今回も哲学書の解説シリーズです。今回は、ヘンリー・シジウィックの『倫理学の諸方法』を取り上げます。
【はじめに】:あなたの「正しさ」は、どの物差しで測られているか
みなさん、こんにちは。哲学書をやさしく、しかし手加減せずに読み解いていくこのチャンネルへようこそ。今回取り上げるのは、哲学書の読解シリーズ第百二十五弾、イギリスの哲学者ヘンリー・シジウィックの『倫理学の諸方法』です。前回、私たちはウィリアム・ジェイムズの『プラグマティズム』を読み解きました。
あのとき、ジェイムズが投げかけた問いは、実に大胆なものでした。「この観念は真か」と問う代わりに、「この観念は、実際にどんな効果をもたらすか」を問おう、と。真理とは何かをあらかじめ一つの立場から宣言するのではなく、真理を検証するための手続き――つまり「方法」――そのものを主題に据えたところに、ジェイムズの新しさがありました。奇しくも、ジェイムズが『プラグマティズム』を世に問うたのとまったく同じ一九〇七年に、もう一人の哲学者の主著が、決定版という形で刊行されています。
それが、今回取り上げるシジウィックの『倫理学の諸方法』です。この本もまた、ジェイムズと驚くほど似た構えを持っています。シジウィックは、「何が正しい行為か」を一つの立場から宣言しようとはしません。彼が主題に据えるのは、正しさを判定するための、複数の「方法」そのものを比較検討することです。
少し立ち止まって考えてみてください。あなたが何かを「これは正しい」と判断するとき、いったい何を基準にしていますか。「自分にとって得だから」でしょうか。「みんながそう言うから、常識としてそうだから」でしょうか。
それとも「関係するすべての人にとって、一番幸福な結果になるから」でしょうか。私たちは普段、こうした基準を意識的に選び取っているわけではありません。むしろ、場面に応じて、無自覚のうちにこれらを使い分けています。友人との約束を守るのは常識だからかもしれませんし、仕事で成果を出そうとするのは自分の得になるからかもしれませんし、募金をするのは困っている誰かのためかもしれません。
実は、この三つの基準――利己主義、常識道徳、そして功利主義――は、多くの場面で同じ結論を導きます。だからこそ、私たちは普段、これらの基準の違いを意識せずに済んでいるのです。けれども、これらが真っ向から対立する場面が、確かに存在します。自分を犠牲にしてでも人を助けるべきか。
誰かとの約束を破ってでも、より多くの人を救うべきか。そのとき、私たちはどの「方法」に従えばよいのでしょうか。シジウィックがこの本で挑んだのは、まさにこの問いです。そして驚くべきことに、彼は生涯をかけてこの問いに取り組み続けながら、最後まで明快な一つの答えにはたどり着けませんでした。
むしろ彼は、倫理学の根底に、決して解消できないかもしれない対立が眠っていることを、誠実に告白して筆を置くのです。これから見ていく通り、この本は「答えを与える本」ではなく、「答えを出すことがいかに難しいかを、とことん誠実に示した本」なのです。声高に理想を語る本でもなければ、シニカルに理想を切り捨てる本でもありません。なお、この本は決して読みやすい本ではありません。
シジウィックの文章は驚くほど周到で、一つの主張を通すために、あらゆる反論を先回りして検討し尽くそうとします。そのため、しばしば「退屈だ」「歯切れが悪い」とさえ評されてきました。けれども、その周到さこそが、この本の誠実さの証でもあります。安易な結論に飛びつかず、あらゆる角度から検証を重ねた末に、それでもなお解けない問題は解けないと認める。
この愚直なまでの誠実さこそ、これから九つのパートに分けてじっくりと味わっていきたいシジウィックの魅力です。この本の構成にも、あらかじめ触れておきましょう。原著は四巻構成になっています。第一巻では、そもそも倫理学とは何をする学問なのか、「方法」とは何かが定義されます。
第二巻では利己主義が、第三巻では常識道徳と直覚主義が、そして第四巻では功利主義が、それぞれ検討されます。この記事でも、この四巻構成を踏まえながら、九つのパートに分けて、最初から最後まで、順を追って丁寧に見ていきます。長丁場になりますが、シジウィックが三十年近くをかけて磨き上げた思考の道筋を、どうか腰を据えてお付き合いください。私たちは日々、大小さまざまな決断を下しています。
転職するかどうか、募金にいくら出すか、家族との約束と仕事の締め切りのどちらを優先するか。こうした決断の背後には、たいてい、いくつかの異なる正しさの基準が、無自覚のうちにせめぎ合っています。シジウィックの探究は、決してケンブリッジの書斎だけで完結する抽象論ではありません。むしろそれは、私たちが日常で当たり前のように使っている判断基準を、一つひとつ手に取って、その正体を確かめていく作業なのです。
友人が転職の相談に来たとき、あなたは「あなた自身が一番納得できる道を選びなさい」と助言するかもしれません。これは一種の利己主義的な助言です。あるいは「家族との約束を優先すべきだ」と助言するなら、それは常識道徳に基づく助言でしょう。あるいは「その転職が、関わるすべての人にとって一番良い結果をもたらすかを考えなさい」と助言するなら、それは功利主義的な助言です。
私たちは、こうした異なる種類の助言を、驚くほど自然に使い分けています。しかし、いざ三つの助言が食い違ったとき、どの助言に従うべきかを決める、さらに上位の基準を、私たちは普段持ち合わせていません。友人へのちょっとした助言一つをとっても、実は私たちは、まだ誰も解いたことのない哲学的な難問の縁に、いつも立っているのです。この本を最後まで見終えたとき、あなたがこうした場面で下す判断そのものが、少し違って見えているとしたら――それこそが、この記事が目指すゴールです。
シジウィックがこの探究に費やした慎重さは、彼の文章のリズムそのものにも表れています。急いで結論に飛びつかず、一つの語の意味を何度も確かめながら、少しずつ前に進んでいく。その歩みの遅さこそが、これから私たちが辿っていく道のりの誠実さの証でもあります。シジウィックの同時代人には、進化論のダーウィンや、経済学のジェヴォンズ、心理学の黎明期を切り拓いたウィリアム・ジェイムズなど、あらゆる分野で「人間とは何か」を科学的に問い直そうとする知性が並び立っていました。
倫理学もまた、この時代精神と無縁ではいられませんでした。シジウィックの『倫理学の諸方法』は、こうした知的動乱のただなかで、道徳という、最も人間的でありながら最も検証しにくい領域に、科学に匹敵する厳密さを持ち込もうとした、野心的な試みだったのです。地味に見えて、実はきわめてスリリングな知的探究の記録を、最初から最後まで、じっくりと辿っていきましょう。
第一章 序論――倫理学は「方法」の学問である
まず、シジウィックその人について、少し詳しく触れておきましょう。ヘンリー・シジウィックは一八三八年に生まれ、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学んだのち、同大学で長く教鞭をとった、十九世紀後半のイギリスを代表する道徳哲学者です。彼の生きた時代は、ダーウィンの進化論が発表され、キリスト教的な世界観そのものが大きく揺らいだ時代でした。シジウィック自身も、若い頃に抱いていたキリスト教信仰への確信を失い、生涯にわたって、信仰なき世界でいかに道徳の基礎を築けるかという問題と格闘し続けました。
実際、彼は一八八二年に「心霊現象研究協会」という団体を共同で設立し、初代会長も務めています。これは、降霊術やテレパシーといった心霊現象を、科学的な手続きで検証しようとする団体でした。一見、倫理学とは無関係に思えるこの活動も、実は根は一つです。信仰を失った世界で、それでも道徳と幸福が最終的には調和するという保証を、何らかの形で得られないか――この切実な問いが、心霊研究にも、そしてこれから見ていく『倫理学の諸方法』の結末にも、通底しているのです。
彼は特定の学派に属することを避け、当時対立していた様々な倫理学説を、可能な限り公平な視点から比較検討しようとしました。『倫理学の諸方法』は一八七四年に初版が刊行されて以降、シジウィックが生涯にわたって手を入れ続けた著作で、彼自身が改訂できた最後の版は一九〇一年刊行の第六版です。今日標準的に読まれている第七版は一九〇七年、彼の死の七年後に刊行されたものですが、これは本文に手が加えられていない、いわば無修正の重版にすぎません。つまりこの本は、一人の哲学者が三十年近くにわたって考え抜いた、思考のほとんど最終的な到達点そのものだと言えます。
この本の性格を理解するうえで、最も重要なのは「方法」という言葉の意味です。シジウィックは、道徳哲学にありがちな「何が善であるか」「何が正しいか」を直接主張するという態度を、あえてとりません。彼が問うのは、「正しい行為をどうやって決定するのか」という、一段うえのレベルの問いです。彼はこれを「方法」と呼びます。
つまり、行為の正しさを判定するための、合理的で体系立った手続きのことです。ある学説を「正しい教説」として擁護するのではなく、既存の道徳的な立場のそれぞれを、一つの「方法」として腑分けし、その内部の論理的な一貫性や、他の方法との整合性を検証していく。これが本書全体を貫くやり方です。今の言葉で言えば、これは規範倫理学というよりも、規範倫理学的な立場そのものを検討の対象とする、メタ倫理学に近い性格を持った試みだと言ってよいでしょう。
実際、二十世紀以降の英語圏の倫理学において、シジウィックは「最初の近代的な倫理学者」と評されることがあります。それは、彼が特定の道徳を説教するのではなく、道徳的判断そのものの構造を分析の対象にしたからです。シジウィックがこうした「方法」の比較という発想に至った背景には、当時のケンブリッジで大きな影響力を持っていた、ウィリアム・ヒューウェルの道徳哲学があります。ヒューウェルは、良心が示す個々の道徳規則を、そのまま自明の真理として受け入れる、いわば素朴な直覚主義の代表格でした。
シジウィックは、若き日にこのヒューウェル的な直覚主義に強い違和感を覚え、なぜ個々の道徳規則がそれほど確実だと言えるのか、その根拠そのものを問い直そうとしたのです。この、師の世代の道徳哲学に対する静かな異議申し立てこそが、『倫理学の諸方法』という書物全体を突き動かした、隠れた原動力だったと言えるでしょう。シジウィックが取り上げる方法は、大きく三つあります。一つ目は利己主義。
自分自身の幸福、あるいは快楽を、生涯を通じて最大化することを、行為の正しさの基準とする立場です。二つ目は直覚主義。私たちの良心や常識が、特定の行為や規則について「これは正しい」「これは間違っている」と直接に示す洞察に従う立場です。三つ目は功利主義。
自分だけでなく、関係するすべての人々の幸福の総和を最大化することを、正しさの基準とする立場です。この三つの方法は、多くの場合において同じ結論を導きます。困っている人を助けることは、多くの場合、自分にとっても、常識的にも、そして全体の幸福にとっても、正しい行為でしょう。しかし、これから見ていくように、この三つの方法が食い違う局面において、シジウィックの探究はその真価を発揮していくことになります。
なお、シジウィックはこの探究全体を通じて、「善」や「快楽」を、量的に捉えられるものとして扱っています。快楽には強さがあり、長さがあり、それゆえに、原理的には測定し、比較することができる――この前提に立つことで初めて、「快楽を最大化する」という発想そのものが意味を持ちます。もう一点、あらかじめ確認しておきたいことがあります。それは、シジウィックが議論の前提として引き受ける、いくつかの土台です。
彼は、倫理学が成り立つためには、少なくとも自由意志が存在すること、善悪の区別が単なる個人の好みではなく客観的に意味を持つこと、そして将来の自分も現在の自分と同じように配慮に値すること、といったいくつかの前提が必要だと考えます。これらの前提そのものを、この本の中で一から厳密に証明しようとはしていません。むしろシジウィックは、これらを一種の作業仮説として引き受けたうえで、その先にある「では、どの方法が最も理にかなっているか」という、より具体的な問いに焦点を絞っていきます。この、土台となる前提と、その先の各論とを、意図的に切り分けるやり方もまた、シジウィックの周到さをよく表しています。
たとえば「殺人は悪である」という道徳的な主張そのものを吟味するのではなく、「なぜ私たちは殺人を悪だと判断するのか、その判断はどのような手続きによって正当化されるのか」を問う。この視点の違いは、一見些細に思えるかもしれませんが、倫理学という学問のあり方を大きく変える視点の転換でした。シジウィックより前の道徳哲学の多くは、いわば一つの答えを掲げた旗印のようなものでした。功利主義者は功利主義を、直覚主義者は直覚主義を、それぞれ自陣の正しさを主張し合っていたのです。
シジウィックは、そうした党派的な対立からあえて一歩身を引き、審判のような立場から、それぞれの主張の内部構造を、公平に検証しようとしました。この視点の転換によって、倫理学は、特定の道徳を布教する営みから、道徳的判断そのものの構造を解剖する、より学問的な営みへと、大きく舵を切ることになったのです。この態度は、当時のイギリス哲学に広く見られた、経験論的な慎重さの表れでもあります。大陸の哲学者たちが壮大な体系を一気に打ち立てようとしたのに対し、シジウィックは、目の前の一つひとつの道徳的直観を、辛抱強く積み上げていく道を選んだのです。
これは次章以降、利己主義や功利主義における「快楽の計算」という、この本全体を通じて繰り返し立ちはだかる難問に直結していきます。
第二章 利己主義の方法――徹底された自己利益の論理
三つの方法のうち、シジウィックがまず検討するのは利己主義です。合理的利己主義とは、単に目先の欲望のままに振る舞うことではありません。それは、自分にとって善いことを、一時の衝動ではなく、生涯全体を見渡した上で、最大限に実現しようとする、極めて理性的な態度です。今日の快楽を我慢してでも、将来により大きな快楽を得られるなら、そちらを選ぶ。
これは、多くの人が実際に、日常のなかで行っている判断でもあります。たとえば、若いうちに勉強や仕事に励むのも、老後のために貯蓄をするのも、健康のために好きな食べ物を控えるのも、すべて広い意味での合理的利己主義の実践だと言えるでしょう。シジウィックは、こうした態度を「思慮深さ」と呼び、単なる刹那的な快楽主義とは明確に区別しています。しかし、この立場を突き詰めていくと、すぐに大きな難問にぶつかります。
それは、快楽をどうやって計算するのか、という問題です。今この瞬間の強い快楽と、遠い将来に得られるかもしれない、より穏やかで長続きする快楽とを、どうやって同じ物差しの上で比較すればよいのでしょうか。しかもここで、シジウィックは一つの重要な原則を打ち出します。彼は、快楽には「質」の違いがあるという考え方を、はっきりと退けるのです。
かつてジョン・スチュアート・ミルは、知的な快楽と肉体的な快楽との間には、質的な違いがあると論じ、「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい」という有名な言葉を残しました。しかしシジウィックは、もし快楽の「質」が本当に問題になるのだとしたら、それは結局、その快楽がどれだけ強く、どれだけ長く続くか、という量的な尺度に還元できる限りにおいてしか、意味を持たないと考えます。つまり、詩を読む喜びが酒を飲む快楽よりも「質が高い」とシジウィックが認めるとしても、それは詩の喜びが、より強く、より長く、より深く心を満たすからにほかならず、質という別次元の物差しが新たに必要になるわけではない、というのです。快楽は、強度と持続という、二つの量的な軸によってしか、原理的には測ることができない。
これが、シジウィックの一貫した立場です。ここでシジウィックは、快楽主義がもともと抱えている、もう一つの興味深い逆説にも触れています。それは「快楽主義のパラドックス」と呼ばれるものです。快楽そのものを目的として追い求めれば追い求めるほど、かえって快楽は逃げていく、という逆説的な現象です。
たとえば、楽しもうと意識しすぎたパーティーほどつまらなく感じられ、何かに没頭して快楽そのものを忘れているときにこそ、深い満足感が訪れる。シジウィックはこの逆説を認めながらも、だからといって快楽主義そのものが誤りだとは考えません。彼が導き出すのは、むしろ実践的な教訓です。すなわち、快楽を最大化するための最も賢い戦略は、快楽そのものを直接に追い求めるのではなく、仕事や人間関係、知的探究といった、快楽以外の目的に没頭することだ、という教訓です。
目的と手段がねじれるこの逆説は、利己主義という方法の内部にある、独特の奥深さを示しています。この量的な快楽計算という考え方に立つと、利己主義は、それ自体としては極めて筋の通った、論理的に一貫した体系として成立します。自分の生涯全体における快楽の総量を最大化するという目標は、内側から見る限り、矛盾を含んでいません。ここで注意すべきなのは、シジウィックが利己主義を、道徳的に劣った、あるいは幼稚な立場として片付けていない、ということです。
彼はむしろ、利己主義が持つ理性的な強さを、正面から認めます。実際、私たちの多くは、「自分の将来のために今を我慢する」という判断を、誰に教わるでもなく自然に行っており、それが単なる本能ではなく、一種の理性的な推論であることを、経験的に知っています。けれども、ここに一つの重大な欠落があります。利己主義という枠組みの内部からは、「他人の利益や幸福を考慮に入れるべきだ」という主張が、決して出てこないのです。
なぜ私は、自分の快楽の総量を減らしてまで、見知らぬ誰かの幸福に配慮しなければならないのか。利己主義者にとって、他者への配慮は、それが巡り巡って自分の利益になる限りにおいてしか、正当化されません。純粋な自己犠牲、つまり自分には何の見返りもないにもかかわらず、他者のために自分の幸福を差し出すという行為は、利己主義の理屈の中では、単なる非合理な逸脱でしかなくなってしまいます。この問いに対して、利己主義はまったく答えを持ちません。
この一見小さな欠落こそが、実はこの本全体の最後、私たちがこれから何章もかけて辿り着く「実践理性の二元性」という、最も深刻な対立の出発点になっていきます。ここで一つ、具体的に考えてみましょう。医師を志すか、より高収入の実業家を志すか、迷っている若者がいるとします。利己主義の立場に立てば、この選択は、生涯を通じてどちらがより大きな快楽の総量をもたらすかという、一つの計算問題になります。
目先の年収だけでなく、仕事のやりがい、健康への負担、老後の満足感まで含めて、生涯全体を見渡した計算が必要になる。しかもここには、もう一つの厄介な非対称性が潜んでいます。今の自分が感じている快楽と、二十年後の自分が感じるはずの快楽とを比較することは、赤の他人同士の快楽を比較することよりも、実はやさしいとは限りません。二十年後の自分は、もはや今の自分とは違う価値観を持っているかもしれないからです。
シジウィックは、この時間を隔てた自分自身との比較という問題にも、慎重に目を向けています。ここでもう一つ、重要な区別を押さえておきましょう。快楽の「強度」とは、その瞬間にどれだけ強く感じられるかということであり、「持続」とは、その快楽がどれだけ長く続くかということです。加えてシジウィックは、その快楽がどれだけ確実に得られるか、どれだけ近い未来に得られるか、といった要素も、広い意味での計算に含めています。
目先の小さな快楽を確実に得ることと、遠い将来の大きな快楽に賭けることと、どちらが合理的か。これもまた、利己主義という方法が内部に抱える、尽きることのない計算の難しさの一つです。こうした計算の難しさそのものが、実は利己主義という方法の限界を、静かに物語ってもいます。完璧な計算などおよそ不可能であるにもかかわらず、それでも人は、生涯を通じてより良い選択をしようと努め続けるのです。
この計算の困難さは、裏を返せば、利己主義という方法が、決して安易な自己中心主義とは違うことも示しています。真剣に自分の生涯全体を思慮深く生きようとすればするほど、計算は複雑になり、単純な損得勘定では済まなくなっていくのです。この難問を前にしても、シジウィックは安易な近道を選びません。快楽を測る完璧な物差しが手に入らないからといって、快楽の計算そのものを放棄してしまえば、利己主義という方法は成り立たなくなってしまいます。
だからこそ彼は、不完全な計算であっても、できる限り理性的に、できる限り公平に行おうとする態度そのものに、意味を見出そうとするのです。ここでは、利己主義という立場が、それ自体としては合理的に成立してしまうという事実だけを、しっかりと記憶にとどめておいてください。
第三章 常識道徳と直覚主義①――「良心」は何を語っているのか
利己主義の次にシジウィックが検討するのは、直覚主義です。直覚主義とは、個々の行為や道徳規則について、私たちの良心、あるいは道徳的な直観が、特別な推論を経ることなく、直接に「これは正しい」「これは間違っている」と示すのだ、とする立場です。嘘をついてはいけない、約束は守るべきだ、恩を受けたら返すべきだ――私たちが日常のなかで当たり前のように従っているこうした格率は、多くの場合、こうした直接的な道徳的直観に支えられています。誰かに「なぜ嘘をついてはいけないのか」と尋ねられたとき、多くの人はうまく理由を説明できないまま、それでも「嘘は悪い」と確信しています。
この確信の源泉こそが、直覚主義が着目する対象です。シジウィックがここで採用する方法は、常識道徳を、いきなり否定したり、逆にそのまま無批判に受け入れたりすることではありません。彼は、日常語られている道徳的な格率を一つひとつ取り上げ、それを哲学的に厳密化できるかどうかを、丁寧に検証していきます。この検証の過程で、シジウィックは直覚主義を、さらに二つの水準に区別します。
一つは、個々の具体的な行為や、個別の道徳的格率そのものを、そのまま自明の真理として受け入れる、いわば素朴で知覚的な直覚主義です。これは、ちょうど「この行為は正しい」という判断を、色を見るのと同じように、直接的な知覚として捉える立場だと言えます。もう一つは、そうした個別の格率の背後に潜む、もっと少数の、より一般的な原理を探し求める、哲学的な直覚主義です。シジウィックが本当に関心を寄せるのは、この哲学的な直覚主義のほうです。
なぜなら、単に「約束を守れ」「嘘をつくな」といった個々の格率をばらばらに並べているだけでは、それらの格率同士が矛盾する場面――たとえば、約束を守ることが、結果として誰かを深く傷つけてしまうような場面――に直面したとき、どちらを優先すべきかを決める手立てがないからです。哲学的な直覚主義が目指すのは、こうした個々の格率をすべて包摂できるような、より根本的な公理を見出すことです。シジウィックはこの哲学的直覚主義の探究にあたって、しばしば具体的な徳目を手がかりにします。たとえば「恩を受けたら感謝し、それに報いるべきだ」という格率を考えてみましょう。
これは一見、誰も疑わない自明の真理に思えます。けれども、なぜ感謝しなければならないのか、どの程度まで報いれば十分なのか、恩を受けた側の事情によって義務の重さは変わるのか――こうした問いを突き詰めていくと、この格率もまた、単純な自明性だけでは支えきれなくなっていきます。ヒューウェルのような素朴な直覚主義者は、こうした格率をそのまま人間の道徳意識に刻まれた確固たる真理として扱いましたが、シジウィックは、格率の自明性を主張する前に、まずその格率が本当に例外のない普遍性を持つかどうかを、一つひとつ吟味しなければならないと考えたのです。では、そのような「真の公理」であるためには、どのような条件が必要でしょうか。
シジウィックは、いくつかの厳格な基準を挙げています。第一に、その原理は、言葉の意味において明晰でなければなりません。曖昧な言葉で語られる格率は、いくらでも都合よく解釈できてしまい、公理としての資格を持ちません。第二に、それ自体として自明であり、他の証明を必要としないこと。
第三に、他の、同じように自明とされる原理と、決して矛盾しないこと。そして第四に、その分野に通じた思慮深い人々の間で、広く一致が見られること。もし専門家の間でさえ意見が割れるような原理があるとすれば、それは本当の意味での自明性を欠いていると、シジウィックは考えます。シジウィックはこの基準を、実際にいくつかの候補となる格率に当てはめて、一つずつ吟味していきます。
たとえば「いかなる場合も、偽りを述べてはならない」という格率はどうでしょうか。命を狙う者に、逃げた相手の居場所を尋ねられた場面を想像すれば、多くの人はこの格率にためらいを覚えるはずです。あるいは「悪をなして善をもたらしてはならない」という、一見もっともらしい格率はどうでしょうか。これも、何をもって悪と呼ぶかがあらかじめ定義されていなければ、実質的な中身を持ちません。
シジウィックは、こうした一見自明に思える格率の候補を次々と俎上に載せては、例外のない普遍性という高いハードルの前で、その多くが崩れていく様子を、丹念に記録していきます。興味深いのは、シジウィックがこうした基準の検討にあたって、決して皮肉屋にはならないという点です。彼は、常識道徳を打ち壊すことを目的としているのではありません。むしろ、常識道徳が長い年月をかけて蓄積してきた知恵には、深い敬意を払っています。
彼が求めているのは、その知恵を、単なる思い込みの集積から、理性的に正当化できる体系へと、鍛え直すことなのです。この姿勢は、伝統を頭ごなしに否定する急進主義とも、伝統を無批判に受け入れる保守主義とも異なります。シジウィックは、伝統的な道徳の背後にある理由を掘り起こし、その理由が本当に理にかなっているかどうかを、一つひとつ吟味するという、地道な中道を歩んだのです。実際、私たちが日々従っている常識道徳の多くは、何世代にもわたる人類の試行錯誤の集積でもあります。
シジウィックの仕事は、その集積を否定することではなく、その集積になぜ価値があるのかを、理性の言葉で語り直すことだったのです。この地道な検証の姿勢は、次章でさらに具体的な徳目へと向けられていきます。慎慮、せいぎ、誠実、仁愛――これらの言葉を、私たちは普段あまりに当たり前に使いすぎていて、その意味を深く問い直す機会を持ちません。次章では、その当たり前を、一つずつ丁寧に解きほぐしていきます。
この四つの基準は、次章で見ていくように、実は個々の徳目のほとんどが満たすことのできない、極めて高いハードルなのです。
第四章 常識道徳と直覚主義②――徳目という名の迷路
前章で示した「真の公理」の条件に照らして、シジウィックは実際に、常識道徳が重んじる具体的な徳目を、一つひとつ検証していきます。慎慮、せいぎ、誠実、仁愛――これらは、誰もが疑いなく重要だと考えている徳目です。しかし、シジウィックがそれぞれの徳目を厳密に定義しようと試みるたびに、決まって同じことが起こります。一見自明に見えたその格率が、あらゆる場面に無条件で当てはまるわけではない、ということが明らかになっていくのです。
たとえば「約束は守るべきだ」という格率を考えてみましょう。一見、これほど自明な道徳的規則もないように思えます。けれども、もしその約束を守ることで、無関係な誰かに重大な危害が及ぶとしたらどうでしょうか。あるいは、約束を交わした当時とは状況がまったく変わってしまい、相手自身がもはやその約束の履行を望んでいないとしたらどうでしょうか。
さらに言えば、幼い子どもとの他愛のない約束と、生涯を左右するような重大な約束とでは、それを破ることの重みもまったく異なります。常識は、こうした違いを直感的には理解していますが、その違いを説明する明確な原理を持ち合わせていません。「誠実であれ」という格率についても同様です。すべての状況で、いかなる場合も真実を告げることが正しいのだとしたら、たとえば人を傷つけるためだけに嘘をつこうとしている相手に、その計画の詳細を尋ねられたときにも、正直に答えるべきだということになってしまいます。
あるいは、重い病を患う患者に、余命について包み隠さず告げることが、常に最善なのかという問題もあります。多くの人の直観は、そうした極端な場面では、むしろ抵抗を覚えるはずです。正義という徳目についても、シジウィックは厳しい目を向けます。何を「公正な分配」と呼ぶかについて、能力に応じた分配、必要に応じた分配、貢献に応じた分配など、常識道徳のなかにはいくつもの異なる、しかも互いに両立しない基準が、無自覚のまま同居しています。
ある人は「働いた分だけ受け取るべきだ」と考え、別の人は「困っている人により多く分け与えるべきだ」と考える。どちらも常識的な正義感に根ざしていますが、両者は容易に衝突します。しかも、この対立は単なる個人の意見の違いにとどまりません。同じ一人の人間の中にさえ、この二つの正義感が同居しており、場面によってどちらを優先するかが揺れ動いているのです。
仁愛についても、私たちは家族や身近な人には強い仁愛を感じますが、見知らぬ遠くの他者にはそうではありません。目の前で困っている家族には誰もが強い義務を感じる一方で、遠く離れた見ず知らずの他者の苦しみには、同じ強さの義務を感じる人は多くありません。この違いを、単なる感情の強さの差としてではなく、道徳的に正当な区別として説明しようとすると、たちまち行き詰まってしまいます。こうした検証を積み重ねた末に、シジウィックが導き出す結論は、決定的です。
常識道徳の個々の格率は、それ単独で自明の真理として自立しているのではなく、実はその背後で、無自覚のうちに、より広い範囲の人々の幸福への配慮――つまり功利主義的な考慮――によって、静かに支えられている、というのです。「なぜその徳目を重んじるべきなのか」を突き詰めて問い続けると、最終的にはほとんど例外なく、人々の幸福や利益への配慮に行き着いてしまう。約束を守るべきなのは、それが社会全体の信頼関係を支えるからであり、正直であるべきなのは、それが人々の間の意思疎通を健全に保つからだ、という具合にです。だとすれば、直覚主義は、それ単独では体系として自立することができません。
正義という徳目については、もう一歩踏み込んで考えてみる価値があります。ある会社で、成果を上げた社員に多くの報酬を与えるべきだという貢献に応じた分配と、生活に困っている社員により手厚く配慮すべきだという必要に応じた分配は、どちらも常識的な正義感に根ざしていますが、実際の場面では鋭く対立します。シジウィックは、常識道徳がこの対立に対して、あらかじめ用意された明確な優先順位を持っていないことを指摘します。私たちは状況に応じて、あるときは貢献を、あるときは必要を優先しますが、その切り替えの基準そのものは、常識道徳の内部からは出てこないのです。
誠実、慎慮、勇気といった、私たちが古くから重んじてきた徳目の多くは、こうしてシジウィックの手にかかると、それぞれ単独では自立できない、脆さを抱えたものとして姿を現します。けれども、これは徳目そのものの価値を否定する話ではありません。むしろシジウィックが示したのは、徳目の価値を本当に理解するためには、その徳目がなぜ大切なのかという、もう一段深い理由にまで降りていく必要がある、ということでした。こうした徳目の脆さを直視することは、決して後ろ向きな作業ではありません。
むしろそれは、なぜ私たちが誠実であるべきなのか、なぜ勇気を持つべきなのかを、より深いレベルで理解し直す機会でもあるのです。常識道徳がこうして功利主義へと接続されていく様子は、まるで、ばらばらに散らばっていたパズルのピースが、一つの絵として組み上がっていく過程にも似ています。次章では、この組み上がった絵の全体像を、より詳しく見ていくことになります。常識道徳の限界を指摘するこの作業は、ともすれば冷たい分析のように見えるかもしれません。
しかしシジウィックの筆致には、常に、常識道徳を作り上げてきた無数の人々の営みへの、静かな敬意が滲んでいます。彼が壊そうとしているのは常識道徳そのものではなく、常識道徳を無批判に絶対視してしまう、私たちの側の怠慢さなのです。この発見が、次章から本格的に展開される、功利主義への足がかりとなっていきます。
第五章 功利主義の方法――幸福の総和という尺度
こうして私たちは、三つ目の方法、功利主義へとたどり着きます。シジウィックが定義する功利主義は、普遍的快楽主義と呼ぶべきものです。これは、自分自身だけでなく、その行為によって影響を受けるすべての存在――関係するすべての人々、場合によっては人間以外の存在も含めて――の快楽の総和を最大化することを、行為の正しさの基準とする立場です。ベンサムやミルによって十九世紀前半に体系化された功利主義を、シジウィックはさらに厳密な哲学的検討にかけ、その基礎づけを問い直します。
ここで思い出してほしいのは、第二章で見た利己主義の枠組みです。利己主義は、自分自身の快楽の総量を、生涯にわたって最大化しようとする立場でした。功利主義は、いわばこの計算の対象を、自分一人から、関係するすべての人々へと拡張したものだと考えることができます。しかし、この拡張は、決して自明のものではありません。
なぜ、自分自身の快楽計算にとどまらず、赤の他人の快楽までも、自分の行為の正しさを決める計算に含めなければならないのか。この問いにきちんと答えることこそが、シジウィックにとっての大きな課題になります。この課題への本格的な取り組みは、次章であらためて扱うことにして、ここではまず、功利主義という方法そのものの姿を、しっかりと確認しておきましょう。功利主義を実際に運用しようとすると、実務的な困難がすぐに立ちはだかります。
快楽は強度と持続という量的な尺度でしか測れません。ところが功利主義では、この快楽の量を、自分一人の内部だけでなく、無数の異なる人々の間で比較し、足し合わせなければならないのです。ある人にとっての強い喜びと、別の人にとっての穏やかな満足を、どうやって同じ物差しの上に載せて比較すればよいのか。さらに言えば、ある行為が将来にわたってどれだけの快楽や苦痛を生み出すかを、正確に予測することもほとんど不可能です。
今日の親切な行為が、巡り巡って何年も先に、思いもよらない不幸を誰かにもたらすかもしれない。この個人間の快楽比較という問題、そして未来予測の不確実性という問題は、今日に至るまで、功利主義に対する根本的な批判のひとつであり続けています。シジウィック自身も、この困難を十分に自覚していました。だからこそ彼は、功利主義を無条件に正しいとは主張せず、あくまで一つの「方法」として、他の方法と比較検討する姿勢を貫いたのです。
そのうえで功利主義は、前章までで見てきた常識道徳や直覚主義に対して、ひとつの大きな強みを持っています。常識道徳の個々の規則は、多くの場合、功利主義的な観点から見ても、十分に合理的な規則として説明し直すことができるのです。約束を守るという規則も、誠実であるという規則も、それが社会全体で広く守られることによって、結果として関係者全体の幸福が増大するのだと理解すれば、なぜその規則が重要なのかを、一貫した形で説明できます。つまり功利主義は、直覚主義が抱えていた、個々の格率がばらばらに並んでいるだけで体系性を欠くという弱点を、克服しうる可能性を持っているのです。
常識道徳がいわば経験則の寄せ集めであるのに対して、功利主義はそれらの経験則がなぜ経験則として機能してきたのかを説明できる、より根源的な理論だと言えるかもしれません。さらにシジウィックは、功利主義を実際の社会でどう運用するかという、きわめて実践的な、そしてある意味で挑発的な問題にも踏み込んでいます。それは「秘教的道徳」と呼ばれる論点です。もし、ある行為が功利主義的に見て正しいとしても、その正しさの理屈を広く社会全体に公表してしまうと、かえって常識道徳への信頼が損なわれ、結果として社会全体の幸福が減ってしまう場合がありうる。
だとすれば、そうした功利主義的な真理は、一部の思慮深い人々の間だけにとどめておき、一般の人々には、これまで通りの常識道徳を守らせておくほうが、功利主義的に見てむしろ正しい、という逆説的な結論が導かれかねません。シジウィックはこの論点を、決して得意げに語ってはいません。むしろ、功利主義を徹底すると、功利主義の理屈そのものを隠さなければならない場面が生じかねないという、この方法に内在する居心地の悪さを、正直に指摘しているのです。この秘教的道徳という論点は、のちの倫理学者たちにも大きな波紋を投げかけました。
現代の哲学者バーナード・ウィリアムズは、こうした発想を皮肉を込めて「お屋敷の功利主義」と呼び、一部の知的エリートが真理を独占し、大衆には別の道徳を与えるという構図そのものに、強い警戒を示しています。シジウィックがこの論点を提示したのは、功利主義を推奨するためではなく、むしろ功利主義を徹底したときに何が起こりうるかを、目を背けずに検証するためでした。功利主義が持つもう一つの魅力は、その射程の広さです。人間だけでなく、苦痛や快楽を感じる存在であれば、その範囲に含めて考えるべきだという発想は、のちに動物の福祉をめぐる倫理的な議論にも、大きな影響を与えていくことになります。
関係するすべての存在の幸福を勘定に入れるという、この方法の徹底した公平さこそが、功利主義を単なる一つの学説以上の、強い訴求力を持つ方法にしているのです。もっとも、この射程の広さは同時に、功利主義に固有の重い負担をも意味します。関係する存在の範囲が広がれば広がるほど、計算しなければならない快楽と苦痛の総量も、際限なく膨れ上がっていくからです。こうして功利主義という方法の輪郭が見えてきたところで、次はいよいよ、シジウィックがこの方法をどのように基礎づけようとしたのか、その核心に踏み込んでいきます。
この率直さもまた、シジウィックという哲学者の誠実さをよく表しています。
第六章 功利主義の証明――収斂という戦略
ここまでの道筋を踏まえて、シジウィックはいよいよ、功利主義そのものを積極的に基礎づけようと試みます。ただし、ここで注意しなければならないのは、シジウィックが目指すのが、数学の定理のような、厳密で一義的な演繹的証明ではない、という点です。彼が採用するのは、複数の、互いに独立した道筋が、最終的に同じひとつの結論へと収斂していくことを示すという、いわば説得の戦略です。その第一の道筋は、直覚主義そのものが行き着く、少数の哲学的公理から辿るものです。
シジウィックは、「真の公理」の厳しい条件を、実際にくぐり抜けられる原理を探し求めた結果、最終的にごくわずかな数の抽象的な公理にたどり着きます。それは、正義の公理、慎慮の公理、そして合理的仁愛の公理です。正義の公理とは、似た状況にある者は似たように扱われるべきだという、いわば形式的な公平性の原理です。慎慮の公理とは、自分の生涯全体における善を、時間の隔たりにかかわらず公平に配慮すべきだという原理です。
ここで重要なのは、この慎慮の公理――自分自身の生涯全体における善を、公平に配慮すべきだという原理――が、実は利己主義そのものを理性的に基礎づける公理になっている、という点です。そして正義の公理と、合理的仁愛の公理は、これを敷衍していくと、そのまま功利主義の原理、つまり関係するすべての人々の幸福の最大化という原理に一致していくのです。シジウィックはこの合理的仁愛の公理を、後年にまで語り継がれる、印象的な言葉で表現しています。「宇宙の観点から見れば、もしそう言ってよければ、ある一人の善は、他の誰の善よりも重要というわけではない」。
この一文は、『倫理学の諸方法』の中でも最も広く引用される一節です。自分の視点から見れば、当然、自分の幸福は特別な重みを持っています。しかし、あらゆる主観的な視点を離れた、いわば宇宙全体を見渡すような公平な視点に立てば、自分の幸福も他人の幸福も、等しく一票を持つにすぎない。この公平な視点こそが、功利主義を理性的に正当化する、最後の足場になっているのです。
つまり、直覚主義を突き詰めて得られる少数の公理そのものが、利己主義と功利主義という、二つの異なる方法を、それぞれ別の角度から理性的に基礎づけてしまう、という、驚くべき事態が生じます。第二の道筋は、常識道徳の徳目の検討そのものです。慎慮、せいぎ、誠実、仁愛といった個々の徳目を厳密に検証していくと、それらはほとんど例外なく、関係する人々の幸福への配慮という、功利主義的な理由づけへと収斂していくのでした。この二つの、まったく性質の異なる道筋――抽象的な哲学的公理からの道筋と、具体的な常識道徳の検討からの道筋――が、どちらも同じ功利主義という結論に行き着く。
この収斂こそが、シジウィックが提示する、功利主義の「証明」の実質的な中身です。彼自身の言葉を借りれば、これは幾何学の証明のような一本道の論証ではなく、いくつもの異なる方角から同じ山頂を目指す登山道のようなものだと言えるでしょう。ここまでの探究をいったん整理してみましょう。利己主義は、それ自体としては論理的に一貫していますが、他者への配慮を組み込むことができません。
直覚主義は、常識的な道徳感覚に忠実である一方、個々の格率がばらばらで、体系としての一貫性を欠いていました。そして功利主義は、体系としての一貫性を備え、常識道徳の多くの規則を、合理的な形で説明し直すことができる。三つの方法を比較する限り、功利主義は、最も包括的で説得力のある方法であるように見えます。この収斂という手続きは、証明としては物足りないと感じる読者もいるかもしれません。
実際、シジウィック自身も、この道筋が幾何学の証明のような、反論の余地のない厳密さを持たないことを、率直に認めています。それでもなお、彼がこの収斂という手続きにこだわったのは、倫理学における真理が、自然科学のような一つの実験や観察によって一挙に確証されるものではなく、複数の異なる角度からの吟味を積み重ねることで、少しずつ確からしさを高めていくほかない、という彼自身の学問観があったからです。ここで、これまで検討してきた三つの方法の関係を、あらためて図式的に捉え直してみましょう。利己主義は「私」を中心に置く方法であり、直覚主義は「私たちの慣習」を中心に置く方法であり、功利主義は「すべての人」を中心に置く方法です。
視野がだんだんと広がっていくこの三段階は、単なる偶然の並びではありません。シジウィックの探究そのものが、視野の狭い立場から、より広い立場へと、一歩ずつ視野を広げていく構造を持っているのです。この三段階の広がりを踏まえると、なぜシジウィックが功利主義に最も強く惹かれたのかも、自然と見えてきます。視野の広さという一点において、功利主義は他の二つの方法を、明らかに凌駕しているのです。
この二つの道筋がどちらも同じ結論に行き着くという事実は、単なる偶然の一致では片付けられません。むしろそれは、私たちの道徳的な思考そのものが、いくつかの異なる入り口を持ちながらも、根底では一つにつながっていることを示唆しているのです。この収斂の議論を読み終えたとき、多くの読者は、ようやく一つの答えにたどり着いたという安堵を覚えるかもしれません。三つの方法のせめぎ合いの末に、功利主義という、最も筋の通った方法が勝ち残った――そう感じても、決して不自然ではありません。
けれども、シジウィックの探究は、ここで終わりません。むしろ、本当の意味でこの本が読者に突きつける難題は、次の章から始まるのです。実際、この時点までの議論だけを読めば、シジウィックは功利主義の擁護者として本書を締めくくるだろうと、多くの読者は予想するはずです。
第七章 実践理性の二元性――解けなかった対立
功利主義が、体系としては最も優れているように見える。ここまでの議論を素直に読めば、そう結論づけたくなるところです。しかし、シジウィックはここで踏みとどまります。彼は、功利主義がどれほど体系的に優れていようとも、なお解消されない、ひとつの深刻な問題が残っていることを、正直に認めるのです。
その問題とは、こういうことです。なぜ私は、自分自身の幸福を犠牲にしてまで、赤の他人を含めた全体の幸福を優先しなければならないのか。利己主義は、それ自体の内部では、完全に理性的に一貫した立場として成立していました。そして功利主義もまた、慎慮の公理とは異なる、合理的仁愛の公理によって、理性的に基礎づけられています。
つまり、利己主義の合理性は、功利主義によって完全に論駁されているわけではないのです。両者は、それぞれ異なる自明の公理――慎慮の公理と、合理的仁愛の公理――に基づいて、それぞれの内部では等しく理性的でありうる、二つの異なる体系として、並び立ってしまうのです。シジウィックはこの事態を、実践理性の二元性と呼びます。「自分自身の幸福を追求せよ」という理性の命令と、「関係するすべての人々の幸福を追求せよ」という理性の命令が、同じひとつの理性の内部に、優劣のつけようもなく同居してしまっている。
片方を選べば、もう片方の理性的な要求を切り捨てることになる。しかも、そのどちらを切り捨てる根拠も、理性そのものの内部からは見つからない。シジウィックは、この対立を解消しようと、いくつかの道を試しています。たとえば、進化論的な説明はどうでしょうか。
人間が仁愛や公共心を自然に備えているのは、そうした性質を持つ集団のほうが生存に有利だったからだ、という進化論的な説明です。しかし、たとえこの説明が事実として正しいとしても、それは「なぜ仁愛的に振る舞う性質が生まれたか」を説明するだけであって、「なぜ今この瞬間に、自分がその性質に従うべきか」という規範的な問いには、何も答えていません。あるいは、多くの人々の合意や共通感覚に訴える道はどうでしょうか。しかしこれも、単に「多くの人がそう感じている」という事実を示すだけで、その感じ方が理性的に正当化されるかどうかとは、また別の問題です。
こうして、あらゆる自然主義的な説明の道を検討し尽くした末に、シジウィックは、純粋に哲学的な論証だけでは、この対立を埋められないという結論に、追い詰められるようにして到達するのです。これが、この本全体が最終的に行き着く、最も深刻な診断です。この結論を、シジウィック自身は、初版の結論部において、驚くほど率直な言葉で表現しています。実践理性がこのように引き裂かれているのだとすれば、私たちが依って立つべき「義務の秩序ある宇宙」は、実は「混沌」へと帰着してしまうかもしれない、と。
倫理学という学問が、人間の行為に秩序と根拠を与えるための営みであるとすれば、これはほとんど、その学問的な企て自体の挫折を意味しかねない告白です。この一節の言い回しは、版を重ねるごとにいくらか穏当な表現へと調整されていきますが、実践理性がふたつに引き裂かれているという診断そのものは、シジウィックが最後まで撤回することはありませんでした。それでは、シジウィックはこの対立を、最終的にどう扱おうとしたのでしょうか。彼が最後に持ち出すのは、ひとつの宗教的な仮説です。
もし神が存在し、来世において徳と幸福とが最終的に一致するように取り計らわれているのだとすれば、自分自身の幸福を追求することと、全体の幸福を追求することとは、長い目で見れば矛盾しなくなるかもしれない。この発想は、決して唐突なものではありません。冒頭で触れた通り、シジウィックは信仰への確信を失いながらも、心霊現象の研究に生涯にわたって心血を注ぎ続けた人物でした。降霊術やテレパシーの科学的検証に彼が執着した背景には、道徳と幸福が最終的に調和するという保証を、信仰によってではなく、何らかの経験的な手がかりによって得たいという、切実な願いがあったのです。
『倫理学の諸方法』の結末に姿を見せる宗教的な仮説は、こうした彼の生涯の探究と、決して無縁のものではありません。ただし、シジウィック自身が明確に断っている通り、これは哲学的な論証によって導かれた結論ではなく、あくまで一つの希望的な仮説にすぎません。哲学的な論証だけをたどる限り、この対立は最終的には解消できない。この結末を、拍子抜けだと感じる読者も少なくないでしょう。
三十年近くをかけて、あれほど周到に議論を積み重ねてきた哲学者が、最後の最後で、証明ではなく希望的な仮説に頼らざるを得なかったのですから。けれども、この着地の仕方こそが、シジウィックという哲学者の本質を最もよく表していると言えるかもしれません。彼は、自分の議論の届く範囲と、届かない範囲とを、最後まで正直に見極め続けました。届かない先を、無理にこじつけて埋め合わせることをしなかった。
この禁欲的なまでの誠実さゆえに、『倫理学の諸方法』は、明快な処方箋を求める読者を満足させることはありません。しかし、まさにその不満足さこそが、この本が百五十年近くにわたって読み継がれてきた理由でもあるのです。この実践理性の二元性という問題は、抽象的な議論のための議論ではありません。たとえば、重い税金を納めて社会保障を手厚くするか、税金を軽くして個人の自由な選択に委ねるか、という現代の政治的な対立の根底にも、実は同じ構造の対立が潜んでいます。
自分の取り分を守ろうとする理屈と、社会全体の利益を優先しようとする理屈は、それぞれの内部では十分に理にかなっており、どちらか一方だけが理性的だとは言い切れません。シジウィックが百年以上前に見出したこの対立の構図は、形を変えながら、今なお私たちの社会のいたるところに姿を現しているのです。税と社会保障の例に限らず、家庭内での家事分担、職場での評価制度、国際社会での資源配分など、あらゆる場面でこの対立の影を見つけることができます。シジウィックの診断が、今なお色褪せない理由がここにあります。
この宗教的な仮説は、あくまで哲学的な論証の限界を認めたうえでの、いわば最後の一手です。シジウィックがこの一手を封印せずに書き記したことこそ、彼の誠実さの、最後の、そして最も痛切な現れだったと言えるでしょう。シジウィックが最後にたどり着いたこの地点は、決して敗北宣言ではありません。むしろそれは、人間の理性がどこまで届き、どこから先は届かないのかを、正確に測量し尽くした末の、一つの到達点です。
安易な確信よりも、誠実な不確実性を選んだ哲学者として、シジウィックはこの本の最後のページを閉じるのです。これが、シジウィックが誠実に示した、この本の結末です。
【まとめ】:この本が問いかけるもの
ここまで、シジウィックの『倫理学の諸方法』を、序論から最後の対立まで、順を追って辿ってきました。あらためて全体の流れを振り返っておきましょう。倫理学とは特定の答えを与える学問ではなく、答えを出すための「方法」そのものを比較検討する学問なのだという構えから出発し、自分自身の幸福を最大化する利己主義が、それ自体として理性的に一貫しうる立場であることを確認しました。次に、常識道徳と直覚主義を検討し、個々の徳目がそれ単独では自明の真理として自立できず、実は功利主義的な考慮に無自覚のうちに支えられていることを明らかにしました。
そのうえで、関係するすべての人々の幸福を最大化する功利主義が、体系としての一貫性を備え、二つの異なる道筋からの収斂によって基礎づけられることを見てきました。そして最後に、それでもなお、利己主義と功利主義という二つの合理的な立場が、実践理性の内部で並び立ってしまうという、解消されない対立が明らかになったのでした。この本全体を貫く一本の線を、あえて一言でまとめるなら、こうなるでしょう。倫理学とは、唯一の正解をあらかじめ宣言する学問ではなく、複数の「正しさの方法」を、それぞれの内在的な論理に忠実に検討し、その到達点と限界を、誠実に見極めていく学問である。
シジウィックは功利主義を、最も体系的で説得力のある方法として擁護しようとしながら、最終的には、その擁護が及ばない領域が残っていることを、自ら認めてしまいました。この誠実さは、後世の倫理学に、はかりしれない影響を残しました。二十世紀初頭には、ケンブリッジの後輩にあたるジー・イー・ムーアが、シジウィックの厳密な分析手法を引き継ぎながら、独自の倫理学を展開しました。二十世紀後半には、ジョン・ロールズが『正義論』を書くにあたって、シジウィックの体系的な議論を最大の対話相手の一人としています。
さらに現代では、哲学者デレク・パーフィットが、実践理性の二元性という、シジウィックが最後まで解けなかった問題に、生涯をかけて取り組み直しました。一人の地味な倫理学者が誠実に投げ出した問いが、百年以上の時を超えて、今なお第一級の哲学者たちを引きつけ続けているのです。この誠実さは、現代を生きる私たちにとっても、決して無縁なものではありません。自分自身の得と、社会全体の得とが、真っ向から衝突する場面に立たされたとき、私たちは、いったい何を根拠に決断を下しているのでしょうか。
百五十年近く前に、一人の哲学者が、生涯をかけた探究の末に誠実に認めた「解けなさ」は、もしかすると、今の私たちにとっても、まだ解けていない問いのままなのかもしれません。この対立を、単なる過去の哲学史の一挿話として片付けてしまうのは、もったいないことです。現代でも、たとえば「効果的な利他主義」と呼ばれる運動を率いる哲学者たちは、自分の資産や時間をどこまで見知らぬ他者のために差し出すべきかという、まさにシジウィックが突き当たった問いに、今なお向き合い続けています。彼らの多くが、その思想的な源流の一つとして、シジウィックの名を挙げていることは、決して偶然ではありません。
シジウィックの探究をこうして振り返ると、一つの逆説に気づかされます。彼はどの方法についても、その内部に踏みとどまって、徹底的に考え抜きました。しかし、その徹底さの果てに彼が手にしたのは、一つの明快な答えではなく、答えの手前に立ちはだかる壁の輪郭でした。けれども、この壁の輪郭を精密に描き出したこと自体が、倫理学という学問にとって、計り知れない貢献だったのです。
何が分かっていて、何がまだ分かっていないのかを、正確に切り分けること。これもまた、哲学という営みの、重要な仕事の一つなのですから。この記事を通じて、シジウィックという一人の哲学者の、誠実で、ときに不器用なまでの探究の軌跡を、少しでも身近に感じていただけたなら幸いです。『倫理学の諸方法』という一冊の本は、こうして一つの解決ではなく、一つの誠実な問いの形として、私たちの手元に残されました。

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