ベルクソンの『物質と記憶』との関係を、改めて振り返っておきましょう。

冒頭で触れたように、ベルクソンとフロイトは、ともに「意識の奥」を見つめた、ほぼ同時代の探究者でした。一方は哲学者として、もう一方は臨床の医師として。けれども、二人がそこに見出したものは、似ているようでいて、決定的に異なっていました。

ベルクソンが「意識の奥」に見たのは、潜在的に存在し続ける、過去の記憶の世界でした。それは、失われることなく、そっと保たれ、思い出されるのを待っている、いわば静かな貯蔵庫です。過去は消えず、潜在的にあり続ける――その潜在性は、抑圧されたわけでも、押し込められたわけでもありません。

一方、フロイトが「意識の奥」に見たのは、抑圧された欲望の、無意識という領域でした。こちらは、静かな貯蔵庫などではありません。それは、検閲によって意識から無理やり締め出され、暗闇に閉じ込められながら、なお絶えず表に出ようともがき続ける、葛藤と圧力の場です。

ベルクソンの潜在的記憶と、フロイトの抑圧された無意識。どちらも「心の深層」であり、意識の奥に広がる、目に見えない領域です。けれども、一方は静かに保たれた過去の世界であり、もう一方は、押し込められて暴れ続ける欲望の世界です。まさに、似て非なるもの。

この二人を並べて眺めるとき、「意識の奥には何があるのか」という、一つの大きな問いが、二つのまったく異なる光で照らし出されていることがわかります。哲学が描いた深層と、臨床が掘り当てた深層。この二つの探究は、二十世紀という新しい時代の入り口で、人間の心の見えない部分へと、それぞれの道から降りていったのです。

このことを胸に置いて、いよいよ、本書全体を振り返る、最後のまとめへと進んでいきましょう。

【まとめ】:『夢判断』が問いかけるもの

ここまで、長い道のりを歩んできました。最後に、私たちがたどってきた『夢判断』の全体を、一本の道筋として、振り返ってみましょう。

旅は、夢に意味はあるのか、という問いから始まりました。フロイトは、従来の夢研究を批判的に検討し、夢を神託とする古代の見方も、無意味な雑音とする近代科学の見方も、ともに乗り越えようとしました。そして打ち立てたのが、「夢は解釈できる」という、第三の立場でした。

次に彼は、その解釈の方法を、自らの「イルマの注射の夢」を実例として、私たちの前で実演してみせました。心に浮かぶことを検閲せずにたどる「自由連想」によって、奇妙な夢の奥から、ひとつの願望が浮かび上がってくる。ここから、「夢は願望の充足である」という、本書の礎石が据えられました。

しかし、子どもの夢のように素直な願望充足だけでは、悪夢の存在が説明できません。そこで、夢には、目に見える顕在内容と、隠された潜在思想という二つの層があり、両者を隔てる「検閲」が、欲望を「変装」させているのだ、という考えが導かれました。夢のわかりにくさは、無意味さではなく、変装の結果だったのです。

その変装の具体的な手口が、「夢の作業」でした。複数を一つに縮める圧縮、重みをずらす置き換え、考えを映像に変える形象化、断片を物語に整える二次加工――この四つの作業が、潜在思想を、あの奇妙な夢へと作り変えていました。

さらに、夢の材料をたどると、それは前日の些細な「昼の残り」をきっかけとしつつ、本当の動力は、幼少期にまでさかのぼる根深い欲望にあることがわかりました。

そして、これほどの仕掛けが何のためにあるのかと問えば、夢は「眠りの番人」であり、欲望をその場で叶えたことにして、私たちの眠りを守っているのでした。悪夢とは、その守りが破られ、欲望が露骨に噴き出した瞬間だったのです。

こうした探究の果てに、フロイトは、心の構造そのものへとたどり着きます。気づいている「意識」、思い出せる「前意識」、そして締め出された「無意識」。夢とは、この無意識を覗き込むための王道だったのです。

そして最後に、この発見が、精神分析という巨大な潮流を生み、無意識という発想が、二十世紀の文化全体に浸透していったことを、私たちは確認しました。

こうして並べてみると、『夢判断』という本が、いかに緻密に組み上げられた、一つの建築物であったかが、よくわかります。一つひとつの章は、ばらばらの議論ではなく、夢の謎を一段ずつ深く掘り下げていく、連続した階段だったのです。

では、この長い探究を貫いている、一本の太い線とは、何だったのでしょうか。それは、次の三つの言葉に、凝縮することができます。

第一に――夢は、無意味ではない。そこには、解読できる意味がある。私たちが「わけのわからない雑音」として捨てていたものは、実は、心が語る一つの言葉でした。

第二に――心には、自分でも気づけない「無意識」という、広大な領域がある。私たちが「自分の心」だと思っているものは、その表面の、ほんの一部にすぎませんでした。

そして第三に――だからこそ、人間は、自分で思うほど「理性的な主人」ではない。私たちは、自分の心の奥で何が起きているかを、すべて知っているわけではない。私たちの背後には、自分でも気づけない力が広がっている。

この三つこそ、『夢判断』という一冊が、人類に突きつけた、根本的なメッセージでした。それは、夢についての一つの説明であると同時に、人間が自分自身をどう理解するか、その根底を揺るがす、思想の地殻変動だったのです。

そして、この百年以上前に書かれた本は、いまを生きる私たちに、いくつもの問いを投げかけてきます。

私たちは、日々、さまざまな選択をしています。何を買うか、誰を好きになるか、どんな仕事を選ぶか。私たちは、それらを「自分の意志」で決めていると、信じて疑いません。けれども、本当にそうなのでしょうか。その選択の奥に、自分でも気づかない欲望が、ひそかに働いてはいないでしょうか。私たちは、本当に、自分の行動の主人なのでしょうか。

ふとした言い間違い、理由のわからない好き嫌い、繰り返してしまう同じ失敗――そうしたものの背後に、私たち自身も知らない、心の奥からの声が、響いているのかもしれません。

そして、夢。あなたが昨夜見た、あの奇妙な夢は、いったい何だったのでしょうか。それは、現代の脳科学が言うように、眠っている脳が垂れ流す、ただの雑音なのでしょうか。それとも、フロイトが見出したように、心の奥からの、解読を待つ言葉なのでしょうか。この問いに、最終的な答えは、まだ出ていません。けれども、問い続けること自体に、意味があるはずです。

最後に、もう一つ。フロイトが私たちに残した、最も大きな問いかけを、お伝えしておきたいと思います。

自分でも気づけない「無意識」と向き合うこと――それは、苦しく、ときに恐ろしい営みかもしれません。心の奥には、認めたくないもの、目をそむけたいものが、潜んでいるのですから。けれども、その見たくない部分も含めて、自分の心の全体に向き合おうとすること。それこそが、本当の意味で「自分を知る」ということへと、つながっているのではないでしょうか。

「汝自身を知れ」――この古来の言葉に、フロイトは、意識の奥という、まったく新しい次元を付け加えました。自分を知るとは、自分の意識を知ることではなく、自分でも気づけない無意識にまで、降りていくことなのだ、と。

あなたが昨夜見た、あの夢には、意味がある。そして、その意味を読み解こうとすることは、あなた自身の、まだ知らない部分へと、降りていく旅の、始まりなのかもしれません。

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