エトムント・フッサール『イデーン』完全解説――「当たり前」の世界を一度括弧に入れると、何が残るのか

哲学

今回も哲学書の解説シリーズです。今回は、エトムント・フッサール『イデーン』を取り上げます。

  1. はじめに――前回「存在と時間」からの接続、そして今回のテーマ
  2. 第一章 エトムント・フッサールという人物――数学者から哲学者へ
  3. 第二章 心理学主義との対決――『論理学研究』が切り開いた道
  4. 第三章 志向性――「意識は、つねに何かについての意識である」
  5. 第四章 自然的態度――わたしたちが「当たり前」に生きている世界
  6. 第五章 現象学的エポケー――「括弧に入れる」という方法
  7. 第六章 現象学的還元――エポケーの果てに残る「純粋意識」
  8. 第七章 ノエシスとノエマ――意識という構造を、内側から分析する
  9. 第八章 ヒュレーとモルフェ――感覚素材が、意味を持つようになるまで
  10. 第九章 本質直観と自由変更――個別の事例から、普遍的な本質へ
  11. 第十章 領域的存在論――「意識」という領域、「自然」という領域
  12. 第十一章 「あらゆる原理の原理」――現象学の認識論的な土台
  13. 第十二章 超越論的自我――志向的体験に伴う、もう一つの極
  14. 第十三章 他者問題と間主観性――独我論という影
  15. 第十四章 なぜ『イデーン』は「第一巻」で終わったのか――生涯続いた未完の書き直し
  16. 第十五章 弟子たちとの決別――ハイデガー、シェーラー、インガルデンの離反
  17. 第十六章 現象学のその後――サルトル、メルロ=ポンティ、そして現代への影響
  18. 【独自の視点】このチャンネルとしての批判的検討
  19. 【まとめ】:「事象そのものへ」という合言葉が、その後の哲学に残したもの

はじめに――前回「存在と時間」からの接続、そして今回のテーマ

「哲学書の読解シリーズ」、第百三十二弾です。このシリーズでは、哲学史に残る一冊の書物を選び、その内容を、著者の生涯や時代背景も交えながら、じっくりと腰を据えて読み解いています。前回の第百三十一弾では、マルティン・ハイデガーの主著『存在と時間』を、じっくりと読み解いてきました。人間という存在を、あらかじめ「理性的動物」や「意識する主体」として定義してしまうのではなく、まず何よりも「存在するとはどういうことか」を、自分自身の存在をつうじて問い続けてしまう、特異な存在者――「現存在」(ダーザイン)。

そして、この現存在が、孤立した意識としてまず存在し、その後で世界と関わりはじめるのではなく、そもそも最初から「世界のうちに」投げ出され、道具や他者たちのただ中に巻き込まれながら生きている、という「世界内存在」のあり方。さらに、誰にも代わってもらうことのできない、自分自身の死という可能性から目をそらさず、それに先立って向き合うことによって、はじめて本来的な自分自身を取り戻すことができる、という「死への先駆的決意性」。これらの概念を、前回はかなりの時間をかけて追いかけてきたわけですが、実はこの『存在と時間』という書物には、扉を開いてすぐのところに、ある一人の人物への献辞が記されています。「エトムント・フッサールに、敬愛と友情を込めて、献呈する」。

この一文に名前が刻まれているエトムント・フッサールこそ、実はハイデガーの師であり、20世紀の哲学全体を根底から塗り替えることになった、巨大な哲学運動――現象学――の創始者にほかなりません。現象学は、のちに、実存主義をはじめとする、20世紀哲学のほとんどすべての潮流に、何らかの仕方で影響を及ぼしていくことになる、まさに巨大な運動でした。ハイデガーは、フライブルク大学でフッサールの助手を務め、フッサールから直接に手ほどきを受け、その後継者とまで目された人物でした。

ちなみに、この献辞は、時代が下って1941年に刊行された版においては、政治的な圧力のもとで、いったん本文から姿を消してしまうことになります。フッサールがユダヤ系の出自であったことが、その理由でした。師と弟子として出発したはずの二人の関係は、単なる哲学上の意見の違いにとどまらない、重い陰影を帯びていくことになるのです。

それでは、いったい二人は、どこで、なぜ袂を分かつことになったのでしょうか。その分岐点そのものを理解するために、今回は、いよいよ、その師であるフッサールの主著、『イデーン――純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』(1913年)を、じっくりと読み解いていきたいと思います。「イデーン」とは、ドイツ語で「理念」や「構想」を意味する言葉です。この書物のなかでフッサールは、意識という、わたしたちにとって最も身近でありながら、実は最も捉えがたいものを、根本から見つめ直そうとしました。

そこで打ち立てられた合言葉が、「事象そのものへ」です。この短い言葉こそ、20世紀の哲学全体の方向を決定づけることになった、現象学という新しい哲学の出発点にほかなりません。先入見や、既成の理論体系、常識的な思い込みをいったん脇に置き、物事がまさに「与えられている」その現れそのものに、虚心に立ち返ること――この一見単純に見える態度が、なぜこれほどまでに巨大な思想潮流を生み出すことになったのか。数学者としてキャリアを開始しながら、なぜ哲学者への道を歩むことになったのか。そして、なぜ最愛の弟子であったはずのハイデガーとの関係は、破綻へと向かってしまったのか。付け加えておくならば、フッサールは、1928年に自身がフライブルク大学を定年退官するにあたって、後継者として、みずからこのハイデガーを名指しで推薦し、教授の椅子を譲り渡してもいます。

それほどまでに厚い信頼を寄せていた相手であったからこそ、のちの決別は、フッサールにとって、決して軽いものではなかったはずです。今回は、これまでのシリーズのなかでも、ひときわ大きなボリュームをかけて、この『イデーン』という書物の全貌に迫っていく予定です。フッサール自身の生涯から、現象学という方法の核心、そして彼と袂を分かっていった弟子たちの物語まで、じっくりと腰を据えて辿っていきましょう。この『イデーン』という書物は、フッサールの現象学が、一度たどり着いた大きな到達点であると同時に、その後さらに何十年にもわたって、なお書き直され続けていくことになる、長い思索の旅の、いわば出発点でもありました。

第一章 エトムント・フッサールという人物――数学者から哲学者へ

まず、エトムント・フッサールという人物について見ていきましょう。1859年、当時のオーストリア帝国領モラヴィア――現在のチェコ共和国――にあった、プロースニッツという町に、ユダヤ系の家庭の子として生まれました。青年期のフッサールが最初に情熱を注いだのは、哲学ではなく、数学でした。ライプツィヒ大学で天文学を学んだのち、ベルリン大学に移り、当代随一の数学者として知られたカール・ワイエルシュトラスや、レオポルト・クロネッカーのもとで、本格的に数学の研鑽を積んでいきます。ワイエルシュトラスは、微分積分学の基礎を、直観や比喩に頼らず、厳密な論理だけで組み立て直そうとしたことで知られる数学者でした。あらゆる前提を疑い、根拠づけられうる限りの厳密さで一つ一つの命題を積み上げていく、この師の姿勢は、のちにフッサールが哲学に対して抱くことになる、「厳密な学」としての哲学という理想の、いわば原型になったとも言われています。

そして1883年、ウィーン大学に提出した、変分法(与えられた条件のもとで、最適な関数を見つけ出そうとする数学の一分野)についての学位論文によって、博士号を取得しました。数学者としての道を順調に歩んでいたはずのフッサールの人生を大きく変えることになったのが、ウィーン大学で聴講した、一人の哲学者の講義でした。その人物こそ、フランツ・ブレンターノです。もとはカトリックの司祭であったブレンターノは、教義上の疑念から聖職を退いたのち、ウィーン大学で教壇に立ち、その熱のこもった講義によって、多くの若き俊英たちを引きつけていました。のちにこの講義に集った門下からは、フッサールのほかにも、対象理論を唱えたアレクシウス・マイノングや、ポーランド哲学の礎を築いたカジミェシュ・トファルドフスキといった、独自の道を歩むことになる哲学者たちが輩出されています。

フッサールは、この学位取得の前後、おおよそ1884年から86年にかけて、ブレンターノのもとで哲学を学び、深く感化されることになります。とりわけ、ブレンターノが提唱していた「志向性」――あらゆる心的な働きは、つねに何らかの対象へと向けられている、という考え方――との出会いが、フッサールを、数学から哲学へと大きく舵を切らせる、決定的なきっかけになったと言われています。ブレンターノは、フッサールに、みずからの弟子であったカール・シュトゥンプフのもとで学ぶことを勧めました。

フッサールはこの勧めに従ってハレ大学に移り、1887年、教授資格を得るための論文『数概念について』を提出します。奇しくもこの同じ1887年、フッサールは、ユダヤ系の出自でありながらルター派に改宗し、マルヴィーネ・シュタインシュナイダーという女性と結婚もしています。当時のドイツ語圏において、ユダヤ系の出自は、大学教員としてのキャリアを進めるうえで、しばしば大きな障壁になっており、改宗は、こうした事情を背景にした、いわば現実的な選択でもあったようです。

さて、ハレ大学に提出したこの論文をもとに、さらに考察を深めて刊行されたのが、1891年の『算術の哲学』です。ここでフッサールは、数という概念の起源を、わたしたちが、いくつかの事物を「ひとまとまりのものとして集める」「数えあげる」ということを経験する、心理的な作用そのものから説明しようと試みていました。

ところが、この著作は、論理学者ゴットロープ・フレーゲから、痛烈な書評を受けることになります。フレーゲは、この時すでに四十代半ばに達し、書評が発表された1894年には名誉正教授への昇進も果たしていた、押しも押されもせぬ論理学者でしたが、それでいて、当時はまだ世に広くその名を知られていたわけではない、イェーナ大学に籍を置く人物で、記号によって論理を厳密に形式化しようとする『概念記法』(1879年)や、数の概念を論理から基礎づけようとする『算術の基礎』(1884年)といった著作を、すでに世に問うていた人物でした。1894年、専門誌に掲載されたその書評のなかで、フレーゲの批判の要点は、たとえば、数の「一」という概念と、目の前の何かを一つのまとまりとして意識する、その心理的な作用そのものとを、フッサールが混同してしまっている、というものでした。

数や論理法則という、客観的で普遍的であるはずのものを、人によって移ろいゆく心理的な過程へと解消してしまってはならない、というのが、フレーゲの一貫した主張だったのです。この書評が、フッサールにどれほど直接的な影響を与えたのかについては、実は今日の研究者のあいだでも、見解が分かれています。フッサール自身が、のちにフレーゲの指摘を重く受け止め、深く反省したのだと語られる通説的な理解がある一方で、近年の研究では、フッサールはフレーゲの書評を読む以前から、すでに独自に、心理学主義的な立場から距離を置きはじめていたのではないか、という、より慎重な見方も示されています。

いずれにせよ、この時期のフッサールが、心理学主義という立場の限界と、真剣に向き合っていたこと自体は間違いありません。なお、この間のフッサールは、ハレ大学において、実に14年ものあいだ、正式な教授職ではない、私講師(プリファートドツェント)という不安定な身分に甘んじ続けていました。安定した地位も収入も保証されないまま、ひたすら思索を深めていく、そうした雌伏の時代のただ中で書き上げられたのが、次に見る大著だったのです。

そして、この格闘の成果として、1900年から1901年にかけて、上下巻という形で刊行されたのが、大著『論理学研究』です。この書物は、心理学主義に対する根本的な批判の書であると同時に、現象学という新しい哲学の、実質的な出発点になった著作として、高く評価されることになります。

ちなみに、この『論理学研究』は、かつてハレ大学でフッサールの教授資格論文を指導した、あのカール・シュトゥンプフに「敬意と友情を込めて」捧げられています。数学者から哲学者への転身を導いた恩師への感謝が、この大著の扉にも、静かに刻まれていたのです。この『論理学研究』の成功を受けて、フッサールは1901年からゲッティンゲン大学で教鞭をとりはじめます。当初は員外教授という不安定な地位に甘んじていましたが、1906年には正教授に昇進し、その講義には、のちに「ゲッティンゲン現象学サークル」と呼ばれることになる、多くの優れた若い哲学者たちが集うようになりました。

そして、第一次世界大戦さなかの1916年には、ハインリヒ・リッケルトの後任として、フライブルク大学の教授に就任しました。数学者として出発し、ブレンターノとの出会いを転機として哲学へと向かい、心理学主義との対決のなかから、独自の哲学を築き上げていったフッサール。次の章では、その対決の舞台となった『論理学研究』が、いったい何を批判し、何を切り開こうとしたのかを、さらに詳しく見ていきましょう。

第二章 心理学主義との対決――『論理学研究』が切り開いた道

前回の最後に触れた通り、フッサールの出発点には、心理学主義との、粘り強い対決がありました。それでは、この「心理学主義」とは、いったいどのような立場を指すのでしょうか。心理学主義とは、簡単に言えば、論理学が扱う法則――たとえば「矛盾律」、すなわち「同じ事柄について、あることが同時に真でありかつ偽であることはできない」という法則――を、人間の心理的な思考過程についての、経験的で心理学的な法則へと、還元してしまおうとする立場のことです。

この立場に立てば、論理法則とは、人間という生き物が、実際にどのようにものを考えるか、その心理的なメカニズムを記述したものにすぎない、ということになってしまいます。19世紀後半のヨーロッパでは、自然科学、とりわけ実験心理学が急速に発展しつつあり、あらゆる精神的な営みを、心理学的な法則によって説明し尽くそうとする風潮が、強く広がっていました。論理学もまた、この大きな潮流に、飲み込まれかけていたのです。心理学主義を代表する論客として、フッサールが名指しで批判の対象としたのが、イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルでした。ミルは、論理学や数学の法則までもが、結局のところ、人類が経験を積み重ねるなかで見いだしてきた、きわめて一般性の高い経験則の一種にすぎない、と考えていたのです。

これに対して、フッサールが『論理学研究』第一巻で展開した批判の核心は、次のようなものでした。論理法則が備えている性質――必然性(そうでしかありえないという性質)、普遍性(いつでもどこでも誰にとっても成り立つという性質)、そして厳密性――は、人間の心理的な思考過程がそもそも備えている性質――偶然性(たまたまそう考えてしまっただけかもしれないという性質)、個別性(人によって考え方が違うという性質)、そして可謬性(思い違いや勘違いをしうるという性質)からは、決して導き出すことができない、という指摘です。

たとえば「二たす二は四である」という数学的な真理は、たとえ人類のすべてが計算を間違え続けたとしても、それ自体としては、真理であり続けます。人間の心理がどう働くかということと、その真理が成り立つかどうかということとは、まったく別の次元に属する問題なのです。たとえば、こう考えてみるとわかりやすいかもしれません。チェスの規則そのものと、ある一人のプレイヤーが、その規則をどのように理解し、頭の中でどう思い描いているかという、心理的な過程とは、まったく次元の異なる話です。あるプレイヤーが規則を勘違いしていたとしても、チェスの規則そのものが、それによって揺らいだり、書き換えられたりするわけではありません。

論理法則もまた、これと同じように、個々人の心理的な思考のあり方からは独立して、それ自体として妥当し続けている――これが、フッサールの根本的な主張でした。さらにフッサールは、心理学主義という立場を徹底して推し進めていくと、深刻な自己矛盾に行き着かざるをえないことも指摘しています。もし論理法則が、人間という種に特有の心理的なメカニズムにすぎないのだとすれば、人間とは異なる心理的な構造を持つ、別の理性的な存在者にとっては、矛盾律さえも成り立たない可能性がある、ということになってしまいます。

しかし、それでは「矛盾律が成り立つこともあれば、成り立たないこともありうる」という、それ自体すでに矛盾律を前提してしまっている、奇妙な主張に陥ってしまいます。心理学主義は、徹底して推し進めれば、みずからの足元を掘り崩してしまう、自己論駁的な立場なのだ、というのが、フッサールが『論理学研究』第一巻――副題を「純粋論理学のためのプロレゴメナ」といいます――で展開した、もう一つの強力な論拠でした。この区別を踏まえてフッサールが主張したのが、客観的で理念的な「意味」――たとえば、命題や数といった、いわば「イデア的な対象」――と、それを主観的に把握する、個々人の心理的な作用とを、はっきりと区別しなければならない、ということでした。

実は、フッサールに先立って、19世紀前半のボヘミアの哲学者ベルナルト・ボルツァーノもまた、命題や真理そのものを、それを考える人間の心理から独立した「即自的な命題」として捉える、よく似た発想をすでに示していました。フッサールは、のちに、このボルツァーノの仕事を高く評価し、みずからの先駆者の一人として位置づけることになります。

もっとも、批判者たちのなかには、フッサールのこうした立場を、皮肉を込めて「論理学的プラトニズム」と呼ぶ者もいました。数や命題を、あたかもイデア界に実在するプラトンのイデアのような、独立した実在物として扱っているように見えたからです。フッサール自身は、そうした大がかりな形而上学的実在論にコミットすることには、むしろ慎重な姿勢を崩しませんでしたが、命題や数が持つ、客観的で理念的な妥当性そのものを手放すことは、最後までありませんでした。「二たす二は四である」という命題そのものの真理性は、誰か特定の人がそれを考えているかどうかとは独立に、それ自体として成り立っています。わたしたちが、その命題を考えたり理解したりする、その心理的な行為(作用)と、考えられ理解される内容そのもの(意味)とを、混同してはならない――これが、フッサールが心理学主義に突きつけた、最も根本的な批判でした。

フッサールは、こうした理念的な意味や法則そのものを対象とする学を、心理学から独立した「純粋論理学」と呼び、これを打ち立てることこそが、哲学にとって急務の課題であると考えました。そして、この批判的な作業を、粘り強く積み重ねていくなかで、フッサールがたどり着いた合言葉こそ、「事象そのものへ」(ツー・デン・ザッヘン・ゼルプスト)という一句です。先入見にとらわれず、既成の理論体系や、当たり前とされている前提を、いったんすべて脇に置き、事象そのものが、まさにそのようにわたしたちに与えられている、その現れ方そのものに、忠実に立ち返ろうとする姿勢――これこそが、フッサールが打ち立てた、現象学という新しい哲学の、出発点となる基本姿勢でした。

ここでフッサールが言う「事象」とは、必ずしも物理的な事物だけを指すわけではありません。数というものが、そもそも意識にどのように与えられているのか、判断という行為が、どのような構造を持っているのか――こうした、経験の内実そのものに、まっすぐ目を向けることこそが、事象そのものへ立ち返るということの、本来の意味でした。それまでの哲学が、ともすれば、経験そのものをろくに見つめないまま、抽象的な理論体系のなかだけで、数や論理をめぐる議論を組み立ててしまっていたことへの、根本的な異議申し立てでもあったのです。心理学主義との対決を通じて生まれたこの合言葉は、単に論理学という一分野の問題を超えて、哲学そのものをどう営むべきかという、方法論全体の刷新を告げるものでもありました。

次の章では、この現象学という方法が、意識そのものをどのように捉え直していくことになったのか――その中心にある「志向性」という概念から、見ていくことにしましょう。

第三章 志向性――「意識は、つねに何かについての意識である」

心理学主義との対決を経て、事象そのものへと立ち返ろうとしたフッサールが、その現象学という方法の中心に据えたのが、「志向性」(インテンツィオナリテート)という概念です。この概念は、もともと、フッサールが数学から哲学へと転向する、決定的なきっかけとなった人物――フランツ・ブレンターノから受け継いだものでした。ブレンターノは、1874年に刊行した著書『経験的立場からの心理学』のなかで、あらゆる心的な現象は、つねに、何らかの対象へと向けられている、という特徴を指摘していました。ブレンターノ自身、この概念を、みずからがまったくのゼロから考え出したわけではなく、中世のスコラ哲学に由来する「志向的内在」という、いわば忘れられかけていた古い概念を、掘り起こし、よみがえらせたのだと語っています。

この「志向」という語自体、さかのぼれば、アリストテレスの著作をめぐる、中世の注釈的な伝統のなかで、長い時間をかけて鍛えられてきた言葉でした。フッサールが、のちにこの志向的体験そのものを、さらに立ち入って分析していく際に用いることになる、いくつもの独自の術語もまた、こうした古い伝統から、少なからぬものを汲み上げていくことになります。何かを見るという知覚は、必ず「見られる何か」へと向けられており、何かを望むという欲求は、必ず「望まれる何か」へと向けられている――このように、心の働きは、つねに「何かについて」の働きである、というのです。ブレンターノは、この特徴づけを、あくまで、心的な現象と、物理的な現象(たとえば石や木といった、それ自体としてはどこにも「向かう」ことのない事物)とを区別するための、一つの基準として提示していました。

ところが、フッサールは、この志向性という概念を、単なる区別の基準にとどめてはおきませんでした。フッサールは、志向性こそが、意識というものの本質的な構造そのものにほかならない、という仕方で、この概念を徹底的に彫琢し直していくことになります。この彫琢の作業がとりわけ集中的に展開されているのが、『論理学研究』第二巻に収められた、「志向的体験とその内容について」と題された第五研究です。

ちなみに、対象が実際には存在していなくても、意識はそれでも何かへと向けられているという、この一見不思議な事態をどう説明するかという問題は、前章で触れたマイノングやトファルドフスキといった、ブレンターノ門下の同僚たちのあいだでも、それぞれ独自の理論を生み出す、大きな論争の種になっていきました。「意識」と一言で言っても、そのあり方は、実にさまざまです。目の前のコーヒーカップを、いま現に知覚する。昨日の出来事を、記憶のなかに思い起こす。存在しない一角獣の姿を、想像のなかに思い描く――たとえ、この想像された一角獣が、この世のどこにも実在していなくとも、その想像という体験そのものは、確かに何かへと向けられています。

この点にこそ、志向性という概念が持つ、独特の奥深さがあります。ある命題が正しいかどうかを、判断する。まだ訪れていない未来の出来事を、期待する。何かを疑ったり、ふと何かに驚いたりする。誰かを愛したり、あるいは誰かを憎んだりする。これらは、どれも一見すると、まったく異なる心の働きのように思えます。

しかし、フッサールに言わせれば、これらのどれもが、必ず「何かについて」の意識である、という共通の構造を持っています。知覚は、何かについての知覚であり、記憶は、何かについての記憶であり、期待は、何かについての期待であり、愛や憎しみもまた、何かへと向けられた愛や憎しみなのです。

たとえば、弓から放たれた矢が、つねにどこかの的をめざして飛んでいくように、意識という営みもまた、それが差し向けられる先の対象を伴わずには、決して成り立ちません。フッサールは、意識のこうしたあり方を、単なる比喩としてではなく、意識それ自体の本質的な構造として、厳密に取り出そうとしたのです。この「意識は、つねに何かについての意識である」というテーゼこそ、フッサールの現象学全体を貫く、最も基本的な出発点にほかなりません。

そして、フッサールは、この志向的な体験というものが、実は、単純な一枚岩の構造をしているのではなく、いわば二重の構造を持っていることに気づいていきます。一方には、意味を与え、対象へと関わっていく、作用そのものの側面がある。他方には、その作用によって志向された、対象そのものの側面がある。同じ一本の木を見るという経験のなかにも、「見る」という作用の側面と、「見られている木」という対象の側面という、区別されるべき二つの契機が、すでに潜んでいるのです。

実は、この志向性という考え方は、近代哲学が長く抱えてきた、一つの厄介な問題に対する、有力な応答にもなっていました。ルネ・デカルト以来、近代の哲学はしばしば、意識を、あたかも密閉された箱のようなものとして捉えてきました。箱の中には、外の世界を映し出す「観念」だけが詰まっており、わたしたちは、その観念を介してしか、外の世界に触れることができない――だとすれば、その観念が、本当に外の世界を正しく映し出しているのかどうかを、わたしたちは、決して確かめようがないのではないか、という懐疑の影が、つきまとうことになります。

これに対して、志向性という考え方は、意識をこのような密閉された箱として捉えること自体を、そもそも拒みます。意識は、最初から、みずからの外にある対象へと、すでに関わり出てしまっているものだからです。たとえば、いま目の前の庭に実際に生えているリンゴの木を知覚する場合と、同じリンゴの木を、目を閉じて想像のなかに思い浮かべる場合とを、比べてみてください。知覚という作用と、想像という作用とでは、意識のはたらき方も、そのはたらきが与えられる確かさの度合いも、まったく異なっています。

けれども、そのどちらもが、等しく「あのリンゴの木」という、同じ一つの対象へと向けられている、という点では変わりがありません。フッサール自身、のちに『イデーン』のなかで、まさにこのリンゴの木という例を用いながら、志向性という構造を、さらに具体的に描き出していくことになります。多様に見える意識のありようの奥に、これほどまでに一貫した構造が潜んでいるという発見こそが、フッサールをして、意識という営みの分析に、みずからの生涯を捧げさせることになった、根本の動機だったといえるでしょう。

この二つの契機を、フッサールがのちにどのような概念によって、より精密に分析していくことになるのか――それは、これから章を追って、じっくりと見ていくことにしましょう。今はまず、あらゆる意識が、つねに何かへと向けられている、という、この志向性というテーゼそのものを、しっかりと心に留めておいてください。

第四章 自然的態度――わたしたちが「当たり前」に生きている世界

前回、わたしたちは志向性という概念を通して、意識とは何かに「向かっている」ことによってのみ意識でありうるのだ、という驚くべき洞察に触れました。しかし、フッサールがこの志向性の分析を本格的に展開する前に、まずはっきりさせておかなければならないことがあります。それは、わたしたちがふだん、いったいどのような「態度」で世界と関わりながら生きているのか、という問いです。『イデーン』第一巻の第四章で、フッサールは、この日常のあり方に、「自然的態度」(ナチュアリッヒェ・アインシュテルング)という名前を与えます。自然的態度とは、簡単に言えば、わたしたちが哲学的な反省など何もせずに、朝起きて顔を洗い、電車に乗り、仕事をし、友人と言葉を交わす、その普段のあり方そのもののことです。

このとき、わたしたちは、目の前に机があり、窓の外に空があり、隣に同僚が座っている、ということを、いちいち疑ったりはしません。世界は、疑いようもなく、そこにある。そして自分自身も、その世界のなかの一つの存在として、疑いようもなく生きている。この、あまりに当たり前すぎて、ふだんは意識にすら上らない大前提のことを、フッサールは「一般定立」(ゲネラルテーゼ)と呼びました。一般定立とは、いわば、世界がまさに存在するのだという、暗黙のうちに前提され続けている、根本的な確信のことです。わたしたちは、この確信を、いちいち言葉にして「世界は存在する」と唱えているわけではありません。むしろ、そんなことをわざわざ確かめる必要すらないほどに、この確信は、わたしたちのあらゆる経験の、いわば下敷きになっているのです。

目の前のコーヒーカップを手に取るとき、わたしたちは「このカップが本当に存在するかどうか」をいちいち吟味したりはしません。カップは、ただそこにあり、わたしたちはそれを当たり前のこととして受け取っています。フッサールは、この、疑うことすら思いつかないほどに徹底した世界への信頼のことを、のちの著作では「世界信憑」(ヴェルトグラウベ)という言葉でも言い表すことになります。また、フッサールが「世界」と呼ぶとき、それは単に、机や椅子といった物理的な事物の集まりだけを意味しているのではありません。そこには、道ですれ違う他人たちも、新聞に書かれた出来事も、値段のついた商品も、美しいと感じられる風景も、すべてひっくるめて含まれています。

自然的態度における世界とは、いわば、あらゆる個々の経験がそのなかで生起する、一つの尽きることのない地平(ホライズント)のようなものです。目の前の一つの事物に注意を向けているときでさえ、わたしたちは、その背後に、まだ注意を向けていない無数の事物や出来事が控えていることを、漠然と、しかし確かに感じ取っています。この、決して汲み尽くされることのない地平としての世界こそが、一般定立によって、つねにすでに疑いようもなく存在するものとして、受け取られているのです。

ここで興味深いのは、たとえわたしたちが、個々の事物について疑ったり、勘違いだったと気づいたり、見間違いを訂正したりすることがあっても、その疑いや訂正は、あくまで世界のなかの「この特定の物」についてのものにすぎない、とフッサールが指摘する点です。たとえば、遠くに見えた人影が、近づいてみると実は木の影だったと分かったとしても、そのことによって「世界そのものが存在するかどうか」まで疑わしくなるわけではありません。むしろ、世界が確かに存在しているという大前提があるからこそ、初めて、そのなかの個々の事物について、間違えたり訂正したりすることが可能になるのです。

フッサールは、こうした個々の疑いや訂正のことを、一般定立の「変様」(モダリズィールング)と呼び、それらがどこまでも、世界の存在そのものを前提したうえで生じる、局所的な出来事にすぎないことを強調します。さらに言えば、自然的態度のもとでは、わたしたち自身もまた、この世界に属する一つの存在として、当たり前に生きています。わたしは、単なる意識の流れとしてではなく、身体を持ち、他の人々や動物たちと同じように、この世界のなかに位置を占める、一人の人間として、自分自身を経験しています。隣の同僚も、道を歩く見知らぬ人も、みな同じように、この世界のなかに実在する、心と身体を備えた存在として、当たり前に受け取られています。

フッサールが後年「間主観性」の問題を深く掘り下げていくことになるのも、こうした、自然的態度のもとで他者たちがすでにごく自然に「そこにいる」ものとして経験されている、という事実があったからにほかなりません。そして、フッサールがさらに強調するのは、この自然的態度が、単に、わたしたちの日常生活だけの土台なのではない、ということです。それは同時に、あらゆる自然科学、あらゆる実証科学が営まれる、暗黙の共通の地盤でもあります。物理学者が原子の振る舞いを研究するとき、生物学者が細胞の働きを観察するとき、心理学者が人の心の動きを調べるときでさえ、彼らは、世界が実在するかどうかを、いちいち哲学的に問い直したりはしません。

むしろ、世界が確かに存在するということを、疑問の余地のない大前提として黙って引き受けたうえで、そのなかで生じる個々の現象を、精密に探求していくのです。フッサールに言わせれば、自然科学とは、どれほど精緻な理論体系を築き上げようとも、結局のところ、この自然的態度という、根本的に無反省な地盤の上に建てられた建築物にすぎません。物理学の方程式も、生物学の分類も、そして心理学が心をひとつの自然現象として扱おうとする試みでさえも、すべては、この暗黙の信頼のうえに、初めて成り立っているのです。のちにフッサールが繰り返し批判することになる「自然主義」という哲学的立場も、突き詰めれば、こうした自然的態度の枠組みを、そのまま無反省に押し広げ、意識そのものまでも、単なる自然のなかの一事象として扱おうとする試みにほかなりません。

このように、自然的態度とは、特定の信念や理論だけを指すのではなく、むしろ、ありとあらゆる信念や理論が、そのつどそこから汲み出されてくる、いわば経験そのものの土台なのです。ここに、フッサールが現象学という新しい学を打ち立てようとする、切実な動機があります。自然科学は、世界がなぜ、そしてどのようにして、わたしたちに「与えられている」のかという、もっとも根本的な問いには、決して答えることができません。なぜなら、自然科学自身が、その問いを問う手前で、すでに世界の存在をあらかじめ前提してしまっているからです。

この、あまりに当たり前で、誰も疑おうとしない一般定立そのものを、いったんどうにかして問い直すことができないか。それができたとき、初めて、意識と世界との関係そのものを、根本から見つめ直すことができるのではないか。次の章で、フッサールは、この途方もない企てのための、きわめて独創的な方法を提示することになります。

第五章 現象学的エポケー――「括弧に入れる」という方法

前章でわたしたちが確認したのは、自然的態度という、あまりに強固な、しかしあまりに無反省な、世界への確信のことでした。世界は疑いようもなく存在する。この一般定立は、わたしたちの日常生活だけでなく、あらゆる学問の暗黙の前提にもなっている。では、この一般定立そのものを、どうにかして問い直すことはできないのでしょうか。フッサールが、この難問に対して提示する答えこそが、『イデーン』第五章で語られる、「エポケー」という方法です。エポケーとは、もともとギリシャ語で「判断中止」「判断停止」を意味する言葉です。

この語は、フッサールの発明ではありません。古代ギリシャの懐疑派の哲学者たち、たとえばピュロン主義者たちが、すでにこの言葉を用いていました。彼らにとってエポケーとは、真偽の定かでないことがらについての判断を差し控えることによって、心の平静(アタラクシア)を得るための、いわば処世術でした。何が正しいか、何が真実かをめぐる論争に巻き込まれたときには、判断そのものを保留してしまえばよい、というわけです。フッサールは、この古い言葉を、まったく新しい、独自の哲学的な意味へと転用します。

フッサールの言うエポケーとは、自然的態度の一般定立を、いったん「作用の外に置く」、あるいは「括弧に入れる」という操作のことです。目の前に机があるという確信、外に空があるという確信、これらすべてを、いったん括弧でくくってしまう。ただし、ここで決定的に重要なのは、この操作が、世界の存在を「否定する」ことでは決してない、という点です。フッサールは、この「括弧に入れる」という操作を説明するために、しばしば数学における括弧の比喩を用います。数式のなかで、ある項をひとまず括弧でくくってしまっても、その項が消え去ってしまうわけではありません。括弧のなかの項は、依然としてそこにあり続けながら、ただ、それが式全体の計算にただちに関与することだけが、いったん保留されているのです。

エポケーもこれと同じように、世界という項を、丸ごと消し去るのではなく、その効力だけを、一時的に凍結させる操作である、というわけです。しかもフッサールは、括弧に入れられるべきものが、単に「机がそこにある」といった素朴な知覚上の確信だけにとどまらないことも、丁寧に付け加えています。これまで学んできた物理学や生物学、歴史学といった、あらゆる既存の学問の理論的な成果もまた、それが世界の存在を前提として組み立てられているかぎり、いったんは同じように括弧に入れられなければなりません。エポケーとは、日常の素朴な確信だけでなく、これまで積み重ねられてきた学問的な知識の総体を、丸ごと保留の対象とする、徹底した企てなのです。

ここで、多くの人が思い浮かべるのが、かつてデカルトが行った、方法的懐疑との類似性でしょう。デカルトもまた、確実な知の基盤を求めて、あらゆることを疑い抜こうとしました。目に映る世界も、自分の身体も、もしかしたら悪しき欺き手によって仕組まれた幻影にすぎないかもしれない、と。

しかし、フッサールが繰り返し強調するのは、自分の企てが、デカルトのそれとは決定的に異なる、ということです。デカルトの懐疑は、あくまで、疑わしいものを、いったんすべて偽なるものとみなし、退けてしまうという、いわば否定の作業でした。世界の存在は、疑いの果てに、いったん「無い」ものとして扱われ、そこから、疑いえない確実な足場、すなわち「われ思う」を出発点として、世界を再び組み立て直す作業へと進んでいきます。

これに対してフッサールのエポケーは、世界の存在を否定するのではなく、その存在についての判断そのものを、ただ「保留」するにとどまります。世界が存在するのか、存在しないのか、そのどちらについても、いっさい態度決定をしない。フッサール自身の言葉を借りるなら、エポケーを行うわたしは、世界の存在を疑う懐疑論者になるのでも、それを否定する無神論者になるのでもなく、ただ、これまで無反省に働かせてきた一般定立という「作用」そのものを、封じ込めるだけなのです。

したがって、エポケーとは、世界の実在性を疑ったり、否定したりする作業ではありません。むしろそれは、世界へのわたしたちの「態度」そのものを、根本から組み替える作業なのだ、とフッサールは強調します。括弧に入れられた世界は、決して消え去ってしまうわけではありません。わたしの目の前には、相変わらず机があり、空があり、街の喧騒が聞こえています。変わるのは、世界そのものではなく、その世界に対する、わたしの構え方のほうなのです。括弧に入れられることによって、世界は、これまでとはまったく違う仕方で、あらためてわたしたちの前に姿を現すことになります。それはもはや、「疑いようもなく存在するもの」としての世界ではなく、「意識にとって、どのように意味づけられ、どのように与えられているか」という、新しい問いのもとで捉え直された世界です。

同じ机が、同じようにそこにありながら、いまや、それが「わたしにとって、どのような仕方で経験されているのか」という、まったく新しい光のもとで見つめ直されることになるのです。この操作を経ることによって、世界は、もはや素朴に「存在するもの」としてではなく、いわば「立ち現れているもの」、文字通りの意味での「現象」として、あらためて主題化されることになります。フッサールが自分の哲学に「現象学」という名を与えたのも、まさにこの、エポケーを通じて開かれる、事象の新しい現れ方そのものに、徹底して定位しようとしたからにほかなりません。わたしたちはもはや、「机は本当に存在するのか」を問うのではなく、「机は、いかなる仕方でわたしの意識に立ち現れ、いかなる意味を帯びて経験されているのか」を問うようになるのです。

エポケーを行うことは、いわば、絵のなかの風景にすっかり没入していた観客が、ふと我に返り、いま自分が見つめているのが、額縁におさめられた一枚の絵そのものであった、と気づく瞬間に似ています。絵のなかの風景が、それによって消え去ってしまうわけではありません。むしろ、それが「絵として、いかに描かれているか」という、これまで気づかれていなかった次元が、初めて開かれてくるのです。エポケーという方法が要求するのは、まさにこの、世界にどっぷりと浸りきっていたわたしたちの視線を、いったん一歩踏みとどまらせ、世界がわたしたちにどのように与えられているか、そのこと自体へと向け直すことなのです。

では、このようにして態度を組み替えたとき、いったいそこには何が残るのでしょうか。世界のすべてを括弧に入れてしまったあとには、もう何も残らず、すべてが無に帰してしまうのでしょうか。次の章で、フッサールは、この問いに対する、驚くべき答えを用意しています。

第六章 現象学的還元――エポケーの果てに残る「純粋意識」

前章で見たエポケーという操作、すなわち、自然的態度の一般定立を括弧に入れるという企てを、フッサールは徹底的に遂行しようとします。この、エポケーを首尾一貫した仕方で貫き通していく手続き全体のことを、フッサールは「現象学的還元」と呼びます。では、この還元を最後まで推し進めたとき、いったい何が残るのでしょうか。世界の存在についての判断をすべて保留してしまったなら、あとにはもう何も残らず、すべてが無に帰してしまうのではないか。そう思われるかもしれません。

しかし、フッサールの答えは、まったく逆でした。現象学的還元を徹底したあとにも、なお消え去らずに残り続けるものがある。それが、超越論的な主観性、すなわち「純粋意識」(ラインエス・ベヴストザイン)と呼ばれるものです。フッサールは、これを、還元の果てに残される、いわば「現象学的残余」と呼びます。この残余は、たんに何かがたまたま生き残った、という程度のものではありません。フッサールは、これを、あらゆる可能な経験にとって、疑いようのない、絶対に確実な出発点、いわば哲学という学問全体を基礎づけるための、揺るぎない岩盤として位置づけます。世界に属するどんな事物も、理論上は、実は存在しなかった、単なる幻影だったと判明する可能性を、原理的に免れることができません。

ところが、いままさに何かを経験しつつある、この意識の働きそのものは、たとえ経験されている対象が幻影であったとしても、その働きが「起こっている」ということ自体は、疑いようがないのです。あらゆる事物の存在を括弧に入れてもなお、その事物について「机がある」「空が青い」と経験しつつある、この意識の働きそのものは、括弧の外に置き去りにすることができません。なぜなら、括弧に入れるという行為そのものが、すでに一つの意識の働きにほかならないからです。世界を疑い、世界の存在を保留するためには、そもそも、その保留を行っている「わたし」の意識が、すでにそこになければなりません。

この点で、意識だけは、還元の刃をどれほど鋭く研いでいっても、決して切り落とすことのできない、最後の一点なのです。では、なぜ、意識だけが、この徹底した還元を生き延びることができるのでしょうか。フッサールは、その理由を、事物の存在様式と、意識の存在様式とのあいだにある、根本的な違いに求めます。

ここで鍵となるのが、「射映」(アプシャットゥング)という概念です。目の前にある机を、わたしたちが見るとき、わたしたちに実際に与えられているのは、つねに、机のある特定の一面、ある特定の角度から見た姿でしかありません。正面から見れば、背面は見えていない。上から覗き込めば、内部の構造は見えていない。ぐるりと歩き回って裏側を確かめても、そのときにはもう、さきほど見ていた正面が、見えなくなっています。机の裏側や内部は、いま現に見えているわけではなく、つねに、さらなる経験によって、あらためて確かめられ、補われ、場合によっては修正されうる可能性を、残したままになっています。

フッサールは、このように、事物がつねにある一面、ある射映を通してしか与えられないという、この存在のあり方を、「相対的存在」と呼びます。机という物そのものが、わたしたちにまるごと、余すところなく、一挙に与えられることは、原理的にありえないのです。これに対して、いま現に生きられている意識体験そのものは、まったく異なる仕方でわたしたちに与えられています。わたしが、いままさに机を見ているという、この見るという体験そのものは、机のように、ある一面だけを見せて、他の面を隠したりはしません。わたしは、自分がいま見ているという体験を、射映を通してではなく、絶対的に、疑いえない仕方で、直接みずからに与えられているものとして、生きているのです。

たとえその机が、実は幻影であったとしても、「わたしがいま机を見ていると感じている」という、この体験そのものの存在は、揺らぐことがありません。机という物の存在は疑いうるとしても、机を見ているというこの体験の存在それ自体は、疑いようがないのです。しかも、この絶対的な仕方で与えられているのは、何かを知覚するという体験だけに限られません。何かを思い出すという体験、何かを想像するという体験、何かを判断し、何かを望み、何かを恐れるという体験も、すべて同じように、意識の流れ(エルレプニスシュトローム)を織りなす出来事として、射映を通してではなく、直接に、絶対的な仕方で生きられています。

たとえば、昨日見た夕焼けを思い出すとき、その夕焼けという対象の実在性は、もはや確かめようがないかもしれません。しかし、いま、わたしがその夕焼けを「思い出している」という、この体験そのものは、疑いようのない仕方で、わたしに与えられているのです。フッサールは、この意識体験のあり方を、「絶対的存在」と呼び、事物の「相対的存在」と、はっきり対比させます。

ここで、前章で触れたデカルトとの比較に、もう一度立ち返っておくのも有益でしょう。デカルトもまた、あらゆることを疑い抜いた果てに、疑いえない「われ思う」という一点にたどり着きました。けれども、デカルトは、この「われ思う」を、世界のなかにあるもう一つの実体、いわば「考える物」(レス・コーギタンス)として、世界の内部にふたたび位置づけ直してしまいます。

これに対してフッサールが見出す純粋意識は、世界の内部に存在する一つの事物なのではなく、そもそも世界というものが、そのなかで初めて意味をもって立ち現れてくる、いわば世界に先立つ場そのものなのです。フッサールが、この純粋意識を、たんなる「心理学的な意識」ではなく、あえて「超越論的」(トランスツェンデンタール)という形容詞を添えて呼ぶのも、このためです。心理学が扱う意識は、あくまで、世界のなかに実在する人間という生物の、一つの心的な機能にすぎません。

しかし、現象学的還元を経たあとの純粋意識は、もはや世界のなかの一存在者ではなく、そもそも世界がそのなかで初めて意味をもって構成されてくる、根源的な場そのものとして捉え直されています。この違いを見誤ってしまうと、現象学的還元がもたらす発見の本当の射程を、見失ってしまうことになりかねません。この「絶対的存在」と「相対的存在」との違いこそが、現象学的還元を通じて、純粋意識だけが、他のすべてが括弧に入れられたあとにも、なお特権的な出発点として残される、決定的な理由なのです。

こうして、フッサールの現象学は、この純粋意識という足場のうえに、あらためて出発することになります。しかし、ここで一つ、新たな問いが生まれてきます。この純粋意識のなかで、いったい何が、どのようなしくみで起こっているのか。次章では、この意識の内部の構造そのものへと、いよいよ分析のメスが入れられていくことになります。

第七章 ノエシスとノエマ――意識という構造を、内側から分析する

さて、現象学的還元によって、自然的態度における素朴な存在措定を括弧に入れ、世界がそこにおいて意味を持つに至る場である、純粋意識そのものへと視線を転じたフッサールは、続く第七章において、この純粋意識という領域が、いったいどのような内部構造を持っているのかを、より精密に分析していきます。

ここで導入されるのが、意識の志向的体験そのものに備わる、二重の構造を捉えるための一対の概念、「ノエシス」と「ノエマ」です。ノエシスとは、ギリシア語で思考や知性の働きを意味する言葉に由来し、意識が対象へと向かい、そこに意味を与えていく作用そのもの、いわば意識する働きの側面を指します。

これに対してノエマとは、その作用によって志向された対象が、意味として意識のうちに持たれている相関者、つまり意識される内容の側面を指す言葉です。たとえば、庭にある一本の木を、窓越しにじっと眺めているという場面を考えてみましょう。このとき、木を見つめ、木として意識するという、知覚するという働きそのものがノエシスであり、そのようにして知覚された「木」という意味内容、いわば「あの木として見られているもの」そのものがノエマにあたります。

ここで注目すべきなのは、自然な態度のもとでは、わたしたちは単純に「そこに木がある」と思い込んでいるにすぎませんが、現象学的な視線に立つと、実在するかどうかという問いはひとまず括弧に入れられ、意識にとってどのような意味を伴って木が与えられているか、という点だけが、記述の対象として残される、ということです。フッサールが、志向された対象を語るとき、しばしばこれに鉤括弧をつけて「木」と表記するのも、そのためです。これは、実在する物理的な木そのものではなく、意識のうちで意味として構成された対象、つまりノエマとしての木を指し示すための、いわば記法上の工夫なのです。

フッサールが強調するのは、この両者がまったく異なる位相に属しているということです。ここで彼が持ち出す、たいへん印象的な指摘があります。もし庭のあの木が、実際に雷に打たれて燃え尽きてしまったとしても、先ほどの知覚という体験そのものに含まれていた意味内容、すなわち「燃え尽きる前のあの木が、あのような姿で、あのように知覚されていた」という意味そのものは、燃え尽きたりはしない、というのです。実在する木そのものは物理的な対象であり、雷に打たれれば灰になってしまいますが、知覚という体験のノエマ、つまり「そのように意識されていた」という意味内容は、実在する木の運命とはまったく別の水準にあり、たとえ対象が消滅しようとも、その体験の意味としては、依然として同一のまま保たれ続けるということです。

ここには、実在する対象そのものと、意識がそれについて持っている意味内容とのあいだの、根本的な違いが示されています。さらにフッサールは、このノエマという概念そのものを、もう少し詳しく分析していきます。ノエマの中心には、「対象的意味の核」と呼ばれるものがあります。これは、たとえば「あの木」という同一の対象へと関わる、意味の核となる部分のことです。

ところが、この同じ対象的意味の核は、決してひとつの仕方だけで意識に与えられるわけではありません。あるときはいま目の前で知覚されるという仕方で、あるときは過去に見たものとして想起されるという仕方で、あるときは単に思い描かれるという想像の仕方で、またあるときはこれから起こるだろうと期待されるという仕方で、それぞれ異なる「充実のされ方」、フッサールの言葉で言えば充実の様態を伴いながら、同じひとつの意味の核が、繰り返し意識に与えられてくるのです。知覚された木、想起された木、想像された木、期待された木は、それぞれ充実のされ方こそ違っていても、根っこのところでは同じ対象的意味の核を共有しているからこそ、わたしたちは「それが同じ木についての話だ」と了解できるのだ、というわけです。

しかもこの構造は、単なる知覚に限られるものではありません。何かを判断するとき、何かを喜んだり悲しんだりするとき、何かを望んだり意志したりするときにも、それぞれの作用に応じたノエシスと、それに対応するノエマとが、常に組をなして働いている、とフッサールは考えます。

たとえば「二たす二は四である」という判断についても、そのように判断するという働きがノエシスであり、「二たす二は四である」という判断された事態そのものが、ノエマにあたるというわけです。ここで見落としてはならないのは、同じひとつの対象をめぐって、複数の異なる体験が積み重なっていっても、それらを貫いて「これは同じあの木についての話だ」という同一性の意識が、絶えず働き続けているという点です。庭のあの木を、ある日は正面から、ある日は裏庭に回り込んで別の角度から眺めたとしても、わたしたちはそのつど異なる眺めを、ばらばらの木としてではなく、同一の一本の木のさまざまな現れとして、自然に統一して捉えています。

この背後にも、ノエマの水準における同一性の働きが、静かに機能しているのです。このように、ノエシスとノエマという一対の概念によって、フッサールは意識という働きが、単に対象を受け身に映し出すだけのものではなく、意味を与えつつ、対象へと関わっていくという、能動的で構造化された営みであることを、精緻に描き出してみせたのでした。また、ノエシスとノエマとでは、意識にとっての存在の仕方そのものが異なっている、という点も見落とせません。ノエシスは、体験そのものを実際に組み立てている、いわば体験の実的な構成要素であるのに対して、ノエマは、体験のうちに内属してはいても、そうした実的な構成要素としてではなく、独特な、いわば理念的な仕方で意識に伴われている相関者である、とフッサールは位置づけています。

ノエシスが「体験する働きそのもの」であるとすれば、ノエマは「その働きにおいて捉えられている意味」であり、両者は分かちがたく結びついていながらも、決して同じ存在の仕方をしているわけではないのです。この区別は、単なる意識の解剖図にとどまるものではありません。かつて『論理学研究』において、論理的な意味内容を、それを考える人の心理的な出来事へと解消してしまう心理主義を、フッサールが厳しく退けたことを思い出すなら、ノエマという、体験そのものとは位相を異にする意味内容を、丁寧に取り出してみせるこの議論もまた、そうした立場の延長線上に位置づけることができるでしょう。

なお、このノエマという概念は、フッサール以後の研究者たちのあいだで、長らく解釈をめぐる議論の的にもなってきました。なかには、ノエマを、指し示された対象そのものとは区別される、意味としての側面に注目する点で、論理学者フレーゲが唱えた「意味」と「指示対象」との区別に通じるものとして読み解こうとする立場もあります。もちろん、フッサール自身がフレーゲの区別をそのまま踏襲したわけではありませんが、志向された対象そのものと、それについて意識が抱いている意味内容とを、はっきりと区別しようとする発想そのものは、両者に共通して見て取ることができるでしょう。それでは、この意味を与えるというノエシスの働きそのものは、いったい何から成り立っているのでしょうか。

第八章 ヒュレーとモルフェ――感覚素材が、意味を持つようになるまで

さて、第七章では、ノエシスとノエマという対概念によって、意識の志向的体験が、意味を与える作用の側面と、志向された意味内容の側面という、二つの層に分けて捉えられることを見てきました。しかし、ここでさらに問いを進めることができます。それでは、意味を与えるという、ノエシスの働きそのものは、いったい何から成り立っているのでしょうか。第八章でフッサールが取り組むのは、まさにこの問いであり、ここで導入されるのが、「ヒュレー」と「モルフェ」という、もう一つの区別です。ヒュレーとは、意識にただ感覚として与えられている、いわば生の素材そのもののことを指します。

たとえば、赤という色の単なる染み、あるいは、ある高さの音の単なる響き、指先に感じるちくりとした痛みといった、それ自体としてはまだ何ものかについての経験になっていない、ばらばらの感覚与件のことです。目の前のリンゴを見るという経験を例にとるなら、視野のうちに広がる赤や緑の色合いそのものは、あくまでヒュレー的な与件にすぎません。それだけでは、まだ「リンゴを見ている」という経験にはなっておらず、そこにモルフェによる意味づけが加わってはじめて、その色の広がりは「一個のリンゴ」についての知覚として、立ち現れてくることになるのです。

フッサールはこれを「質料的与件」とも呼んでいます。これに対してモルフェとは、そうした感覚与件に意味を与え、それを何かについての経験として組み立てていく、志向的な形式づけの働きのことを指します。フッサールはこれを「形相付与的な形式」と呼びました。この働きは、しばしば「統握」とも呼ばれ、ばらばらのヒュレー的な与件を、ひとつのまとまりとして掴み取り、それを何ものかについての経験として解釈していく働きだと説明されます。同じ痛みの感覚を例にとるなら、指先にちくりとした感覚が生じたというだけでは、それはまだ単なるヒュレー的な与件にすぎませんが、そこに「指を紙で切ってしまった」という意味づけが加わることで、はじめてそれは、特定の原因や状況と結びついた、ひとつのまとまった経験として立ち現れてくることになります。

この「ヒュレー」と「モルフェ」という一対の言葉、そしてそこに込められた質料と形相という発想そのものは、実はフッサールがまったくのゼロから作り出したものではありません。古代ギリシアの哲学者アリストテレスが、あらゆる事物を、それを構成する材料としての「質料」と、その材料に一定のまとまりや姿を与える「形相」との組み合わせとして説明した、質料形相論という枠組みがもとになっています。

たとえば、一本の木の彫像は、木材という質料と、彫刻家によって与えられた人の姿という形相との結合として理解できる、というのがアリストテレス流の考え方でした。フッサールは、この質料と形相という枠組みを、外部にある事物の分析にではなく、意識そのものの内部構造の分析へと、大胆に転用してみせたのです。単なる感覚与件、すなわちヒュレーだけがそこにあるという状態では、意識はまだ何ものについての経験にもなっていません。色の染みや音の響きが、ただそこにあるだけでは、それは机についての経験でも、音楽についての経験でもなく、いわば意味を欠いた、無方向な素材の集まりにすぎないのです。

ところが、そこにモルフェという志向的な形式づけがはたらきかけることによって、初めてその素材のまとまりは、「これは机についての経験だ」「これは音楽についての経験だ」というように、特定の対象へと関わる、意味を持った経験として立ち現れてくることになります。興味深いのは、原理的には同じヒュレー的な与件であっても、モルフェによる統握のされ方が変われば、まったく異なる対象についての経験として立ち現れうる、という点です。錯覚や見間違いといった現象も、この観点から言えば、感覚として与えられている素材そのものは同じでありながら、それを統握し意味づける仕方が、実際の状況とは食い違ってしまっている場合として理解することができます。

ここでもう一つ押さえておきたいのは、ヒュレー的な与件は、それ自体としては何ものかに向かうという性格、すなわち志向性を欠いている、という点です。色の染みや音の響きは、いくらそこにあっても、それだけでは何かについての経験にはなりません。志向性を担っているのは、あくまでモルフェの側であり、フッサールはこの働きを、しばしば「息を吹き込む」という意味合いを込めて、ヒュレー的な素材を生き生きとした経験へと活気づけていく働きだと表現しています。

つまり、それ自体は志向性を持たない、いわば意味を欠いた素材の層と、そこに意味と方向とを吹き込んでいく、志向性そのものを担う層とが、分かちがたく組み合わさることによってはじめて、ひとつの完結した志向的体験が成り立つ、というわけです。ヒュレーが意識にとっての、いわば受け取られる材料の側面であるとすれば、モルフェは、その材料を組織し、方向づけ、意味を与えていく、意識の側からの能動的な働きの側面である、と言うことができるでしょう。

たとえば、いくつもの音の響きが、ばらばらの音の連なりとしてではなく、ひとつのまとまりを持った旋律として聞こえてくるという場面も、この観点から捉え直すことができます。個々の音そのものはヒュレー的な与件にすぎませんが、そこにモルフェによる統握がはたらくことによって、はじめてそれは「ひとつの曲」として、意味をもって経験されることになるのです。

もっとも、こうしたヒュレーとモルフェの区別、とりわけ、いかなる意味づけも受け取っていない、まったく無方向な純粋のヒュレーというものが、果たしてそれ自体として実際に取り出せるのかという点をめぐっては、フッサール以後の現象学者たちのあいだでも、なお活発な議論が続けられていくことになります。

とはいえ、感覚として与えられる素材の層と、それに意味を与える志向的な働きの層とを、区別して捉えようとするこの発想そのものは、この後に続く、意識のさらに立ち入った分析全体を支える、重要な足場になっていきます。また、この区別によって、単純な知覚だけでなく、いくつもの経験を積み重ねたうえで成り立つ、より複雑な判断や思考についても、同じ質料と形相という枠組みを、繰り返し当てはめて分析していくことができるようになります。素朴に見れば一続きの体験でしかないものが、実はこのように、感覚として与えられる層と、それに意味を与える層という、幾重にも積み重なった構造を持っている、という見通しこそが、フッサールの意識分析に、独特の奥行きを与えているのです。

こうして意識という営みは、単なる感覚の寄せ集めではなく、質料と形相とが分かちがたく結びついた、重層的な構造を持つものとして、フッサールによって描き出されていくことになります。それでは、こうして個々の具体的な体験のうちに見出される構造の分析を踏まえたうえで、フッサールは次に、どのようにして、こうした個別の事例を超えた、普遍的な本質そのものへと迫っていこうとするのでしょうか。

第九章 本質直観と自由変更――個別の事例から、普遍的な本質へ

さて、第八章では、意識の志向的体験が、ヒュレーという感覚素材と、モルフェという志向的な形式づけとの結合として成り立っていることを見てきました。しかし、ここまでの分析は、いずれも、ある特定の、いま・ここで生じている具体的な体験を対象にした分析でした。第九章でフッサールが取り組むのは、こうした個別的・偶然的な事実についての考察を離れ、そうした事実に共通して見出される、普遍的で必然的な本質、すなわち「エイドス」そのものへと向かうための方法です。

このために導入されるのが、現象学的還元とはまた別の、もう一つの還元、「形相的還元」、あるいは「本質還元」と呼ばれる手続きです。現象学的還元が、世界の実在についての素朴な信念を括弧に入れる手続きであったのに対し、形相的還元は、目の前にある個々の事実的な事例を、あくまで本質を取り出すための単なる手がかり、いわば例にすぎないものとして扱い、その事例が偶然にどのような性質を持っているかという点にはこだわらず、そこに必然的に含まれている普遍的な構造だけを、取り出そうとする手続きです。

そして、この本質を実際に把握するための具体的な方法として、フッサールが提示するのが、「本質直観」、ドイツ語でヴェーゼンスシャウと呼ばれる方法です。なお、この自由変更という手続きは、後年の著作である『経験と判断』において、さらに体系的かつ詳細に展開されていくことになりますが、その原型となる発想は、すでにこの『イデーンI』の議論のうちに、はっきりと見て取ることができます。その手続きの核心にあるのが、「自由変更」、ドイツ語でフライエ・ヴァリアツィオーンと呼ばれる、想像力を用いた手続きです。これは、まず一つの具体的な事例から出発し、その事例に対して、想像力によって、思いつく限りのさまざまな変更を、自由に加え続けていくという方法です。

ここで重要なのは、実際に知覚できる事例だけにとどまらず、むしろ想像力によって、現実には存在しないような事例まで、際限なく思い描いていくことができる、という点です。現実の知覚は、いま目の前にあるものにしか及びませんが、想像力は、そうした制約から自由であるからこそ、ひとつの事例をめぐる可能性の全体を、余すところなく汲み尽くしていくことができるのだ、とフッサールは考えます。

たとえば、三角形という図形の本質を捉えようとする場面を考えてみましょう。このとき重要なのは、いま紙の上に描かれている、この特定の一つの三角形そのものではありません。この三角形の辺の長さを、想像のなかで自由に伸ばしたり縮めたりしてみる、角度を鋭くしたり鈍くしてみる、正三角形にしてみたり、極端に細長い三角形にしてみたりと、思いつく限りのさまざまな変更を、想像力のなかで、際限なく加え続けていくのです。もし、この変更をさらに推し進めて、直線をもう一本つけ加え、四本の辺を持つ図形にしてしまったなら、それはもはや三角形ではなく、四角形になってしまいます。

このように、どこまで変更を許せばなお三角形でありつづけ、どこを越えれば三角形ではなくなってしまうのか、その境界を探り当てていく過程そのものが、本質を浮かび上がらせる手がかりになります。ここで注意したいのは、次々と思い描かれていくこれらの変項が、たがいにばらばらな、無関係な像として並んでいるのではない、という点です。むしろそれらは、たがいに重なり合いながら、ひとつの連続した系列として意識されており、その重なり合いを通じて、変わらずに保たれ続ける部分が、おのずと際立ってくるのです。

そうした無数の変更をどれだけ加えていっても、なお決して失われることなく、変わらずに保たれ続ける、ある不変の核が、おのずと浮かび上がってきます。それが、「閉じた三つの直線によって囲まれた図形である」という、三角形という図形にとっての本質そのものです。この不変の核を、変更の過程を通じて、いわば直観的に、ひとつのまとまりとして掴み取ること、これが本質直観という方法の中身です。

ここでフッサールが強調しているのは、この本質直観という方法が、単なる帰納的な一般化とは、根本的に性格を異にしているという点です。帰納的な一般化とは、多くの事例を実際に集めてきて、そのあいだに共通して見られる性質を数え上げていくという作業ですが、本質直観はこれとは違い、たとえ一つしか事例がなくとも、その一つの事例に対して自由変更を加えていくだけで、原理的には本質そのものを洞察することができる、とフッサールは主張するのです。事例の数を増やすことよりも、一つの適切な事例をめぐって、変更の可能性を徹底的に汲み尽くしていくことのほうが、本質を捉えるうえでは、はるかに本質的だというわけです。

さらにフッサールは、こうして捉えられる本質そのものが、単なる思いつきや取り決めではなく、感覚的な知覚と同じように、ある種の直観として、いわばそれ自体で「与えられて」くるのだと考えます。もちろん、三角形の本質を見て取ることと、目の前のリンゴの赤さを見て取ることとは、決して同じ種類の直観ではありません。

しかし、どちらの場合にも、対象がただ思い描かれているだけでなく、それ自体として明証的に捉えられているという点では、共通しているのだ、というのがフッサールの立場です。この本質直観という方法は、幾何学における三角形や円といった図形の本質だけに限られるものではありません。むしろフッサールがこの方法によって最終的に見定めようとしているのは、意識そのもの、すなわち知覚したり、想起したり、判断したりするという、志向的体験そのものの本質です。個々の偶然的な心理的出来事としてではなく、意識という営みそのものに必然的に属している構造を、この本質直観という方法によって取り出すこと、それこそが、現象学を単なる経験的な心理学から区別し、純粋な意識の本質を扱う「本質学」として成り立たせるための、方法論的な土台になっているのです。

実際フッサールは、経験的・偶然的な事実だけを扱う「事実学」と、そうした事実の背後にある必然的な本質だけを扱う「本質学」とを、厳密に区別すべきだと考えていました。幾何学が、個々の紙に描かれた図形についての学問ではなく、図形一般の本質についての学問であるように、フッサールが目指す現象学もまた、この特定の誰かのこの特定の体験についての心理学的な報告ではなく、意識という営みそのものに必然的に属している本質構造を明らかにする、本質学でなければならない、というわけです。

こうして、個々の事実を超えた普遍的な本質を掴み取るための方法を手にしたフッサールは、続く第十章において、いよいよこの方法を武器として、物理的な事物や、生きた身体、あるいは価値や人格といった、それぞれに異なる対象の領域が、それぞれどのような固有の本質構造を持っているのかという、より具体的な探求へと、歩みを進めていくことになります。

第十章 領域的存在論――「意識」という領域、「自然」という領域

前回は、本質直観と自由変更という方法を見てきました。ある一つの具体例を思い浮かべ、それを想像のなかで際限なく変形させていくことで、どれだけ姿を変えても崩れずに残る、その事象にとって欠くことのできない核、すなわち本質を取り出す、という手続きでしたね。今回は、この「本質」という考え方を手がかりに、『イデーン』第十章が扱う、もう一つの重要な区別——「形式的存在論」と「質料的存在論」、すなわち「領域的存在論」と呼ばれる区別——に踏み込んでいきます。

まず「形式的存在論」から確認しましょう。これは、対象が具体的に何であるかにはいっさいかかわりなく、およそ「対象である」限りのあらゆるものに当てはまる、きわめて一般的な枠組みを扱う領域です。「何か」「性質」「関係」「全体と部分」「多と一」「根拠と帰結」といった、いわば対象一般のための、空っぽの容器のようなカテゴリー。これらは、中身がリンゴであろうと三角形であろうと感情であろうと、区別なく成り立つ、いわば書類のフォーマットのようなものです。契約書であろうと手紙であろうと、同じ罫線と余白の枠組みのなかに収まるように、あらゆる対象は、この形式的なカテゴリーのなかに収まります。

これに対して「質料的存在論」、フッサールが「領域的存在論」とも呼ぶものは、まったく違う仕事をします。こちらは、対象一般についての空っぽの形式ではなく、「この種類の対象には、内容として、これこれの本質が必ず伴う」という、内容に踏み込んだ本質の体系を扱います。たとえば「物理的な事物」という領域には、「空間のなかに広がりを持つ」「時間のなかで持続する」「つねにある一つの側面、ある一つの射映としてしか与えられない」といった、事物であることに固有の本質が伴います。

これに対して「意識」という領域には、これとはまったく異なる、「つねに何ものかについての意識である」という志向性の構造が、本質として伴います。存在領域が変われば、そこで成り立つ本質の体系もまるごと変わる。この、領域ごとに固有の本質を明らかにしていく作業こそが、領域的存在論です。

じつはフッサールは、この領域的存在論という発想を説明するのに、幾何学という、身近な学問を例に挙げています。幾何学は、「空間的な事物」という領域について、点や線や図形が、どのような本質的な関係を取り結ぶかを、厳密に体系化した学問です。フッサールは、これと同じことを、「意識」という領域についても行いたいと考えています。

つまり、幾何学が空間的事物の領域にとっての本質学であるように、現象学もまた、意識という領域にとっての本質学、いわば「意識の幾何学」を打ち立てることを目指しているのです。この目標を正しく理解するためにこそ、意識という領域が、自然という領域とはまったく異なる存在様式を持つのだ、という本章の主張が、決定的に重要になってきます。そして本章でフッサールが繰り返し強調するのが、「意識」という領域と「自然」という領域——物理的な事物からなる領域——とのあいだにある、根本的な存在様式の違いです。これは、これまでの回で見てきた、絶対的存在と相対的存在という区別と、じつは同じことの言い換えにほかなりません。物理的な事物は、つねにある一つの側面、ある一つの射映としてしか与えられず、しかもその存在は、それを知覚する意識があって初めて意味を持つ、いわば意識に対して相対的な存在でした。

机を眺めるとき、私たちはつねに机のある一面しか見ておらず、裏側や内部は、つねに「まだ見られていないもの」として想定されているにすぎません。これに対して意識そのものは、みずからを外から眺めるのではなく、体験しつつあるその現場で、みずからにとって疑いえない仕方で与えられている、絶対的な存在でした。怒りを感じているまさにそのとき、私はその怒りの一面だけを見ているのではなく、怒りそのものを、いわば内側から丸ごと生きています。物理的な事物の領域と、意識という領域とは、単に扱う対象の種類が違うという程度の話ではなく、そもそも存在するとはどういうことかという、存在の仕方そのものが違う、二つのまったく異なる世界だというのが、フッサールの見立てです。

この区別を踏まえたうえで、フッサールが本章で厳しく批判の矛先を向けるのが、当時の心理学のあり方です。十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて勃興しつつあった実験心理学、そして自然主義的な心理学は、意識という現象を、物理的な事物とまったく同じ方法——外側から観察し、数量として測定し、他の事物と同じ因果法則のなかに組み込んで説明するという、自然科学の方法——で研究しようとしていました。

しかしフッサールに言わせれば、これは領域の違いを見落とした、根本的な誤りにほかなりません。意識は、物理的な事物のように、外側からある一つの視点で観察し、繰り返し測定し、他の事物と同じ因果の網の目のなかに組み込んで説明し尽くせるような存在ではないのです。意識は、体験する当人にとって、まさにいま生きられているという、絶対的な与えられ方でしか近づくことのできない領域です。自然科学の方法をそのまま意識に持ち込む心理学は、意識という存在領域そのものを、いわば別の領域のための物差しで測ろうとする、いわばカテゴリーの取り違えを犯している——これが、フッサールの根本的な批判です。

この批判は、フッサールにとって、けっして今回はじめて出てきた話ではありません。すでに一九〇〇年から一九〇一年にかけて刊行された初期の主著『論理学研究』のなかで、フッサールは、論理法則までも心理の働きの一種に還元してしまおうとする「心理学主義」という立場を、徹底的に批判していました。

ちなみに、フッサールの師であったブレンターノは、これに先立って「記述的心理学」という構想を掲げ、意識をその内側から記述しようとする試みの先駆けとなっていました。しかしフッサールから見れば、ブレンターノの試みも、意識という領域固有の存在論的な身分を、最後まで徹底して自然の領域から切り離しきれてはいませんでした。今回の自然主義批判は、この初期の批判を、意識そのものの存在論という、より根本的な次元にまで押し広げたものだと言えるでしょう。

この批判は、のちに「自然主義批判」として、フッサール現象学全体を貫く重要なモチーフになっていきます。意識を、脳内の神経活動や、外から観察できる行動として説明し尽くそうとする立場に対して、フッサールは、意識にはそれに固有の、内側から記述されるべき本質があり、それを見失ってはならないと訴え続けました。そして、この「意識を、その内側から、その固有の与えられ方に即して、ありのままに記述する」という要求こそが、次回扱う、『イデーン』のなかでもとりわけ有名な一節、「あらゆる原理の原理」と呼ばれる、現象学の方法論的な核心へと、私たちを導いていくことになります。

第十一章 「あらゆる原理の原理」――現象学の認識論的な土台

前回は、意識という領域と、自然という領域とが、根本的に異なる存在様式を持つこと、そしてこの違いを見落とした自然主義的な心理学に対する、フッサールの批判を見てきました。では、意識という、この独特な領域に近づくために、現象学はいったいどのような方法上の指針を掲げるのでしょうか。今回は、『イデーン』第一巻第二十四節に置かれた、フッサール哲学のなかでもとりわけ有名な一節、「あらゆる原理の原理」、ドイツ語で「プリンツィプ・アラー・プリンツィピエン」と呼ばれる原則を見ていきます。

この原則を、フッサール自身の言葉に近いかたちで言い換えると、次のようになります。「原本的に与える直観こそが、あらゆる認識にとっての、正当な権利の源泉である」。もう少し噛み砕くと、こういうことです。ある事柄が、まさにそれ自身として、生き生きと、いわば「本人みずから」の姿で、私たちの直観のうちに現れているとき、私たちは、その現れているとおりのものを、そのまま受け取り、記述しなければならない。ただし、それが現れている、まさにその範囲内でのみ、という条件つきで。

この「原本的に与える直観」という言葉が、少しわかりにくいかもしれません。これは、伝聞や推測、あるいは以前読んだ本の知識から思い浮かべたイメージではなく、いままさに、自分自身の目の前に、そのものずばりが現れている、という与えられ方を指しています。目の前のコーヒーカップを実際に見ているときの経験は、原本的な直観です。

これに対して、誰かから聞いた話や、写真で見ただけの記憶は、原本的な直観ではありません。ここで見落としてはならないのは、この「直観」という言葉が、単なる感覚的な知覚だけを指しているのではない、という点です。フッサールは、すでに初期の『論理学研究』のなかで、「カテゴリー的直観」という考え方を打ち出していました。目の前の赤いリンゴを見るという知覚だけでなく、これまで見てきた本質直観、すなわち、個別の事例から普遍的な本質を直接に見て取る働きもまた、一つの「直観」として認められます。

つまり、あらゆる原理の原理が求めているのは、感覚的な知覚に限られた、狭い意味での経験主義ではありません。かといって、感覚から切り離された概念だけをもとに、論理的に体系を組み立てていく、狭い意味での合理主義でもありません。フッサールが目指すのは、感覚的な知覚と、本質を捉える直観との両方を含んだ、広い意味での「直観」に基づく学問です。なぜこれが「あらゆる原理の原理」、つまり、あらゆる原則のなかの、いちばん土台となる原則と呼ばれるのでしょうか。それは、この原則が、他のどんな理論や既成の体系よりも先に立つ、いわば認識の出発点そのものを定めているからです。

フッサールはこの節で、きわめて強い調子で、こう述べています。どれほど巧妙な理論であっても、この原理そのものを揺るがすことはできない、と。つまり、たとえどんなに立派な哲学体系や科学理論であっても、それが「いま、まさに与えられていること」そのものと矛盾するなら、その理論のほうが誤っているのであって、与えられていることのほうを疑うべきではない、というわけです。これは、ちょうど、どれほど精巧な地図であっても、実際に足を運んで目にした景色のほうが優先されるべきだ、という発想に近いかもしれません。地図が間違っていれば、地図を描き直すべきであって、実際に見えている景色を、地図に合わせて疑うべきではない。

フッサールにとって、直観において与えられていることは、それくらい確固とした、認識の出発点なのです。この原則の背景には、フッサールがそれ以前から抱き続けていた、大きな野心があります。一九一一年に発表された論文「厳密な学としての哲学」のなかで、フッサールは、それまでの哲学が、しばしば個々の哲学者の直観や体系への信仰に頼りすぎており、数学や自然科学のような、誰もが検証できる厳密さを欠いていると批判していました。あらゆる原理の原理は、この「哲学を厳密な学問にする」という野心を、具体的な方法として結実させたものだと言えます。誰の目にも、原本的な直観として与えられていることだけを手がかりにすれば、恣意的な思い込みに頼ることなく、誰もが検証可能な仕方で、事象を記述していくことができるはずだ、というわけです。

この原則が担っている役割は、いわば現象学という営み全体を支える、憲法のようなものだと言えるでしょう。現象学は、伝統的な哲学体系や、当時流行していた自然科学の理論、あるいは常識的な思い込みといった、あらかじめ出来上がった枠組みを、事柄を見る前から当てはめることを固く禁じます。そうではなく、まず事柄そのものへと立ち返り、それがまさにどのように現れているか、その現れ方そのものに忠実であること。これこそが、フッサールが繰り返し掲げるスローガン、「事象そのものへ」ということの、具体的な中身にほかなりません。何かについて語るとき、私たちはしばしば、無意識のうちに、伝統的な理論や、聞きかじった学説、あるいは自分の思い込みを、事柄そのものより先に持ち込んでしまいます。

しかし現象学は、そうした先入見をいったんすべて脇に置き、いま目の前に現れているものだけを手がかりに、記述を組み立てていくことを要求するのです。もちろん、ここで重要な限定も付け加えられています。原則の後半にある「ただし、それが現れている範囲内でのみ」という一節です。直観に現れていることを、そのまま超えて、勝手にあれこれ付け加えてはならない。

たとえば、目の前のリンゴの、いま見えている面から、見えていない裏側の色や形について、根拠なく断定することは許されません。与えられている限りで受け取り、与えられていない部分については、与えられていないとはっきり認める。この慎み深さもまた、あらゆる原理の原理が要求する、重要な態度なのです。

たとえば、以前学んだ理論に照らして「これはこうであるはずだ」と決めてかかることも、あらゆる原理の原理が戒める態度の一つです。理論はあくまで、直観によって裏づけられて初めて正当化されるのであって、理論が直観に優先することは、決してありません。このように、「あらゆる原理の原理」は、あらゆる先入見・既成の理論・伝統的な哲学体系を排し、事象がまさに現れている、その現れ方に忠実であろうとする、現象学という方法全体を支える土台です。

そして、この原則が、単なる知覚だけでなく、これまで見てきた本質直観や、意識という領域そのものの記述にも、等しく当てはまることは、言うまでもありません。では、この原則にしたがって、意識をその内側から記述していくとき、私たちは、あらゆる体験の奥に、いったい何を見出すことになるのでしょうか。次回は、あらゆる志向的体験に、つねに寄り添っているとされる、もう一つの重要な契機、「純粋自我」について見ていきます。

第十二章 超越論的自我――志向的体験に伴う、もう一つの極

前回は、『イデーン』のなかでもとりわけ有名な一節、「あらゆる原理の原理」を見てきました。原本的に与えられている直観に忠実に、そのまま記述していくこと。これが、現象学という方法全体を支える土台でした。今回は、この原則にしたがって、志向的体験をその内側から見つめ直したとき、フッサールが新たに見出すことになる、もう一つの重要な契機、「純粋自我」、ドイツ語で「ラインエス・イッヒ」と呼ばれるものを見ていきます。これまで私たちは、志向的体験の構造を、ノエシスとノエマという対概念を中心に見てきました。何かについての意識という働き(ノエシス)と、その働きによって捉えられた、意味としての対象(ノエマ)。

たとえば「机を知覚する」という体験ならば、知覚するという働きがノエシス、知覚された机という意味内容がノエマでした。ところがフッサールは『イデーン』第十二章で、この、体験の内容そのものの分析だけでは汲み尽くせない、もう一つの契機があることに気づきます。それが、あらゆる志向的体験に、つねに伴っているとされる、純粋自我です。どういうことでしょうか。私が机の上のペンを見ているとき、ペンを見るという体験の内容そのものとは別に、この体験は、つねに「わたしから」発し、「わたしへと」関わってくる、という構造を持っています。見る、思い出す、期待する、判断する、喜ぶ——これらすべての体験は、内容としてはまったく異なりますが、共通して、つねに一つの同じ極から発している。

この、あらゆる体験がそこから発し、そこへと関わっていく、いわば体験の「極」としての自我こそが、純粋自我です。ここで大切なのは、この純粋自我を、体験の内容の一部だと考えてはいけない、ということです。純粋自我それ自体は、色を持ったり、形を持ったり、記憶や性格を持ったりする、体験のなかみのようなものではありません。フッサールは、この体験の極としての自我を、しばしば「自我極」と呼び、これに対応するかたちで、志向された対象の側にも「対象極」があると考えます。あらゆる志向的体験は、いわば、自我極から対象極へと向かう、一つの光線のようなものだ、とイメージすると分かりやすいかもしれません。

さらに興味深いのは、これまでの回で見てきた、現象学的還元やエポケーという手続きを、どこまでも徹底して押し進めていっても、この純粋自我だけは、最後まで消え去らずに残る、という点です。世界の実在性についての判断も、日常のさまざまな思い込みも、いったんすべて括弧に入れてしまうエポケーのあとに、なお消えずに残る、いわば最後の残余こそが、この純粋自我にほかなりません。それは、たとえるなら、扇のかなめのようなものです。扇のかなめそのものは、扇の紙の部分に描かれた模様の一部ではありませんが、扇のすべての骨は、そのかなめから放射状に広がっています。同じように、純粋自我は、体験の内容そのものではありませんが、あらゆる体験は、その極から放射状に発しているのです。

フッサール自身は、この純粋自我のありようを、「内在のうちにありながら、内在を超え出ている」という、少し逆説的な言い方で表現しています。つまり、純粋自我は、意識という内在の領域のなかで働いているにもかかわらず、体験の一部として、意識の内容に溶け込んでしまうことがない、というわけです。

ここで、はっきり区別しておかなければならないのが、この純粋自我と、私たちが日常的に「わたし」と呼んでいるもの、すなわち経験的自我、あるいは心理学的な自我との違いです。経験的自我とは、性格や記憶、習慣、これまでの人生で積み重ねてきた経験、好き嫌いといった、いわば人格としての、具体的な内容を備えた自己のことです。今日は機嫌が悪い、子どものころから人見知りだった、といった、あれこれの性質を担っているのが、経験的自我です。

これに対して純粋自我は、そうした性格や記憶といった、いっさいの具体的な内容を欠いた、いわば体験の極という機能だけを担っています。極端に言えば、たとえ性格や記憶がまったく別のものだったとしても、あらゆる体験がそこから発するという、その極としての働きそのものは、変わらず成り立っている。この、内容を欠いた、純粋に機能的な自我こそが、フッサールの言う純粋自我なのです。たとえて言うなら、舞台の上でさまざまな役を演じる、一人の俳優のようなものです。今日はこういう性格の役を演じ、明日はまったく違う性格の役を演じたとしても、舞台に立ち、演技をしているのは、つねに同じ一人の俳優です。経験的自我が、そのつど背負っている性格や役柄だとすれば、純粋自我は、その役柄を演じている、根源的な演じ手の位置に当たります。

ただし、この喩えには限界もあります。俳優には、舞台を降りたあとの、素顔の自分という、もう一つの経験的な人格がありますが、純粋自我には、そうした「舞台の外側」に当たるものが、そもそも存在しません。純粋自我は、あらゆる体験の内側においてのみ、その働きを果たす、極限まで切り詰められた機能なのです。

さて、この純粋自我という契機の導入は、じつはフッサールの現象学にとって、決定的な意味を持つ一歩でした。あらゆる志向的体験が、つねに一つの自我という極に関わっているのだとすれば、世界のあらゆる意味や存在は、つきつめれば、この自我という極において、あるいはこの自我の働きを通して、初めて構成されている、という考え方に近づいていきます。これは、世界がまずあって、そこに自我が付け加わる、という素朴な見方とは、正反対の方向です。むしろ、自我の側にこそ、世界のあらゆる意味を成り立たせる、根源的な働きがある、という見方です。

たとえば、紙の上のインクのしみを、単なる染みとしてではなく、「文字」として、意味を持つものとして読み取るとき、そこには、意識の側からの、能動的な意味づけの働きが介在しています。フッサールが「構成する」と呼ぶのは、こうした、意識の側が対象に意味を与えていく働きのことです。こうした発想は、のちに「超越論的観念論」と呼ばれる立場へと、フッサールを次第に導いていくことになります。そしてこの立場は、フッサール自身の弟子たちのあいだでも、大きな論争を呼び起こすことになるのですが、それはまた後の章で、あらためて詳しく取り上げることにしましょう。

こうして純粋自我という、体験の極を見出したフッサールですが、当然ここで、次のような疑問が浮かんできます。わたしという自我が、体験の極として存在するのだとすれば、わたし以外の他者、わたしとは異なる、もう一つの自我は、いったいどのようにして、わたしにとって意味を持つ存在として現れてくるのでしょうか。次回は、この「他者」という、現象学にとって避けて通れない大きな難問へと、話を進めていきます。

第十三章 他者問題と間主観性――独我論という影

前回まで、わたしたちは、フッサールが到達した「超越論的自我」という、世界のあらゆる意味づけの、いわば最終審級ともいうべき、純粋意識の働きについて、じっくりと見てきました。ですが、ここで、どうしても避けて通れない、大きな困難が一つ、姿を現してきます。それは、すべての意味づけの出発点を、この「わたし」という、たった一つの、純粋な意識に置いてしまったとき、そもそも「わたし以外の心」というものは、いったいどうやって、この現象学の枠組みの中に、その居場所を見出すことができるのか、という問いです。これは、哲学の歴史において、古くから繰り返し問われてきた、「独我論」(ソリプシズム)と呼ばれる疑いにほかなりません。

少し考えてみますと、これは、なかなか厄介な問題であることが分かります。わたし自身の喜びや悲しみ、痛みや思考といった体験は、わたしにとって、直接に、生き生きと与えられています。ところが、目の前にいる、他者の喜びや悲しみは、決して、わたし自身の体験として、直接に与えられることはありません。わたしに与えられているのは、あくまで、他者の身体の、表情やしぐさ、声のトーンといった、外側から観察できるものだけです。他者の「心」そのものは、いつまでも、わたしにとって、直接には近づくことのできない、いわば閉ざされた領域として、とどまり続けることになります。『イデーン』第一巻の段階では、フッサールは、この独我論の問題を、正面から本格的に論じているわけではありません。

この書物の主な狙いは、あくまで、純粋意識という新しい研究領域を、方法論的に、きちんと確保することにあったからです。しかし、フッサール自身は、この困難の重さを、決して軽く見ていたわけではありませんでした。むしろ、この問題は、その後、フッサールの思索に、長く重くのしかかり続けることになります。この独我論の疑いに対して、フッサールが、正面から取り組んだ成果が、ずっとのちの1931年に公刊されることになる、『デカルト的省察』という書物です。もともとは、1929年に、パリのソルボンヌ大学でおこなった連続講演がもとになっており、その第五省察と呼ばれる部分で、フッサールは、他者の経験がどのようにして成立するのかを、詳しく分析しています。

フッサールがここで用いる、鍵となる概念が、「対化」(パアルング)と、「感情移入」(アインフュールング)という、二つの言葉です。まず、フッサールは、いったん、他者にかかわるすべての意味づけを、方法的に、かっこに入れてしまいます。他者が作った文化や、他者から教わった言葉、他者の存在を前提とするあらゆる意味を、いったん脇に置いてしまうと、最後に残るのは、わたし自身の身体、すなわち「生きられた身体」を中心とする、いわば原初的な領域だけになります。これは、いわば、この世界からわたし以外のあらゆる人間を取り去ってしまったとき、それでも、わたしにとって、なお残り続けるものは何か、を問うような作業だと考えると、分かりやすいかもしれません。

フッサールは、この、ぎりぎりまで切り詰められた領域から、あらためて、議論を組み立て直していくのです。わたしは、自分自身の身体を、あらゆる知覚や運動の、ゼロ地点として経験しています。そこに、わたしの身体と、よく似た、しかし、わたし自身のものではない、別の身体が、視界の中に現れてくる。この、二つの身体のあいだに、いわば受動的に成立してくる、類似にもとづく結びつきのことを、フッサールは、「対化」と呼びました。

この「対化」が起きると、わたしは、目の前の、その身体を、単なる物体としてではなく、わたし自身の身体との類比によって、そこにもまた、内側から世界を経験している、もう一つの主観が宿っているものとして、経験するようになります。これが、「感情移入」と呼ばれるはたらきです。

ここで、フッサールは、一つの分かりやすい比較を持ち出します。わたしたちは、目の前にあるサイコロを見るとき、その手前の面しか、直接には見ていません。裏側の面は、直接に見えているわけではないのに、わたしたちは、それが確かにそこにある、ということを、当然のこととして、共に思い浮かべています。フッサールは、これを「付帯的呈示」(アプレゼンテーション)と呼びました。他者の心についても、これと似たことが起きている、というのが、フッサールの見立てです。他者の身体という、直接に見える面の背後に、わたしには決して直接に見ることのできない、もう一つの内面が、確かに「共にある」ものとして、示し与えられている、というわけです。

他者の体験そのものを、わたしが、直接に体験することは、決してできません。しかし、他者の身体を通して、もう一つの主観が、そこに「共にある」ことは、たしかに、示し与えられているのだ、というのが、フッサールの答えだったのです。さらに、フッサールは、ここからもう一歩、話を先に進めていきます。『デカルト的省察』の中で、フッサールは、超越論的自我のことを、十七世紀の哲学者ライプニッツから借りてきた言葉を用いて、「モナド」と呼ぶことがあります。感情移入によって、わたしのほかにも、それぞれが世界を経験している、たくさんのモナドが存在することが分かってくると、そこから先は、わたしのモナドと、他者たちのモナドとが、互いに調和しながら、同じ一つの世界を、共に経験しているという、いわば「モナドの共同体」が成り立ってくることになります。

目の前にある、この机や、この部屋が、わたしだけに現れている、主観的な思い込みではなく、誰にとっても共通に存在する、客観的な世界の一部として経験されるようになるのは、まさに、複数のモナドたちが、互いの経験を調和させ合いながら、一つの世界を共に構成していく、この間主観的な働きのおかげなのだ、とフッサールは考えたのです。

もっとも、この答えが、独我論の疑いを、完全に払拭できたかどうかについては、のちの哲学者たちのあいだで、今も議論が続いています。結局のところ、他者の経験は、あくまで、わたし自身の原初的な領域から出発して、類比的に構成されるものにすぎないのではないか、そうであるとすれば、本当の意味で、わたしとは根本的に異なる「他者」に、たどり着けているといえるのだろうか——そうした批判は、根強く存在し続けています。実際、この他者問題は、フッサール自身が認めていたとおり、現象学全体のなかでも、指折りの難所であり続けました。純粋意識というたった一つの出発点から、いかにして他者へと橋を架けるか、という課題は、フッサールが、生涯をかけて格闘し続けた、大きな宿題の一つでした。

そして、実は、この「生涯をかけて格闘し続けた」という姿勢そのものが、次にお話しする、『イデーン』という書物の、意外な運命と、深くかかわってくることになるのです。

第十四章 なぜ『イデーン』は「第一巻」で終わったのか――生涯続いた未完の書き直し

前のパートでお話ししたとおり、フッサールは、独我論という難問一つを取ってみても、生涯にわたって、考え直しを続けた哲学者でした。そして、この「考え直し続ける」という姿勢は、実は、『イデーン』という書物、その成立の経緯そのものにも、色濃く刻み込まれています。意外に知られていないことですが、『イデーン』は、もともと、フッサールの構想の中では、第一巻だけで完結する書物ではありませんでした。当初の計画では、この書物は、全体で三部から成る、大部の三部作として構想されていたのです。

ところが、実際に、フッサールが生きているあいだに公刊されたのは、1913年に世に出た、この第一巻だけでした。では、残る第二巻・第三巻の原稿は、いったいどうなったのでしょうか。実は、フッサールは、第一巻を書き上げた、まさにその直後から、驚くほどの速さで、第二巻にあたる草稿を書き進めていました。

しかし、フッサールは、この草稿に、なかなか満足することができませんでした。まず、当時、若い弟子であった、エディット・シュタインが、フッサールの、判読の難しい速記文字で書かれた草稿を、清書し直すという地道な作業を引き受けます。その後も、別の弟子であったラントグレーベが、1920年代なかばに、あらためて草稿に手を入れ、さらにフッサール自身も、1920年代の終わりに、もう一度、この原稿に目を通しています。これほど、何度も、何人もの手を経ながら書き直され続けた背景には、扱っている主題そのものの難しさもありました。第一巻が、もっぱら、純粋意識そのものの構造を、方法論的に明らかにすることに集中していたのに対し、第二巻では、自然科学が対象とする物体としての自然、身体を備えた生きた人間、そして、人と人とが織りなす社会や文化の世界へと、考察の範囲を大きく広げていく必要がありました。

純粋意識という一点から出発した理論を、こうした具体的で複雑な領域にまで及ぼしていく作業は、フッサールにとっても、一筋縄ではいかないものだったのです。結局、フッサールが生きているあいだに、この第二巻・第三巻を、公刊された書物というかたちに、仕上げることはできませんでした。この未完の草稿を、丹念に整理し、ようやく一冊の書物として世に送り出したのが、フッサールの死後、彼の周囲にいた研究者たちでした。フッサール晩年の助手を務めた、オイゲン・フィンクや、古くからの弟子であった、ルートヴィヒ・ラントグレーベらは、フッサールの没後、その膨大な未公刊の草稿を整理し、後世に伝えるための活動に、深くかかわっていきます。

そうした地道な作業を経て、最終的な編集を担ったマルリー・ビーメルの手によって、『イデーン』第二巻・第三巻が、ようやく公刊されたのは、フッサールが世を去ってから、実に十四年ものちの、1952年のことでした。第一巻の刊行から数えれば、およそ四十年もの歳月が、流れていたことになります。そして、こうした「書き直し続ける」姿勢は、なにも、『イデーン』第二巻・第三巻に限った話ではありません。フッサールという哲学者は、生涯を通じて、みずからの現象学という方法そのものの基礎づけを、幾度となく、根本から問い直し続けた人物でした。『イデーン』第一巻の刊行から、十六年後の1929年には、『形式論理学と超越論的論理学』を公刊し、論理学の基礎そのものを、超越論的な観点から、あらためて問い直しています。

さらに1931年には、前のパートでお話しした『デカルト的省察』を世に出し、独我論への応答を含む、現象学全体の、いわば新しい入門書を書き上げました。そして、フッサールが最後に取り組んだ大著が、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』です。この書物で、フッサールは、近代の自然科学が、世界を、数式によって記述できる、純粋に客観的な対象として扱うようになった結果、わたしたちが日常を生きている、具体的で身近な世界の意味が、置き去りにされてしまったことを問題視しました。

そして、そこで新たに打ち出されたのが、「生活世界」という概念です。たとえば、物理学が扱う自然は、正確な数式によって記述される、色も味もない、均質な物体の集まりにすぎません。しかし、わたしたちが実際に生きているのは、朝日の眩しさや、コーヒーの香り、慣れ親しんだ通りの風景といった、具体的な手触りを伴う世界のほうです。フッサールは、近代の学問が、いつのまにか、この生活世界の存在を忘れ去り、数式によって描かれた世界のほうを、唯一の本当の実在であるかのように扱うようになってしまったことに、強い危機感を抱いていたのです。

この書物が世に出た経緯もまた、フッサールの生涯を、色濃く映し出しています。当時、フッサールは、ユダヤ系の出自を理由に、すでにドイツ国内では、思うように論文を公刊することさえ許されない立場に置かれていました。そのため、第一部・第二部にあたる部分は、1936年、ベルグラードで発行されていた亡命者向けの雑誌に、ようやく掲載されるというかたちを取ります。そして、残る第三部にあたる草稿を、フッサールは、亡くなる直前まで、なお書き続けていましたが、これもまた、ついに完成をみないまま終わりました。

この大著が、ヴァルター・ビーメルの手によって、ようやく一冊の書物としてまとめられ、公刊されたのは、1954年のことです。フッサールは、1938年、みずからの手で完成させることのできなかった、この最後の大著を残したまま、この世を去ることになります。このように、一つの体系を打ち立てては、それに満足せず、次から次へと、みずからの足場そのものを、問い直し続けたフッサール。晩年の彼は、みずからを評して、「永遠の初心者」(エヴィガー・アンファンガー)と語ったと伝えられています。哲学者にとって大切なのは、一度打ち立てた体系に安住することではなく、つねに、事象そのものへと立ち返り、問い直し続けること——それこそが、現象学という方法にふさわしい、生き方そのものだったのかもしれません。

事実、フッサールの著作の多くは、本人が公刊を決意しないかぎり、いつまでも草稿のままにとどまり続けるという性質を持っていました。生前に公刊された書物の分量をはるかに超える、膨大な未公刊の草稿が、フッサールの手元には、絶えず積み上がり続けていたのです。ですが、この「問い直し続ける」という姿勢は、必ずしも、フッサールの周りにいた、すべての人々に、好意的に受け止められたわけではありませんでした。むしろ、この絶え間ない書き直しと、思想の展開についていけず、あるいは、その展開の方向性そのものに、強い違和感を覚え、フッサールのもとを去っていった弟子たちも、少なくなかったのです。次にお話しするのは、そうした、現象学運動の内部で生じた、大きな亀裂についてです。

第十五章 弟子たちとの決別――ハイデガー、シェーラー、インガルデンの離反

前のパートで見たとおり、フッサールは、生涯にわたって、みずからの立場を問い直し続けた哲学者でした。そして、この絶え間ない展開についていけなかった弟子たちの中でも、もっとも象徴的な存在が、前回のエピソードで、じっくりと取り上げた、あの、マルティン・ハイデガーです。覚えていらっしゃる方も多いと思いますが、ハイデガーは、フライブルク大学で、フッサールの助手を務めていた人物でした。1927年に公刊された、その主著『存在と時間』には、「エドムント・フッサールに、敬愛と友情を込めて、捧げる」という、献辞が記されています。ハイデガー自身、この書物の中で、みずからの探究が、フッサールの現象学、とりわけ、その「事象そのものへ」という方法的な態度なしには、およそ成り立ちえなかったことを、はっきりと認めていました。

ところが、この献辞にもかかわらず、ハイデガーは、フッサールが到達した、超越論的な純粋意識という出発点そのものに対して、次第に、強い違和感を抱くようになっていきます。フッサールの現象学では、まず、純粋意識というものがあって、そこに、世界がさまざまな対象として、意味づけられながら現れてくる、という順序で、ものごとが説明されていました。

しかし、ハイデガーに言わせれば、これは、順序が逆なのです。わたしたち人間、ハイデガーの言葉でいう「現存在」は、そもそも最初から、まっさらな意識として世界の外側に立ち、そこから世界を対象として眺めている存在などではありません。わたしたちは、気づいたときには、すでに、この世界のただなかに、具体的な状況とともに、投げ出されてしまっている存在なのだ——この「世界のうちにある存在」という、ハイデガー独自の直観こそが、フッサールの現象学からの、静かな、しかし決定的な離反を、準備していくことになったのです。

そして、この二人の関係は、思想上の違いだけにとどまらず、歴史のうねりのなかで、さらに痛ましいかたちを取ることになります。1933年、ナチス政権のもとで、ユダヤ系の出自を理由に、フッサールは、名誉教授としての地位や特権を、次々と奪われていきました。当時、フライブルク大学の学長職にあったのが、ほかならぬハイデガーです。ハイデガー自身が、この一連の措置に、どこまで積極的に関与したのかについては、今なお研究者のあいだで議論が分かれていますが、いずれにせよ、両者の関係は、この時期を境に、修復しがたいものになっていきました。

そして、1941年に刊行された、『存在と時間』の第二版では、出版社側の意向もあってのことと言われていますが、フッサールへの、あの献辞そのものが、削られてしまうことになったのです。もっとも、フッサールのもとを去っていったのは、ハイデガーだけではありませんでした。

実は、初期の現象学運動には、フッサールの周りに、ミュンヘンやゲッティンゲンといった土地に集った、多くの若い哲学者たちがいました。感情と価値の現象学で知られる、マックス・シェーラーや、ポーランド出身のローマン・インガルデンといった人々です。彼らの多くは、フッサールの初期の主著である『論理学研究』が示した、意識の外側に、対象がそれ自体として実在することを認める、いわば実在論的な色合いの強い現象学に、強く共鳴していました。

とりわけシェーラーの場合、対立の芽は、『イデーン』が世に出るよりも前から、すでに存在していました。シェーラーは、価値や感情こそが、理性による判断に先立って、ものごとの意味をとらえる、根源的なはたらきであると考えており、理性を過度に重んじる、フッサール流のいわば主知主義的な行き方に、強い違和感を抱いていたのです。この確執が高じて、シェーラーは、一時、ゲッティンゲンを離れ、ミュンヘンへと戻らざるを得なくなったこともありました。

それでも、彼の情熱的な講義に惹かれ、フッサール自身の講義から、シェーラーのもとへと移っていく学生たちも、少なくなかったといいます。ところが、『イデーン』において、フッサールが打ち出した、「超越論的観念論」への転回——つまり、世界のあらゆる存在の意味が、突きつめれば、純粋意識のはたらきによって構成される、とする立場には、これらの弟子たちの多くが、強く反発することになります。インガルデンは、のちに『フッサールを超越論的観念論へと導いた動機について』という一冊をまるごと費やして、この転回を、生涯にわたって批判し続けました。彼にとって、これは、フッサールが、みずから切り開いたはずの、事象そのものへ向かう実在論的な精神を裏切り、主観的な相対主義へと後退してしまったものにほかならなかったのです。

インガルデン自身は、のちに、文学作品や絵画といった、芸術作品の存在の仕方を、綿密に分析する、独自の存在論を打ち立てていくことになりますが、その根底には、生涯を通じて変わらなかった、この実在論的な確信が、一貫して流れ続けていました。こうして、フッサールを取り囲んでいた、初期の現象学運動は、しだいに、大きな分裂を抱え込んでいくことになります。フッサール自身は、こうした弟子たちの離反を、みずからの思想への、正当な批判としてではなく、むしろ、単なる「誤解」として受け止めることが多かったと伝えられています。

フッサールにしてみれば、超越論的観念論への転回は、事象そのものへ立ち返るという、現象学本来の精神を裏切るものではまったくなく、むしろ、その精神を、どこまでも徹底させた末に、必然的にたどり着いた結論にほかならなかったのです。それだけに、弟子たちの反発を、単なる読み違いとして片づけざるを得なかった、フッサールの側の孤独もまた、深いものがあったと言えるでしょう。長年、手塩にかけて育ててきた弟子たちが、次々と、みずからのもとを離れていく光景を前に、フッサールは、深い落胆を隠せなかったといいます。

とりわけ、かつて助手として、もっとも近い場所で、みずからの探究を支えてくれていたはずのハイデガーが、まったく異なる方向へと進んでいった事実は、フッサールにとって、単なる学説上の対立以上の、痛切な出来事だったにちがいありません。一人の哲学者が、みずからの方法を、生涯をかけて問い直し続けたことの代償として、その周りに集った人々もまた、それぞれの道を、歩み始めていく——考えてみれば、これは、なんとも皮肉な巡り合わせでした。

フッサールが、絶えず問い直しを続ける姿勢を貫いたからこそ、その歩みについていけない弟子たちが現れ、運動そのものが分裂していく。しかし、この現象学運動の分裂という出来事は、決して、現象学という営みそのものの終わりを意味するものではありませんでした。むしろ、そこから、まったく異なる方向へと枝分かれしていく、豊かな展開が始まっていくことになるのです。

第十六章 現象学のその後――サルトル、メルロ=ポンティ、そして現代への影響

前章で見たように、ハイデガーをはじめとする弟子たちの離反は、フッサール晩年の大きな痛手となりました。しかし、皮肉なことに、フッサール自身がどれほど落胆しようとも、彼が切り拓いた現象学という方法そのものは、彼の手を離れて、以後の哲学に、途方もなく大きな影響を及ぼし続けていくことになります。本章では、フッサール以後、現象学がどのように受け継がれ、あるいは書き換えられていったのかを、駆け足で見ていきたいと思います。

まず取り上げたいのは、フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトルです。サルトルは、1943年に刊行した大著『存在と無』において、フッサールが『論理学研究』以来一貫して掲げてきた、「意識とは、つねに何ものかについての意識である」という、志向性の概念を、みずからの出発点に据えます。

もっとも、サルトルは、フッサールの現象学をそのまま受け継いだわけではありません。すでに1936年の論文「自我の超越」において、サルトルは、フッサールが『イデーン』で導入した「超越論的自我」という概念そのものに、強い疑問を投げかけていました。意識には、それを支える中心的な「自我」など存在しない、意識とは、つねに何かへと差し向けられた、いわば無色透明な、志向的な働きそのものにほかならない、というのが、サルトルの立場です。

そのうえで、サルトルは、意識のあり方を、「即自」と「対自」という独自の対概念によって描き出していきます。石ころのように、ただそれ自体としてあるだけの存在が「即自」であるのに対し、人間の意識は、つねに自分自身から距離を取り、自分がまだそうではないものへと向かって、みずからを投げ出し続ける「対自」的な存在である。ここから、人間は「自由の刑に処せられている」という、あの有名な言葉や、自分自身の自由から目を背けようとする「自己欺瞞」の分析が生まれてきます。

さらに『存在と無』第三部では、他者のまなざしにさらされることによって、自分がみずからの自由な主体性を奪われ、他者にとっての一個の「対象」へと貶められてしまうという、「まなざし」をめぐる分析も展開されており、ここにも、他者を、たんなる物ではなく、みずからを見つめ返してくる主体として捉えようとする、現象学的な問題意識が色濃く受け継がれています。サルトルは、ハイデガーの現存在分析からも多くを取り入れながら、こうして、人間の自由と責任とをめぐる、壮大な実存主義の体系を築き上げていきました。

次に、モーリス・メルロ=ポンティです。メルロ=ポンティは、1945年の『知覚の現象学』において、フッサールの現象学を、まったく新しい方向へと展開させます。それは、「身体」を、哲学の中心に据えるという方向です。じつは、フッサール自身も、後期の思索、とりわけ『イデーン』第二巻や、最晩年の『ヨーロッパ諸学の危機』において、たんなる物体としての身体、いわゆるケルパーとは区別される、「生きられた身体」、いわゆるライプや、「生活世界」といった概念に、みずから接近していました。メルロ=ポンティは、この、フッサールがすでに切り拓いていた身体という契機を、いっそう徹底させます。

たとえば、手足を切断した患者が、失われたはずの手足に、いまだに痛みやかゆみを感じてしまう「幻影肢」という現象を、メルロ=ポンティは繰り返し取り上げますが、これは、身体が、たんなる物理的な対象ではなく、みずからの「身体図式」を通じて世界に住み込んでいる、生きた主体そのものであることを示す証拠だと考えられました。わたしたちが世界を知覚するとき、そこには、対象を眺める、宙に浮いた純粋な意識などというものは存在しない。知覚する主体とは、つねにすでに、この身体をもって世界のただなかに位置づけられた、身体的な主体なのだ、とメルロ=ポンティは考え、この身体論は、未完に終わった最晩年の著作『見えるものと見えないもの』における、「肉」という概念にまで受け継がれていくことになります。

また、他者の身体を、みずからの身体との類比によって理解するという、フッサールが間主観性の理論で提示した発想は、メルロ=ポンティにおいて、「間身体性」という概念へと鍛え直され、のちの認知科学における身体化された認知の研究にも、大きな影響を及ぼしていくことになります。第三に、忘れてはならないのが、オーストリア出身の哲学者、アルフレッド・シュッツです。シュッツは、1932年の著書『社会的世界の意味構成』において、フッサールの現象学的な方法を、マックス・ウェーバーの理解社会学と結びつけ、「現象学的社会学」と呼ばれる、新しい社会科学の潮流を切り拓きました。日常生活を生きるわたしたちが、当たり前のものとして疑わない「自然的態度」のもとで、他者や社会をどのように意味づけ、理解しながら生きているのか、その構造を、「多元的現実」や「レリヴァンス」、あるいは、過去の経験の蓄積をもとに他者や状況をあらかじめ類型化して理解するという「タイピフィケーション」といった独自の概念を用いて記述しようとするこの試みは、のちにピーター・バーガーやトーマス・ルックマンといった社会学者たちに受け継がれ、社会学における「知識社会学」という分野の形成にも、大きく寄与していくことになります。

最後に、20世紀後半以降の展開にも、簡単に触れておきましょう。英語圏の分析哲学においては、ジョン・サールが、1983年の著書『志向性』において、フッサールが切り拓いた志向性という概念を、言語行為論とも結びつけながら、あらためて重要な検討課題として再評価していきました。サール自身の出発点は、フッサールというよりも、オースティンらの日常言語学派に近いものでしたが、心の哲学において「志向性」という言葉そのものを本格的に主題化した点で、フッサールが百年近く前に切り拓いた問いが、分析哲学の土俵の上でも、あらためて息を吹き返したのだと言えるでしょう。

さらに、認知科学の領域では、チリ出身の生物学者フランシスコ・ヴァレラが、エヴァン・トンプソン、エレノア・ロッシュとの1991年の共著『身体化された心』などを通じて、「エナクティビズム」と呼ばれる立場を切り拓き、1990年代には、この立場をさらに押し進めた「ニューロフェノメノロジー」、日本語でいう神経現象学という、野心的な研究プログラムを提唱するに至ります。これは、脳科学がもたらす三人称的なデータと、現象学が磨き上げてきた一人称的な経験の記述とを、あらためて架橋しようとする試みであり、フッサールが一世紀近く前に切り拓いた方法が、思いがけない仕方で、最先端の脳科学と結びついていったことを示しています。

このように見てくると、フッサールの現象学は、彼自身から離反していった弟子たちも含めて、20世紀から21世紀にかけての哲学と科学の、ほとんどあらゆる潮流に、深い痕跡を残してきたことがわかります。とはいえ、これほど大きな影響力を持った哲学が、批判をまったく免れてきたわけではありません。次の章では、このチャンネルとしての批判的な視点から、フッサールの企てが抱えていた、いくつかの重い課題について、あらためて考えてみたいと思います。

【独自の視点】このチャンネルとしての批判的検討

前章では、フッサール以後、現象学という方法が、彼の意図をも超えて、じつに幅広い潮流へと枝分かれしていった様子を見てきました。ここからは、このチャンネルとしての、批判的な検討に入っていきたいと思います。まず、避けて通れない事実として、フッサール自身が置かれていた、過酷な政治的状況に触れないわけにはいきません。フッサールは、モラヴィア、現在のチェコにあたる地域のプロスニッツに生まれた、ユダヤ系の出自を持つ哲学者でした。

フッサール自身は、若いころにルター派に改宗し、二人の息子とともに、ドイツという国家に深く同化して生きてきた人物でもありました。事実、第一次世界大戦が始まると、二人の息子は、ともにドイツ軍の兵士として前線に立っています。次男のヴォルフガングは、1916年3月8日、あの激戦地ヴェルダンで戦死し、長男のゲルハルトも、頭部に重傷を負いながら、かろうじて生き延びました。祖国のために息子を捧げた、この一家にとって、1933年以降に起こったことは、あまりにも大きな皮肉だったと言わなければなりません。それだけに、フッサール自身、みずからの学問上の立場を、政治的な立場とは切り離して考えようとする傾向が強く、1933年の政変が始まった当初は、事態の深刻さを、必ずしも十分に見通せていなかったとも伝えられています。

しかし、同年4月7日、ナチス政権のもとで、いわゆる「職業官吏再建法」が成立します。この法律は、「非アーリア人」とされた公務員や大学教員を、広範に公職から排除するための法的根拠となった、初期の代表的な人種差別立法でした。フライブルクでは、この法律の成立に先立つ4月6日の時点で、すでにバーデン州の当局が、ユダヤ系の公務員に対する「強制休職」の措置に着手しており、当時すでに退官し名誉教授となっていたフッサールにも、4月14日、大学からその通告が届いています。

この時点では、ハイデガーはまだ学長に選出されておらず、通告を出したのは前任の学長でした。しかし、その後、フッサールの名誉教授としての権利は段階的に剥奪されていき、フライブルク大学の図書館の利用も、事実上、制限されるようになります。そして、フッサールが公職からほぼ完全に排除されるのは、1935年9月15日、ユダヤ人からドイツ国籍を剥奪する、いわゆる「ニュルンベルク法」が制定されて以降のことでした。晩年のフッサールが、みずからを育て、みずからが生涯を捧げた大学から、これほどまでに徹底して排除されていったという事実は、現象学という方法の誕生の陰に、重く記憶されるべき歴史だと思います。

この深い衝撃と孤立のなかで、フッサールは、しかし、思索そのものをやめることはありませんでした。1935年、ウィーンとプラハで行った講演をもとに、フッサールは、最晩年の大著『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の執筆に取りかかります。理性そのものへの信頼を掘り崩していく、当時のヨーロッパを覆いつつあった不合理主義、すなわちナチズムの台頭という現実を、まさに肌で感じながら、フッサールは、この危機を乗り越える道を、あらためて現象学のうちに探し求めようとしたのです。迫害の渦中にありながら、なお理性への信頼を手放さなかったこの晩年の姿は、フッサールという哲学者の、ある種の凄みを物語っていると言えるでしょう。

それでも、この暗い時代のなかに、一筋の光となる出来事があったことも、あわせて伝えておきたいと思います。フッサールが遺した、速記文字による膨大な草稿は、およそ4万ページにものぼると言われていますが、これらの草稿は、フッサールの死の直後、ベルギー出身の若きフランシスコ会修道士、ヘルマン・ファン・ブレダの決死の努力によって、国外へと持ち出されることになります。1938年9月、ファン・ブレダは、三つの大きなトランクに詰め込んだ草稿類を、ベルリンのベルギー大使館へと運び込み、外交特権のもとで、ベルギーのルーヴァンへと送り届けることに成功しました。同年10月には、この草稿類を保管し、研究するための「フッサール・アルカイブ」が、ルーヴァンに正式に設立されています。

ナチスの手から、一人の哲学者の思索の全体が、こうして間一髪で守り抜かれたという事実もまた、この時代を語るうえで、忘れてはならない出来事だと思います。そして、この文脈で、どうしても触れないわけにいかないのが、弟子であったハイデガーとの関係です。1933年4月、ハイデガーはフライブルク大学の学長に就任し、その就任演説「ドイツ的大学の自己主張」を行いますが、この演説のなかで、みずからの学問上の恩師であり、みずからが引き継いだ講座の前任者でもあった、フッサールの名前や功績に、公然と言及することはありませんでした。

さらに、1941年に刊行された『存在と時間』の第五版では、フッサールへの献辞そのものが削除されるという出来事も起こっています。これは、出版社側が、ナチス当局による発禁を恐れて求めた措置だったとも言われており、実際、本文の脚注には、フッサールへの感謝の言葉がなお残されていましたが、戦後になって、献辞は元どおりに復元されています。そして、1938年4月27日にフッサールが世を去った際にも、ハイデガーは、その葬儀に参列しませんでした。表向きの理由は病気とされていますが、この不参列の真意をめぐっては、研究者のあいだで、今なお見解が分かれています。師との関係がすでに冷え切っていたことの表れだと見る、厳しい評価をする研究者がいる一方で、当時のハイデガー自身の体調不良も事実であったとする証言があり、また、ハイデガーが後年、フッサールの妻マルヴィーネに宛てた手紙のなかで、この一件を、みずからの「人間として至らなかった点」であると述べ、悔いを示していたことを重く見る研究者もいます。

単純に、非情な弟子による師の切り捨てだったと断じてしまうことも、逆に、時代状況による、やむを得ない疎遠にすぎなかったと片づけてしまうことも、どちらも性急にすぎるように、このチャンネルとしては感じます。とりわけ、ハイデガー自身が、1933年から翌年にかけての短い期間とはいえ、ナチ党員として学長職にあり、大学における「非アーリア人」排除の政策そのものに、少なからず関与していたという事実を踏まえるなら、フッサールへの態度を、たんなる個人的な感情のもつれとしてのみ片づけることも、できないように思われます。ここには、哲学史上もっとも重い師弟関係の破綻の一つとして、今なお論争が続く、深い陰影があるというべきでしょう。

次に、哲学的な内容そのものに踏み込んだ批判にも触れておきます。第十三章で見たように、フッサールの現象学は、徹底して一人称的な、純粋意識という出発点から出発します。しかし、この出発点は、必然的に、独我論という疑いを招き寄せることになりました。他者の心も、他者の体験そのものも、けっしてわたし自身の体験として、直接に与えられることはない。フッサールは、「対化」や「感情移入」といった概念によって、この困難に応答しようと試みましたが、この間主観性の理論が、独我論の疑いを本当に解消できているのかどうかについては、現象学研究者のあいだで、今なお論争が続いています。他者の身体を、みずからの身体との類比によって理解するという説明は、結局のところ、みずからの意識という枠組みのなかで他者を構成し直しているにすぎず、他者の他者性、すなわち、わたしには決して回収しきれない他者の異質さそのものを、本当にすくい取れているのか、という、より根本的な疑問を投げかける論者も少なくありません。

さらに、モーリス・メルロ=ポンティは、前章で見た身体論を通じて、フッサールのより根本的な出発点そのものに、疑問を投げかけました。身体とは、たんに意識にとっての一つの「対象」にすぎないのではなく、そもそも意識が世界へと関わることを可能にしている、根源的な媒体なのではないか、という指摘です。身体を欠いた「純粋意識」から出発するという、フッサールの構えそのものが、すでに一つの抽象化にすぎないのではないか、というわけです。

もっとも、この批判に対しては、フッサール自身もまた、『イデーン』第二巻において、すでに「身体」の問題に一定程度取り組んでいたのだから、メルロ=ポンティの批判は、いくぶん的を外しているのではないか、という反論も、研究者のあいだからは提出されており、この論点をめぐる評価は、今なお一枚岩ではありません。そして、もう一つ、忘れてはならない批判が、フランスの哲学者ジャック・デリダによる、1967年の著作『声と現象』での批判です。デリダは、フッサールの現象学的還元が最終的にたどり着くはずの、「生き生きとした現在における、みずからへの現前」という理念そのものが、じつは、言語や記号がもたらす「差延」という構造を、あらかじめ必然的に前提してしまっているのではないか、と論じました。

わたしたちが、心のなかで、みずからに語りかける「内的独白」の場面でさえ、そこにはすでに、記号というものにつきものの、遅延や反復可能性が忍び込んでしまっている。純粋で直接的な自己現前などというものは、つねにすでに、痕跡や遅延によって、内側から蝕まれているのではないか、というテクスト論的な批判です。デリダのこの議論は、フッサール一人にとどまらず、プラトン以来の西洋形而上学全体が、意味の完全な現前という理念を、暗黙のうちに特権化してきたという、より大きな診断へとつながっていくものであり、その意味で、『声と現象』は、フッサール現象学に対する批判であると同時に、西洋哲学そのものの土台を揺さぶろうとする、野心的な試みでもありました。

最後に、このチャンネルとしての見立てを述べておきたいと思います。フッサールの企ては、あらゆる先入見を排して、「事象そのものへ」立ち返ろうとする、徹底した誠実さに貫かれていました。しかし、まさにその誠実さゆえに、フッサールは、生涯にわたって、みずからの現象学の土台を、幾度となく問い直し続けざるを得ませんでした。そして、皮肉なことに、その終わりなき問い直しの姿勢こそが、離反していった弟子たちを含めて、20世紀哲学のほとんどすべての潮流に、決定的な影響を及ぼし続けることになったのです。一つの体系を完成させることに、生涯をかけて失敗し続けた哲学者が、結果として、後続する哲学のほとんど全体を用意することになった。

これこそ、フッサールという哲学者が体現していた、大きな逆説だと言えるのではないでしょうか。政治的な迫害によって晩年の居場所を奪われ、もっとも身近な弟子からさえ距離を置かれながらも、なお問い続けることをやめなかったフッサールの姿は、このチャンネルにとっても、あらためて深く考えさせられるものがあります。誠実であり続けることが、必ずしも報われるとは限らない。

それでも問い続けることには、確かな意味がある。フッサールの生涯そのものが、そう静かに語りかけてくるように思えてなりません。

【まとめ】:「事象そのものへ」という合言葉が、その後の哲学に残したもの

前回、そして今回と、二回にわたって、20世紀哲学の巨大な源流をなす、師弟の哲学書を読み解いてきました。最後に、今回の『イデーン』全体の流れを、あらためて整理しておきたいと思います。まず、フッサールの生涯です。数学者として出発しながら、ブレンターノとの出会いをきっかけに哲学へと転じた、その歩みを確認しました。続いて、心理学主義への批判です。論理法則を、たんなる心理現象へと還元してしまう立場を、フッサールは厳しく退けました。

そして、志向性という概念です。意識とは、つねに何ものかについての意識であるという、現象学全体の出発点となる考え方でした。次に、自然的態度への問い直しです。世界は疑いようもなく存在するという、わたしたちの日常的な確信そのものを、フッサールは問い直します。そこから導かれるのが、エポケーによる判断保留、そして、現象学的還元という方法でした。世界の存在についての判断を、いったん括弧に入れることで、フッサールは、意識に対して世界がどのように現れているか、という新しい領野を切り開きます。

そこで見出されたのが、ノエシスとノエマという、意識の働きと、意識に現れる意味内容との構造であり、さらに、ヒュレーとモルフェという、意識に与えられる素材と、それに意味を与える形相との区別でした。そして、本質直観という方法によって、個々の事実を超えた、事象の本質そのものを取り出すことができるとされ、この方法は、領域的存在論という、諸学問の基礎づけの構想へとつながっていきます。これらすべての土台にあったのが、「あらゆる原理の原理」という、現象学の根本原則でした。すなわち、直観に、根源的に与えられているものはすべて、それが与えられている限りにおいて、そのまま受け取らなければならない、という原則です。

さらに、意識の主体そのものである超越論的自我の発見、他者の心をどう捉えるかという他者問題と間主観性という難問、そして、『イデーン』が第一巻だけで終わり、生涯にわたって書き直しが続けられたという経緯、恩師フッサールから離れていったハイデガーやシェーラーたちとの決別、そして、サルトルやメルロ=ポンティ、シュッツ、ヴァレラたちを通じた、現象学のその後の展開へと、わたしたちはたどってきました。あらためて振り返ってみると、これは、一人の哲学者が、たった一つの問い、「事象そのものへ」立ち返るとはどういうことか、という問いを、生涯をかけて、幾度も幾度も問い直し続けた記録だったといえるでしょう。

ここで、前回取り上げたハイデガー『存在と時間』との対比にも触れておきたいと思います。師であるフッサールは、意識という、徹底して一人称的な出発点から、世界がわたしたちにどのように現れてくるのかを、どこまでも精密に記述しようとしました。これに対して弟子のハイデガーは、そもそも意識というものが、すでに世界のうちに投げ出された存在であるという、まったく別の出発点から、哲学を組み立て直そうとしました。純粋な意識から出発するか、世界のうちに投げ出された存在から出発するか。

この二つの出発点の違いこそが、20世紀哲学における、一つの決定的な分岐点だったのだと、あらためて俯瞰することができます。そして、その分岐は、けっして師弟の断絶だけを意味するものではなく、前章で見たように、サルトルやメルロ=ポンティたちを通じて、さらに枝分かれしながら、現代のわたしたちにまで届く、豊かな思考の水脈となっているのです。前回のハイデガー回、そして今回のフッサール回を通じて見えてくるのは、20世紀という時代が、たった一人の哲学者の企てから、これほどまでに多様な問いの系譜を生み出していった、その圧倒的な奥行きの深さだと言えるのではないでしょうか。

最後に、今回の内容を踏まえて、二つの問いを、みなさんに投げかけて終わりたいと思います。一つ目は、わたしたちが「当たり前」だと思って、疑いもしないでいる、この世界のあり方を、一度立ち止まって、「括弧に入れて」みたとき、いったい何が、どのように見え直してくるだろうか、という問いです。二つ目は、自分自身の経験を、既存の理論や常識によって説明しようとする前に、まず、それが「まさにそう与えられている」通りに、虚心に記述してみることには、どのような意味があるのだろうか、という問いです。わたしたちは、ふだん、目の前の出来事や感情を、すでにある知識や、他人から教えられた言葉で、性急に説明してしまいがちです。

しかし、いったんそうした説明を脇に置いて、ただ、それがどのように現れているかを、丁寧に見つめ直してみること。フッサールが生涯をかけて追い求めた、この地道な作業のうちにこそ、案外、大きな発見が隠れているのかもしれません。日々の暮らしのなかで、こうした問いを、ほんの少し立ち止まって考えてみるだけでも、見慣れたはずの世界の手触りが、案外、違って感じられてくるかもしれません。ぜひ、コメント欄でも、みなさんのお考えを聞かせてください。今回も、超がつくほどの大作となりましたが、最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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