今回も哲学書の解説シリーズです。今回は、ジョン・デューイ『経験と自然』を取り上げます。
- はじめに――哲学者が、自分の代表作の書名を変えたいと言い出した
- 第一章 経験と哲学的方法――「経験」といういたち語
- 第二章 不安定なものと安定したものとしての存在――なぜ哲学は「変わらないもの」ばかり偉いとしてきたのか
- 第三章 自然、目的、そして歴史――「味わうこと」を哲学はなぜ軽視してきたか
- 第四章 自然、手段、そして知識――道具を見下してきた哲学
- 第五章 自然、コミュニケーション、そして意味――言葉が心を作った
- 第六章 自然、心、そして主体――「わたし」は最初から自然にあったわけではない
- 第七章 自然、生命、そして心身――心はどの段階で生まれるのか
- 第八章 存在、観念、そして意識――知るとは、外から眺めることではない
- 第九章 経験、自然、そして芸術――なぜ最後に芸術の話をするのか
- 第十章 存在、価値、そして批評――哲学とは何をする仕事なのか
- 【独自の視点】このチャンネルとしての批判的検討
- 【まとめ】:分けないことから、何が見えてくるか
はじめに――哲学者が、自分の代表作の書名を変えたいと言い出した
今日取り上げるのは、アメリカの哲学者ジョン・デューイが晩年に書き遺した、ある奇妙な出来事から始めたいと思います。1948年、すでに90歳に近づいていたデューイのもとに、一つの依頼が届きました。彼の代表作の一つ、『経験と自然』を新しく世に出し直すにあたって、序文を書き直してほしい、という依頼です。デューイはこの依頼に、実に3年近くもの間、格闘し続けます。何度も書いては破り、書いては破りを繰り返し、盟友と手紙をやり取りしながら、思うように筆が進まない日々を過ごしました。そして1951年、それまでの試みをいったん脇に置き、デューイはわずか6ページの、まったく新しい草稿に取りかかります。その書き出しは、今日に至るまで、多くの研究者を驚かせ続けている一文です。「もし今日、この本を書き直すとしたら、私は『経験と自然』ではなく、『文化と自然』と題するだろう。『経験』という語がもたらしてきた誤解の歴史的な壁は、もはや乗り越えがたいと、痛感するようになったからだ」。想像してみてください。ある哲学者が、自分の代表作、しかも自分の哲学全体の到達点とまで言われる一冊について、晩年になって「あの本のタイトルにした言葉そのものが、失敗だった」と告白する場面を。いったい、何がそれほどまでにデューイを苦しめたのでしょうか。今日読み解いていく『経験と自然』は、まさにその「経験」という、デューイ自身すら持て余した言葉を主役に据えて、哲学の世界にある、とても大きな分裂に挑もうとした本です。その分裂とは何か。私たちが日々「感じ取っているもの」、つまり経験と、「本当にそこにあるもの」、つまり自然。この二つを、哲学は長いあいだ、まったく別々の世界であるかのように切り離してきました。経験は、自然という本物の世界を覆い隠す、あやふやなカーテンのようなものだ、というわけです。デューイは、この分裂そのものが、哲学が生み出してきた最大の錯覚なのではないか、と考えました。ここで少し、この本を書いたデューイという人物自身の歩みにも触れておきましょう。ジョン・デューイは1859年、アメリカ北東部、バーモント州の州都バーリントンに生まれました。地元のバーモント大学で学び、1879年に卒業したのち、しばらく田舎の高校で教師を務めますが、哲学への情熱を捨てきれず、当時アメリカの大学院教育の最先端を走っていたジョンズ・ホプキンス大学に進学します。そして1884年、同大学で哲学の博士号を取得しました。興味深いことに、当時のジョンズ・ホプキンス大学の哲学教育は、ヘーゲル哲学やドイツ観念論の色彩が濃いものでした。デューイ自身、若い頃はヘーゲルの絶対的観念論に深く傾倒しており、博士論文もカントの心理学を扱ったものでした。学位取得後、デューイはミシガン大学で教壇に立ちます。のちに『経験と自然』で展開されることになる、経験と自然とを連続したものとして捉える発想の芽は、実はこの時期、ヘーゲル主義から少しずつ距離を置き、進化論の影響を強く受けながら、のちにプラグマティズムと呼ばれることになる立場へと軸足を移していく、1880年代後半から1890年代にかけての思索のなかで育まれていったものです。本書のもとになったのは、1923年に行われたポール・カルス講義という連続講演です。カルス講義の講演者にデューイが選ばれたのは1922年、実際の講演は1923年、そして書籍としてまとめられ出版されたのは1925年のことでした。ポール・カルスというのは、ドイツに生まれ、のちにアメリカへ渡った哲学者・出版者で、宗教と科学の統合を志しながら、Open Court社を率いて『The Monist』という哲学専門誌を主宰した人物です。1919年に世を去ったカルスを記念して新たに設けられたこの連続講演企画において、デューイはその記念すべき第一回目の講師に選ばれました。3回にわたって行われたこの講演の演題は、それぞれ「安定したものと不安定なものとしての存在」「存在、目的、そして享受」「存在、手段、そして知識」であったと伝えられています。残念ながら、この講演そのものの草稿は今日まで確認されておらず、実際にどのような内容が語られたのかを直接たしかめることはできません。しかし研究者たちは、演題の並びから、この3回の講演が、のちに書籍化される際の第二章「不安定なものと安定したものとしての存在」、第三章「自然、目的、そして歴史」、第四章「自然、手段、そして知識」の土台になったのだろう、と合理的に推定しています。つまり、これから読み解いていく本論の最初の3つの章は、もともとは3日間にわたって聴衆を前に語られた講演がもとになっている、ということです。デューイは、シカゴ大学で実験学校を運営した後、1904年からコロンビア大学に移り、『民主主義と教育』(1916年)、『哲学の改造』(1920年)といった著作を経て、この『経験と自然』で、自身の形而上学のいわば集大成を打ち立てようとしました。今日は、全10章からなるこの大著を、できる限り丁寧に、一つひとつの議論を具体例とともに辿っていきます。長い旅になりますが、最後までお付き合いください。
第一章 経験と哲学的方法――「経験」といういたち語
まず第一章、「経験と哲学的方法」です。デューイはこの章の冒頭近くで、自分がこれから使おうとしている「経験(experience)」という言葉そのものについて、驚くべき自己批判から始めます。デューイはこの語を「いたち語(weasel word)」と呼びました。いたちが卵の殻に小さな穴をあけて、中身だけをそっと吸い出してしまうように、使えば使うほど、その言葉から中身が抜け落ちていってしまう言葉、という意味です。あわせてデューイは、本書のタイトルである『経験と自然』という書名そのものについても説明を加えています。ここで示される自らの哲学の立場は、「経験的自然主義(empirical naturalism)」あるいは「自然主義的経験論(naturalistic empiricism)」、そして「自然主義的ヒューマニズム(naturalistic humanism)」とも呼びうるものだ、というのです。いずれも耳慣れない専門用語ですが、要するに、人間の経験を、自然から切り離された特殊な領域としてではなく、あくまで自然の一部として、経験的に、つまり自然に即して捉えていこうとする立場だ、と理解しておけばよいでしょう。伝統的な哲学は、この「経験」という言葉を、たいてい一つの決まったイメージで扱ってきました。外側に、本物の自然、本物の世界がある。そして私たちの内側には、その世界を映し出す、あるいは歪めてしまう、主観的な経験というヴェールがある。真理を知るとは、このヴェールを取り払って、向こう側にある本物の自然にたどり着くことだ、というわけです。デューイは、この前提そのものをひっくり返します。本書には、こんな趣旨の一節があります。地質学者が、目の前の地層や岩石を観察することから出発して、何百万年も前の地球の歴史を明らかにしていくように、私たちが実際に経験している、ありふれた出来事の数々は、それ自体が、自然というものがどのようなものであるかを、私たちに教えてくれている。デューイはこれを「経験は自然の”中に”あるだけでなく、自然の”もの”でもある」という、印象的な言い回しでまとめています。経験とは、自然を遮るカーテンではなく、自然そのものが姿を現す、まさにその出来事なのだ、というわけです。この主張を理解するために、デューイはもう一つ、重要な概念を導入します。「哲学的誤謬(philosophic fallacy)」と呼ばれるものです。これは、哲学者たちが繰り返し陥ってきた、ある錯覚のことです。私たちは、何かを経験したあと、それについて反省し、考え、整理し直します。たとえば、目の前のコップを見て「これはコップだ」と認識するとき、私たちはすでに、色や形といった生の感覚を、頭の中で「コップ」という一つのまとまりに整理し直しています。この、反省によって整理・抽出された「コップ」というものを、あたかも最初から、反省する以前からそこに存在していた、”本物の実在”であるかのように扱ってしまう。これが哲学的誤謬です。デューイに言わせれば、多くの哲学的な混乱は、この誤謬——反省の産物を、反省以前の与件だと取り違えること——から生まれています。なお、この章でデューイは、「哲学的誤謬」とあわせて「道徳的誤謬(moral fallacy)」という言葉にも触れています。この二つが厳密に同じ過ちを指しているのか、それとも別の問題なのかについては、研究者のあいだでも見解が分かれるところですが、いずれも、反省によってあとから作り上げられたものを、あたかも最初から与えられていた本物であるかのように扱ってしまう、という点では共通していると言えるでしょう。では、デューイ自身はどのような方法を採るのでしょうか。それが「経験論的・指示的方法(empirical/denotative method)」です。抽象的な理論や公理から出発するのではなく、まず、誰もが知っているありふれた出来事——喜びや苦しみ、日々の行為や出会い——から出発する。そこから、反省的な思考によって、それが何を明らかにしているのかを探る。そして最後に、その結論を持って、もう一度、日常のありふれた経験に立ち返り、それが本当に日常と整合しているかを確認する。いわば「行って、帰ってくる」方法です。デューイは、これこそが、科学がずっと採用してきた方法だと言います。科学者は、目の前の現象から出発し、仮説を立て、実験によって検証し、また現象に立ち返って確かめます。哲学もまた、抽象の中だけで完結する体系を作るのではなく、この往復運動を大切にすべきだ、というのがデューイの一貫した主張です。この方法について、もう少し立ち入って見ておきましょう。1925年に出版された初版では、この経験論的・指示的方法には、実は「二つの接近路」があるのだと説明されていました。一つは、誰もが日常でありのままに経験している、いわば生の経験の丸ごと、デューイの言葉で言えば「経験一般(experience in gross)」から出発する道です。もう一つは、科学がすでに積み上げてきた、洗練され、選び抜かれた知見の数々、デューイの言う「洗練された選択的産物(refined selective products)」から出発する道です。一見すると正反対の出発点に思えるかもしれませんが、デューイに言わせれば、この二つの道は、たがいに行き来しながら、最終的には同じ場所に戻ってくる。日常のありふれた経験から出発しても、科学の精密な知見から出発しても、きちんと辿っていけば、互いに互いを照らし合う関係にある、というわけです。ちなみに『経験と自然』には、1925年の初版と、1929年の改訂版という、二つのバージョンが存在します。そして、この二つの版のあいだでもっとも大きく書き変えられたのが、ほかでもない、いま見ているこの第一章です。デューイ自身、初版の第一章は技術的になりすぎていて、本全体への導入としてはふさわしくなかったと感じていたようで、1929年の改訂版では、新たな序文を書き加えたうえで、第一章をほぼ全面的に書き改めました。この書き改められた第一章では、この考え方がさらに整理され、「一次的経験」と「二次的・反省的経験」という区別が導入されました。一次的経験とは、素朴に使い、味わい、ただ経験されるだけの経験——たとえば、お腹が空いたと感じ、食事をして満足する、というような経験です。二次的・反省的経験とは、それについて考え、なぜお腹が空くのか、栄養とは何かを理論化する経験です。デューイは、哲学がしばしば二次的経験だけを特権的に扱い、一次的経験を見下してきたことを問題視しています。
第二章 不安定なものと安定したものとしての存在――なぜ哲学は「変わらないもの」ばかり偉いとしてきたのか
続いて第二章、「不安定なものと安定したものとしての存在」です。この章は、本書全体の出発点とも言える、非常に重要な章です。デューイは、ごく当たり前の事実から議論を始めます。私たちが経験するこの世界は、危うく、不安定で、いつ何が起こるか分からないものと、比較的安定し、落ち着いていて、予測がつくものとが、常に混ざり合っている、という事実です。たとえば、私たちは毎朝、太陽が昇るという安定した現象に頼って一日を計画しますが、同時に、事故や病気、思いがけない別れといった、不安定で予測できない出来事にも、常にさらされています。デューイは、古代から現代に至るまで、あらゆる神話や宗教、哲学の諸学派、倫理学、芸術、そして科学が、この「危うさと安定」という組み合わせに、どう対処するかという課題に、形を変えながら取り組んできたのだと論じます。具体的に例を見てみましょう。古代メソポタミアでは、羊の肝臓の形から吉凶を読み取る「肝臓占い」が盛んに行われていましたし、人類学者エドワード・エヴァンズ=プリチャードが調査した中央アフリカのアザンデ族は、不作や病気、事故といった不運の原因を魔術のしわざだと考え、「ベンゲ」と呼ばれる毒を用いた託宣によって、誰が魔術をかけたのかを突き止める、精緻な仕組みを築いていました。デューイ的な見方をすれば、こうした占いや魔術は、いつ何が起こるか分からない不安定な現実に対して、なんとかして「安定した」手続きと答えを与えようとする、切実な人間の営みだったのだと理解できます。同じ発想は、経済の領域にも見て取れます。すでに紀元前18世紀ごろのハンムラビ法典には、船が難破すれば借金を帳消しにするという「冒険貸借」の仕組みが記されていましたし、17世紀ロンドンでは、エドワード・ロイドの営むコーヒーハウスに船の情報を求める商人や引受人が集まり、そこから今日の「ロイズ・オブ・ロンドン」に連なる海上保険の仕組みが育っていきました。あらかじめ多くの人で掛け金を出し合い、いざというときに補償を受けられるようにする保険という制度は、安定した仕組みによって不安定さを飼いならそうとする、人類の知恵の結晶だと言えるでしょう。宗教における祈りや、成人式、結婚式、葬儀といった通過儀礼もまた、人生の節目という不安定な局面に、決まった形式を与えることで人々の心に安定をもたらしてきましたし、「約束は守らなければならない」といった道徳規則は、裏切りという不確実性に対して信頼という安定した基盤を築こうとする試みです。芸術における俳句の五七五という定型や、伝統的な絵画の構図法も、表現という不安定な営みに一定の秩序を与える働きをしていますし、科学もまた、実験を繰り返して再現性を確かめることで、移ろいやすい自然現象の背後に安定した法則を見出そうとする営みです。ここでデューイが鋭く指摘するのは、伝統的な哲学に染みついた、ある癖です。哲学者たちは、変化や偶然、予測のつかないもの——デューイの言う「不安定なもの(the precarious)」——を、程度の低いもの、見せかけのもの、あるいは幻想に近いものとして軽んじる一方で、変わらない実体、永遠不変の存在(Being)こそが、本物であり、価値が高いのだと見なしてきました。プラトンのイデア論を思い浮かべてもらうと分かりやすいかもしれません。移ろいゆく現実の事物よりも、変化しない完全なイデアの世界こそが、真の実在だとされました。この「変化を低く見て、不変を尊ぶ」という哲学の癖は、プラトンだけのものではありません。たとえばアリストテレスは、あらゆる運動と変化の究極の原因として、それ自体は決して動かされることのない「不動の動者」を想定しました。この不動の動者はみずから完全であるがゆえに変化する必要がなく、他のあらゆるものを憧れの対象として引きつけることで運動を引き起こすとされます。ここでもやはり、完全さは変化しないことと結びつけられ、変化するものは一段劣ったものとして位置づけられているのです。時代が下って17世紀、デカルトやスピノザといった近代合理論の哲学者たちも、よく似た発想を受け継いでいます。デカルトは数学的真理のような疑いようのない確実な知識をこそ哲学の土台に据えようとしましたし、スピノザは幾何学の証明のような仕方で倫理学を組み立て、宇宙全体を寸分の狂いもない論理的必然性によって貫かれたものとして描き出しました。哲学者ライプニッツも、論理や数学がもたらす「必然的で永遠な真理」こそが確かな推論の土台であり、感覚が教えてくれるのは不確かで移ろいやすい個別的な事柄にすぎないと述べています。神話の不変の神々、プラトンの不変のイデア、アリストテレスの不動の動者、そして近代合理論者たちが偏重した必然的真理。姿形こそ違え、これらはみな「不安定なものへの不安を、変化しないものへの信仰によって鎮めようとする」身振りが、時代を超えて繰り返し現れたバリエーションなのだ、というのがデューイの見立てです。デューイは、この癖の裏にある心理を、実に皮肉たっぷりに描き出しています。「不確実な世界の性格に対する私たちの魔法のようなお守りは、偶然の存在そのものを否定し、普遍的で必然的な法則、あらゆる場所に通用する因果性、自然の斉一性、普遍的な進歩、そして宇宙に内在する合理性をつぶやくことである」。つまり、私たちは、世界が本当は不確実で、危ういものであることを、心のどこかで認めたくないあまり、「すべては決まった法則に従っている」「宇宙には秩序がある」といった、いわば呪文のような体系を作り上げ、それを唱えることで安心しようとしてきたのではないか、という指摘です。この第二章の骨子を、簡潔な形で定式化してみせたのが、現代の哲学者ピーター・ゴドフリー=スミスです。ゴドフリー=スミスは2013年に発表した論文の中で、デューイのこの議論をこうまとめています。不安定なもの、つまり変化し予測のつかない要素こそが、私たちを「探求(inquiry)」へと駆り立てる。そして安定した要素は、その不安定さに対処するための、いわば手持ちの資源を与えてくれる。つまり私たちが何かを疑い、調べ、考えようとするのは、いつも世界のどこかが不安定で思い通りにならないからであり、その探求を進めるときに頼りにできるのが、これまで積み上げられてきた比較的安定した知識や技術、制度なのだ、というわけです。この定式化のおかげで、先ほど見た占いも保険も道徳規則も芸術の型も科学の実験も、すべて「不安定なものが探求を促し、安定したものがその探求を支える資源になる」という一つの構図のもとで、統一的に理解できるようになります。デューイにとって、この「不安定・安定」という組み合わせこそが、本書全体を貫く、存在の最初の一般的特性です。彼はこれ以降の章で、この二つが実際にはどのように絡み合っているのかを、目的、知識、心、芸術、価値といった、さまざまな角度から明らかにしていくことになります。
第三章 自然、目的、そして歴史――「味わうこと」を哲学はなぜ軽視してきたか
第三章、「自然、目的、そして歴史」に移りましょう。デューイはここで、これまであまり哲学の主題として真剣に扱われてこなかった、ある側面に光を当てます。それは「直接的な享受」、つまり、ただ味わい、楽しむ、ということです。私たちの日々の活動——おいしい食事を味わうこと、美しい景色に見とれること、気の合う友人と語らうこと——の多くは、何か別の目的のための手段としてではなく、それ自体として、ただ楽しまれています。実は、この「ただ味わい、楽しむ」という直接的な享受は、研究者たちが整理する、デューイの言う存在の一般的特性のうち、「終局性・直接性(immediacy and finality)」と呼ばれるものの具体例です。デューイはこの第三章で、あわせてもう一つ、きわめて重要な特性にも光を当てています。それが「質的なもの(the qualitative)」です。具体例から考えてみましょう。夕焼けが空を染める、あの独特の赤さ。淹れたてのコーヒーを口に含んだときの、あのほろ苦さ。気の置けない友人と交わす、他愛のない会話の、あの温かさ。こうした性質は、私たちが直接に、生々しく感じ取っているものでありながら、いざ言葉で説明しようとすると、どうしても何かが取りこぼされてしまいます。「赤い」という言葉で夕焼けの色を説明したとしても、実際にその夕焼けを目にしたときの、あの独特の質感そのものは、言葉には汲み尽くせずに残ってしまう。デューイは、こうした、直接に味わわれながらも言葉には汲み尽くせない性質のことを「質的なもの」と呼び、これもまた、経験の中だけに閉じ込められた特殊な出来事ではなく、自然そのものに備わった、紛れもない一般的特性なのだと主張します。ここでデューイが警戒するのは、近代科学が発達するにつれて、こうした質的な手触りを、いわば「主観的な錯覚」や「心の中だけの出来事」として、自然そのものから締め出してしまう傾向です。科学は、色を波長という数値に、味を化学物質の組成に置き換えて説明します。これはこれで、たいへん正確で有用な知識です。しかしデューイに言わせれば、科学が捉えているのは、あくまで物事どうしの「関係」や「パターン」——彼の言葉で言えば「構造(structure)」——であって、その構造がまさにそこにあるという事実、質そのものではありません。デューイは「あらゆる構造は、何かについての構造である」という趣旨のことを述べ、波長や化学組成をどれほど詳しく調べても、それだけでは、実際に夕焼けを見て「きれいだ」と感じる、あの生の経験そのものは説明し尽くせないのだと論じます。質は、科学が測定する構造には還元されない、自然そのものの、もう一つの紛れもない相なのです。ところが哲学者たちは、この「ただ味わうこと」という側面を、ほとんど真剣に扱ってきませんでした。功利主義者たちのように、快楽や幸福を主題に据えた哲学者でさえ、それを数量化できる量として扱おうとするあまり、味わうことそのものの質感を、十分にはすくい取れていない、とデューイは考えます。この章でデューイが導入する重要な区別の一つが、「自然的目的」と「見通しとしての目的」の違いです。自然的目的とは、あるプロセスが、放っておいても自然に行き着く先のことです。たとえば、種が発芽し、成長し、花を咲かせるという一連の流れの、その行き着く先です。これに対して「見通しとしての目的」とは、人間が意図して、これから目指そうと思い描く目標のことです。たとえば「来年までに資格を取る」というような目標です。デューイは、この二つの”目的”がしばしば混同され、あたかも自然界のあらゆるプロセスが、人間の目標のように、あらかじめ決められた”完成形”を目指しているかのように語られてしまうことが、多くの倫理学的な混乱の原因になっていると指摘します。この章の表題にも含まれている「歴史(histories)」、すなわち「歴史性(historicity)」という特性についても、触れておきましょう。デューイの言う歴史性とは、あらゆる出来事が、真空の中にぽつんと孤立して生じるのではなく、それ以前に起きた無数の出来事の積み重ねの結果として、時間的な文脈の中に位置づけられている、という特性のことです。たとえば、いま目の前にある一本の樹木は、ただそこにぽつんと置かれた物体なのではありません。その樹木は、何十年という歳月をかけて、種子が発芽し、日照りや台風を耐え忍び、周囲の植物と光や養分を奪い合いながら育ってきた、その長い歴史の、いまこの瞬間における到達点です。デューイは、さきほど述べた「質的なもの」でさえも、実はこの歴史性と切り離せないと考えます。夕焼けのあの赤さも、地球という星の大気の組成が、何十億年もの歴史を経て現在のような状態になったからこそ、いま、あのような形で立ち現れているのです。あらゆる「いま、ここ」は、それ自体で完結した一つの点なのではなく、長い歴史の糸が、いまこの瞬間に結び目を作っている、その結び目そのものなのだ、というのがデューイの見方です。デューイは、この「質的なもの」と「歴史性」という二つの特性を、伝統的な哲学がしばしば見誤ってきたと考えます。そして、この見誤りこそが、のちの章で本格的に扱われることになる心身問題をはじめ、哲学の伝統的な難問の多くの、根っこにある、というのが、デューイのこの章での、いわば構成上のねらいです。どういうことでしょうか。心身問題は、しばしば、「客観的で、数量化でき、誰にとっても同じように成り立つ物理的な世界」と、「主観的で、言葉には汲み尽くせず、その人にしか感じられない心的な性質の世界」という、二つのまったく別の領域を、どう結びつけるかという形で立てられます。しかしデューイに言わせれば、この問いの立て方そのものが、すでに間違っています。「質的なもの」は、心の中だけに閉じ込められた、特別な種類の実在なのではなく、自然そのものが備えている、ごくありふれた一つの相です。夕焼けの赤さも、コーヒーの苦さも、脳という物理的な器官の中だけで起きている私秘的な出来事なのではなく、生きた有機体とその環境とのあいだで生じる、自然の出来事そのものの、一つの局面にほかなりません。同じように、歴史性を見落とし、出来事をその生成の文脈から切り離して、あたかも時間を超えた不変の実体であるかのように扱ってしまうことも、デューイに言わせれば、伝統的な形而上学が繰り返し陥ってきた誤りです。実体を、それが積み重ねてきた歴史から切り離して、いわば丸裸のまま捉えようとするからこそ、変化やプロセスをうまく説明できなくなり、「本質」や「実体」といった、時間の外側にあるはずの何かを、無理やり想定せざるを得なくなってしまうのです。心と身体、質と量、瞬間と歴史——こうしたものを、あらかじめ引き裂いてしまう哲学の習性を、デューイは、この第三章の段階から、すでに周到に崩し始めているのです。
第四章 自然、手段、そして知識――道具を見下してきた哲学
第四章、「自然、手段、そして知識」です。この章は、道具や技術という、きわめて具体的な話題から始まります。デューイはまず、古代ギリシア哲学における、ある身分差別的な発想を掘り起こします。古代ギリシアでは、実際に手を動かして何かを作ったり、直したりする技術——「有用な技(useful arts)」——は、奴隷や職人が担う、程度の低い営みとされていました。これに対して、純粋に頭の中で世界のあり方を観照すること——テオーリア——こそが、自由人にふさわしい、最高の知的営みだとされたのです。この観照(テオーリア)の優位という発想は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』において、もっとも体系的な形で語られています。同書第6巻でアリストテレスは、知性的徳を「何であるかを知る」知恵(ソフィア)と、「どう行為すべきかを知る」思慮(フロネーシス)とに区別し、変化することのない永遠の真理を対象とするソフィアを、状況に応じて変わる個別的な実践を扱うフロネーシスよりも上位に置きました。そして第10巻では、この知恵にもとづく観想的な生活(ビオス・テオーレティコス)こそが、人間にとって最高の、そしてもっとも自足した幸福のあり方だと論じられます。観想は、それ自体のほかに何も必要とせず、もっとも長く持続することができ、もっとも純粋な喜びをもたらし、しかも神々の永遠の自己観照的な活動にもっとも近い、というのがその理由でした。これに対し、政治や軍事、家政に携わる実践的な生活(ビオス・プラクティコス)は、あくまでその下に位置づく、二次的な幸福とされたのです。当時の「学校」を意味する語の語源となったギリシア語スコレー(schole、もとの意味は「暇・余暇」)が示す通り、観想とは、労働から解放された自由人だけが手にできる、閑暇の産物だと考えられていました。逆に、実際に手を動かして物を作る職人や、市場で働く商人の労働は「バナウソス(banausos)」、すなわち品位を下げる卑しい仕事と呼ばれ、アリストテレスは『政治学』の中で、こうした仕事に従事する者には、そもそも十全な市民権を与えるべきではないとまで論じています。この観想優位・実践劣位という価値の序列は、その後も長く西洋思想に影を落とし続けました。中世のスコラ哲学が「観想的生活(ヴィータ・コンテンプラティヴァ)」と「活動的生活(ヴィータ・アクティヴァ)」とを区別し、前者を修道士の理想として称揚したことも、その延長線上にあります。当時の大学が教えたのも、神学、法学、医学、自由七科(リベラル・アーツ)といった「理論知」に連なる学問がほとんどで、建築や機械の製作といった「実践知」は、大学の外側、職人のギルドにおける徒弟制度を通じて、口伝えに受け継がれるものとされていました。工学が大学の学部として制度化されるのは、ようやく19世紀に入ってからのことです。デューイは、この古代の身分差別的な発想が、いつのまにか、二つの根深い二分法を生み出してしまったと論じます。一つは、「手段」と「目的」という形而上学的な二分法。もう一つは、「実践知(どうすればよいかを知ること)」よりも「理論知(何であるかを知ること)」を上に置く、認識論的な二分法です。ここでデューイが指摘する皮肉は、実に鋭いものです。近代科学は、とうの昔に、古代ギリシアの、身分に基づいた階層的な自然観そのものを乗り越えました。実際、近代科学の黎明期を振り返ってみても、理論と実践の一体化の実例には事欠きません。1608年、オランダの眼鏡職人ハンス・リッペルスハイが考案したとされる望遠鏡は、もともと便利な道具にすぎませんでした。ところがガリレオ・ガリレイは、その噂を聞きつけるとすぐさま独学でレンズ研磨という職人技を身につけ、試行錯誤を重ねながら性能を次々と向上させていきます。パドヴァ大学で教授職に就く一方、自ら磨いたレンズや測定器具を貴族や商人に販売して生計の足しにしていたことも知られています。そうして自ら磨き上げたレンズを通して夜空を観察したガリレオは、木星の衛星や金星の満ち欠けを発見し、地動説を支持する決定的な証拠を手にすることになりました。眼鏡職人の「有用な技」と、宇宙の構造をめぐる「テオーリア」とが、ガリレオという一人の人物の中で、分かちがたく結びついていたのです。ところが、その根っこにあった認識論的な偏見——実践より理論を尊ぶという態度——だけは、なぜか無批判に引き継がれ、今なお、多くの不毛な哲学的論争を生み続けている、というのです。この序列は、必ずしも過去の遺物ではありません。今日でも、「純粋科学」を担う理学部と、「応用科学」を担う工学部とのあいだには、暗黙のうちに、ある種の格付けが働くことがあります。ノーベル賞に物理学賞や化学賞はあっても、工学賞や数学賞が存在しないことも、しばしばこの序列の名残りとして指摘される事実です。デューイに言わせれば、これもまた、古代ギリシアに起源を持つ、実践よりも理論を上に置く偏見が、今なお形を変えて生き延びている一例だ、ということになるでしょう。これに対してデューイが打ち出すのが、「道具主義(instrumentalism)」と呼ばれる立場です。現代科学の実際の営みを見てみれば分かるように、優れた科学者にとって、理論と実践、考えることと手を動かすことは、すでに固く結びついています。実験室で仮説を立て、実際に装置を操作し、結果を確かめ、また理論を修正する。この一体化した方法にこそ、哲学は学ぶべきだ、というのがデューイの主張です。デューイは、自らの立場をあえて「プラグマティズム」ではなく「道具主義」と呼ぶことにこだわりました。プラグマティズムということばが、ともすれば「役に立てば何でも真理だ」という通俗的な誤解を招きやすいのに対し、道具主義という語は、観念や理論を、あくまで問題状況に対処するための”道具”として位置づける、という彼の立場をより正確に言い表しているからです。ハンマーの良し悪しが、釘を打つという仕事にどれだけ役立つかによって決まるように、ある理論の良し悪しもまた、それが実際の探究のなかで、問題を解決する働きをどれだけ果たせるかによって決まる。これがデューイの道具主義の核心です。デューイ自身、この考え方を、たんに書斎の中で唱えていただけではありませんでした。本書の冒頭でも触れた通り、デューイは1896年、シカゴ大学に実験学校(のちのシカゴ大学附属ラボラトリー・スクール)を設立し、自らの哲学を、実際の教育現場で試すという道を選びます。この学校で子どもたちは、料理をしたり、機を織ったり、木工をしたりといった具体的な活動に取り組みました。けれどもデューイのねらいは、子どもに料理や大工仕事そのものを覚えさせることではありません。料理を通じて化学や栄養学に触れ、機織りを通じて繊維産業の歴史や数学的な計算に触れ、木工を通じて物理や幾何学に触れる。つまり「手を動かすこと」を、より広い知識へとつながっていく足がかりとして位置づけたのです。この教育理念は、のちにしばしば「なすことによって学ぶ」というスローガンで要約されるようになりますが、この言葉が示しているのは、まさに本章でデューイが理論的に語っている道具主義——知識とは、行動から切り離された観照の産物ではなく、行動のなかで、行動のために鍛えられる道具である、という考え方——そのものです。実験学校の運営は、決して平坦な道のりではなく、理想通りに進まない試行錯誤の連続だったとも伝えられていますが、その苦闘の経験こそが、後年、理論と実践の一体化を説くデューイの議論に、抽象論では終わらない重みを与えているように思われます。この理論と実践の往復運動を、さらに具体的な科学史のエピソードで確認しておきましょう。19世紀初頭のフランスでは、蒸気機関がすでに鉱山の排水や製鉄、紡績など、さまざまな現場で実用化されていましたが、その効率の悪さが大きな課題でした。技術者サディ・カルノーは、この実践的な問題に触発され、1824年、『火の動力についての省察』という論考を著します。カルノーは、水が高い場所から低い場所へ落ちることで水車を回すように、熱もまた高温の物体から低温の物体へ「落下」することで動力を生み出すのだ、という思考実験を組み立てました。この理論的な洞察——後に「カルノーの定理」と呼ばれることになる、理想的な熱機関の効率は、使う物質に関係なく高温と低温の差だけで決まるという発見——は、発表された当初、実際の蒸気機関の改良にすぐ結びついたわけではありませんでした。しかし、それから四半世紀ほどのちの1850年代、ドイツのルドルフ・クラウジウスやイギリスのウィリアム・トムソン(のちのケルヴィン卿)が、カルノーのこの理論を土台に、熱力学という新しい理論体系を打ち立てます。そして、この理論が今度は、より効率のよい実際のエンジン設計へと、ふたたび還元されていくことになりました。なお、カルノーは1832年、コレラのためわずか36歳で世を去っています。感染拡大を防ぐための当時の規則により、彼の遺した手稿や身の回りの品の多くは焼却処分にされてしまいましたが、友人クラペイロンや弟イポリットの手によって、いくつかの手稿がかろうじて救い出されました。その中には、当時主流だったカロリック説(熱を物質とみなす説)にすでに疑問を抱き、熱と仕事の等価性という、のちの熱力学の核心に通じる着想を書き留めたノートも含まれていたと言われています。実践上の課題から理論が生まれ、その理論が半世紀近い時を経て、ふたたび実践へと還元されていく——デューイが理想として描いた、理論と実践の往復運動を、この蒸気機関から熱力学への道のりほど、鮮やかに例証してくれる科学史のエピソードは、そう多くありません。
第五章 自然、コミュニケーション、そして意味――言葉が心を作った
第五章、「自然、コミュニケーション、そして意味」に進みます。ここからは、デューイの言語論、そして心の哲学の核心部分に入っていきます。私たちはふつう、「まず心があって、その心が言葉を使う」と考えがちです。ところがデューイは、この順序を逆転させます。人間の心や文化は、言語とコミュニケーションを通じて、初めて立ち現れてくるものなのだ、という主張です。デューイのこの立場は、当時の哲学や心理学の主流であった考え方に対する、真っ向からの挑戦でもありました。一方には、内観によって心の中身を観察できるとする内観主義の心理学があり、もう一方には、心そのものを扱うことを放棄し、観察可能な行動だけに関心を絞ろうとする行動主義がありました。デューイは、そのどちらの立場も取りません。心は、内側にひそむ神秘的な実体でもなければ、単なる刺激と反応の集積でもなく、コミュニケーションという、本質的に社会的で公共的な営みのなかから立ち現れてくるものだ、というのが、デューイの一貫した主張だったのです。こうした発想は、実はデューイが心理学者としてのキャリアを歩み始めた1896年の論文「心理学における反射弧の概念」の中で、すでに芽生えていたものでした。この論文でデューイは、刺激と反応を機械的に切り離して捉える当時の心理学モデルを批判し、生物の行動を、環境との継続的なやり取りの中で捉え直す必要があると論じており、『経験と自然』における言語論やコミュニケーション論は、この初期の洞察を、三十年近くかけて壮大なかたちで結実させたものだと見ることもできるでしょう。ここでデューイは、動物が発する単なる「信号(シグナル)」と、人間の「コミュニケーション」を区別します。たとえば、群れの中の一頭が、危険を察知して警戒の鳴き声を上げ、他の仲間がそれに反応して逃げ出す、という行動は、一種の信号のやり取りです。しかし、これはまだ、デューイの言う本当のコミュニケーションではありません。この違いを、動物行動学の具体的な研究例でもう少し詳しく見てみましょう。よく知られているのが、ミツバチの「8の字ダンス」です。よい蜜源を見つけたミツバチは、巣に戻ると、8の字を描くように体を震わせながら歩く、独特のダンスを踊ります。ダンスの中で直進する部分の角度は、太陽の位置を基準にした蜜源の方角を、また体を震わせる時間の長さは、巣からの距離を、驚くほど正確に仲間へ伝えていることが分かっています。ちなみに、このダンスの仕組みを解読したオーストリアの動物行動学者カール・フォン・フリッシュは、この功績によって1973年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。鳥の警戒音にも、これと似た精巧な使い分けが見られます。多くの鳥は、上空から迫るタカのような捕食者を発見したときと、地面を這うヘビのような捕食者を発見したときとで、異なる種類の鳴き声を使い分け、それを聞いた仲間たちも、空を見上げて物陰に隠れる、あるいは足元を確かめる、というように、それぞれ適切な行動を取ることが観察されています。霊長類の例では、アフリカに生息するベルベットモンキーが、ヒョウ、ワシ、ヘビという三種類の天敵に対して、それぞれ異なる警戒音を発することを報告した研究がよく知られています(もっとも、この研究をめぐっては、これを本当に「意味の伝達」と呼んでよいのかどうか、後続の研究者たちのあいだで議論が続いていることも付け加えておきます)。さらに近年の研究では、北米に生息するオグロプレーリードッグの警戒音が、捕食者の種類だけでなく、その大きさや形、さらには服を着た人間が近づいてきた場合には服の色の違いまでも、鳴き声のわずかな違いに反映して伝えている可能性がある、という驚くべき報告もなされています(ただし、この研究についても、鳴き声に含まれる音響的な違いを、他のプレーリードッグが実際に聞き分けて行動を変えているという直接的な証拠はまだ乏しく、これを「言語」と呼んでよいかどうかについては、専門家のあいだで根強い懐疑もあることを付け加えておきます)。こうした動物の信号は、たしかに驚くほど精巧で、特定の対象についての情報を仲間に伝えています。しかし言語学者たちは、これらの信号システムと人間の言語のあいだには、いくつかの決定的な違いがあると指摘してきました。20世紀のアメリカの言語学者チャールズ・ホケットは、人間の言語に特有ないくつかの「デザイン上の特徴」を整理しましたが、その中でもとりわけ重要なのが「恣意性」と「生産性」です。「恣意性」とは、言葉の音や形と、それが指し示す対象とのあいだに、必然的な結びつきがない、ということです。「イヌ」という音が実際のイヌという生き物を指すのは、単なる社会的な取り決めにすぎません。これに対してミツバチのダンスは、蜜源の方角や距離を、体の向きや震わせる時間の長さという形で、いわば身体の動きそのもので直接「なぞって」表現しており、記号と意味内容のあいだに、恣意的とは言い切れない対応関係が残っています。さらに重要なのが「生産性」、つまり有限の要素の組み合わせから、無限に近い表現を生み出せるという性質です。ミツバチのダンスも、鳥や霊長類の警戒音も、あらかじめ決まったごく少数のレパートリーの中でしか意味を伝えられません。プレーリードッグの警戒音も、いくら微細な違いを聞き分けられるとはいえ、あくまで「いま近づいている捕食者を描写する」という限られた機能の枠内にとどまっています。ところが人間の言語は、有限個の単語と文法規則を組み合わせることで、これまで誰も口にしたことのない文を、理論上は無限に生み出すことができます。「隣の家の猫が屋根の上でピアノを弾く夢を見た」というような、現実にはまずありえない出来事についてさえ、私たちは苦もなく語り、相手に伝えることができるのです。ホケットはこのほかにも、「二重分節性」と呼ばれる特徴を指摘しています。人間の言語では、それ自体は意味を持たない音の単位である音素を組み合わせることで意味を持つ単語が作られ、その単語をさらに組み合わせることで文が作られる、という二重の階層構造になっています。たとえば英語の/k/ /æ/ /t/という三つの音素は、”cat”という一つの単語を作りますが、同じ音素の並びを変えれば、まったく別の意味を持つ単語になり得ます。この仕組みのおかげで、私たちはわずか数十個の音素から、何万語もの単語を、そしてその単語の数をはるかに超える、無数の文を作り出すことができるのです。興味深いことに、動物の信号にも、人間の言語に特有とされてきた性質がいくらか見られる場合があります。たとえばミツバチのダンスは、巣という「いま、ここ」から100メートル以上離れた、目の前には存在しない蜜源について仲間に伝えることができ、これは「転位」と呼ばれる、本来は人間言語に特有とされてきた性質の一種だと考えられています。さらに、人間から直接、手話やシンボルを教え込まれた類人猿の事例も、この境界線をめぐる議論を複雑にしてきました。たとえばチンパンジーのワショーは、100以上の手話単語を習得し、見慣れない白鳥を目にした際に「水の鳥」という新しい組み合わせを自発的に作り出した、と報告されています。ボノボのカンジは、視覚記号(レキシグラム)を用いたコミュニケーションを学び、「コーラをレモネードの中に注いで」と「レモネードをコーラの中に注いで」という、語順だけが異なる指示を、偶然とは考えにくい精度で聞き分けられることが示されました。とはいえ、こうした事例が、本当に自発的で創造的な言語使用と呼べるものなのか、それとも人間の側からの巧みな誘導や条件づけの結果にすぎないのか、専門家のあいだでも評価は分かれています。少なくとも、人間の幼児がわずか数年のうちに獲得してしまう、文法規則を用いた無限に近い文の生成能力には、これらの事例はまだ遠く及ばない、というのが大方の見立てです。ですから、動物の信号と人間の言語のあいだの境界線は、私たちが思うほど単純ではありません。それでもなお、デューイが引こうとした境界線は、これとは別のところにあります。こうした議論を踏まえると、デューイが「本当のコミュニケーション」の条件として、話し手と聞き手のあいだの相互了解を重視したことの意義が、いっそう際立って見えてきます。単に情報を伝達できるかどうかではなく、両者のあいだに意味が共有され、確認し合われているかどうかこそが、決定的な違いなのです。ある鳴き声や身振りが、相手がそれにどう反応するかをあらかじめ予期しながら発せられ、しかもその意味が、発する側と受け取る側のあいだで、共有されたものとして成立するようになったとき、初めて本当のコミュニケーションが生まれる、とデューイは考えます。デューイ自身は、これを説明するために、身近な場面を例に挙げています。たとえば、Aさんが、何かを指さしながらBさんに「それを持ってきて」と頼んだとします。このときBさんを実際に動かしているのは、Aさんの発した言葉そのものでも、指さすという身振りそのものでもありません。Bさんが、いったんAさんの立場に自分を置き換え、Aさんの目からその場面がどう見えているかを理解したうえで、初めて指さされた対象が「持ってくるべきもの」としての意味を帯びてくるのです。デューイはこの過程を指して、「理解するとは、ともに予期することである」という印象的な言葉で言い表しました。何かが、二つの異なる行動の中心のあいだで、文字通り「共有されたもの」になる、というのが、デューイの考えるコミュニケーションの核心なのです。デューイはさらに、コミュニケーションの究極の意味合いは、ある種の美的な性格すら帯びていると述べています。意味を分かち合うという営みは、単なる情報の受け渡しを超えて、それに関わる人々の経験そのものを豊かにし、深め、結びつける、いわば「共にあること」の感覚をもたらすものだからです。そして、この共有された意味という仕組みが確立して初めて、経験は「何かを意味する」ものになります。逆に言えば、言語なしには、意味というものは生まれ得ない、というのがデューイの立場です。ここで少し、哲学史的な位置づけについても触れておきましょう。デューイの哲学は、一般に「経験の哲学」として広く知られています。実際、後続世代の哲学者たちのあいだでは、経験を重視する「古典的プラグマティズム」と、リチャード・ローティやロバート・ブランダムといった論者に代表される、言語や推論の実践を重視する「新プラグマティズム」とを、対比的に語る構図がしばしば見られます。新プラグマティズムの論者たちは、「経験」という概念そのものに懐疑的で、哲学の土台を言語や社会的な推論のやり取りに置き直そうとしました。たとえばローティは、心が世界をそのまま映し出す「鏡」であるという伝統的な知識観そのものを退け、真理や知識を、言語共同体における会話や意見の一致の産物として捉え直そうとしました。ブランダムもまた、ある言明の意味とは、それが他のどの言明を裏づけ、どの言明と対立するかという推論上の役割によって決まると論じ、言語的な実践そのものを哲学の出発点に据えました。ところが、この第五章をあらためて読むと、この対比の構図がいささか単純化されすぎていることに気づかされます。デューイ研究の中心機関であるサザン・イリノイ大学デューイ研究センターが、『経験と自然』出版100周年を記念して公開した読書ガイドも、まさにこの点を指摘しています。同ガイドが推薦文献として挙げている、ジョゼフ・ディラボーの論文「デューイの客観的記号論」や、ロベルタ・ドレオンの論文「デューイの言語論——非二元論的アプローチのための要素」なども、デューイの言語論が持つ独自性を、近年の研究の中であらためて掘り下げようとする試みです。同ガイドによれば、この章は「経験か言語か」という論争において、デューイを「経験の哲学者」という立場に押し込めてきたこれまでの理解に、一石を投じるものだとされています。デューイにとって、人間の心や文化は、言語とコミュニケーションを通じてこそ立ち現れてくるものであり、人間の思考は本質的に社会的なものであって、その社会性は言語なしには成り立ちません。そして、意味そのものが言語なしには存在しえない以上、経験が「意味を持つ」ものになるためにも、言語は欠かせない要素なのです。同ガイドはさらに、動物の単なる信号行為が、言語の発達を通じてコミュニケーションへ、そしてやがて思考そのものへと成長していく、連続的な道筋をこの章が描き出していることも強調しています。つまりデューイは、経験の哲学者であると同時に、それと同じくらい徹底した言語の哲学者でもあった、ということになります。後世の「経験か言語か」という対立の構図に、デューイ自身をどちらか一方だけ当てはめてしまうのは、実はあまり正確ではないのかもしれません。この違いは些細な話ではありません。デューイを単なる「経験の哲学者」として片づけてしまうなら、彼が経験の哲学と同じくらいの熱量をもって描き出そうとした、コミュニケーションと言語をめぐるこの緻密な議論を、見落としてしまうことになりかねないからです。デューイは、言語のことを「道具の道具(the tool of tools)」と呼びました。私たちがハンマーや鋸といった道具を作り、使いこなせるのは、それらについて考え、伝え合い、工夫を重ねることができるからです。あらゆる道具を作り、使いこなすための、根本にある道具こそが、言語なのだ、という位置づけです。この考え方は、現代の進化人類学が注目する「ラチェット効果」という概念とも重なり合います。人類学者マイケル・トマセロらによれば、ある世代が編み出した工夫や改良は、次の世代へと言語や模倣を通じて教え伝えられ、そこにさらなる改良が積み重なっていく、という一方向的な蓄積のプロセスこそが、人類の技術と文化を、他のどの動物にも見られない速さで発展させてきました。歯車の逆転を防ぐラチェット(歯止め)の仕組みになぞらえて、こう呼ばれています。もし言語による正確な伝達がなければ、それぞれの世代は、道具の作り方を一から発明し直さなければならなかったでしょう。デューイが言語を「道具の道具」と呼んだ背景には、こうした、世代を超えて技術を蓄積していく人間文化の性質への洞察もあったと考えられます。そして、思考とは何か、という問いに対して、デューイは驚くべき答えを出します。思考とは、公共の場で交わされる対話と、本質的に同じ性質を持つものであり、いわば「内面化された対話」にすぎない、というのです。私たちが頭の中で「あれこれ考える」とき、実は、まるで自分自身と対話するように、言葉を使って思考を組み立てています。つまり、思考する能力そのものが、社会的なコミュニケーションから、いわば”借りてきた”能力なのだ、というのがデューイの見立てです。ところで、この「思考とは内面化された対話である」というデューイの考え方は、20世紀の哲学や心理学の流れを知る人にとっては、どこか聞き覚えのある響きを持っているかもしれません。デューイとほぼ同時代、大西洋の反対側にいたソビエトの心理学者レフ・ヴィゴツキーもまた、著書『思考と言語』(1934年)の中で、子どもの思考は、他者との社会的な会話がしだいに内面化され、音声を伴わない「内言」へと変化していく過程を通じて発達する、という説を唱えました。デューイとヴィゴツキーがそれぞれ独立に、思考を社会的な言語活動の内面化として捉える、よく似た結論にたどり着いたことは、研究者たちのあいだでもしばしば指摘される興味深い符合です。もっとも、両者の哲学的な出発点や、思考と行為の関係についての細部の理解には無視できない違いもあり、単純に「同じことを言っている」と片付けるべきではない、という点には注意が必要です。また、意味の成立を、話し手と聞き手のあいだの共有された協働的なやり取りとして捉えるデューイのこの考え方は、オーストリア出身の哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが、死後の1953年に出版された後期の代表作『哲学探究』の中で展開した「言語ゲーム」という発想とも、いくつかの点で響き合っています。ウィトゲンシュタインは、たとえば建築現場で、親方が「石材」「柱」「板石」「梁」といった単語だけを口にし、助手がそのつど対応する資材を運んでくる、という単純なやり取りを例に挙げながら、言葉の意味とは、あらかじめ定まった対象との対応関係によってではなく、こうした具体的な生活の実践、つまり社会的なルールに基づくやり取りの中でこそ決まってくるのだ、と論じました。デューイの『経験と自然』が刊行されたのは1925年、ウィトゲンシュタインが言語ゲームの発想を練り上げていったのは主に1930年代以降のことですから、時期としてはデューイの方が先んじていたことになります。とはいえ、両者のあいだに直接の影響関係があったと断定できる証拠は乏しく、むしろ、経験や実践を土台に言語や意味を捉え直そうとする知的な動きが、20世紀前半のそれぞれ異なる場所で、独立に立ち上がっていた、と見るのが穏当でしょう。意味や自己が固定された実体ではなく、社会的なやり取りのなかで絶えず作られていく、というデューイのこの発想は、のちに社会的構成主義と呼ばれることになる思想の潮流とも、遠くこだまし合っています。経験の哲学者として知られるデューイが、こうした後発の言語論的・社会構成主義的な潮流のいくつかを、ある意味で先取りしていたことは、記憶に留めておく価値があるでしょう。ちなみに「社会的構成主義」という呼び名自体は、社会学者ピーター・バーガーとトーマス・ルックマンが1966年に発表した『現実の社会的構成』という著作以降に広く使われるようになったものですが、その中心にある、現実や意味は人々の相互行為を通じて絶えず作り直されていく、という発想は、デューイがこの章で描いたコミュニケーション論と、驚くほど近いところに立っています。ただし、注意しておきたいのは、デューイの言語論が、あくまで彼の自然主義的な形而上学のなかに位置づけられている、という点です。デューイにとって、言語やコミュニケーションは、自然そのものの中から立ち現れてきた出来事の一つであり、経験や自然と切り離された、純粋に言語的な領域として独立に扱われるものではありません。この点で、経験そのものの実在性に懐疑的になり、すべてを言語やテクストの中に還元しようとする、一部の新プラグマティズムやポスト構造主義の潮流とは、はっきりと一線を画していると言えるでしょう。
第六章 自然、心、そして主体――「わたし」は最初から自然にあったわけではない
第六章、「自然、心、そして主体」です。前の章で見た議論を踏まえ、デューイはここで、個性、人格、自己、そして「わたし」という感覚そのものに切り込みます。デューイは、こうしたものを、複雑な生物学的・社会的な相互作用の中から立ち現れてくる、一種の”機能”として捉え直します。伝統的な哲学、とりわけ近代の哲学は、しばしば「まず主観、つまり”わたし”という意識する主体があり、その主体が世界を眺める」という前提から出発してきました。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を思い浮かべてもらうとよいでしょう。ここでデカルトが実際にたどった手続きを、もう少し具体的に見ておきましょう。『省察』でデカルトは、暖炉のそばに一人腰を下ろし、それまで真だと信じてきたあらゆる知識——感覚が教えてくれること、身体を持っているという確信、数学の証明でさえも——を、片っ端から疑いの対象にしていきます。感覚は時に私たちを欺くし、いま自分が夢を見ているのではないという保証もどこにもない。それどころか、全能の欺く神(あるいは悪しき霊)が、2たす3は5であるという単純な計算でさえ、そう信じ込ませているだけかもしれない、とまで疑いを推し進めます。こうして、あらゆる知識をいったん更地にしたうえで、それでもなお疑いえない、たった一つの足場を探し当てようとしたのです。そして辿り着いたのが、「私が疑っている、考えている、そのことだけは、疑おうとするそのこと自体によって、かえって確かめられてしまう」という、あの有名な一点でした。デカルトはこれを、古代の学者アルキメデスが「支点さえあれば地球でも動かしてみせる」と語ったという逸話になぞらえ、知識全体を立て直すための、いわば”アルキメデスの支点”だと位置づけています。ここで見落としてはならないのは、この探求全体が、たった一人の思考者が、書斎の中で、他者との対話も、身体を通じた行為も、いっさい介さずに——いわば独房の中で——遂行される、という設定になっている点です。デカルトの「私」は、家族も、母語も、共同体も、いったんすべて括弧に入れられたうえで、それでもなお最初から成立している、孤立した意識として描かれています。デューイが問題にするのは、まさにこの出発点の取り方です。デューイは、この哲学的主観主義を、歴史的・社会的な観点から批判します。順序で言えば、デカルトのように孤立した主観がまずあって、そこから経験や心、そして他者や社会が二次的に導き出される、という道筋は、事の起こる順番を取り違えた、いわば転倒した順序だ、とデューイは考えます。実際に人間の心や自己意識が育っていく過程をたどれば、話はまったく逆の順番で進んでいくからです。デューイの言い方を借りれば、「わたしの経験」という言い方が意味を持つためには、その前に、まず「経験」という、もっと一般的な出来事が存在していなければなりません。同じように、「わたしの心」という言い方が意味を持つためには、その前に、まず「心」という機能そのものが存在していなければならない、というのです。つまり、個々人の「わたし」が先にあって、そこから心や経験が生まれるのではなく、順序はむしろ逆で、自然のなかで心という機能が育まれ、その中から、個々の「わたし」という自己意識が、後から分化して立ち現れてくる、というわけです。この主張は、単なる形而上学的な思弁にとどまりません。実際に、社会的な関わりをほとんど、あるいはまったく持たずに育った子どもの記録が、デューイの見立てを裏づける具体例として参照できます。1800年、フランス・アヴェロンの森で見つかった、当時推定12歳前後の少年——後に「アヴェロンの野生児」として知られることになるヴィクトール——は、発見された時点で言葉をまったく話せず、二本足でまっすぐ立つことすら困難で、生肉を好んで食べ、他者との関わりにほとんど関心を示さなかったと伝えられています。医師ジャン=マルク・ガスパール・イタールが5年にわたって根気強く教育を試みましたが、ヴィクトールは、簡単な社会的習慣や一部の理解力こそ身につけたものの、最後までまとまった言葉を話せるようにはならなかったと言われています。時代はくだって1970年、アメリカ・カリフォルニア州で保護された、当時13歳の少女ジーニーの事例も、よく知られています。ジーニーは、生後20か月ごろから発見されるまでの十年余り、自室に一人閉じ込められ、椅子に固定されるなどして、周囲の人間とのやり取りをほとんど断たれた状態で育てられていました。保護後、多くの専門家による集中的な支援が行われましたが、ジーニーもまた、単語を覚えることはできても、複雑な文法を伴う言葉を使いこなせるようにはならなかったと報告されています。もちろん、こうした痛ましい事例を、単純な一つの実験結果のように扱うことには慎重でなければなりません。栄養状態や虐待の影響など、言語以外の要因も複雑に絡み合っているからです。それでも、こうした事例が繰り返し示唆してきたのは、人間らしい自己意識や、筋道立てて考える力、そして人格と呼べるようなまとまりは、身体さえ備わっていれば自動的に開花する、あらかじめ内蔵された種のようなものではなく、言葉を介した他者との継続的なやり取りのなかで、初めて育っていくものらしい、ということです。もしデカルトの想定するように、孤立した「わたし」がまず先にあり、そこから言語や社会性が二次的に付け加わっていくだけなのだとしたら、社会的な関わりを断たれて育った子どもでも、いずれは一人でに、筋道立てて考える自己意識へとたどり着いてもよいはずです。しかし現実に記録されている事例の多くは、むしろ逆の可能性を示唆しています。現代の発達心理学もまた、養育者との応答的なやり取り——たとえば、赤ちゃんの視線や指差しに大人が言葉を返す、といったごくありふれたやり取り——が、自己と他者を区別する意識や、言葉を使う力の土台を築いていく重要な足場になっている、という見方をおおむね共有しています。デューイが、経験や心を、孤立した主観からではなく、生物学的・社会的な相互作用の産物として描き出そうとしたのは、こうした、言葉と社会性を欠いては人間らしい自己が育ちにくいという、経験的な手がかりとも、方向性としては響き合っていると言えるでしょう。この、自己を社会的な産物として捉える発想を、デューイとほぼ同じ時期に、より体系立てて展開した人物に、社会心理学者ジョージ・ハーバート・ミードがいます。ミードは、1894年にデューイがシカゴ大学の哲学科長として招かれた際、デューイ自身によってミシガン大学から一緒に招き入れられ、以後、デューイがコロンビア大学に移る1904年を過ぎてもなお、1931年に世を去るまでシカゴ大学にとどまり続けた、いわば長年の同僚です。ミードの代表的な議論は、没後にまとめられた講義録『精神・自我・社会』のなかに残されています。そこでミードは、自己というものは、あらかじめ内側に宿っている何かではなく、他者の視点を取り込み、その視点から自分自身を眺め返すことができるようになって、初めて成立するものだと論じました。ミードはこれを、子どもの遊びの発達段階を例に説明しています。幼い子どもは、まず「ごっこ遊び(プレイ)」の段階で、お母さん役や消防士役になりきって、特定の他者の振る舞いを真似ることを覚えます。やがて、野球やサッカーのような、決まったルールのある「ゲーム」に加われるようになる段階では、自分以外のすべてのプレイヤーの立場を同時に思い描きながら、自分の役割を果たせるようにならなければなりません。ミードは、この、特定の誰かではなく、集団全体が共有しているものの見方や期待——ミードの言葉で言えば「一般化された他者(generalized other)」——を自分の中に取り込めるようになったとき、初めて、ひとまとまりの自己が成立するのだと考えました。ミードはさらに、自己を、衝動的で創造的な働きをする「アイ(I)」と、他者や社会の期待を映し取った「ミー(me)」という、二つの側面の絶えざるやり取りとして描き出してもいます。デューイとミードが、シカゴ大学で長年にわたって机を並べ、互いの議論を交わし合っていたことを踏まえれば、この第六章でデューイが示す、自己を社会的・歴史的な達成として捉える見方と、ミードの社会的自己論とのあいだに、何らかの響き合いを見て取りたくなるのは自然なことです。ただし、どちらがどちらに、どの程度影響を与えたのかを正確に線引きすることは難しく、二人の思想は、長年の対話のなかで、互いに影響を与え合いながら育っていったと見るのが穏当なところでしょう。デューイはこう述べています。「個性とは、与えられたものではなく、作られるものである」。自己や主観性は、あらかじめ天から与えられた、不変で絶対的な何かではありません。人間という生物が、自然の厳しさ、そして他者との関わりに対処しようとする、長い歴史的な過程のなかで、少しずつ作られ、達成されていくものなのだ、というのがデューイの結論です。
第七章 自然、生命、そして心身――心はどの段階で生まれるのか
第七章、「自然、生命、そして心身」に進みます。第七章と第八章は、デューイの心の哲学、いわゆる心身問題への解答が、もっとも具体的に展開される部分です。デューイはここで、存在を三つの水準——彼の言葉では「プラトー」——に分けて説明します。一つ目は「物理的」な水準です。数学や力学によって説明できる、単純な物体の動きの世界です。石が転がり落ちる、水が流れる、といった現象がこれにあたります。具体的にイメージするために、化学反応の例も付け加えておきましょう。たとえば、鉄がむき出しのまま雨風にさらされて赤茶色のさびに変わっていく現象や、重曹に食酢を注いだときにしゅわしゅわと泡が立つ現象は、いずれも、特定の物質同士が特定の条件のもとで結びつき、決まった規則にしたがって別の物質へと変化していく、純粋に物理的・化学的な出来事です。そこには、何かを欲しがったり、何かを避けようとしたりする様子は、いっさい見て取れません。原因となる条件がそろえば、いつでも同じように結果が生じる、そうした規則性だけが働いている水準、それがデューイの言う「物理的」な水準です。二つ目は「心理物理的」な水準です。欲求、要求、満足といった言葉で説明される、生き物の営みの世界です。植物が光を求めて茎を伸ばし、動物が餌を求めて行動する、といった現象です。まだ言葉や意識を必要としない、生物学的なレベルの働きです。この水準をめぐっては、デューイと同じ時期に、生物学者ハーバート・スペンサー・ジェニングスが行った研究がしばしば参照されます。ジェニングスは、1906年に発表した『下等生物の行動』という研究書のなかで、単細胞生物であるゾウリムシが、酸性の刺激や有害な物質に触れると、その場でいったん後退し、向きを変えながら、危険を避けられる方向が見つかるまで試行錯誤を繰り返す、という行動を、丹念な観察によって記録しています。ゾウリムシには、むろん、脳も神経系すらありません。それでも、まるで何かを”避けよう”としているかのような、粗削りながらも意味のある行動のパターンが、そこにははっきりと見て取れます。ジェニングス自身、デューイやウィリアム・ジェイムズらのプラグマティズムに強い関心を寄せていたことが知られており、生き物の行動を、あらかじめ決まった機械的な反射としてではなく、状況に応じて調整される、いわば実験的な試行錯誤の過程として捉えるその視点は、デューイたちの哲学と、深いところで響き合っています。同じような例は、細菌が、周囲の栄養濃度の勾配を”感じ取り”、栄養の多い方向へと鞭毛を使って泳いでいく走化性や、日中、多くの植物が太陽の動きを追いかけるように葉や茎の向きを変えていく屈光性にも見て取れます。いずれも、まだ言葉や、後で述べる意味の世界を必要としない、生物学的な欲求・充足のレベルで動いている現象です。三つ目は「心的」な水準です。言語によるコミュニケーションと思考が営まれる世界、つまり、これまでの章で見てきた、意味とコミュニケーションの世界です。具体例で考えてみましょう。ある会社員が、去年の冬、水道管が凍結して困った経験を思い出し、「今年は同じ失敗を繰り返さないようにしよう」と考えて、秋のうちに水道管に保温材を巻いておく、という行動を取ったとします。この行動は、いま目の前にある刺激に対する、その場限りの反応ではありません。過去に起きた出来事を思い起こし、それを踏まえて、まだ訪れていない将来の状況を思い描き、その将来に向けてあらかじめ手を打つ、という、時間を横断した働きが、そこには含まれています。ゾウリムシが目の前の刺激を避けて向きを変えるのと、人間が過去の経験を踏まえて将来の計画を立てるのとでは、同じ「生き物が環境に対応する」という営みでありながら、そこに関わっている複雑さの度合いが、まるで違います。この、過去を踏まえて将来を見通し、いま目の前にないものについて考えることができる、という働きこそが、デューイの言う「心的」な水準の特徴です。デューイの重要な主張は、これらの水準が、まったく別々の実体として並んでいるのではなく、下の水準の出来事どうしが、より複雑に絡み合い、組織化されることによって、新しく”立ち現れてくる”、つまり「創発」する、というものです。心は、物質とはまったく別の、どこか神秘的な場所から舞い降りてくるものではありません。自然の中で起きているプロセスが、ある一定の複雑さに達したとき、そこに現れてくる、自然そのものの一部なのだ、というのがデューイの主張です。この「創発」という考え方について、もう少し補足しておきましょう。実は、デューイが『経験と自然』を出版したのと同じ1925年、イギリスの哲学者C・D・ブロードが『心とその自然界における位置』という著作を発表し、複雑な全体が示す性質は、その部品それぞれの性質をいくら足し合わせても導き出せない場合がある、という「創発」の考え方を、より体系立てて論じています。ブロードに代表される、こうした立場は、後に「イギリス創発主義」と呼ばれるようになりました。デューイとブロードのあいだに、直接の影響関係があったのかどうかは定かではありませんが、少なくとも1920年代の英語圏の哲学において、心を、物質から切り離された特別な実体としてではなく、物質がある複雑さに達したときに現れてくる性質として捉え直そうとする機運が、同時多発的に高まっていたことがうかがえます。この創発という発想は、今日ではさらに広い文脈で使われるようになっています。たとえば複雑系科学の分野では、一匹一匹のアリが、ごく単純な規則にしたがって動いているだけなのに、群れ全体としては、まるで誰かが指揮しているかのような、巣づくりや効率的な採餌のパターンが立ち現れてくる現象や、水という物質が示す「濡れている」という性質が、水素原子や酸素原子それぞれの性質をいくら調べても出てこない、分子の集まり方によって初めて立ち現れてくる性質であることなどが、「創発」の代表例として、しばしば取り上げられます。また現代の心の哲学でも、心的な性質は物理的な性質に完全に還元することはできないけれども、物理的な性質から独立して存在するわけでもなく、それに依存しながら成り立っている、とする「非還元的物理主義」と呼ばれる立場が、有力な選択肢の一つとして論じられています。心は脳という物理的な基盤なしには存在しえないが、だからといって、脳の状態をどれだけ物理学や化学の言葉で説明し尽くしても、それだけで心そのものを語り尽くせるわけではない、という考え方です。デューイが、物理的・心理物理的・心的という三つの水準を、別々の実体としてではなく、複雑さの度合いによって連続的につながった水準として描き出そうとした試みは、用語こそ異なれ、こうした現代の複雑系科学や心の哲学の問題意識と、根っこの部分でかなり近いところに立っていると言えそうです。ここで鍵となるのが「感覚」と、それが「意味」へと変わっていく働きです。まだ言葉を持たない生き物の、単なる感じ取り——たとえば、皮膚が熱を感じる、光を感じる、といった生物学的な感受性——が、コミュニケーションという仕組みを通じて、少しずつ「意味」を帯びるようになり、そこから、私たちが「心」と呼ぶような働きが、立ち上がってくる。この過程を、デューイは丁寧に描き出そうとしています。
第八章 存在、観念、そして意識――知るとは、外から眺めることではない
第八章、「存在、観念、そして意識」です。前章の議論を受けて、デューイはここで「意識」という言葉の、二つの異なる意味を区別します。一つは、ただ感じているだけの、まだ言葉になっていない、いわば生の感覚としての意識です。もう一つは、何かに気づき、それが何を意味するかを捉える意識です。デューイは、この後者の、意味の焦点となったものを「観念(ideas)」と呼びます。デューイの整理によれば、心とは、身体に根ざした、さまざまな意味の広がり全体のことであり、意識とは、私たちが疑問や問題にぶつかったときに、その意味の広がりの中から、必要なものを見極め、区別し、組み替えていく、その働きのことです。つまり意識とは、いつも一定の強さで灯っている光のようなものではなく、問題が生じたときに、必要な場所を照らし出す、いわばスポットライトのような働きだというわけです。ここで、「意識」と「観念」の区別を、もう少し身近な場面に当てはめて確認しておきましょう。車を運転していて、前方の景色をぼんやりと視界に収めているとき、それはまだ、ただ感じているだけの、生の感覚としての意識にとどまっています。ところが、その景色の中に、前の車のブレーキランプが赤く点灯するのを認め、「危ない、止まらなければ」とはっきり意味を捉えた瞬間、その赤い光は、単なる視覚的な刺激ではなく、デューイの言う「観念」へと変わります。ブレーキランプという同じ一つの刺激が、漫然と眺めているだけの状態と、意味を持って捉えられた状態とのあいだを行き来する、その違いこそが、意識と観念の区別なのです。ここでデューイは、本書の中でもとりわけ有名な批判を展開します。「傍観者的な認識論(spectator theory of knowledge)」と呼ばれる考え方への批判です。これは、知るということを、すでにそこにある本当の姿を、ただ覆いを取って眺めるだけの、受け身の行為だとみなす見方です。西洋哲学は、プラトン以来、長らくこの見方を引きずってきた、とデューイは考えます。知識とは、いわば鏡のように、外側の世界をそのまま映し出すものだ、という発想です。興味深いのは、「傍観者的な認識論」ということば自体が、一般に広く知られるようになるのは、実はこの『経験と自然』からさらに4年後、1929年に出版される、別の著作においてだという点です。その著作とは、スコットランドのエディンバラ大学で行われた、権威ある連続講演、ギフォード講演をもとにまとめられた『確実性の探求(The Quest for Certainty)』です。この本でデューイは、知識の対象を、すでに確定し、変化することのない、いわば”のぞき見”されるのを待っているだけの実在とみなす、伝統的な認識論のあり方を正面から俎上に載せ、「傍観者的な認識論」という呼び名のもとに、これでもかというほど徹底的に批判を展開することになります。つまり、いま見ているこの第八章の議論は、いわば産声を上げたばかりの、この批判の原型だと言えるでしょう。ここではまだ、この呼び名は、意識や観念をめぐる議論の一部として、いくぶん控えめに登場するにとどまっていますが、デューイ自身、この考え方がよほど根深い問題だと感じていたのでしょう、わずか4年後の著作において、この批判を、書物一冊分の分量をかけて、あらためて正面から掘り下げ直すことになったわけです。そして、この「傍観者的な認識論」批判が、なぜこれほど根深い問題としてデューイを苦しめたのかを理解する手がかりが、『確実性の探求』の章立てそのものにあります。同書の第一章の表題は「危険からの逃避(Escape from Peril)」というものでした。これは、第二章で見た「不安定なもの」への不安から、私たちがどうしても、変化しない確実な知識にすがりつきたくなってしまうという、あの心理と、まったく同じ根から生まれています。つまり、傍観者的な認識論とは、たんなる一つの誤った理論というだけでなく、不確実な世界を生きる人間が、いわば安全地帯に逃げ込もうとする、切実な心理的欲求の産物でもあった、というのが、デューイの見立てなのです。この「知識とは鏡のようなものだ」という比喩そのものが、後年、思わぬ形で哲学史に残ることになります。1979年、哲学者リチャード・ローティは『哲学と自然の鏡(Philosophy and the Mirror of Nature)』という著作の中で、プラトンからおよそ20世紀初頭に至るまでの西洋哲学の主流を、心を、外側の世界をそのまま映し出す一枚の鏡とみなしてきた伝統として描き出し、これを鋭く批判しました。ローティは、この「鏡」という発想を乗り越えた数少ない先駆者として、ハイデガーやウィトゲンシュタインと並べて、デューイの名を挙げています。デューイがこの第八章で素描し、『確実性の探求』でさらに掘り下げた、傍観者的な認識論への批判が、半世紀のちに、こうした形で再発見され、20世紀後半の哲学の大きな潮流の一つを準備することになった、というのは、なんとも興味深い巡り合わせだと言えるでしょう。デューイはこれに対して、まったく違う代案を提示します。知るということは、受け身に眺めることではなく、判断を下し、発見し、実際に世界の中で行動する、能動的で実験的な営みなのだ、という主張です。科学者が実験を行うとき、彼らはただ自然を眺めているのではありません。仮説を立て、条件を操作し、働きかけ、その結果として、何かを知るに至ります。具体的に、実験室で働く科学者の一日を思い浮かべてみると、この能動的な知識観がどういうものか、もう少しはっきり見えてきます。科学者はまず、目の前の現象を前にして、「もしかしたら、こういう仕組みになっているのではないか」という一つの仮説を思い描きます。次に、その仮説が本当に正しいのかどうかを確かめるために、温度を変えてみる、薬品の濃度を変えてみる、対照群を用意してみるといった具合に、実際に条件を操作します。そして、その操作の結果として現れてくるデータや現象の変化を、注意深く観察します。もし予想していた通りの結果が得られなければ、科学者は仮説そのもの、あるいは実験の手続きそのものを見直し、修正した仮説を携えて、ふたたび実験に取りかかります。仮説を立てる、条件を操作する、結果を観察する、そして理論を修正する——この一巡りのサイクルを、納得のいく答えにたどり着くまで、何度も繰り返す。デューイが「能動的で実験的な知識観」と呼ぶものの実質は、まさにこの、地道で反復的な往復運動にほかなりません。デューイにとって、知識とは、世界をありのままに”鏡に映す”ものではなく、世界に働きかけ、状況をよりよくしていくための、実践的な道具なのです。
第九章 経験、自然、そして芸術――なぜ最後に芸術の話をするのか
第九章、「経験、自然、そして芸術」に移ります。存在論、言語論、心の哲学と続いてきたこの本の中で、突然、芸術の話が始まることに、意外な印象を持つ方もいるかもしれません。しかし、デューイの狙いは一貫しています。彼はまず、「美術(ファイン・アート)」と「実用的な技術(役に立つ技)」という、私たちが当たり前に思っている区分そのものに疑いの目を向けます。この区分は、実は、社会の中で誰がどのような仕事を担うかという、身分差別的な分業の反映にすぎないのではないか、というのです。第四章で見た、実践知を見下す発想と、まったく同じ根から生まれている、というわけです。実際、「美術(ファイン・アート)」という区分そのものが、歴史をさかのぼれば、決して大昔からあった不変のカテゴリーではありません。古代ギリシア語の「テクネー(techne)」やラテン語の「アルス(ars)」は、絵画や彫刻だけでなく、大工仕事や医術、弁論術までも同じ一つの語で指し示す、もっと幅広い「技」を意味する言葉でした。今日私たちが当たり前のように思い浮かべる、音楽・詩・絵画・彫刻・舞踊を「美しさを目的とする特別な技芸」としてひとまとめにし、日常の実用的な技術から切り離して体系化したのは、実は18世紀のフランスの思想家シャルル・バトゥーが、1746年に発表した『同一の原理に還元された美術』という著作においてであったと、美学史の研究者たちは指摘しています。つまり「美術」対「実用の技術」という、私たちがほとんど自明のものとして受け入れているこの区分は、たかだか280年ほど前に、ヨーロッパのある思想家によって、いわば人為的に線引きされたものにすぎないのです。デューイが、この区分を「身分差別的な分業の反映」だと喝破する背景には、こうした歴史的な経緯もあったのだと考えると、その批判の射程が、より具体的に見えてくるのではないでしょうか。デューイは、すべての芸術は本質的に実践的な営みであると論じます。そして、より大胆なことに、科学もまた、もとをたどれば芸術から生まれたものであり、究極的には芸術に奉仕する「侍女」のような存在だとまで述べています。デューイにとって芸術とは、自然に後から付け加えられた、飾りのようなものではありません。むしろ、自然そのものが持っている、ある種の”完結させる力”が、もっともよく発揮される場面こそが、芸術だという位置づけです。ここで導入されるのが、「完結した経験(consummatory experience)」という概念です。私たちの日々の経験の多くは、漫然と続いたり、中途半端なまま中断されたりします。しかし、時折、一つのまとまりとして、始まりから終わりまで、満足のいく形で完成に至る経験があります。良い映画を見終えたときの充実感、丹精込めて作った料理を味わうときの満足感、そうした、一つのまとまりとして完結する経験こそが、デューイの考える美的経験の核心です。もう少し具体例を重ねてみましょう。贔屓のチームが出場するスポーツの試合を、最初から最後まで見届けたときのことを思い出してみてください。前半の攻防、後半の逆転、そして試合終了の笛が鳴る瞬間まで、一つの物語として緊張と弛緩が積み重なり、勝敗が決したその瞬間に、はっきりとした一つの区切りが訪れます。これは、途中で中断されたり、結果を知らないまま席を立ったりする経験とは、まったく質の違うものです。旅行から帰ってきたときの経験も、よい例になるでしょう。旅の最中は、電車の乗り換えに追われたり、思いがけない雨に降られたりと、断片的な出来事の連続にすぎないかもしれません。しかし、旅を終えて帰宅し、あの町ではこんな出会いがあった、あの日はこんな失敗をした、と一つのまとまった物語として振り返ることができたとき、その旅は、単なる出来事の寄せ集めから、一つの「経験」へと変わります。あるいは、もっとささやかな例で言えば、豆を挽くところから丁寧に淹れたコーヒーを、一口ずつ味わい、最後の一滴まで飲み終えたときに訪れる、あの静かな満足感も、デューイの言う完結した経験の、身近な一例だと言えるでしょう。デューイに言わせれば、こうした経験に共通しているのは、単に「長く続いた」ということでも、「楽しかった」ということでもありません。始まりがあり、途中に緊張や抵抗、展開があり、それらが一つの方向へと積み重なっていき、最後に、それまでの過程すべてを引き受けるような、明確な完結の瞬間が訪れる。この、部分と部分とが有機的につながり、全体として一つのまとまりを成すという構造こそが、経験を単なる出来事の羅列から、味わうに値する一つの「経験」へと変える鍵なのだ、というのがデューイの考えです。この考え方は、本書から約10年後に書かれる、デューイの主著の一つ『経験としての芸術』(1934年)へと、そのまま発展していくことになります。この、完結した経験という考え方が、デューイの哲学全体の中でどれほど重い意味を持っているかについて、研究者トマス・アレクサンダーが示した見立てを、ここで紹介しておきたいと思います。アレクサンダーは1987年に発表した研究書『デューイの芸術・経験・自然の理論——感受の地平』の中で、デューイの哲学というと、教育論や道具主義的な知識論ばかりが注目されがちだが、実はその全体を根っこで貫いているのは、美的経験の理論なのではないか、と論じました。良心や趣味、確信といった、直接に感じ、味わうという働きが、デューイの哲学のあらゆる場面——知識論であれ、心の哲学であれ、倫理学であれ——の土台に据えられている、というのがアレクサンダーの見立てです。この見方に立つなら、いま見てきたこの第九章は、たんに数ある議論の一つが芸術という題材へと寄り道した章なのではなく、むしろ本書全体、ひいてはデューイの哲学全体の、いわば隠れた重心が姿を現す章だということになります。実際、デューイ自身、後年、『経験としての芸術』において、完結した経験というこの考え方を、美術作品の鑑賞だけでなく、あらゆる経験が理想的な形で成し遂げられたときに現れる、いわば経験の”完成形”として、さらに大きく発展させていくことになります。芸術とは、日常から切り離された特別な活動なのではなく、私たちの経験が本来持っている、まとまりへと向かう力が、もっとも純粋な形で結実したものなのだ、というのが、この二冊を貫く、デューイの一貫した確信だったのです。
第十章 存在、価値、そして批評――哲学とは何をする仕事なのか
第十章、「存在、価値、そして批評」、いよいよ最終章です。デューイはここで、第一章、第二章で示した方法論の議論に、あらためて立ち返ります。デューイの結論は、こうです。哲学とは、本質的に「批評(criticism)」という営みであり、しかも「批評についての批評」でもある、というものです。少し不思議な言い回しですが、こういうことです。私たちは日々、さまざまな価値——道徳的な善さ、美しさ、正しい信念——を、直接に味わい、これは良いものだと感じています。しかし、価値どうしはしばしば競合し、限られています。時間もお金も、良心も、無限にあるわけではありません。だからこそ、どの価値を優先すべきか、何が本当に良いものなのかを、見極め、判断する営みが必要になります。これが「批評」です。デューイは、哲学にとって特に重要な三つの価値領域を挙げます。道徳、美的な鑑賞、そして信念です。それぞれに対応する、直接的な感じ方が、良心、趣味、確信であり、それぞれを見極める批評の形が、道徳的な判断、芸術批評、そして科学的な探求です。ここで、それぞれの場面を、もう少し具体的に思い浮かべてみましょう。まず良心です。たとえば、あなたが友人との約束をうっかり忘れてしまい、後になってそのことに気づいたとします。相手を傷つけてしまったかもしれないと思うと、胸の奥がちくりと痛むような、あの独特の感覚。これが、デューイの言う「良心」という直接的な感じ方です。この時点では、まだ何も「判断」してはいません。ただ、何か良くないことが起きた、というのを、いわば身体で感じ取っているだけです。この痛みを出発点にして、「では、なぜあの約束を忘れてしまったのか」「相手にどう謝るべきか」「今後、同じことを繰り返さないためにはどうすればよいか」と、状況を整理し、比較し、判断を下していく。この整理と判断の営みこそが「道徳的な判断」という批評です。次に趣味です。美術館で一枚の絵の前に立ち、なんとなく心を惹きつけられる、あるいは逆に、どこか居心地の悪さを感じる。これが「趣味」、つまり美的な直接の感じ方です。ところが、プロの美術評論家は、ここで立ち止まりません。なぜこの絵の色使いが心を惹きつけるのか、構図のどの部分が緊張感を生んでいるのか、同時代の他の画家の作品と比べてどこが独創的なのか、画家自身の来歴や、その絵が描かれた時代背景は、作品にどう影響しているのか。こうした比較と分析を積み重ねて、初めて評論家は、その絵の価値について、説得力のある言葉を紡ぐことができます。優れた鑑定家というのは、単に好き嫌いを言う人ではなく、自分がなぜその作品を好むのかを、作品の特徴に即して反省的に言い当てられるだけの経験と確かな見立てを備えた人のことだ、とデューイは考えます。これが「芸術批評」です。最後に確信です。ある科学者が、実験データを眺めていて、「もしかしたら、この現象の背後には、こういう法則があるのではないか」と、ふと感じる瞬間があります。これはまだ、直感的な確信にすぎません。しかし優れた科学者は、そこで満足しません。仮説を明確な形に組み立て、それを検証するための実験を計画し、条件を変えながら何度もデータを取り、予測が外れた場合には仮説を修正し、また検証を繰り返す。この地道な検証の積み重ねこそが「科学的探求」という批評です。デューイが言いたいのは、道徳的な判断も、芸術批評も、科学的探求も、根っこの構造はまったく同じだということです。まず、良心や趣味や確信という、直接的で、まだ言葉にならない感じ取りがある。そして、その感じ取りを出発点にしながら、比較し、吟味し、他の可能性と照らし合わせ、より確かなものへと磨き上げていく、反省的な営みがある。これが「批評」です。だからこそ哲学もまた、単なる感じ取りの記録ではなく、あらゆる領域の批評そのものを、さらに一段上から見渡し、吟味する「批評の批評」でなければならない、というのが、デューイの結論なのです。そして最後にデューイは、本書全体、つまり形而上学——自然の一般的な特性を探る、この長い探求そのもの——の位置づけを示します。形而上学は、それ自体が最終目的なのではありません。あらゆる批評の営みのために、いわば「基礎地図(ground-map)」を用意すること。これが、形而上学の、道具としての役割なのだ、というのが、本書全体を締めくくる結論です。この「基礎地図」という比喩を、もう少し丁寧に追いかけてみましょう。私たちが実際に、見知らぬ土地を旅するとき、地図そのものは、目的地ではありません。地図を眺めているだけでは、どこにも辿り着けません。しかし、地図がなければ、そもそもどちらの方向に進めばよいのか、この道の先に何があるのか、見当すらつきません。地図は、実際に足を踏み出す前に、この土地全体が、おおよそどのような形をしていて、山や川や道がどう配置されているのかを、あらかじめ大づかみに示してくれます。だからこそ私たちは、目の前の分かれ道に差しかかったときに、行き当たりばったりに選ぶのではなく、地図に照らして、今どのあたりにいて、どちらに進めば目的地に近づけるのかを、判断することができるのです。形而上学もこれと同じだ、とデューイは考えます。形而上学そのものは、道徳的な判断も、芸術批評も、科学的探求も、代わりに行ってはくれません。目の前の友人にどう謝るべきか、この絵のどこが優れているのか、この仮説は正しいのか。そうした個別の判断は、結局、それぞれの現場で、当事者自身が下すしかありません。しかし、存在するものには、こういう一般的な特徴がある——不安定なものと安定したものが常に混じり合っている、心は物質から連続的に立ち現れる、価値は自然の中の出来事として生まれる、といった、これまでの九つの章で描き出してきた自然の”地形”を、あらかじめ大づかみに知っておくことは、個々の批評の場面で、見当違いの方向に迷い込まないための、頼りになる助けになります。測量士が、実際の土地に見えない基準線を引き、そこから個々の地点の正確な位置を割り出していく「三角測量」という手法をご存じでしょうか。実はデューイ自身が、本書の中で、形而上学とは「批評の領域のための基礎地図であり、より複雑な三角測量に用いられるべき基準線を打ち立てるものだ」と、まさにこの三角測量という言葉を使って語っています。自然の一般的な特性という、いわば見えない基準線をあらかじめ引いておくことで、初めて私たちは、道徳や芸術や科学という、それぞれ別々の現場で下される個々の判断を、互いに関連づけながら、より正確に位置づけることができるようになる、というわけです。地図が旅人の代わりに歩いてはくれないのと同じように、形而上学は、私たちの代わりに、何が善いか、何が美しいか、何が真実かを決めてはくれません。けれども、良い地図を携えた旅人が、迷ったときにも自分の位置を見失わずに済むように、しっかりとした基礎地図としての形而上学を携えた批評家は、目の前の個別の判断に追われて、全体の見通しを見失ってしまうことがない。これが、デューイが本書全体を通じて描き出そうとした、形而上学という営みの、控えめでありながら、しかし欠くことのできない役割なのです。
【独自の視点】このチャンネルとしての批判的検討
ここで一つ、このチャンネルとしての批判的な視点を挟んでおきたいと思います。ここまで見てきたように、『経験と自然』は、非常に野心的で、射程の広い議論を展開しています。しかし、この本に対する最大の批判は、実は、著者であるデューイ自身がすでに認めていたものでした。冒頭で紹介した通り、「経験」という中心概念があまりに多義的で、伝わりにくいという問題です。デューイ自身が晩年、この語を「文化」に置き換えたいとまで語ったことは、すでにお話しした通りです。この点について、哲学者リチャード・ローティの、興味深く、両義的な評価を紹介しておきましょう。ローティは、20世紀後半、デューイのプラグマティズムを分析哲学の内部から復権させた、最大の立役者の一人です。ローティは、デューイの反本質主義的な身振り——哲学の伝統的な問題そのものを、解決するのではなく解消しようとする姿勢——を、高く評価しました。ところが、当のローティは、『経験と自然』そのものについては、むしろ距離を置いています。ローティは、この本でデューイが「形而上学へと後戻りしてしまっている」と評し、「デューイは、『経験』という語を、新しい意味で使い直すのではなく、いっそ捨て去るべきだった」と述べたと言われています。デューイ再評価の最大の立役者自身が、この本の核心部分には、むしろ懐疑的だったという、興味深いねじれです。本書が出版されたのと同じ1925年には、早くも哲学者ジョージ・サンタヤーナが、「デューイの自然主義的形而上学」と題する書評論文を発表し、この”自然主義”がどこまで徹底できているのか、同時代からすでに疑問を投げかけていました。次に、現代の哲学者ピーター・ゴドフリー=スミスによる、2013年の再評価論文を紹介します。ゴドフリー=スミスは、20世紀後半のプラグマティズムが、思考や行為の結びつきを軽視し、言語の分析へと急ぎすぎた、いわゆる「言語論的転回」を、「時期尚早だった」と評しました。そのうえで、この『経験と自然』を、こう結論づけています。「その過剰さや、果てしない反復、時に理解不能な箇所にもかかわらず、プラグマティズムの系譜でこれまで書かれた最良の書物である」。かなり手厳しい留保つきの、しかし最大級の賛辞です。ゴドフリー=スミスは、具体的な弱点も指摘しています。たとえば、デューイが「言語を持たない生き物には、痛みや漠然とした快・不快以上の、心の働きはない」という趣旨のことを述べている点は、カラスや類人猿の空間認知に関する現代の動物研究から見ると、支持しにくい、強すぎる主張だと言います。一方でゴドフリー=スミスが高く評価するのは、デューイが「心」「物質」「意識」という名詞ではなく、「精神的に」「物理的に」「意識的に」という、副詞や形容詞で語ることを提案した発想です。これは、現代の認知科学、たとえば声には出さず頭の中で言葉を使って考える「内言」の研究や、心の働きを脳の中だけに閉じ込めず、道具や環境にまで広げて捉える「拡張された心」という理論とも、どこかつながる、先駆的で、今なお実り豊かな視点だというのです。ここで、ゴドフリー=スミスのような現代の分析系の哲学者だけでなく、デューイ研究そのものを専門とする研究者たちが、それぞれ異なる角度から、この難解な一冊をどう位置づけ直してきたかも、簡単に紹介しておきましょう。まず、トマス・アレクサンダーです。アレクサンダーは、1987年に出版した『デューイの芸術・経験・自然の理論——感受の地平』という研究書のなかで、デューイの哲学全体を貫く、いちばん根本にある考え方は、実は第九章で扱われた「美的経験」なのだと論じました。良心や趣味、確信といった、この章で見てきたような、直接に味わい、感じ取るという働きこそが、デューイの哲学の出発点であり到達点でもある、というのが、アレクサンダーの見立てです。次に、ラリー・ヒックマンです。ヒックマンは、長年にわたってサザンイリノイ大学のデューイ研究センターの所長を務めた研究者で、1990年に発表した『デューイの実用主義的技術論』という著作のなかで、デューイを、技術の哲学者として捉え直しました。第四章と第九章で見た通り、デューイは、理論知と実践知を分け隔てる伝統的な発想そのものに、繰り返し疑問を投げかけていました。ヒックマンは、この発想をさらに一歩進めて、デューイの言う「探求」という営みそのものが、実は一種の技術的な行為にほかならない、と論じます。知識をつくり出すこと自体が、道具を使いこなして何かをつくり上げる作業と、本質的に同じ構造を持っている、というわけです。最後に、ロバート・ウェストブルックです。ウェストブルックは、1991年に『デューイとアメリカの民主主義』という浩瀚な伝記研究を発表し、デューイの思想を、彼が生きた時代の政治や社会運動との関わりのなかで、丹念に描き直しました。ウェストブルックが描き出すデューイ像は、単なる書斎の哲学者ではなく、参加型の民主主義という理想に突き動かされ、同時代のジェイン・アダムズやレオン・トロツキーといった人々とも交わりながら、自らの思想を鍛え続けた、いわば行動する哲学者としてのデューイです。象徴的なのは1937年、デューイが77歳のときの出来事です。スターリン体制下のモスクワ裁判で反逆罪に問われたレオン・トロツキーの無実を調べるため、亡命先のメキシコに、国際調査委員会が組織されました。この委員会の委員長に選ばれたのが、他ならぬデューイでした。デューイは、コヨアカンにあるトロツキーの自宅に自ら赴き、4月10日から17日にかけて連日聴聞を行い、最終的に「無罪」という報告書をまとめ上げています。一人の哲学者が、晩年にさしかかってなお、政治的に危険で困難な国際調査の指揮を、自ら買って出た。ウェストブルックは、こうした具体的な行動の一つひとつを丹念に掘り起こすことで、デューイの哲学を、机上の理論としてではなく、生きられた実践として描き直そうとしたのです。こうして見てみると、『経験と自然』という一冊の本が、その後の哲学史のなかで、決して一枚岩の評価を受けてきたわけではないことが、よく分かります。ある研究者は美的経験というレンズから、ある研究者は技術という切り口から、またある研究者は政治的な伝記というアプローチから、それぞれまったく違う角度から、この本の核心に迫ろうとしてきました。一冊の難解な本が、これほど多様な読み方を生み続けているという事実そのものが、この本がいまだに汲み尽くされていない証拠なのかもしれません。このチャンネルとしての見立てを述べておきましょう。『経験と自然』は、確かに読みにくく、時に意味が取りづらい本です。しかし、その難解さの奥には、「経験」と「自然」、「心」と「物質」、「理論」と「実践」、「科学」と「芸術」という、私たちが当たり前のように分けてしまっている物事の境界線そのものを、根本から疑い直そうとする、一貫した狙いがあります。ちなみに2025年、本書の出版からちょうど100年を迎え、アメリカの大学ではセンテニアルを記念した読書ガイドや会議が開かれるなど、この難解な本は、今なお現役の研究対象であり続けています。
【まとめ】:分けないことから、何が見えてくるか
今日は、デューイ『経験と自然』の全10章を、じっくりと辿ってきました。最後に、全体を振り返っておきましょう。第一章では、「経験」という言葉そのものへの反省と、経験論的な方法が示されました。第二章では、不安定なものと安定したものという、存在の根本的な組み合わせが示されました。第三章では、直接的な享受という、見落とされがちな価値が扱われました。第四章では、手段と目的、実践知と理論知という二分法の起源が掘り起こされました。第五章では、言語こそが心を作るという、順序の逆転が示されました。第六章では、自己や主観性が、歴史的に作られていくものだと論じられました。第七章では、物理的、心理物理的、心的という三つの水準による、心の創発理論が示されました。第八章では、傍観者的な認識論への批判と、能動的な知識観が示されました。第九章では、芸術と科学の分裂が問い直され、完結した経験という概念が示されました。そして第十章では、哲学とは批評であり、形而上学とはそのための基礎地図なのだという、本書全体の結論が示されました。この長い旅を貫いている一本の線は、こういうことだったと思います。経験と自然、心と物質、理論と実践、科学と芸術。私たちが当たり前のように引いてしまっている、これらすべての境界線を疑い、両者が実は連続した、一つの自然のプロセスの中にあることを示そうとした、一貫した企てだったのです。この話を、皆さん自身の日々に、少しだけ引き寄せてみましょう。私たちも日常のなかで、「感じていること」と「本当のこと」、「頭で考えること」と「実際にやってみること」を、無意識のうちに、まったく別々の世界として切り離してしまってはいないでしょうか。そしてデューイが百年前に指摘した、あの癖——不確実さを認めたくないあまり、絶対的な体系にすがってしまうという癖は、今の私たちの中にも、形を変えて、まだ残っているのではないでしょうか。具体的に、二つほど例を挙げてみましょう。一つ目は、仕事と趣味を、まったく別のものとして切り離して考えてしまいがちな方への例です。多くの人は、仕事とは我慢してお金を稼ぐための手段であり、本当に満たされる時間は、仕事が終わったあとの趣味や余暇にこそある、と考えています。しかし、第九章で見た「完結した経験」という考え方に立ち返るなら、話は少し変わってきます。デューイに言わせれば、大切なのは、その活動が”仕事”というラベルを貼られているかどうかではなく、その活動が、始まりから終わりまで、一つのまとまりとして完結し、そこに達成感が伴っているかどうかです。たとえば、一つの企画を最初から練り上げ、資料を集め、試行錯誤しながら形にし、最後に納得のいく成果として仕上げる。この一連の流れをきちんと味わいながら進めることができれば、それは、趣味の時間と同じように、立派な「完結した経験」になり得ます。逆に、趣味の時間であっても、ただ漫然とスマートフォンの画面を眺めているだけでは、デューイの言う完結した経験にはなりません。仕事か趣味かという分類そのものよりも、その活動を、始まりと終わりのある、一つのまとまりとして、意識的に味わえているかどうかのほうが、よほど重要だ、というのが、この本から引き出せる、一つの実践的な示唆です。もう一つの例を挙げましょう。私たちは、何か大きな決断を迫られたとき、「頭で考えて、論理的に正しい答えを出そう」とする一方で、「なんとなく気が進まない」「胸騒ぎがする」といった感覚を、根拠のないものとして無視してしまいがちです。しかし、第十章で見た「良心」や「確信」の話を思い出してください。デューイにとって、こうした直接的な感じ取りは、理性的な判断の”邪魔者”ではなく、むしろ判断が出発すべき、最初の手がかりです。違和感を覚えたら、その違和感を切り捨てるのではなく、いったん立ち止まり、「なぜ自分はこれに引っかかりを感じているのか」を、丁寧に言葉にしてみる。この往復こそが、デューイの言う批評的な思考の、日常における実践だと言えるでしょう。次回もまた、一冊の哲学書、あるいは一人の思想家の考えを、じっくりと読み解いていきます。それでは、また次回、お会いしましょう。

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