アンリ・ベルクソン『物質と記憶』──過去はどこに保存されるのか|「記憶」と「物質」が出会う場所、心と身体をめぐる革命的哲学

哲学

も哲学書の解説シリーズです。今回は、アンリ・ベルクソン物質と記憶を取り上げます。 

はじめに

まず、前回のお話から始めさせてください。前回、私たちはウィリアム・ジェームズの『心理学原理』を読み解きました。ジェームズは、私たちの意識というものが、バラバラの観念が鎖のようにつながったものではなく、川のように途切れることなく流れ続ける一つの連続体である、と看破しました。彼が「意識の流れ」と名づけたこの洞察は、後の心理学にも文学にも、計り知れない影響を与えたのでした。

そして今回のベルクソンは、まさにこのジェームズと響き合う存在です。ジェームズが「意識の流れ」を心理学という学問の言葉で鮮やかに描き出したとすれば、ベルクソンは「時間と記憶の流れ」を、形而上学の──つまり存在そのものを問う哲学の──高みへと押し上げました。

興味深いのは、この二人がほぼ同じ時代を生き、それぞれ大西洋を挟んだ東と西で、ほとんど同時に「流れる時間」という同じ鉱脈を掘り当てたという事実です。アメリカのジェームズと、フランスのベルクソン。二人は実際に書簡を交わし、互いの仕事を心から高く評価し合った、いわば盟友でした。ジェームズはベルクソンの著作に深い感銘を受け、ベルクソンもまたジェームズを称えています。流れる時間をめぐる探究のバトンが、ジェームズからベルクソンへと、確かに手渡されていく──今回はそんな物語として、この本を読んでいきたいと思います。

さて、本題に入る前に、皆さんに一つ、素朴な問いを投げかけさせてください。

「昨日の出来事を思い出すとき、その記憶は、いったいどこから来るのでしょうか」

私たちはおそらく、何の疑いもなくこう答えるはずです。「記憶は脳に保存されている。だから昨日のことを思い出せるのだ」と。記憶という名のファイルが、脳のどこかの引き出しにしまわれていて、必要なときに取り出される──これが、現代を生きる私たちの、ごく自然な常識でしょう。

けれど、本当にそうなのでしょうか。

ここで、一つ立ち止まってみたい事実があります。もし脳が記憶の倉庫であるならば、その倉庫が壊れたとき、しまわれていた記憶もまた失われるはずです。ところが現実には、脳が損傷を受けても、記憶が完全には消えてしまわない、という不思議な事例が数多く報告されているのです。倉庫が壊れたのに、中身は残っている──この奇妙な事態を、私たちはどう理解すればいいのでしょうか。

実は、この一見ささやかな問いの奥には、人類が二千年以上も格闘してきた、哲学最大の難問が横たわっています。

それは、心と身体は、いったいどう関わっているのか、という問いです。目に見えず、手で触れることもできない「心」と、脳という生々しい「物質」。この二つは、まったく性質の異なるものに見えます。それなのに、私が「歩こう」と心に思えば足が動き、足をぶつければ心に痛みが走る。心と身体は確かに結びついている。けれど、それはどのようにして可能なのか──。これが、デカルト以来「心身問題」と呼ばれてきた、哲学の最大の難所です。

記憶とは、まさにこの心身問題が最も鋭く現れる場所です。記憶は、脳という物質に還元できるものなのか。それとも、物質には還元しきれない何かなのか。「物質」と、「記憶」すなわち「精神」という、まったく異質に見えるこの二つは、いったいどこで、どのように出会っているのか。ベルクソンが『物質と記憶』で挑むのは、まさにこの問いなのです。

この記事を最後までお読みいただければ、皆さんは、ベルクソン哲学の核心をなす三つの概念を手にすることになります。一つ目は、物質でも表象でもない第三の存在「イメージ」。二つ目は、脳には保存されていない過去そのものとしての「純粋記憶」。そして三つ目は、流れ、積み重なり続ける時間としての「持続」です。

そしてベルクソンは、これらの概念を武器に、驚くべき道を切り開いていきます。それは、心と身体を別々の実体とする心身二元論でもなく、心をすべて物質に還元してしまう唯物論でもない、まったく新しい「第三の道」です。

過去はどこにあるのか。脳は本当に記憶の倉庫なのか。それでは、その答えを探す旅へ、ご一緒に出かけましょう。

【序文】:アンリ・ベルクソンとはどんな人物か──時間の哲学者

本論に入る前に、まずは著者アンリ・ベルクソンその人と、この『物質と記憶』という書物が置かれていた時代について、簡単にご紹介しておきましょう。

アンリ・ベルクソンは、一八五九年にパリで生まれ、一九四一年に世を去ったフランスの哲学者です。彼の名は、今でこそ哲学史の一頁を飾る古典的存在として語られますが、生前の彼が浴びていた人気は、私たちの想像をはるかに超えるものでした。

当時、ベルクソンがコレージュ・ド・フランスで行う講義には、聴衆が文字通り殺到しました。哲学の専門家だけでなく、社交界の貴婦人や一般市民までもが押し寄せ、席を確保するために何時間も前から行列ができたと伝えられています。哲学の講義が、まるで人気劇場の公演のように扱われたのです。彼はまさに、一時代を築いた「哲学界のスター」でした。その文章の美しさと思想の深さは、後に一九二七年、哲学者でありながらノーベル文学賞を受賞するという、稀有な栄誉にもつながっています。

では、これほどの人気を集めたベルクソンが、いったい何を語ったのか。彼の哲学の根幹をなすのが、「持続」──フランス語で「デュレ」と呼ばれる、独自の時間概念です。この「持続」という考えによって、ベルクソンは近代哲学に静かな、しかし決定的な革命をもたらしました。それがいったいどのような概念なのかは、本論の中で、じっくりと解き明かしていくことになります。

さて、私たちが今回読む『物質と記憶』──原題『マチエール・エ・メモワール』は、一八九六年に刊行された、ベルクソンの主著の一つです。

注目すべきは、その副題です。この本には「身体と精神の関係についての試論」という副題が添えられています。つまりこの書物は、最初からはっきりと、心と身体をめぐるあの心身問題への正面からの挑戦として書かれているのです。

この本は、ベルクソンの思想全体の中でも、いわば要の位置を占めています。彼の歩みを大きく見渡すと、一つの大きな流れが見えてきます。まず最初の主著『時間と自由』──正確には『意識に直接与えられたものについての試論』で、彼は「持続」という時間の概念を打ち立てました。次いで本書『物質と記憶』で、その持続が「記憶」という具体的な現象の中でどう働くかを探求します。そして後年の『創造的進化』では、視野をさらに広げ、「生命」そのものの進化を持続の観点から論じていきます。時間、記憶、生命──この三つを貫く三部作的な展開の、まさに中核に位置するのが、本書なのです。

そして、この本を正しく理解するためには、それが書かれた時代の空気を知っておく必要があります。

十九世紀の末というのは、脳科学が飛躍的に発展していた時代でした。とりわけ、脳のどの部位が損傷すると、どのような機能が失われるか──そうした研究が急速に進んでいたのです。中でも「失語症」、すなわち言葉をうまく思い出せなくなったり、話せなくなったりする症状の研究は、大きな注目を集めていました。

こうした科学の進展は、ある一つの思想を強力に後押ししました。それは、「心とは、しょせん脳の機能にすぎない」という考え方です。心の働きは、すべて脳という物質の活動に対応しており、結局は物質に還元できる──こうした唯物論や、心と脳の活動が平行して進むと考える「心理生理学的平行論」が、当時の知的世界を席巻しつつあったのです。

ここで、ベルクソンの真骨頂が発揮されます。彼は、こうした唯物論に対して、ただ感情的に反発したのではありません。むしろ逆でした。彼は、当時の最新の脳科学の成果を、とりわけ失語症の膨大な臨床例を徹底的に研究し尽くしたのです。そして、敵の最も強力な根拠であるはずの脳科学のデータそのものを足場にして、唯物論を内側から──いわばその懐に飛び込んで、乗り越えようとしました。これは、哲学の歴史の中でも極めて知的でスリリングな戦略です。

最後に、本書全体の構成を、地図としてお示ししておきましょう。『物質と記憶』は、四つの章から成り立っています。

第一章では、「イメージの選択」が論じられます。これは、物質とは何か、そして知覚とはいかなる働きかを問う章です。

第二章は、「イメージの認知」。ここでは記憶と脳の関係、すなわち私たちがどのようにものを思い出し、認識するのかが探究されます。

第三章は、「イメージの残存」。記憶とはそもそも何なのか、そして時間としての「持続」とは何かという、本書の最も深い問いに分け入っていきます。

そして第四章「イメージと運動」で、いよいよ心と身体の関係、心身問題の最終的な解決が示されることになります。

なお、この記事では理解しやすさを優先し、原著の四章構成を再編して、より段階的に読み解いていきます。それでは、第一の問い──そもそも「イメージ」とは何か、というところから始めましょう。

【第一章】:「イメージ」とは何か──観念論と実在論を超えて

ベルクソンが『物質と記憶』で最初に挑むのは、「そもそも、私たちの目の前に広がるこの世界とは、いったい何なのか」という問いです。この問いに答えるために、彼はまず、哲学が長らく囚われてきた二つの大きな立場を取り上げます。

一つは、実在論、あるいは唯物論と呼ばれる立場です。これは、世界は私たちの意識とは無関係に、それ自体として物質的に実在している、と考えます。私が目を閉じようと、この部屋から立ち去ろうと、机も椅子も、それ自体で確固として存在し続けている──これが実在論の主張です。常識的で、いかにももっともらしい考え方ですね。

もう一つは、観念論という立場です。こちらは正反対のことを言います。私たちが世界だと思っているものは、結局のところ、意識の中に現れた表象、つまりイメージにすぎない、と。私が見ている赤い花も、聞こえてくる鳥の声も、すべては私の心の中に生じた像であって、その外に「本当の世界」があるかどうかなど、確かめようがない──これが観念論です。

この二つの立場は、何百年ものあいだ激しく対立してきました。しかしベルクソンは、ここに巧妙な罠が潜んでいると見抜きます。両者はいずれも、ある共通の前提を受け入れてしまっているのです。それは、「物質」と「表象」とのあいだには、決して越えられない深い溝がある、という前提です。意識の外にある物それ自体と、意識の中に現れる像とは、まったく別物だ──この大前提を共有しているからこそ、実在論はその溝の向こう側に「物自体」を置き、観念論は溝のこちら側の「表象」だけを認める、という具合に、議論が永遠に噛み合わないのです。

そこでベルクソンは、この溝そのものを取り払ってしまう、大胆な第三の道を提案します。それが、本書の鍵となる「イメージ」という概念です。

ここで言う「イメージ」とは、私たちが普段使う「心の中の映像」という意味ではありません。ベルクソンの言う「イメージ」とは、観念論が言う「単なる表象」と、実在論が言う「触れることのできない物自体」の、ちょうど中間に位置する存在です。それは、表象ほど主観的で頼りないものでもなく、かといって物自体のように私たちから永遠に隠されたものでもない。いわば、それ自体ですでに現れている、現れそのものとしての存在です。

そしてベルクソンは言います。物質とは、こうしたイメージの総体にほかならない、と。世界とは、私が見ていようといまいと、それ自体ですでに現れ出ている、無数のイメージの集まりなのです。机は机として、花は花として、私が眺める前から、すでにそこに現れている。この見方によって、物質と表象のあいだの溝は、もはや存在しなくなります。物質とは、隠された物自体でも、心の中だけの像でもなく、現れているイメージそのものなのですから。

さて、この新しい出発点に立つと、もう一つの常識が根底から覆ることになります。それは、「知覚はどこで起こるのか」という問いです。

私たちは普通、こう考えます。外界からの光が目に入り、信号が神経を伝わって脳に届く。そして脳の中で、世界の像が組み立てられる──つまり、知覚とは脳の中で起こる出来事だ、と。

ところがベルクソンは、これをきっぱりと逆転させます。知覚は、脳の中で起こるのではない。知覚は、知覚される対象そのものの場所にある、と言うのです。私が向こうにある木を見るとき、その知覚は、私の頭の内側にあるのではなく、まさにその木のある場所で起こっている。私の知覚は、外の世界へと広がり、対象そのものに触れているのです。

なぜ、そんなことが言えるのか。ここにベルクソンの最も独創的な洞察があります。彼によれば、知覚とは、対象に何かを付け加える働きではありません。むしろ逆に、対象から何かを差し引く働きなのです。

考えてみてください。目の前の一つのリンゴには、無数の側面があります。色、形、香り、触り心地、栄養価、化学組成、光の反射の仕方──そのすべてを完全に捉えることなど、私たちにはできません。私たちは、そのリンゴの持つ膨大な性質の中から、自分にとって関心のある、ほんのわずかな部分だけを選び取っているのです。残りの大部分は、いわば捨て去られている。知覚とは、世界という無限のイメージの全体から、不要な部分を削ぎ落とし、自分に関係する一部分だけを切り取る働きなのです。

では、なぜ私たちは、わざわざ世界の一部だけを切り取るのでしょうか。ここで、ベルクソン哲学を貫く決定的なキーワードが登場します。それは「行動」です。

ベルクソンによれば、知覚は、世界を正確に認識するためにあるのではありません。知覚は、行動するためにあるのです。私たちは純粋な観察者ではなく、世界の中で生き、動き、行動する存在です。だからこそ、世界の無限の性質の中から、自分の行動に関係する部分だけを選び取る。捕食者が近づけばその姿を鋭く知覚し、食べられる果実を見分ける──知覚とは、こうした行動への準備として組織されているのです。

この行動という観点から、私の身体は、世界の中でとりわけ特別な意味を持つことになります。ベルクソンは、私の身体を「特権的なイメージ」と呼びます。なぜなら、私の身体は、無数のイメージが渦巻く世界の中で、ただ一つの「行動の中心」だからです。世界という巨大なイメージの集まりは、いわばこの身体を中心として方向づけられ、整理されている。私の身体は、世界に対して働きかけ、世界を変えていくことのできる、行動の発信源なのです。

そして、ここから一つの重要な帰結が導かれます。私たちの知覚の豊かさ、その鋭さの度合いは、私たちに可能な行動の幅に正確に比例している、ということです。ある対象に対して、私たちが多くの行動の選択肢を持っているほど、その対象はより豊かに、より明確に知覚される。逆に、自分にどうすることもできない対象は、ぼんやりとしか知覚されない。知覚と行動とは、こうして分かちがたく結びついているのです。

こうしてベルクソンは、第一の足場を築き上げました。世界とはイメージの総体であり、知覚とは行動のために世界から一部を切り取る働きである──。しかし、ここまでの議論には、まだ決定的な要素が欠けています。それは「過去」、すなわち「記憶」です。私たちの知覚は、決して現在の瞬間だけで成り立ってはいません。そこには常に、過去の記憶が忍び込んでいる。次の章では、いよいよこの「記憶」そのものへと、分け入っていくことにしましょう。

【第二章】:記憶の二つの形──「習慣」と「イメージ」

ここからは、いよいよ本書の心臓部とも言うべき「記憶」の問題に踏み込んでいきます。そして、まさにこの記憶をめぐって、ベルクソンは哲学史に残る最重要の発見をもたらすことになります。

その発見とは、こういうものです。私たちが普段、何の疑いもなく一つの言葉、「記憶」と呼んでいるもの──実はそれは、まったく性質の異なる二つのものが、こっそりと混ざり合ったものにすぎない。私たちは、二つの異質なものを同じ名前で呼ぶことで、長いあいだ記憶の本質を見誤ってきた。ベルクソンは、この混同を鮮やかに解きほぐしてみせるのです。

では、私たちが「記憶」と一括りにしてきたものは、いったいどんな二つのものに分かれるのでしょうか。

第一の記憶を、ベルクソンは「習慣記憶」と呼びます。

これは、身体に刻み込まれた記憶です。繰り返し練習することによって、私たちの身体そのものに染み込んでいく、運動の記憶だと言ってもいいでしょう。

具体例を挙げましょう。たとえば、自転車の乗り方です。一度乗れるようになれば、私たちは何年ブランクがあっても、サドルにまたがった瞬間、身体が勝手にバランスを取り、ペダルを漕ぎ始めます。そのとき、私たちはいちいち「あの日、自転車の練習をしたな」と過去の出来事を思い出しているわけではありません。むしろ、過去の練習の成果が、現在の身体の動きそのものとして発揮されているのです。

あるいは、何度も繰り返して覚え、暗唱できるようになった詩を思い浮かべてください。すらすらと口をついて出てくるとき、私たちはそれを「思い出している」というより、ほとんど反射的に「演じている」のに近い。これが習慣記憶です。一言で言えば、「身体が覚えている」記憶なのです。

この習慣記憶の特徴は、それが過去を振り返るためのものではなく、あくまで現在の行動のために働く仕組みだという点にあります。それは前章で見た「行動の中心」としての身体に組み込まれ、脳の神経の働きと密接に結びついています。だからこそ、繰り返しによって獲得され、いつでも即座に発動するのです。

これに対して、まったく異なる第二の記憶があります。ベルクソンはこれを「イメージ記憶」、あるいはその純粋な姿において「純粋記憶」と呼びます。

これは、過去のある出来事を、ただ一度きりの出来事として、丸ごと思い出す記憶です。

たとえば、先ほどの詩の暗唱を考えてみましょう。今この瞬間、私はその詩をすらすら暗唱できます。これは習慣記憶です。しかし一方で、私は「初めてこの詩を覚えようとした、あの日の午後」のことを思い出すこともできます。窓から差し込んでいた光、机の手触り、なかなか覚えられずに苛立った気持ち──。この「あの日、あの場所での出来事」は、繰り返しによって作られたものではありません。それは、二度と繰り返されることのない、たった一回限りの過去そのものです。

純粋記憶の決定的な特徴は、それが「日付」を持っているということです。それは「いつ、どこで」という固有の刻印を帯び、本質的に過去に属しています。習慣記憶がつねに現在へと向かい、行動のために働くのに対し、純粋記憶は過去そのものを、過去のままに保持しているのです。

ここで、二つの記憶の関係を、はっきりと対比させておきましょう。

ベルクソンは、見事な対比でこう言います。習慣記憶は、過去を「演じる」。純粋記憶は、過去を「思い描く」。

習慣記憶は、過去の経験を現在の動作として再現します。そこに過去のイメージは現れず、ただ行動だけが繰り返される。まさに過去を「演じている」のです。これに対して純粋記憶は、過去のあの一場面を、一枚の絵のように、あるいは一本の映像のように、心に思い描きます。そこでは行動は止まり、過去そのものが眼前によみがえる。

そして重要なのは、この二つのあいだに、ある力関係が存在するということです。私たちは日常生活において、ほとんど常に、行動に役立つ習慣記憶のほうを優先しています。生きていくためには、過去の一場面に浸っているよりも、いま必要な動作を素早く実行することのほうがはるかに大切だからです。

その結果、純粋記憶のほうは、いわば押さえ込まれ、抑制されています。過去の無数の思い出は、行動の邪魔にならないよう、意識の表面の下に静かに沈められているのです。私たちが普段、過去の些細な出来事をいちいち思い出さずに生活できているのは、この抑制が働いているおかげなのです。

さて、ここで一つの大きな疑問が浮かび上がってきます。習慣記憶が脳と結びついているのは分かりました。しかし、押さえ込まれているという純粋記憶──あの一度きりの過去の思い出は、いったいどこに、どのように存在しているのでしょうか。それもまた、脳のどこかに保存されているのでしょうか。次の章では、いよいよこの問いに正面から向き合い、ベルクソンが現代人の常識を根底から覆す瞬間に立ち会うことになります。

【第三章】:脳は記憶を「保存」しない──失語症が示すもの

私たちは、ごく自然にこう考えています。記憶は、脳のどこかに刻み込まれて保存されている、と。まるで脳という名の倉庫の棚に、過去の出来事が一つひとつファイルとして整理され、必要なときに引き出されてくる――そんなイメージです。実際、現代の私たちは「記憶痕跡」という言葉を知っています。神経細胞のつながりのなかに、過去の経験が物理的に刻まれている、という考え方です。

ところがベルクソンは、この一見すると当たり前の常識に、真正面から「否」を突きつけます。記憶は、脳という物質のなかに貯蔵されているのではない。彼はそう主張するのです。これは当時としても、そして今日においても、まことに大胆な異議申し立てでした。

しかも注目すべきは、ベルクソンがこの主張を、決して空想や思弁だけで唱えたのではない、という点です。彼は当時の最新の脳科学、とりわけ脳の病理に関する膨大な臨床研究を、徹底的に読み込みました。そして、唯物論者たちが「記憶は脳に保存されている」という証拠としてきた、まさにその事実のなかから、逆の結論を導き出そうとしたのです。敵の武器を奪って、敵を倒す。これがベルクソンの戦略でした。

その鍵となったのが、失語症という症状です。

失語症とは、脳の特定の部位が損傷することで、言葉がうまく扱えなくなる症状を指します。たとえば、ある種の失語症では、目の前にあるペンを見て、それが何であるかは完全に分かっているのに、「ペン」という言葉だけがどうしても出てこない。喉まで出かかっているのに、思い出せない。あるいは、人の話す言葉が、意味をなさない音の羅列にしか聞こえなくなる。こうした症状です。

ここで、唯物論の立場はこう考えます。脳のこの部分が壊れて言葉が出てこなくなったのなら、その部分にこそ「言葉の記憶」が貯蔵されていたのだ、と。脳の損傷と記憶の喪失が対応しているのだから、記憶はそこにあった証拠ではないか――一見、極めて説得力のある推論です。

しかしベルクソンは、失語症の臨床例を細かく検討して、この推論を覆す事実に着目します。それは、失語症において記憶が「失われ方」をしている、その仕方そのものでした。

注意深く観察すると、奇妙なことが起こっています。普段はどうしても思い出せない言葉が、ふとした拍子に、まったく自然に口をついて出てくることがある。たとえば、意識して呼ぼうとすると出てこない言葉が、感情が高ぶった瞬間や、慣れ親しんだ決まり文句のなかでは、するりと現れる。怒ったときの罵り言葉や、染みついた挨拶は、損なわれずに残ることがある。

もし、その言葉の記憶そのものが脳から物理的に消去されていたのなら、こんなことは起こりえないはずです。完全に消えてしまったものが、状況次第で蘇るはずがない。記憶そのものは、どこかにちゃんと存在し続けている。にもかかわらず、それを呼び出すことができない。

ここからベルクソンは、決定的な区別を打ち立てます。脳の損傷によって失われたのは、記憶そのものではない。失われたのは、その記憶を呼び出し、現在の行動へと、とりわけ言葉という運動へと変換していく、その「仕組み」のほうなのだ、と。

たとえてみましょう。あるオーケストラの演奏が、突然聴こえなくなったとします。原因は二つ考えられます。一つは、演奏者たちが消えてしまった場合。もう一つは、演奏は続いているのに、それを私たちの耳へ届ける装置――スピーカーや配線――が壊れた場合です。音が聴こえないという結果は同じでも、その意味はまるで違います。失語症において壊れているのは、ベルクソンによれば、後者の「届ける装置」のほうなのです。演奏、すなわち記憶そのものは、依然として鳴り続けている。

ですから、記憶は脳に「保存」されているのではありません。記憶は脳を「通って現れる」。脳とは、記憶が現在の行動へと姿を変えて立ち現れるための、いわば通り道であり、出口なのです。

この洞察から、脳の本当の役割についての、まったく新しい像が浮かび上がってきます。

脳は、記憶を溜め込む倉庫ではありません。それは、行動のための「変換装置」であり、ベルクソンの言葉を借りれば、電話の「交換台」のようなものです。電話交換台は、それ自体は何のメッセージも蓄えていません。ただ、無数の回線のあいだをつなぎ、信号を適切な相手へと振り分けるだけです。脳もまた同じで、外から受け取った刺激を、適切な運動へと、適切な反応へとつなぎ替える役割を担っているのです。

そしてこの交換台は、同時に「注意の器官」でもあります。第二章で見たように、私たちの過去には無数の記憶が控えています。けれども、今この瞬間の行動に役立つのは、そのほんの一部にすぎません。脳の働きとは、この膨大な記憶のなかから、現在の状況にふさわしいものだけを選び取り、現実の行動へと差し向けることにあります。

ここで、ベルクソンの最も逆説的な、そして最も鮮やかな主張が登場します。脳の機能は、記憶を貯えることではなく、むしろ不要な記憶を「締め出す」ことにある、というのです。

私たちは普段、過去のすべてを抱えていながら、そのほとんどを意識の表面に上らせません。もし、あらゆる過去の記憶がいちどきに押し寄せてきたら、私たちは行動するどころか、過去の洪水に溺れてしまうでしょう。脳とは、この洪水を堰き止め、今この瞬間に必要な水だけを通す、いわば調整弁なのです。だからこそ、脳が損傷すると、この「締め出す」働きが乱れ、必要な記憶を呼び出せなくなる。失われているのは、記憶ではなく、記憶を絞り込む選別の機能なのです。

こうして、第三章は一つの革命的な結論へとたどり着きます。

精神、すなわち記憶は、物質である脳には還元できない。記憶は脳のなかに物として置かれているわけではないのですから、脳をいくら分解しても、そこに過去の出来事を見つけることはできません。この点で、ベルクソンは唯物論をはっきりと退けます。

しかし――ここが肝心なところですが――だからといって、精神が物質とまったく無関係に、宙に浮いて存在しているわけでもありません。記憶が現実のものとして現れるためには、どうしても脳という変換装置を、身体という出口を必要とします。精神と物質は、断ち切られた二つの世界なのではなく、現在という瞬間において、緊密に手を取り合って働いているのです。

記憶は脳に保存されているのでもなく、脳と無関係なのでもない。記憶は脳を通って、行動へと姿を変える。この微妙な、しかし決定的な立ち位置こそ、ベルクソンが心身問題に切り開こうとした「第三の道」の輪郭です。そして、では記憶そのものは、脳でないとすれば、いったいどこに、どのように存在し続けているのか――その問いが、次章の核心へと私たちを導いていきます。

【第四章】:純粋記憶と「持続」──過去は消えずに保存される

前章で、記憶は脳に保存されているのではない、ということが見えてきました。では、いったいどこに存在しているのか。この問いに正面から答えるために、ベルクソンは「純粋記憶」という概念を、さらに深いところまで掘り下げていきます。

純粋記憶とは何か。それは、行動から完全に切り離された、過去そのものの存在です。先ほどまで見てきた記憶は、いつも現在の行動と結びついていました。何かを思い出すのは、たいてい今この瞬間に役立てるためです。けれども、そうした実用的な衣をすべて脱ぎ捨てたとき、その奥に残るもの――それが純粋記憶です。

ここで、私たちは一つの根深い思い込みを手放さなければなりません。それは、記憶とは「弱くなった知覚」だ、という思い込みです。私たちはつい、こう考えがちです。今まさに目の前で起きていることは鮮やかな知覚として強く、過去の出来事はそれが薄れて弱まったものが記憶だ、と。つまり、知覚と記憶のあいだには、強弱の違いしかない、という考え方です。

ベルクソンは、これをきっぱりと否定します。記憶と知覚は、強さの程度が違うのではありません。性質そのものが、根本的に異なるのです。知覚は現在に属し、身体と物質に関わります。これに対して純粋記憶は、本質的に過去に属しています。それは、どれほど鮮やかであっても知覚にはならず、どれほど薄れても、過去であることをやめないのです。記憶の本質は、強さではなく、それが「過去のものである」というその出自そのものにあります。

そして、ここからベルクソンの、おそらく本書で最も大胆な主張が立ち上がってきます。

過ぎ去った過去は、消えてなくなるのではない。それ自体として、保存され続けている――こう彼は言うのです。

私たちは普通、こう感じています。過去は、もう過ぎ去ってしまった。それは過去という名のかなたへ流れ去り、ほとんど無に等しいものになった、と。今この瞬間だけが実在し、過去は実在を失った亡霊のようなものだ、と。

ところがベルクソンは、これを逆転させます。過去は、無に帰したのではない。ただ、作用することをやめただけなのだ、と。過去は、今この瞬間の行動には直接関わらない。だから私たちは、それを「もう存在しない」と思い込む。しかし、行動に関わらないということと、存在しないということは、まったく別のことです。

私たちの過去のすべては――生まれてからこのかた経験したあらゆる出来事は――潜在的に、ヴァーチャルに、存在し続けています。この「潜在的」「ヴァーチャル」という言葉は、ベルクソン哲学の急所です。それは、現実に作用してはいないけれども、たしかに「ある」という存在のあり方を指します。眠っているけれども、消えてはいない。表に現れてはいないけれども、いつでも現れうるものとして、控えている。私たちの過去は、まさにこのように存在しているのです。

では、なぜ私たちはそのすべてを意識できないのか。理由は、前章で見た脳の働きにあります。脳という選別の装置が、行動に必要なものだけを意識の表面に呼び出し、残りの膨大な過去を背後に締め出しているからです。意識に上っているのは、氷山の一角にすぎません。水面下には、私たちの過去の総体が、沈んだまま存在し続けているのです。

この壮大な過去の保存を可能にしているもの――それこそが、ベルクソン哲学の核心概念、「持続」、フランス語でデュレと呼ばれるものです。

持続とは何か。それを理解するには、まず私たちが時間をどう誤解しているかを知らねばなりません。私たちは普段、時間を空間のようにイメージしています。時計の文字盤、一直線に並んだ日付、過去・現在・未来と区切られた線――こうした時間像です。これらはすべて、時間を、隣り合った点が連なったもの、ばらばらに区切れる目盛りの集まりとして捉えています。一秒という点があり、その隣に次の一秒という点があり、それらが横並びになって時間ができている、という見方です。

しかしベルクソンは言います。それは時間そのものではない。時間を空間に置き換えて、ゆがめた偽物にすぎない、と。

本当の時間――生きられる時間としての持続は、決してそのように点に区切ることができません。それは、互いに溶け合いながら流れていく、連続した質的な流れです。よく挙げられる比喩が、雪だるまです。坂を転がる雪だるまは、進むにつれて新しい雪を巻き込み、どんどん大きくなっていきます。先に巻き込んだ雪を捨てて新しい雪に取り替えるのではありません。すべてを抱え込んだまま、ふくらみながら進んでいく。

私たちの持続も、これと同じです。現在は、過去を背後に置き去りにして進むのではない。過去のすべてを引きずり、巻き込み、抱え込んだまま、たえず新しい現在へとふくらみながら進んでいくのです。今この瞬間の私は、これまでのすべての私を背負っている。だからこそ、まったく同じ二つの瞬間というものは存在しません。あらゆる瞬間が、それまでの全過去を含んでいるという点で、唯一無二なのです。

そして、この持続を可能にしているものこそ、記憶にほかなりません。もし過去がそのつど消え去ってしまうなら、流れは流れになりえません。点と点が、なんの連続もなくただ入れ替わるだけになってしまう。記憶があるからこそ、過去は現在のなかへ持ち越され、溶け合い、積み重なる。記憶こそが、ばらばらの瞬間を一つの流れへと束ねる、持続の働き手なのです。過去は消えないと言われるとき、それは、記憶がたえず過去を現在へと運び続けているからにほかなりません。

この、過去の保存と現在への呼び出しという二重の運動を、ベルクソンは一つの忘れがたいイメージで描き出しました。有名な「逆さの円錐」です。

頭のなかに、逆さまに立てた円錐を思い浮かべてください。先のとがった頂点が下を向き、広い底面が上にある、そんな図形です。

この円錐の、下の頂点――そのただ一点が、現在です。それは、私の身体が世界と接し、まさに今行動している面です。すべてが行動へと収縮した、最も尖った点。生きた現在は、つねにこの一点にあります。

一方、上に広がる底面――それは、私の過去のすべてです。生まれてからこのかた蓄積された、無数の純粋記憶の全体が、この広大な底面に横たわっています。それは作用せず、ただ潜在的に、まるごと保存されています。

そして円錐の本体、頂点から底面へと広がっていく途中の無数の断面――これが決定的に重要です。私たちは、状況に応じて、この円錐を伸び縮みさせ、記憶のさまざまな層を行き来しているのです。

たとえば、目の前の差し迫った行動に追われているとき、私たちは円錐の頂点近く、現在のすぐそばに身を置いています。記憶はほとんど呼び出されず、ほぼ行動だけになっている。逆に、物思いにふけったり、夢を見たり、過去を懐かしんだりするとき、私たちは円錐を広げ、底面のほう、純粋記憶の広大な海のほうへと身を引いていきます。

私たちの精神生活は、この尖った行動の一点と、広がる夢想の底面とのあいだを、たえず往復する運動なのです。行動に役立つ記憶を呼び出すとき、私たちは底面のどこかに眠っていた一片の過去を、頂点の現在へと収縮させ、運び下ろしてくる。記憶するという営みは、過去を物の置き場から取り出すことではなく、円錐の高みから現在の一点へと、過去を降下させ、現実化させることなのです。

こうして、第三章で残された問いに、一つの答えが与えられます。記憶はどこにあるのか。それは脳のなかにあるのではありません。それは「過去」という形で、持続のなかに、潜在的なものとしてまるごと存在し続けている。過去は消えない――この深い肯定こそ、ベルクソンが私たちに差し出した、記憶への新しいまなざしなのです。

そして、ここまで来てもなお、最大の難問が残っています。広がる底面としての精神と、尖った頂点で世界に触れる身体・物質とは、いったいどこで、どのように出会うのか。性質のまるで異なるこの二つが、現在という一点で交わるとき、何が起きているのか。心と身体をめぐる究極の問いへと、次章は踏み込んでいきます。

【第五章】:心と身体はどう出会うのか──心身問題の解決

いよいよ、本書が真っ向から挑んだ最大の難問――心と身体は、どう関わっているのか、という問いに行き着きます。前章で見た尖った頂点としての身体と、広がる底面としての精神。性質のまるで異なるこの二つが、なぜ、どのように結びつきうるのか。これこそ、西洋哲学が数百年にわたって解けずにきた、心身問題と呼ばれる難問です。

この問いを最も先鋭な形で立てたのは、近代哲学の祖、デカルトでした。デカルトは、世界を二つのまったく異なる実体に分けました。一方は、空間に広がりを持つ物質、すなわち身体です。もう一方は、広がりを持たず、ただ考える働きとしての精神、すなわち心です。両者は、性質を共有するものを何ひとつ持たない、完全に異質な実体とされました。

ところが、このきれいな分割は、ただちに深刻な難題を生み出します。もし心と身体がこれほどまでに異質で、共通点が何もないのなら、両者はいったいどうやって関わり合えるのでしょうか。私が手を動かそうと「心」で思えば、現に「身体」の手が動く。熱い物に「身体」が触れれば、「心」が痛みを感じる。この当たり前の事実が、デカルトの図式では、まったく説明がつかなくなってしまうのです。広がりを持たない心が、どうやって広がりを持つ身体を押し動かせるのか。接点のないものが、どうして作用し合えるのか。

この行き詰まりを前に、その後の哲学は、二つの安易な抜け道へと走りました。

一つは、唯物論です。心など実は独立した実体ではない、心とは脳という物質の働きにすぎない、と。心を物質のなかへ吸収し、解消してしまう道です。これなら難問は消えます。なぜなら、関わり合うべき二つのものが、片方に還元され、一つになってしまうからです。

もう一つは、観念論です。こちらは逆に、物質こそ実は心のなかの表象にすぎない、世界はすべて意識の中身だ、と。今度は物質を心のなかへ吸収してしまう道です。

しかしベルクソンの目には、このどちらも、問題を解いたのではなく、消し去っただけに映ります。心身が出会うという、私たちが現に生きている事実を、片方を抹消することで、なかったことにしているのです。問いに答えるかわりに、問いを葬っている。それでは、私たちの具体的な経験は救われません。

では、なぜこの問題は、これほど頑固に解けなかったのか。ここでベルクソンは、これまでの章で積み上げてきた洞察を武器に、診断を下します。

心身問題が解けなかったのは、すべてを「空間」で考えていたからだ――これが彼の答えです。

思い起こしてください。前章で、私たちは時間さえも空間に置き換えて誤解していることを見ました。同じ過ちが、心身問題の根底にも潜んでいます。デカルト以来、人々は心と身体を、空間のなかに並べて置かれた二つの「物」として考えてきました。ここに物質という箱があり、あそこに精神という箱がある。そう並べてしまえば、二つはどこまでも切り離され、両者をつなぐ橋はどこにも見つからなくなります。空間という土俵の上では、異質なものは永遠に隔てられたままなのです。

ベルクソンの解決の鍵は、この土俵そのものを取り替えることにありました。空間ではなく、時間――持続を導入するのです。

物質は、空間に属しています。物質的なものは、互いに外に並び、はっきり区切られ、繰り返されます。これに対して、精神、すなわち記憶は、時間に、持続に属しています。それは溶け合い、積み重なり、二度と繰り返されない流れでした。

ここで決定的な転換が起こります。物質と精神は、これまで考えられてきたように、性質そのものがまったく異なる断絶した二つの実体なのではない。両者は、同じ一つの持続が、緊張と弛緩という「度合い」において異なっているにすぎない――こうベルクソンは捉え直すのです。

この「緊張と弛緩」こそ、本書のたどり着いた最も独創的な見方です。

物質とは何か。それは、最も弛緩しきった持続です。極限まで緩み、たるみきった時間です。物質の世界では、出来事はほとんど反復します。同じ法則が繰り返され、瞬間が瞬間に置き換わるだけで、ほとんど積み重なりません。記憶のない、ひたすら繰り返す時間――それが物質です。だからこそ物質は、ばらばらの点へと分解でき、空間的に見えるのです。ただし、ベルクソンによれば、それでもなおそこには、ごくわずかな持続の振動が残っている。物質は、完全に時間を失ってはいないのです。

一方、精神とは何か。それは、最も収縮し、緊張しきった持続です。過去のすべてを一点に凝縮し、それを抱えたまま、たえず新しいものを生み出していく、創造的に進む時間です。何ひとつ反復せず、つねに前へ、未知へと進んでいく流れ――これが精神の持続です。

ここに、ベルクソンの解決の核心があります。物質と精神は、断絶した二つの世界ではありません。両者は、一つの持続が見せる、連続したグラデーションの両端なのです。一方の端には、ほとんど反復する、たるみきった物質の時間がある。もう一方の端には、たえず創造する、張りつめた精神の時間がある。そしてそのあいだには、無数の中間の度合いが広がっています。物質と精神は、種類が違うのではなく、いわばリズムの速さ、持続の張り具合が違うだけなのです。

なぜこれが解決になるのか。性質がまったく異なるものは、確かに出会えません。けれども、同じ一つのものの度合いの違いであるなら、両者は連続しており、移行が可能です。緩んだ時間と張りつめた時間のあいだには、深い溝ではなく、なだらかな坂道が通じている。心と身体は、もはや橋渡しのできない断崖の両側にあるのではなく、ひとつながりの斜面の上の、二つの位置にすぎないのです。

では、その出会いは、具体的にどこで起こるのでしょうか。答えは――「現在という瞬間」においてです。

ここで、第一章で見た知覚と、これまで論じてきた記憶とが、ついに合流します。現在の知覚とは、身体が世界の物質と接触する、まさに今の働きでした。それは物質の側、緩んだ時間の側に立っています。一方、記憶とは、過去の精神が抱える、張りつめた持続の側に立っています。

そしてベルクソンは言います。現実の経験のなかでは、純粋な知覚も、純粋な記憶も、決して単独では存在しない、と。今この瞬間に何かを知覚するとき、そこには必ず、過去の無数の記憶が浸透しています。私が目の前の一輪の花を見るとき、ただ生の感覚を受け取っているのではありません。これまでに見たすべての花の記憶、花にまつわる思い出、花という言葉――それらがことごとく、この一瞬の知覚のなかへ流れ込み、溶け込んでいるのです。純粋な、記憶に汚されていない知覚というものは、理屈の上での極限にすぎません。

逆もまた然りです。純粋な記憶も、現実には、必ず現在の知覚を足がかりにして現れます。過去はそれ自体では作用しません。それが現実のものとなるのは、今の身体、今の行動という頂点を通って降りてくるときだけです。

つまり、私たちが現に生きている経験は、つねに知覚と記憶の、物質と精神の、緩んだ時間と張りつめた時間の――混合なのです。両者は別々に存在していて、後から出会うのではありません。私たちの具体的な意識のなかでは、最初から分かちがたく溶け合っている。

こうして、心身が出会う場所が、はっきりと指し示されます。それは脳のなかの特定の一点でもなければ、どこか神秘的な接続点でもありません。それは、今この瞬間そのものです。過去のすべてを抱えた精神が、まさに行動しようとする身体の頂点へと降り立ち、世界の物質と接触する――この生きた現在の一点において、心と身体は、たえず具体的に出会い続けているのです。

デカルトが空間のなかで永遠に引き裂いてしまった心と身体を、ベルクソンは時間のなかで、この瞬間のうちに、再び結び合わせました。これが、本書の副題「身体と精神の関係についての試論」が、最後にたどり着いた答えにほかなりません。次章では、この革命的な達成が、その後の哲学や芸術に、どれほど深い波紋を広げていったのかを見ていきましょう。

【第六章】:『物質と記憶』が遺したもの──現代への影響

『物質と記憶』が成し遂げたこと――心身問題を時間から解き直したこの仕事は、一冊の哲学書の枠をはるかに超えて、二十世紀の思想と芸術に、深く長い波紋を広げていきました。その射程の広さを、ここで確かめておきましょう。

まず、哲学への影響です。

ベルクソンが切り開いた最も重要な道の一つは、二十世紀フランスを代表する哲学、現象学へとつながっていきます。とりわけ、メルロ=ポンティの身体論は、ベルクソンなしには考えられません。思い起こしてください。本書でベルクソンは、身体を、世界の中心にある「行動の中心」として捉え、知覚を認識のためではなく行動のためにあるものとして描き直しました。心と身体を、抽象的な思考の問題としてではなく、現に生きて動く身体の問題として問うた――この姿勢こそ、メルロ=ポンティが受け継いだものです。彼は、私たちが世界を理解するより先に、まず身体として世界に住み込んでいる、と論じました。生きられた身体を哲学の中心に据えるこの発想の源流に、ベルクソンの知覚論がたしかに流れているのです。

そして二十世紀後半、ベルクソンを劇的に蘇らせたのが、哲学者ドゥルーズでした。一時は時代遅れと見なされていたベルクソンを、ドゥルーズは『ベルクソニズム』という著作で正面から読み直し、その核心に新たな光を当てます。さらに彼は、『シネマ』と題された映画論において、ベルクソンの「イメージ」や「運動」「時間」の概念を駆使し、映画という二十世紀の芸術そのものを哲学的に分析してみせました。動くイメージの集まりとしての世界――第一章で見たあのイメージ論が、映画というメディアの本質をとらえる鍵となったのです。

このドゥルーズの再評価を通じて、現代思想の重要な概念の一つとして定着したのが、「潜在的なもの」、ヴァーチャルという考え方です。前章までで見たように、ベルクソンにとって過去は、無に帰すのではなく、潜在的に存在し続けているのでした。現実には作用していないが、たしかに「ある」という、この独特の存在のあり方。現実のものではないが、可能性とも違う、潜在的な実在。この概念は、ドゥルーズを介して、現代の存在論に欠かせない道具となりました。今日、私たちが「ヴァーチャル」という言葉を耳にするとき、その哲学的な深みの源は、この『物質と記憶』にまでさかのぼるのです。

次に、心の哲学、そして脳科学との接続を見てみましょう。

本書で最も人々を驚かせた主張――「脳は記憶の貯蔵庫ではない」という、あの大胆なテーゼ。これは長らく、脳科学に反する形而上学的な空想と見なされてきました。ところが興味深いことに、現代の記憶研究は、ある面でベルクソンに思いがけず接近しています。

かつての素朴な記憶観では、記憶は脳のどこかにファイルのように保管され、思い出すとは、そのファイルをそっくり取り出すことだと考えられていました。しかし現代の研究が明らかにしてきたのは、まったく違う姿です。記憶は、固定された写しとして倉庫に眠っているのではない。思い出すたびに、そのつど作り直され、「再構成」されている。私たちの記憶は、想起のたびに、現在の状況や感情によって書き換えられ、新たに編み直されているのです。

この「記憶は再構成される」という現代的な知見は、記憶を静的な貯蔵物として捉えることへの、ベルクソンの根本的な異議と、深いところで響き合っています。彼が、記憶を物の置き場から取り出すのではなく、過去を現在へと現実化させる動的な働きとして描いたこと――それは、現代の記憶研究が向かった方向を、一世紀以上も前に先取りしていたとも言えるのです。もちろん、ベルクソンが過去はまるごと保存されると説いた点まで現代科学が認めるわけではありません。しかし、記憶と脳の関係を問い直す彼の姿勢は、今なお意識研究や心身問題の議論に、刺激的な問いを投げかけ続けています。

そして、忘れてはならないのが、芸術と文学への影響です。

ベルクソンの時間と記憶の哲学が、最も豊かな実りを結んだ場所――それは、おそらく文学でした。とりわけ、二十世紀文学の金字塔、プルーストの『失われた時を求めて』との結びつきは有名です。

あの名高い場面を思い出してください。主人公が、紅茶に浸したマドレーヌを口にした瞬間、その味覚をきっかけに、遠い幼少期の記憶が、生き生きと、まるごと蘇ってくる。意図して思い出そうとしたのではない。ある感覚を引き金に、過去がそれ自体として、ふいに立ち現れる――プルーストが「無意志的記憶」と呼んだこの経験は、ベルクソンの純粋記憶の思想と、驚くほど響き合っています。今の知覚を足がかりに、潜在的に存在し続けていた過去が現実化する――前章で見たあの構造が、ここに文学作品として結晶しているのです。

両者の直接の影響関係をめぐっては議論もありますが、いずれにせよ、過ぎ去ったはずの過去が消えずに存在し、ふとした瞬間に蘇るという感覚――これがベルクソンの哲学とプルーストの文学に共通して流れていることは確かです。そしてこの、時間と記憶への新しいまなざしは、プルーストにとどまらず、意識の流れを描く文学や、時間を解体し再構成する芸術へと、二十世紀の表現全体に広く波及していきました。

最後に、このシリーズの前回――ジェームズ『心理学原理』との関係を、改めて振り返っておきましょう。

ジェームズは大西洋の西、アメリカで、「意識の流れ」という言葉を生み出し、心が点の連なりではなく、たえず流れゆくものであることを、心理学の言葉で描き出しました。一方ベルクソンは、大西洋の東、フランスで、「持続」という概念によって、時間が区切れる点ではなく溶け合う流れであることを、形而上学の高みで論じました。

ほぼ同じ時代に、海を隔てた東と西で、二人の思想家が、それぞれ独立に「流れる時間」を発見した。これは思想史の偶然とは思えないほどの、見事な呼応です。そして実際、二人は書簡を交わし、互いの仕事を深く認め合った盟友でした。ジェームズはベルクソンを高く評価し、ベルクソンもまたジェームズに敬意を寄せていました。「意識の流れ」から「持続」へ――流れる時間をめぐる探究のバトンは、たしかに大西洋を越えて手渡されたのです。

もっとも、両者には違いもあります。ジェームズのプラグマティズムが、思考や観念の価値を、それが生み出す実際の効果や有用性によって測ろうとしたのに対し、ベルクソンの哲学は、有用性や行動の手前にある、純粋な持続そのものへと深く沈潜していきました。行動の哲学と、持続の形而上学。実用への信頼と、流れそのものへの沈潜。同じ「流れる時間」を出発点としながら、二人はそれぞれ異なる地平へと歩んでいったのです。けれども、人間の経験を、固定した点の集まりではなく、生きて流れるものとして捉え直そうとした、その根本の志において、二人は確かに同じ時代を分かち合っていました。

こうして見てくると、『物質と記憶』が、いかに広く、いかに深く、後の時代へと根を張っていったかがわかります。哲学、科学、文学、芸術――そのいずれにおいても、この一冊が投げかけた問いは、今なお生き続けているのです。それでは最後に、本書全体を振り返り、ベルクソンが私たちに遺した問いの核心を、改めて見つめ直してみましょう。

【まとめ】:『物質と記憶』が問いかけるもの

ここまで、長い道のりをたどってきました。最後に、私たちが歩んできた思索の全体を、もう一度ひとつながりの線として振り返ってみましょう。

出発点となった第一章では、「イメージ」という概念を手がかりに、物質と知覚の関係を捉え直しました。世界は、観念論の言う表象でも、実在論の言う物自体でもなく、それ自体で現れている無数のイメージの総体である。そして知覚とは、物に何かを付け加えることではなく、行動に不要な部分を差し引く働きであり、身体とは、その行動の中心にほかなりませんでした。

続く第二章で、私たちは記憶の核心へと踏み込み、最も重要な区別を手に入れました。私たちが漠然と「記憶」と呼んでいたものは、実は二つの異質なものの混同だったのです。身体に刻まれ、行動を繰り返す習慣記憶と、ただ一度きりの過去を丸ごと思い描く純粋記憶。この二つを切り分けたことが、その後のすべての議論の土台となりました。

第三章では、失語症という臨床例を手がかりに、常識を覆す結論にたどり着きました。脳は記憶の倉庫ではない。それは、過去から今の行動に役立つものだけを選び取る交換台であり、不要な記憶を締め出す注意の器官である。記憶は脳に保存されているのではなく、脳を通って現れるのでした。

では記憶はどこにあるのか。第四章が、その答えを与えました。過去は無に帰すのではなく、潜在的に、まるごと存在し続けている。それを可能にするのが、点の連なりではなく、過去を雪だるま式に巻き込みながら流れる「持続」です。そして、頂点が現在、底面が過去のすべてである逆さの円錐のイメージによって、私たちが記憶の層を行き来する様が描き出されました。

その到達点が、第五章の心身問題の解決でした。問題が解けなかったのは、すべてを空間で考えていたからである。物質は空間に、精神は時間に属する。両者は性質が違うのではなく、緩みきった物質の時間と、張りつめた精神の時間という、持続の度合いの違いにすぎない。そして心と身体は、知覚と記憶が混じり合う「現在という瞬間」において、具体的に出会っているのでした。

そして第六章では、この達成が、メルロ=ポンティの身体論やドゥルーズの再評価、潜在性の概念、現代の記憶研究、そしてプルーストの文学へと、いかに広く根を張っていったかを確かめました。

こうして全体を見渡すと、本書を貫く一本の太い線が、はっきりと浮かび上がってきます。

それは、心身問題を、空間ではなく時間――持続から解き直した、という一点です。デカルト以来、人々は心と身体を空間のなかに並んだ二つの物として考え、その溝を埋められずにいました。ベルクソンは、土俵そのものを時間へと取り替えることで、この行き詰まりを打ち破ったのです。

その結果として、物質と精神は、断絶した二つの世界ではなく、一つの流れの度合いの違いとして捉え直されました。たるみきった反復の時間と、張りつめた創造の時間。両者は、同じ持続のグラデーションの両端にすぎない。この連続性の発見こそ、ベルクソンの最も独創的な達成でした。

そしてその根底には、「過去は消えない」という、記憶への深い肯定が流れています。過ぎ去ったものは無に帰すのではない。私たちが生きてきたすべては、潜在的に存在し続け、今この瞬間の私を形づくっている。これは単なる理論ではなく、私たちの人生そのものへの、ひとつの温かいまなざしでもあるのです。

さて、こうしたベルクソンの思索は、百年以上を経た今、私たちにこそ、いっそう鋭く問いかけてきます。

私たちの過去は、本当に脳に保存されているだけなのでしょうか。脳科学が飛躍的に進歩した今もなお、記憶とは何か、それがどこに、どのように存在するのかという問いは、決して解き尽くされてはいません。ベルクソンの異議は、今なお私たちの足元を揺さぶります。

さらに、私たちは、あらゆる出来事がデジタルに記録される時代を生きています。写真も、メッセージも、行動の履歴も、外部のサーバーに正確に保存され、いつでも引き出せる。けれども、そうして記録されたデータと、私たちが生きて感じてきた「生きられた記憶」とは、はたして同じものなのでしょうか。マドレーヌの一口で蘇るあの記憶を、データは持ちうるのでしょうか。

そして今、AIが膨大な情報を「記憶」する時代です。しかしその記憶は、人間のように、過去のすべてを引きずり、溶け合わせながら、二度と繰り返されない一瞬を生きる、あの「持続する記憶」と、同じものなのでしょうか。情報の蓄積と、生きられた持続――その違いを問うことは、人間とは何かを問うことに、ほかなりません。

過去のすべてを巻き込みながら、たえず新しい現在へと進んでいく私たち。雪だるまのように過去を引きずって生きる私たちは、この流れゆく時間を、いったいどう生きればよいのでしょうか。『物質と記憶』は、答えを押しつけるのではなく、この深い問いを、静かに私たちの手に委ねてくれるのです。

さて、「意識の流れ」のジェームズから、「持続」のベルクソンへと受け継がれた、流れる時間の探究。次回はこの流れをさらにたどり、また新たな一冊の扉を開いていきます。次回の哲学書読解も、どうぞお楽しみに。

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