バートランド・ラッセル『哲学の問題』――この机は、本当に存在するか

哲学

今回も哲学書の解説シリーズです。今回は、バートランド・ラッセル『哲学の問題』を取り上げます。

はじめに――「この机は、本当に存在するのか」

今、あなたの目の前に、机はあるでしょうか。もしあるなら、少しだけ、その机を見つめてみてください。当たり前のように「ここに机がある」と信じているその机は、本当に、あなたが思っている通りに存在しているのでしょうか。突拍子もない問いに聞こえるかもしれません。けれども、この一見馬鹿げた問いこそが、今回取り上げる一冊の、まさに出発点になっています。前回、私たちはバートランド・ラッセルが、共著者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドと共に書き上げた、『プリンキピア・マテマティカ』という大著を読み解きました。数学のすべてを、純粋な論理だけから証明し尽くそうとした、気の遠くなるほど技術的な仕事でしたね。ところが驚くべきことに、ラッセルはその第二巻をちょうど仕上げていた、まさに同じ時期に、もう一冊、まったく性格の異なる本を書き上げていました。今回取り上げるのは、その本、『哲学の問題』です。専門用語をほとんど使わず、哲学にまったく触れたことのない読者にも開かれた、コンパクトな一冊でありながら、そこで扱われている問いは、少しも小さくありません。私たちは、いったい何を確実に知っており、何については、確実だと思い込んでいるだけなのか。知るということは、そもそもどういうことなのか。今日は、この問いから、一緒にたどっていきましょう。

第一章 ラッセルの二重生活――大著と、小さな本

1910年、『プリンキピア・マテマティカ』の第一巻が刊行されたとき、ラッセルはすでに、イギリス哲学界の頂点に立つ存在になっていました。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで教鞭をとり、記号論理学という当時最先端の分野を切り開いた、押しも押されもせぬ第一人者です。それから一年ほど経った1911年から1912年にかけて、ラッセルは、その大著の第二巻の仕上げと並行して、ある依頼を引き受けます。「ホーム・ユニバーシティ・ライブラリー・オブ・モダン・ノレッジ」、日本語に訳すなら「現代知識・家庭用文庫」とでも呼べるでしょうか、専門知識を持たない一般読者に向けた、啓蒙的な叢書のために、哲学の入門書を一冊書いてほしい、という依頼でした。当代随一の、技術的で難解な大著に取り組んでいた哲学者が、まさに同じ時期に、まったく毛色の異なる、一般向けの小さな本を書き下ろす。この取り合わせは、当時の人々にとっても、いささか意外なことだったようです。『プリンキピア・マテマティカ』が、専門家でさえ読み通すのに苦労するような書物だったことを思えば、なおさらでしょう。こうして1912年に刊行されたのが、今回取り上げる『哲学の問題』、原題を『ザ・プロブレムズ・オブ・フィロソフィー』という一冊です。前回の大著とは対照的に、本書はごく薄く、簡潔な文章で書かれています。けれども、簡潔であることと、内容が浅いことは、まったく別の話です。この本には、ラッセルという哲学者の、思考の骨格そのものが、驚くほど鮮やかに詰め込まれています。

第二章 「この机は、本当に存在するのか」――現れと実在

本書は、ある印象的な場面から始まります。ラッセルは、自分の書斎にある、ごく普通の机を例に取り、そこから議論を組み立てていきます。「私に果たして、いかなる知識も疑いえない仕方で確実だと言えるものがあるのだろうか」。この根本的な問いを検討するために、ラッセルはあえて、身近でありふれた対象――一脚の机――から出発するのです。同じ一つの机であっても、見る角度や光の当たり方によって、色の見え方はまったく違ってきます。窓際から見れば明るい茶色に見える部分が、影の部分ではほとんど黒に近く見える。手で触れれば滑らかに感じられる木目も、顕微鏡で拡大してみれば、無数の凹凸や隆起があることが分かります。表面をこすったときに聞こえる音でさえ、こすり方によって違って聞こえます。では、私たちが本当に、直接、疑いようもなく知っているのは何でしょうか。それは、机そのものではなく、色や手触り、物音といった、感覚を通じてそのつど与えられる何かにすぎません。ラッセルはこれを「感覚与件(センスデータ)」と呼びます。もし「本当の机」というものがあるのだとしても、それは、この感覚与件から推論される何かであって、感覚に直接与えられるものではない。私たちが直接知っているのは、あくまで自分自身の感覚だけであり、机という物理的対象そのものは、そこから一段階、推論を経てはじめてたどり着ける何かなのです。これが、本書の出発点となる、ラッセルの整理です。

第三章 物質は存在するのか、その本質は何か

では、感覚与件の背後に、私たちの心とは独立した「物質」というものが、本当に存在するのでしょうか。ラッセルはここで、17世紀から18世紀にかけて活躍したアイルランドの哲学者、ジョージ・バークリーの議論を取り上げます。バークリーは、私たちが本当に知りうるのは、あくまで自分の心の中に浮かぶ観念だけであり、その観念から独立した、物質的な実体などというものは、そもそも存在しない、と主張しました。「存在するとは知覚されることである」という、バークリーの有名な言葉に集約される立場です。ここでラッセルは、二段構えの慎重な検討を行います。まず、バークリーの論証そのものについては、はっきりと誤りを指摘します。「知覚するという行為」と「知覚される対象そのもの」を、バークリーは混同してしまっている、というのです。心の中で起きている「知覚する」というはたらきが心的な出来事だからといって、知覚されている対象までもが、心に依存したものだとは限りません。この点で、バークリーの議論そのものは、論理の運び方に無理がある、とラッセルは結論づけます。とはいえ、観念論という立場そのもの――感覚与件の背後には何もなく、すべては心の出来事にすぎないという、より一般的な可能性――までも、完全に論理的に反証することはできない、とラッセルは正直に認めます。独我論と同じように、絶対に間違っているとは証明できない立場なのです。それでも、ラッセルは常識に軍配を上げます。感覚与件の背後に、それを引き起こしている物質的な世界が存在すると考える方が、そう考えない場合に比べて、はるかに単純で、無理のない、自然な説明になる、というのです。ただし、その「物質」の本質――机の色や手触りといった性質そのものが、それ自体として何であるかについては、私たちには、実は知りようがありません。物質は、感覚与件を引き起こしている、何か未知のものとして、あくまで慎重に扱われるにとどまります。

第四章 知るということの二つの仕方――直接知と記述による知

ここでラッセルは、知識をめぐる、もう一つ重要な区別を導入します。「直接知」、英語でアクウェインタンスと呼ばれる知り方と、「記述による知」と呼ばれる知り方の区別です。直接知とは、感覚与件や、自分自身の心の状態、あるいは記憶のように、いかなる推論も介さずに、ただちに、直接に意識される知り方のことです。これに対して記述による知とは、たとえば「今、私の目の前にあって、これこれの感覚与件を引き起こしている、あの物理的対象」というように、私たちが直接には知りえないものを、すでに知っている何かとの関係を通じて、間接的に知る、という知り方のことです。私たちは、机そのものを直接知ることはできませんが、「私にこうした感覚与件をもたらしている、あの物」という記述を通じてなら、机について知ることができます。ラッセルは、私たちが理解できるあらゆる命題は、最終的には、自分が直接知っている要素だけから組み立てられていなければならない、という原則を掲げます。どれほど間接的で複雑な知識であっても、たどっていけば、必ずどこかで、直接知という、揺るぎない土台に行き着くはずだ、というのです。知識という建物全体が、直接知という基礎の上に築かれている。これが、ラッセルの描く、知識の構図です。

第五章 ニワトリの悲劇――帰納の問題

私たちは、「太陽は明日も昇るだろう」と、当たり前のように信じています。この確信は、いったいどこから来るのでしょうか。これまで何度も繰り返し起きてきたことは、これからも同じように起きるはずだ、という信頼――これが「帰納」と呼ばれる推論の土台になっています。ここでラッセルは、今なお哲学の入門書で語り継がれる、有名な逸話を紹介します。毎日欠かさず餌を与えられてきた一羽のニワトリがいる。そのニワトリは、日々の経験を重ねるうちに、飼い主が近づいてくるたびに、今日もまた餌がもらえるはずだと、ますます確信を強めていきます。ところがある日、そのニワトリを待っていたのは、いつもの餌ではなく、飼い主にひねられる、その首でした。ラッセル自身は、この逸話をこう締めくくっています。「自然の斉一性について、もっと洗練された見方を持っていたなら、そのニワトリにとって、役に立っていたはずだ」。過去にどれほど多く、規則正しく繰り返された出来事であっても、それが未来も同じように続くという保証には、実は決してならない。この帰納そのものが抱える根本的な弱さを、論理的に完全に乗り越える正当化を、私たちの誰も、実は与えられていません。これが、17世紀の哲学者デイヴィッド・ヒューム以来、哲学史に長く残り続けてきた、「帰納の問題」です。

第六章 普遍の世界――プラトンの反響

「白さ」や「三角形であること」のように、無数の個別のものに共通して当てはまる性質は、いったいどこに存在しているのでしょうか。目の前にある、この赤い林檎と、あの赤いポストは、まったく別のものでありながら、どちらも「赤さ」という同じ性質を分かち持っています。この「赤さ」そのものは、いったいどこにあるのでしょうか。ラッセルはここで、古代ギリシアの哲学者プラトンが唱えた「イデア論」――個々の事物とは別に、変わることのない「イデア」の世界が存在する、という考え方を取り上げ、これを「普遍」という言葉で捉え直して、あらためて論じ直します。ラッセルは、机や人間、あるいは私たちの心のように、時間の流れの中に位置づけられる「実在」というあり方と、普遍のように、時間を超えて、変わることなく「存立」するというあり方、この二種類のあり方を、区別すべきだと論じます。個々の赤い物は、生まれては、いずれ失われていきますが、「赤さ」という普遍そのものは、特定のどの時点にも属さない仕方で、存立し続けているのだ、というのです。普遍というものを、本当に、実在するものとして認めるべきなのかどうか。この問いは、ラッセルの時代から一世紀以上を経た今も、決着のつかないまま、哲学の中で問われ続けています。

第七章 真理とは何か――対応説

ある信念が「真である」とは、いったいどういうことなのでしょうか。ラッセルがここで擁護するのは、「対応説」と呼ばれる考え方です。ある信念は、それが指し示している事実と一致しているときに真であり、一致していないときに偽である、という、素朴といえば素朴な考え方です。けれども、これを厳密に組み立てようとすると、一筋縄ではいきません。真であることと、偽であることの、両方が起こりうるためには、信念というものが、単純な一つの対象を指し示すだけのものではなく、いくつかの要素が結びついた、複合的な構造を持っていなければならない。ラッセルはこう分析します。たとえば、シェイクスピアの悲劇に登場するオセロは、妻のデズデモーナが、部下のキャシオを愛していると、誤って信じ込んでしまいます。この信念が「偽」でありうるためには、オセロの心が、「デズデモーナのキャシオへの愛」という、たった一つの対象に向き合っている、と考えるだけでは説明がつきません。もしそんな対象が本当に存在するなら、その信念は、常に真になってしまうはずだからです。ラッセルの分析では、この信念は、デズデモーナと、愛するという関係と、キャシオという、複数の要素が結びついた、複合的な構造として理解されなければなりません。信じるという行為そのものの中にではなく、信じられている内容と、外の世界に実際に成り立っている事実との関係の中にこそ、真理の基準を求めようとする。これが、ラッセルの真理観です。

第八章 哲学の価値――なぜ答えの出ない問いを考え続けるのか

そして、本書の最終章。ここは、本書全体の中でも、もっとも広く読まれ、繰り返し引用されてきた一節です。ラッセルは、率直にこう認めます。哲学は、実生活に役立つ実用的な知識を与えてくれるわけでも、たいていの場合、確定した答えを与えてくれるわけでもない、と。数学であれば証明が、自然科学であれば実験が、それぞれの問いに、はっきりとした決着をつけてくれます。けれども哲学の問いの多くは、そうした決着を望めません。それでも哲学を学ぶ価値があるとすれば、それは「答え」そのものではなく、「問い」そのものにある。ラッセルはこう主張します。答えの出ない問いを、それでも考え続けることが、私たちの心を、独断的な思い込みから解き放ち、想像力を豊かにし、視野を広げてくれるのだ、と。本書は、次のような、有名な一文で締めくくられます。「哲学は、その問いに対する何らかの確定した答えのために学ばれるべきものではない。なぜなら、そうした答えが真であると分かることは、通常、望めないからである。むしろ、問いそのもののために学ばれるべきなのだ。なぜなら、こうした問いは、私たちの可能なるものについての考えを広げ、知的な想像力を豊かにし、思索に対して心を閉ざしてしまう独断的な確信を減らしてくれるからであり、そして何より、哲学が観想する宇宙の偉大さを通じて、精神もまた偉大なものとなり、その宇宙との一体化――それこそが哲学にとって最高の善である――に至ることができるからである」。

【独自の視点】このチャンネルとしての批判的検討

さて、ここからは、このチャンネルとしての、批判的な検討に入っていきましょう。ラッセルがこの本の土台に据えた「感覚与件」という考え方は、その後の哲学の中で、実は厳しい批判にさらされることになります。イギリスの哲学者J・L・オースティンは、20世紀半ばに行った一連の講義をまとめた著書『知覚の言語』の中で、この理論を鋭く批判しました。オースティンが主な標的としたのは、感覚与件説をラッセルから受け継いで、さらに徹底させたA・J・エイヤーの議論でしたが、その批判の刃は、この理論の生みの親であるラッセル自身にも、当然向けられることになります。オースティンの指摘は、次のようなものです。「机がこう見える」「壁がこういう色に見える」という、私たちがふだん何気なく使っている、ごくありふれた言い方を、「感覚与件という、特別な、心的な対象が実在する」という、大がかりな理論に、性急にすり替えてしまっているのではないか、と。見え方についての、ただの言い回しの問題を、存在論の重い問題として扱ってしまった、という批判です。この批判以降、今日では、感覚与件という発想そのものを持ち出すこと自体が、議論のどこかで足を踏み外した兆候だとみなされるほど、この理論は支持を失っています。第五章で見た「帰納の問題」についても、ラッセル自身、完全な論理的解決を示せていたわけではありませんでした。20世紀後半、科学哲学者カール・ポパーは、この難問に一つの応答を示します。帰納そのものを、論理的に正当化しようとするのではなく、そもそも科学は、観察を積み重ねて一般法則を導き出す「帰納」によってではなく、大胆な仮説を立てては、それを反証しようと試みる「反証主義」によって進むのだ、と、問いの立て方そのものを変えることで、この難問を回避しようとしたのです。とはいえ、ポパーの提案が、帰納の問題を本当に「解いた」のか、それとも単に、問いそのものを巧妙に迂回しただけなのかについては、今も専門家の間で意見が分かれています。普遍をめぐる論争も同様に、今なお決着していません。「実在論」対「唯名論」という形で、現代の分析哲学でも、生きた争点であり続けています。このチャンネルとしての見立てを述べておきましょう。本書が示した個々の理論的な結論――感覚与件説をはじめとするいくつかの主張は、後の哲学によって大きく修正されるか、ほぼ放棄されてしまいました。それでもなお、この本が一世紀以上経った今も読み継がれているのは、その結論の正しさによってではないはずです。「この机は本当に存在するのか」という、素朴な問いから出発して、一歩ずつ丁寧に考えを積み上げていく、その「考え方の型」そのものを、読者に追体験させてくれるからこそ、この本は、今も読み継がれているのではないでしょうか。

【まとめ】この本が問いかけるもの

今日は、バートランド・ラッセル『哲学の問題』を、その執筆の背景から、感覚与件をめぐる議論、帰納の問題、普遍の世界、真理論、そして哲学の価値まで、順を追ってたどってきました。全体を貫いている一本の線は、こういうことだったと思います。「当たり前」だと思い込んでいることを、いったん立ち止まって疑い、自分が直接確かめられることと、推論に頼らざるを得ないことを、丁寧に切り分けていく。そういう姿勢です。そして、確実な答えにたどり着けるとは限らなくても、その過程そのものに意味がある、という哲学観です。情報があふれる今の時代だからこそ、「自分が直接知っていること」と、「誰かの言葉を通じて、知っていると思い込んでいること」を区別する視点は、ラッセルが本書を書いた一世紀以上前よりも、むしろ今の方が必要とされているのではないでしょうか。答えの出ない問いを、それでも考え続けることに、私たちはどんな意味を見出せるでしょうか。

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